2010/11/28

第5世代 iPod nano レザーケース

小さい頃から懇意にしている親戚兼友人の誕生日祝い。


例によって、型紙がとれたと思ったら最後まで突っ走ってしまった。
わたしの専攻研究も、ここまではかどれば怖いもの無しなんだけどね。

ってわけで、iPod nanoケース。

友人から依頼された条件と注意点は、
・画面を守れること
・付けたまま操作できること
・いつもは右手で操作する


デジタル機器のケースでは、いつも「勝手に弟子入り」して、
勝手に我が師と仰ぐRethinkさんの作品を目標にしているけど、
第5世代のnanoケースについては、画面を守る機能がなかったので参考にできず。


そういう理由があって、
昔愛用していたiPod mini ケース「Clippad」を手元に置きながら考える。
Clippad(写真はiPod用のもの)
ただ、手持ちの革は2mmしかないので、この形だと、折り返しが3回分になり、
せっかく薄いnanoの厚みに、6mm以上が追加されてしまう。
これではいけない。


なので、ボタンどめをなんとか厚みをとらない形で、、、
と考えたのが、以下の形。


ボタンをクリックホイールの右下に持ってきた。
「右手で操作」に抵触しないか試したが、問題なさそう。

とじたところ。
右上の革が浮き過ぎないかと思ったけど、そこそこ大丈夫。
ケーブルを巻いて持ち運んでいるうちに、慣れてくるといいな。

一晩でポンと作ってしまったけど、喜んでもらえて良かった。

ボタンはメッキ無しの、真鍮そのままのものを選んだ。
大きめの物しかなかったけれど、経年変化を楽しむという意味では、
真鍮に勝る金属はない。

こういう価値観を共有できるというのは、なんとも幸せなものです。

◆◆◆

さいごに、これまでのまとめ。

このうちのいくつかは、嫁に行くことが決まっているので、
撮れるうちに。
最後の写真は、

左側から、
・MacBook Air '11ケース
・PSP-3000ケース
・iPod nanoケース

右側は、
・iPadケース
・Apple Wireless Keyboardケース

◆◆◆


これまで革小物の展覧会にお付き合いいただきありがとうございます。

とりあえずは、作りたいものは一気呵成につくってしまったので、
これからはじっくりひとつずつ作っていければと考えております。

ご依頼は随時。

iPadレザーケース

やばい、脱線ばかりしてたらまた寝る時間がなくなっちゃいそうだ。。

この時期は就職活動や卒論なんかで、始発で学生さんが来ることもあるので、
だいたい時間がなくなりがちなのだ。
それに加えて、一連の革細工である。

真っ先に削られるのが睡眠時間、というか、それしか削るものがない。
ごちゃごちゃ言ってないでぱっぱと写真載せて、近況報告終わり、
とかすればいいのにねえ。

わたしは読者の声が一声でもあると、いくらでも乗せられてしまうという意味では、
けっこうおめでたいのかもしれない。

◆◆◆

ってわけで、iPadのケース。

もう持ってたけど作っちゃった。
やっぱり市販のものよりこっちのほうがいいなあ。


iPadケース。
あいかわらず適当なショットでスマヌ。

裏面の写真がないけど、画面側は分厚い皮です。

逆さまにしてもすっぽ抜けないようにできた。
画面側を4mm、背面を2mmの革で作ったので、
画面を守りつつそれなりの重さに抑えることができたと思う。

今回も、あえて緩みのある部分(たぶん脚部)を使ったので、
背面の右下の質感が他とは違う。

もし売り物にするときには、こういうところを気に入らない方には
もちろん違った部分を使って作るのだけど、
個人的には、ちょっとくらい傷のある方が、つるつるのものよりずっと好きである。

革も、人の性格もそうだ。

PSP-3000レザーケース

手元にあったものにかたっぱしからレザーケースを作ろう、という企画のうちのひとつ。


第何弾かはもう忘れちゃった。
毎日睡眠時間を削りすぎて、先週はろくに寝てないもの。。

書物と向かってする研究だと、集中力が切れると眠くなってくるのだけど、
こういう作業は時間を忘れて夜通しやっちゃう。

実を言うと、わたしは社会の動きなんかよりもよっぽど芸術のほうが好き、、、
(と書いてみたら、芸術も武芸なんかも、もちろん人間なんかより自然も大好きなので、もしかするととくに好きでもないのは人間の、とくに社会の動きだけかもしれないという気がしてきた。まあいいや。)
なもので、芸術に携わる人たちとの交流もけっこうあるのだ。

◆◆◆

ってわけでこの前美大に通う学生さんと話していたら、
大学側が省エネだとかで夜間のアトリエ開放を中止したらしい。

その学生さんは意欲のある人で、
「仮にも芸術家を育成する場で、創作活動を阻害していいはずがない」
と憤慨していたのだ。

わたしも、画用紙サイズ(A3大です)の作品をカラーで描くとなると、
平気で三日三晩飲まず食わずの寝ずで作業をしてきた経験があるので、
彼の気持ちはとってもよくわかる。


わたしは直接その大学にものを言う立場にないのでどうにもできず心苦しかったが、
テレビに彼の作品を大写しにしながら、
その世界観について語り合っているうちに、気も紛れたようだ。
とりあえず、彼の嘆願書に署名して、その場は別れた。


しかし今の美大というものは、
学生のことよりも財政のことのほうを気にせざるを得ないような状態なのだろうか。
もともと日本には芸術の世界というものがほとんど存在しないし、
まともに認知もされていないという状態なので、ありうるかもしれないとは思う。

科学に携わる人間が公の場でものをしゃべることはたまにあるが、
芸術に携わる人間のそれというものは、とんと見たことがないもの。

◆◆◆

しかしそれでも、市場などないことを承知しながら、
それでも道をつくるために働こうと、泥まみれになってもがいている人間が、
どれほどの苦労をしているかを想像してみたことがあるのだろうか。

周囲の冷ややかな目だけならまだしも、
それ以外の考え得る幸せや豊かさをかなぐり捨ててまで身を切っているにもかかわらず、
親族一同から変人、気狂い扱いされるという惨めさというものは、
一般の人々が持っている「惨め」という像とは全く違う。

社内の業績で最下位をとったなどというものとは、レベルが違うのである。


彼らは誰かの歩んだ道を歩ければまだ幸せともいえるほうで、
ほとんどが道をつくるどころか、道の作り方から作らねばならないのである!
1から2を作るのではない。
0から1を作るということが、いかにその身に応えるものか。
小さな人間の身を遥かに超える重圧を、彼らは背負っているのだ。


そうだからこそ、先生方だけは、身を切って道を歩もうとする学生たちの、
唯一の味方であってほしい。

◆◆◆


その実大きな組織に守られながら、
その中でくだを巻いていればいい人間の苦労と彼らのそれが、
ひと味も二味も違うということが想像できなくて、なにが人間だと言えるだろう。
(大きな組織というのは、会社組織だけではない。国家もそうだ)

自分でない人間の気持ちや仕事、生き方について理解するときに
一番分からなければならないのは、「わからないことはわからない」という姿勢である。

世の中には、想像してもそうする手がかりすらつかみ得ないという物事が、
確かに存在するのである。
一般には心霊や神などがそういった扱いを受けることが多いが、
もっと身近なところに、ありすぎるほどある。
それが、人の気持ちだ。


それでも、「やってみなければわからない」、
「体験したことのない人間には私の気持はわからない」
という極端な経験主義に陥らないためには、どうしても、
ある経験を持った人の気持ちを、「我が一身に繰り返す」かのごとく、
観念的に追体験してみることができなければならない。

経験主義がはびこれば、体験者がいなくなる、という条件一つで、
もう一度戦争が起きることすら防ぎようがない。


わたしたちは、齢を重ねたりそれなりの地位についたり後輩の目がある前なんかだと、
どうしても「そんなことは前からわかってる」という姿勢を取りがちなのだ。

わたしは学生たちの話を聞きながらよく相槌を打つが、
その相槌一つひとつに、確かな重みが含まれているかどうかは、自戒したいと思っている。

◆◆◆

余談だけれど、、、

我が家には担当の先生から見捨てられたような学生たちがよく来る。
だけど、アトリエ替わりにはまだしたことがない。

我が家を、多様なジャンルで我が道を目指す人たちの、
交流の場にしたいと常々思っているのだが。



◆◆◆

やっと本題に入ることができた。
わたしはなんでいつもこんなに脱線しちゃうのだろうか。

PSP-3000ケース。ぴっちりにしすぎたので初代は入りません。
でも、使ってるうちに馴染んでくるのが革のいいところ。
ボタンで止めているので、すっぽ抜けたりせずにすむ。
ボタンを開けると、ケースに入れたままでACコネクタとアクセスできます。
ン十年ぶりにリメイクされたタクティクス・オウガ。
もう数年間はこれだけでいいかも。

これは自分用というよりも、頼まれたときのために作ったのだけど、
意外と良く出来たので売り物にしたくなくなっちゃったぞ。

…と、こんなヨコシマな感触がアタマをよぎるたびに、
その道40年の尊敬する、一流の彫刻家から聞いた一言が身に染みる。


わたしは、失礼にもこう言ったものである。
「良い作品ができると、商品扱いにするのがもったいなくなりませんか?」

彼は少し間を開けて、こう答えた。
「有るか無いかと言えば、ありますね。でも、プロですから」


わたしが正しい道を歩めているとしたら、
彼らのことばが私の中で、生きているからだ。

2010/11/24

Apple Wireless Keyboard レザーケース

長いタイトルだな。

Appleでもこれなのに、一昔のMicrosoftといったら、
アタマに"Intelli"をつけるだけならまだしも、
トドメに"with~"っていう機能名でダメ押しをしていたっけ。

MSがフル機能の無線キーボード出したらこんな感じだ。
Microsoft Intelli Wireless Keyboard with multi-touch technology

革ケースを出すときには、
Microsoft Intelli Wireless Keyboard with multi-touch technology premium leather case
とかになるんだろうか。
もうわけがわからん。

しかし日本に生まれた人間からすると、「インテリ」ってのは、
ロシア語の方の意味合いが強いから、どうしても蔑称としてイメージしちゃうよねえ。
もうちょっとなんとかならなかったんだろうか。


ただAppleも一般名詞を好んで使いたがるから、
かえって検索するのが難しかったりするんだけども。
Apple製のメーラーはそのものズバリ"Mail"だから、
設定がわからなかったりすると、検索結果の他の一般的なメールに関する話題をより分けた上で、欲しい情報にたどり着かねばならないわけだ。

ここらへんは、昨今の検索システムが優秀になったことに加えて、
困ったユーザーが"Apple Mail"と呼ぶようになったから、前よりはましである。
ユーザー諸氏は賢明である。


◆◆◆

ほんとにどうでもいいことを書いてしまった。
いまは人をまっている時間を使ってこれを書いているんだが、
実は昨日はあんまり寝なかった。

というのも、革の細工をしたあとちょっと仕事をして、
手を休めて寝ようかとベッドに入ったものの、
頭の中にイメージが渦巻いていてあんまり寝付けなかったのだ。
何のイメージかといえば、革細工である。

以前から芸術方面の活動となると、
3日間くらいは飲まず食わずの寝ずで絵を描いたりしていたので、もう慣れっこ。
人に心配されるほどでもない(疲れるけどね)。


むしろ、頭の中のものを表現として出さない限り、落ち着きがなくっていけない。

◆◆◆

というわけで、やっと本題。
iPadといっしょにつかっているワイヤレスキーボードの革ケースを自作。

写真のいい加減さは目をつぶってください…

ホックの止め打ちに不慣れで、一個潰してしまった。
こういうところもやってみないとわかんないもの。

パームレストとしては…ゴワゴワして使えないと思う。

これ欠点。蓋のあいだが浮く。
ボタンを増やせばいいのだけどかっこ悪いし。

さいごの写真を見ての通り、蓋の間がテンション足りなくて浮いてしまう。
これはちょっとダメだなあ。
テンション保持のワイヤーとかあるんだろうか。

ホックの間隔はキーボードのゴム足と揃えてあるんだけど、
人様のために作るときにはもうちょっと考えねばなるまい。


とはいえ、昨日のAir用ケースと違って、
牛の足の革なんかの波がかった部分ではないので楽だった。
この延長線上で細かな工夫をしていけばいいという感触はある。


さて、これから人と会ってきます。
んー次はなに作るかな…

文学考察: 緒方氏を殺した者―太宰治

文学考察: 緒方氏を殺した者―太宰治

◆ノブくんの評論

 この作品では、緒方氏何故死んだのかについて著者が考察している様が描かれています。著者は、そもそも彼が死んだのは彼の作家精神にあると考えています。では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのでしょうか。

 作家とは人間の複雑な心情、なんとも言えない不条理な事柄に芸術性を見出し、文章として表現します。それは時に、「不幸が、そんなにこわかったら、作家をよすことである。作家精神を捨て ることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがな かったか。愚かさを愛したことがなかったか。」と作家の目には甘美に映ることもあります。すると、察するにこの緒方氏という人物は作家が不幸や病気に憧れを感じるように、死に対して甘い憧れを感じ死んでいったのです。


◆わたしのコメント

 筆者である太宰は、生業を同じくするある小説家の死に面して、追悼文を記しています。ある小説家というのは、緒方隆士氏その人であり、生前から筆者とは面識がありました。太宰は、彼とはそれほど深い関係ではなかったようですが、彼の小説家としての姿勢には敬意を持っていたようです。タイトルにもなっている「緒方氏を殺した者」というのも、実のところ、彼の中にある「一流の作家精神」なのだ、と彼は考えているのです。


 さて論者の論じ方はというと、この作品の本質的な部分、「緒方氏を殺した者は、実は彼の中の作家精神なのだ」というところをざっと流しています。そうしてそれに続けて、「では、緒方氏を殺してしまった〈作家とどのような職業〉なのか」と、「作家」というものについて問うているわけです。

 肝心の論証については、そのほとんどが作中の引用で済ましてしまっているため、乏しい表現からその主張を推し量るしかないものですが、要するとこうなるでしょう。作家とは人間の複雑な心情を受け取り表現する仕事だから、緒方氏も、人間の負の側面、究極的には死に憧れを感じてしまったのだろう、と。


 どうやら論者は、緒方氏が、作家として仕事にのめり込むあまりに、自殺を選んだと思ってしまっているようですが、実際には彼は病死です。この評論全般については、論理の修練という目的があるとはいえ、この程度の情報を仕入れないままに独断で語りきってしまうという姿勢は、残念と言わざるを得ません。もしその知識がなかったとしても、緒方氏は「歯ぎしりして死んでいった」と書かれているのですから、「死に対して甘い憧れを感じ」ていた、などとは口が裂けても言えないはずです。


 結論から言ってしまえば、この作品の一般性は、<顛倒した表現>です。その一般性を念頭に作品を理解すれば、「作家精神とは何か」、「筆者が追悼文をまともに書けなかった理由は何か」、「息子の戦死の報を聞いた母親は、なぜああいう行動をとったか」という疑問が、読み解けてくるはずです。作品で描かれたことを踏まえて何かを語るという場合には、まずは作品で描かれたことはなんだったのか、ということを、自分のものにできていなければなりません。

MacBook Air レザーケース

今日は祝日だったのか。

どおりで大学に人が少ないわけだ。
夕方の5時に図書館を締めだされてはじめて気づいた。

そういうわけで、渋々帰宅したもののじっとしてるのも苦手なので、
革細工の型紙でもつくろうかと思っていたら、最後までやっちゃった。

◆◆◆

Airのケースを作るにあたって、いくつかタイプを考えていた。
MacBook Airレザーケース(概念図)

それぞれの利点と欠点は以下のとおり。

A…パーツが2つに分かれていて、せっかく大きな革を使えるのになんかシャク。

B…マグネットのぶん分厚くなる。
Airはくさび形(奥が分厚く、手前が薄い)なので、奥に薄い方を突っ込む形になる。
そうすると、鞄に入れたときに薄いほうが下になってしまい強度的に不安。

C…Airよりやや縦に長くとっているので、A4書類入れにもなる。
ただAirだけのケースとしては無駄が多い。

D…手前は薄く、奥が革の折り目で自然と丸くなるので都合がいい。でもシンプルすぎる?


結局、あれやこれや考えてみたのに、落ち着いたのはシンプルな形のD。
せっかくAirが薄くて軽いのに、ごちゃごちゃして分厚くなっちゃったら本末転倒だもの。

◆◆◆

ただ、封筒型のDだと、デザインが問題になってくる。
技術的にはともかくも、人間であるからには思想性がなければまともな表現とは言えない。


こういうときは、先達から学ぶに限る。

というわけで、わたしが革細工について勝手に弟子入りしている
RethinkさんのiPhoneケース、Lim Touch Sleeveを参考にした。


わたしも愛用しているが、iPhoneの薄さを犠牲にしないシンプルさで、
Lim(Less is More)の思想にぴったりの素晴らしいケースだ。
技術的には難しいことをさらっとやっておられるのも、流石の感である。

そういうことを考えて、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」をコンセプトにしてみたら、
完成図がはっきりしてきた。ここからは一気呵成。


◆◆◆

とりあえず大きな革の、いちばん端から使ったので、
傷は大きいわまっすぐでもないわ(おそらく脚部)だったけれど、
自分で使うぶんには過不足ないものができた。

素っ気ないデザインだと、細部をいい加減にすると安っぽくなる。
ので、縁の処理とコバ磨きは時間をかけてやった。(ただまだ不足の模様…)


ちょっと余裕を持たせた。Airのゴム足に干渉してほしくないので。

わりと薄いので、下に引いたままでも使えそう。

ズバッと大きな傷が入っているところを敢えて選んだ。ケガでもしたのだろうか。





とりあえず日常的な使用に耐えうるか、さっそくあしたから使ってみる。

ほしい物がないっていう場合は、つべこべ言ったり、
待ったりせずに、自分で動いたほうがイライラせずにすむものです。失敗上等。

2010/11/23

人間体の土台について

以前にこんなことを書いたことがある。

日々の簡単なトレーニングは、人間体の土台になるものなので、
身体運用を専門にする仕事でなくともやっておいてほしい。


こう書いたら、いくつかご質問があったので簡単にお答えします。

・毎日ランニングしてたら、書いてあったように足の筋が痛くなってきた。
向いてないのかな?

→向いていないということはありません。
一日やっただけではどうということはないことでも、毎日続ける過程で、
違った種類の困難さがあることを知ったということは、大きな経験です。
一日目はこんなものか、と思ったことでも、毎日続けるというのは、大変なエネルギーが要るでしょう。大変な工夫が必要でしょう。それでいいのです。弱いわけではありません。
一般的には、「あることを毎日継続する」(量質転化)ということの難しさがここに現れています。

対策としては、わたしは湯船でマッサージすることをお薦めします。
また同時に、湯船にお湯を張ってしっかり浸かる習慣をつけることもできますし、ジップロックに書類やiPadなどをいれて本を読む時間に充てることもできます。


・言われたとおり、通学中にはつり革に掴まって、脚を踏ん張っています。
ですが、1分くらいしか持ちません。根性がないのでしょうか?

→このひとは、正直で、努力家の方のようです。質問を聞いているだけで嬉しくなります。
それでいいのです。「全力で」しっかり踏ん張れば、はじめは次の駅までまずもたないはずです。これがもし、「15分は余裕でいけますが」などと言っていたら、真剣にやっていないことがすぐにわかってしまって残念に思ったところです。
自分でルールを決めてみてはどうですか。たとえば「電車が走行中はふんばる。ドアが空いているときは休憩する」など。そうすると目安ができ、「昨日は無理だったけど今日はできた!」、「今日は無理だったけど明日はできそうだ!」「次はもっと長くしてみよう」などというふうに、毎日続けている中での進歩というものが、見えてきやすいはずです。

◆◆◆

ほかにも、これに近い話を聞きましたが、
どれも「心配いらないのでがんばってください」とお答えしておくのがいいかと思います。

どの方も、向いていないということは決してありません。
むしろ、真剣にやってみるからこその問題意識をしっかり持っておられる人ばかり、
という印象を受けました。


答えを丸投げされた、という印象を持たれるかもしれませんが、
わたしも先入観なしの実地での経験や工夫をお聞きしたいのです。
(「武道体」の修練には専門書をお薦めしますので、別途ご連絡ください)


日々の修練ということについては、身体的・精神的にも、
ある知識が実際的に通用するかどうかを、自分の身体と精神でもって、
ある程度の期間、実験してみるのが一番の証拠になるはずです。

ただし、「自分だけの」経験のみを頼りにしないほうがいいでしょう。
広く、総合的に、あるていどの下調べはしておいてください。
自分なりの仮説を持てるくらいならいいでしょう。
(たとえば、「明日はこの泳法を使ってみよう」、「体づくりのためにこの食事を1ヶ月続けてみよう」など。)


そうすれば、単なる理屈だけの空論などというものは、
何の使い道もないことが分かるでしょう。

聞きかじりの雑学を嬉しそうに披露するだけの御仁はどこにでもいますが、
試してみてやはりダメだった、ということが何回も続けば、
次からはアドバイスを聞くべき相手を他に探せば良いということが分かったぶん収穫です。


最後になりましたが、「こうするといいよ」と何気なく言われたことを、
すぐに実行できる人たちというのは、これから間違いなく伸びる人です。

日々の過ごし方こそ夢への道程であることは、なぜか理解されにくいのですが…

継続には人知れぬ努力が必要不可欠ですが、それを乗り越えるだけのものは見えてきます。
工夫を重ねて、頑張ってください。心から応援しています。

文学考察: ぐうたら戦記―坂口安吾

文学考察: ぐうたら戦記―坂口安吾

◆ノブくんの評論
 少なくとも太平洋戦争が終結する数年間、この著者の生活はじつにぐうたらなものでした。というのも、その生活というものは原稿がなかなか書けず、ただただ酒を飲みつくすだけの毎日だったのです。ところでそんなぐうたらな彼は、自身の芸術観とこの戦争にある類似性を見出している様子。それは一体どういうところにそれを見ているのでしょうか。
 この作品では、〈著者の芸術家としての葛藤〉が描かれています。
 そもそも彼の芸術観というのは、「芸術の世界は自ら の内部に於て常に戦ひ、そして、戦ふ以上に、むしろ殉ずる世界」と、非常に戦争と似通ったところがあります。つまり彼は内面では芸術家としての苦悩を抱き、悶々と戦っているのです。ですが、なかなか自身が到達したいところになかなか到達できず、鷹に食われ、糞として落とされ、生まれ変わりまた同じところを目指しているのです。この悪循環のため、彼は、表面上はぐうたらするしかなく、自身の内面と現実の現象のギャップに苦悩しているのです。


◆わたしのコメント
 コメントを述べる前に、まず自分で書いた評論を読み返してみてください。そのとき、次のことを確認してください。まず、読者の立場にたって、読了前には「なるほど、これは面白そうだ」と思えたかどうか。また、読者が読了後の場合にでも、「こういう読み方をすればよかったのか」と思えるかどうか。どうでしょうか。
 わたしの印象を端的に述べますと、残念ですが、本文そのままを味気なく抜き出しただけ、というものです。「味気なく」と言ったのは、この評論からでは、論者が筆者の苦悩を、生きた感触として自分自身の観念の中に持つことができていないのでは、との疑いを持ってしまうからです。

 この作品における苦悩の本質というものは、筆者の表現を借りますと、以下のとおりです。
 「何よりも感情が喪失してゐた。それは芸ごとにたづさはる人でなければ多分見当のつかないことで、そして芸ごとも、本当に自信を失つて自分を見失つた馬鹿者でないと、この砂漠の無限の砂の上を一足づゝザクリ/\と崩れる足をふみぬいて歩くやうな味気なさは分らない。私はひけらかして言つてゐるのではない。こんな味気なさをかみしめねばならぬのは、馬鹿者の雀の宿命で、鷲や鷹なら、知らずにゐられることなのだ。私はもう、私の一生は終つたやうにしか、思ふことができなかつた。」

 この本質を、論者は本当の意味で、つまり、我が一身になぞらえるかのごとく、感じ入ることができているでしょうか。作品をものしているある日、突然自分のやりかたに不安を覚え、いくら気を紛らわせようとしても晴れず、いくら人の手を借りようとしてもそれも叶わず、生活との板挟みで背筋に冷たいものを感じながら身を切るような思いを、ありありと蘇らせることが出来ているでしょうか。そしてそれが、心血を注いで「芸ごとにたづさはる人」の必然的な悩みとして、「馬鹿者の雀の宿命」を、日常の創作活動の中で持てているかどうかを反省してみることができているでしょうか。(もちろん、形の上で悩め、と言っているのではありません。その悩みが不可避であることを追体験出来ているか、と言っているのです)

 そもそも論者は、これら一連の評論をとおして、小説という芸術形態のもつ論理性の習得を目指しているのでしたね。そうとはいえ、それでもなお、ある作品を論じるということは、その作品の表面をなでることで終わってはいけません。言い換えれば、あらすじをただ述べるだけでは、評論とは言えません。
 わたしが論者にしてほしいのは、論じる作品を頷きながら未読することを通して、その「行間にいったいなにが書かれているのか」を浮かび上がらせることです。そしてまた、読者にそれを分かりやすく説明する、ということです。
 その作業の中では当然に、筆者の言葉だけでは隠されている行間を、「論者自身の言葉で」補おうとする工夫が必要になってきます。その作業をとおしてみれば、自分の認識にのぼっているはずの感触が、いかにことばでは表現するのが難しいものであるか、という矛盾を意識することを余儀なくされるはずです。

まずは、上で述べた苦悩のあり方を、「芸ごとにたづさはる人」でない人にもわかるように、自分の言葉で説明してみてください。なぜ筆者は、「一生は終つた」と言うほどにまで、自信を失っているのですか?なぜ筆者は、味気なさを「砂漠の無限の砂の上」と表現したのですか?
「芸ごとにたづさはる人」でない人の立場に立って考えてみれば、補わなければならない行間は無数にあることに気付かされるはずです。

イベント終了

おひさしぶりです。

前回の更新から2週間ほど経ってしまった…
「イベント終了」と言っても、別に個展を開いたりしたわけでもないのだけど、
この2週間は、例年にないほどたくさんの人と会っていたのだ。

もともと、自分から人を誘うことがないので、生活と研究の計画もそのように立てる。
その上で誰かに誘われたとなると、計画を前倒しにして詰め込むしかないわけだ。

とはいえ、友人と会うのが嫌なわけもなく、じっくり楽しんだ。
知り合ってから10年以上も、こんな人付き合いの悪い人間とまだ
付き合いを持ってくれているということは有り難いことで、
そのほとんどは相手からの一方的な努力の賜物じゃないかと思う。

道を登り切った暁には、お返しすることもあると思っているのだが、
もしかするとその相手は次の代の人たちにかもしれないな。

◆◆◆

さて、遊んでいる最中に、友人のチャリにも細工。
劣化したカバーの代わりに、革でカバーを作製した。

「いちばんいい革を頼む!」ということで、
ハーマンオーク社のハーネスレザーを使用。


型紙づくりにしっかり時間をかけたおかげで、製作時間2時間なり。

しかしこれほんとに質感いいね。
グリップ感も上々で、これならわたしのカバーもさっさと替えたいなあ。


危惧している点があるとすると、
ブレーキの形状のおかげで2箇所を縫う形にせざるを得ず、
またマージンを余分に取らざるを得なかったおかげで、
人差し指がカバーに干渉しないかということ。

あと、ブレーキ部分の引きが大きすぎるために、
ちょっと緩めにつくったこと。雨で縮んでくれればいいけれど。

なにか問題があればご一報を>友人。わたしが息をしている限り、永久保証です。

◆◆◆

チャリの話はさておき、
友人と話していて気づいたことがあるのでいくつか。

曰く。
「前にお前が薦めてくれた本を買ったけれど、あれ、
『弁証法がどういうものか』は書いてあるけど、
『どう使うか』はなんも書いてないのな?」

これにはビックリした。

そういう読み方をしてくれているとは露知らず、
勧めてはみたけどちゃんと読んでくれなかったのかな、
ビジネスの世界で使われている論理性とはまったく違ったものだし…
と、話題そのものを避けていた自分が恥ずかしい。

まったく申し訳ない。
勧めた次の週には、本を取り寄せまでして買ってくれていたそうな。


興が乗ってこの話題が出たのが夜中の4時をまわる頃だったので、
詳しい議論は次回会ったときに、となってしまったが、
まったく素晴らしい友人たちを持ったものだと思う。

最近、自分の専門で取り組んでいることに、真っ当な関心を寄せられていることが多く、
ちょっと驚くことがある。
なにをして真っ当なのかと言われれば、「質問の仕方」という一語に尽きる。

正しい問題意識を持つことこそ、正しい道を歩くための唯一の条件です。


しかも、その誰もが専門を学問に携わっているわけではない人たちばかり。
「学問を人の手に返す」、それを目標に前に進んでいるわたしにとっては、
これほど嬉しいことはない。


講義なんかをしたあとには、ここでもなんか公開しようかな。

積み残しの研究もあるけれど、今日からいつものペースの更新に戻します。
「毎日更新しろ」と言われているので、少なくとも平均ではそうなるようにがんばります。

2010/11/10

きりぎりす―太宰治


◆ノブくんの評論◆

 「あなた」のところに嫁いで5年目、「私」はあるすれ違いから彼のもとを離れる決心をします。
 元々「私」の愛した「あなた」というのは、「貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せ られて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行く」正直で清潔感のある人物でした。ですが、「あなた」は自身の画家としての出世を機に大きく変わってしまいました。果たしてどう変わってしまったのでしょうか。その変化を「私」はどう感じていたのでしょうか。
 この作品では、〈ある社会的な成功と正しさとの違和感〉について描かれています。
 画家と社会的な成功をおさめた「あなた」は一言で言えば、俗物という言葉がその儘当てはまる人物になってしまいました。あれ程展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていた彼が、自身のアパートの狭さを恥じ、他人の体裁を気にするようになっていったのです。そして表では他人に媚びているにも拘わらず、裏ではその人に対して愚痴を言うようになっていきました。「私」は「あなた」のそこに嫌悪を感じているのです。
 ですが、彼が俗っぽくなっていくにつれて、社会的な成功も築いていきます。「私」はそこに、自身の人生観に疑問を感じられない様子。私達は生まれてから今日まで、多くの経験、体験を積んで自分の人生観、倫理観、道徳観を築いていきました。私達はこの体験や経験に基づいて行動しているのです。「私」はそういった生き方にこそ、人としての正しさがあるのではないかと考えています。それに対して「あなた」は今まで自分の築いた人生観を全て投げ捨て、俗物となり成功しているのです。しかし、彼のそんな生き方に不潔さを感じている彼女にとって、それを受け入れられるはずもなく、「この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」とむしろ自分だけは正しく生きようと決心を強く固めるのでした。


◆わたしのコメント◆

 論者は、「私」が人としての正しい生き方の基準としているものを、それまでの経験で育まれた価値観、だとしています。ところがこの考え方でいくと、俗世間にまみれて生きている人間もが、当初からぶれない生き方をしているという意味で、正しい生き方をしていることになってしまいます。これは、「私」が最も嫌っていたことではなかったでしょうか。

 そうすると、「私」が「あなた」と別れることを決心した理由、また同時に、「私」の考える、人間としての正しさとは、いったいどこにあるのでしょうか。それを考えていきましょう。


 まずはじめにことわっておかねばならないことがあります。論者の論じ方では、あたかも「社会的な成功」と、「正しい価値観」が、二者択一の、相反するものとして扱われています。この対立図式に則ってこの作品を理解しようとすると、どうしても、「社会的な成功」の側にいる「あなた」に対して、「正しい価値観」を持った「私」が批判をする、という形式になってしまいます。さてほんとうに、「社会的な成功」と、「正しい価値観」は、あれかこれかという、相容れることのないものなのでしょうか。

 「私」はどう考えているのでしょう。彼女が、「あなた」の社会的な成功について言っていることに耳を傾けてみましょう。
 「あなた」の絵がようやく売れるようになってきた頃を述懐して、「私」はこう述べています。「あなたの、不思議なほどに哀しい画が、日一日と多くの人に愛されているのを知って、私は神様に毎夜お礼を言いました。泣くほど嬉しく思いました」。彼女は、社会的な成功そのものはけっこうなことだ、と考えていることがわかりますね。
 このことと、彼女の全体を通して変わることのない主張、「正しい価値観」を保持することへのこだわり、ということをあわせて考えると、彼女は、それらは決して矛盾するものではなく、双方を併せ持つことも十分にできるものだという扱い方をしていることが分かります。


 そして、両者の関係、「正しい価値観」をもって行動することが、「社会的な成功」にどうつながるのかについては、こうも言っています。
 「いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います。」

 彼女がどういうことを言っているか、その論理を取り出して理解できるでしょうか。彼女はここで、正しい価値観を持って考えたり行動したりできさえすれば、社会的な成功などというものは、なくてもよい、とさえ言っています。その理由はと言えば、世の中の人間が、俗世間にまみれて正しい価値観を失っていることが多いのなら、正しいことをすればするほど評価が付いてこないだろうから、結果が伴わない方が、かえって楽しいくらいだ、ということなのです。


 これらを要すると、彼女は、「社会的な成功」も、「正しい価値観」も、両方があってもよい、と考えており、その上で、「正しい価値観」があれば、「社会的な成功」はなくともよい、と考えていることになります。ただこれには、ある条件がつきます。この条件こそが、この作品を理解するにあたって最も重要です。

 それは、社会的な成功が導かれる場合には、それが「正しく考えて、正しく行動した」結果でなければならない、というものです。あくまでも、彼女は、自分の考え方や行動などの過程のほうが、それがもたらす結果などよりも、ずっと大事であって、結果ばかりを追い求めて、考え方や行動がないがしろになるのならば、結果などまるでないほうがよい、と言っているのです。ですから彼女にとっては、社会的な成功を目的にして、周囲に迎合するように自分の考え方や行動をねじ曲げてしまうことだけは、許せないことなのです。

 そうだからこそ、「あなた」が、自分が所属していたときには馬鹿にしていた人間と新しい団体を立ち上げたり、友人とある人のことを馬鹿にしたと思えば、次にはその人と友人のことを馬鹿にする、といった彼の姿勢を、彼女はこう軽蔑します。「あなたには、まるで御定見が、ございません。」、と。それは、彼の姿勢が、社会的な成功を目的にするがあまりに、その方法がおざなりにされ、それと直接に、彼の価値を、彼自身が傷つけているように映るからです。
 そんな価値観を持って生きている彼女にとっては、自分自身が正しいと感じるものを持っていることを自覚しながらも、それを周囲の人間の中に見つけることができません。今や、唯一の心の拠り所であった「あなた」でさえも、もはや彼女の正しさを証明するものではなくなってしまいました。それでも、どうしても、やはり自分の中の、消え入りそうなほど小さくて幽かな、正しさに対する矜持というものを、彼女は「きりぎりす」の声になぞらえて、これからも忘れずに生きていこう、と心に誓っているわけです。

 ここまで整理すると、彼女は、なにもそれまで育んできた価値観を大事にしろだとか、後生大事に抱えて生きるべきだ、などと言っているのではないことがわかるでしょう。論者が、自身が評論した最後の段落に、なにか納得できないものを感じているとすれば、作品にあらわれる概念を整理することを通して、登場人物の考えていることを正確に読み取りそこなっていることに原因があります。

 この作品で描かれていることは、観念的な表現になりますが、「正しさ」を自分ひとりでもそれそのもので持っておくことのできた「私」に対して、「正しさ」を何かとの比較でしか持つことのできなかった「あなた」の関係である、ということもできます。


 評論について全体的に言えば、論じ方の流れそのものは、とても読みやすく、理解しやすいものに仕上がっていると思います。こういったやや複雑な表現が用いられている作品については、概念を整理し理解することの方法論を、自分で積み上げていってもらえれば、内容も自然とレベルが上がってゆくはずです。弛まぬ修練をお願いしておきます。

◆◆◆

 余談ではありますが、彼女の悩みというものは、文中の表現を見る限り、作者である太宰の矜持の裏返しだ、と言ってしまってもあながち間違いではないようです。(太宰は1930年代に、日本浪曼派に加わっています)
 内容に立ち入って言うなら、世間の評価に目を向けてしまいがちな自分の隠された心情を「あなた」に、それを諌めようとする自制心を「私」という立場で論じ、自分はどう生きるべきか、という決意表明をしているようにも見えます。

 一般的に言って、これは俗世間にまみれながらも、純粋でまっとうに生きようとする人間の姿を、極めて的確に表現している作品だと言えるのではないでしょうか。
 現在的な評価を得ようと奔走し、世間の注目を浴びることばかりに気をもんでいる他人のことを見ていると、自分もああなったほうが正しい生き方なのかもしれない、自分のような生き方をしている人間が自分の他にはいないのなら、もしかすると私は狂っているのかもしれない。そういった疑念が頭をよぎり、実際にもそう後ろ指をさされている中で、それでもどうしても、やはりこの生き方だけは譲れない、こうとしか生きられない、内から沸き起こるその声を誤魔化して生きてゆくのなら、死を選んだほうがどれほどましだろうか、と強く思い直す。
 自らの正しさを、他人との照合によってではなく、自らだけによって問い直す、そういう過程を日々の中に持ちながら、自分だけは結果ではなく、しっかりとした過程性をもって、より本質的に生きていこう。そういった姿勢を貫こうとする、不器用ながら清潔な人間のあり方がここに現れています。

夜眠れない人のために

社会に出ると、とんでもないことが身の回りでおこることがある。

わたしの場合は、それが我が身に起こったことなら、
まあこんなもんだろうな、という姿勢で流せるのだけど、
間近で人がそういう目にあったのを見ていると、
なんともいえない、人間であることそのものに打ちのめされるような、悲しい気分になる。


思い返してみれば、割りに合わないのが昔から嫌だった。
悪ことをして怒られたり捕まったりするのは当然である。

わたしもイタズラやらルール違反をするときは、
これをやったらああいうふうに怒られるだろうな、
それくらいの価値とか面白さが、この悪戯にはあるだろうか。
そう考えてやっていたから、ゲンコツをもらってもとくになんとも思わなかった。

懲りずに毎日早起きして、柵を乗り越えてプールに侵入し、
繁殖したフナやらカエルやらを捕まえていたもの。
そうして、登校してきた先生に怒られ、素直に非を認めてまじめに謝っていた。
謝っているわりには次の日にもまた同じことをしているものだから、
先生からすれば、のれんに腕押しの問題児、といった位置づけだったのだろうか。
どっかのネジが外れた馬鹿、といった感じだったのかもしれん。

ただこんなことをやっていると、いざとなると濡れ衣を着せられたりすることもあって、
そっちのほうはあらかじめ気持ちの準備ができないために、めっぽう弱かった。
ああいう場合、まったく見に覚えがなさすぎて「やってません」としか言いようがないから、
結局は自分が日常生活を通して信用されてるかどうかにかかってくるもんねえ。

◆◆◆

まあともかくそういう範囲であればいいのだが、問題になってくるのは、
悪いことをしてないのに酷い目にあう、っていう場合である。
とくに、純粋「すぎて」人に騙される、とかいう場合だ。

自分が生まれたときには常に罪を背負っているとか、
前世で悪いことをした報いだといった、
宗教的な納得の仕方ができる時代にはよかったのだけれど、
宗教色の薄い現代人はそれに比べたら、裸で外に放り出されるようなものだ。

自分の力で纏うものを繕わなければ、寒くてやってられない。これは大変である。
とくに、その必要性を自覚しないままに成長してしまった場合には、
いざ寒さを肌身にしみて感じてからでは、にっちもさっちも、となってしまいがちなのだ。


要するに、なにも悪いことをしていないのに頭の上に隕石が降ってきた。
そんなときに、どう納得するか。
「納得などできなくともよい」ということを本心から言えている場合には、
問題は問題としてすら認識にのぼっていないわけだから、文字通り問題ではない。

しかしそうではなく、どうしても納得できない場合は、
「とりあえずそれでも」努力をして、もとの道に戻る、
そののちに振り返ってみれば、「あのときあの出来事があってよかった」、
などと思えるものである。

ただその場合にも、「とりあえずそれでも」何らかの努力をする、
という勇気やモチベーションといったものは、どこからひねり出してくればよいか。


その答えのひとつは、文学であると思う。(やっと本題にたどり着いたぞ!)

人間のありかたの良いところは、納得してから行動することのほかに、
行動しながら納得してゆく、という道を僅かながら残しておいてくれているところだ。
(ここのところの説明はけっこう長くなるので、気になる人は聞いてください)

わたしのところに出入している学生のひとりに、文学を熱心にやっているひとがいて、
その学生さんとのやりとりのために、毎日文学作品を読むことになっている。

そうして触れた文学が、日々の研究や日常の出来事にたいする姿勢として、どれほどの助けとなったか。
この出会いと出合いには、感謝してもしきれないものがある。
子供のときからその良さにもっと気づいておけば、と思わないでもないが、
大人になって、いろんなことにもみくちゃになってみて、初めてわかる良さもある。


下で挙げたものは、どれもひとりの人間の生きざまを描いた文学だ。
一般的に言えば「後味の良い」ものばかりでもないのだけれど、それでも不思議と作品の中の登場人物の生きざまが、自分の支えとなって身近に感じられるのは、文学というものの偉大さをまざまざと見せつけてくれる。

すべて短編であらすじを書くほどでもないので、疲れて眠れない夜には読んでみてください。
わたしもいま、とんでもないスランプなので、読み返しているところです。

図書カード:恩讐の彼方に(菊池寛)
図書カード:唖娘スバー(タゴール)
図書カード:最後の一句(森鴎外)
図書カード:きりぎりす(太宰治)

メモ:青空文庫落丁

私事ながら、大学を出てからずっと、教育に携わることをやっている。
もともとの専門は教育学ではないのだけれど、
助手としてや個人的な関係の学生とのやりとりがそれである。


そもそも、「学者」として学問に携わることを自認するからには、
単にイモリのシッポの再生具合を調べたり、
消費者の行動を統計データにしたりといった、
個別研究をするだけの「研究者」に留まっていることはできない。

学者としての営みには、当然ながら後進を育てる、
という教育の側面も含まれてくるからだ。

とくに、仮にも「学問」をする、という不退転の決意があれば、
どんな複雑に見える現象をも、もっとも下のレベルである原則におりたうえで、
そこから一歩ずつ階段を積み上げて理論を構築してゆかねばならない。
そこに結果としてそびえるのが、理論の体系、つまり学問である。

そうすると、それは初学からの発展段階を追うことになる。

その土台としては、人類の発展段階、個人の認識の発展段階の二層の構造の上に、
自分の専門分野での歴史性を踏まえた発展段階を、学生の認識の上に、
あたかも「歴史をその一身の上にくりかえす」よう指導できる能力が必要だ。


しかし、これらの教育は、現在望むべくもないようだ。
とくに感性的な認識で本質を把握できているという自惚れが強い人間は、
鈍才肌の人間を毛嫌いしがちだし、教育と銘打ちながらも結局、
自分好みの早熟的天才を選り好みすることで満足してしまいがちなのである。

頭の硬くなった大人が相手ならまだしも、20歳にも満たぬ若者の資質など、それもふくめて一から教育できてこその学者ではないか。
そうでなくともそれができぬ自分の実力の無さを心底恥じてこそ、人間として真っ当ではないか。
これは、学者だけではなく、一介の指導者なら、当然過ぎるほどの一事である。

ところが、そういった資質特性論は、学生にとってはもちろん教育ではないし、
教授ご当人にとっても、その土台を危ぶむ事態となる。

というのは、右も左もわからない学生を指導することが直接に、
自分自身の研究を原則から一歩ずつ階段を登り直すように捉え直す、
という営みでもあるからだ。
そうなると、指導する学生が、いわゆる鈍才であるほど、自身の研究が原則から捉え直されて、より本質的で強固なものとなることは当然ではないか。


というわけで、一流の指導者を目指すなら、
天才はさておいて、鈍才を育てる方がいいですよ。
みんながそうしてくれれば、わたしもずいぶん楽ができます。


◆◆◆

余談はさておき、青空文庫を毎日読んでいると、結構落丁があることに気づく。
わかった範囲内でメモ書きをしておこう。

落丁をいちいち目の敵にする理由といえば、また余談になっちゃうけれど、
わたしは学生を指導するにあたって、どうすれば原則に立ち返って、
どんな人にでも広く理解できる書き方になるのかと、工夫を怠らぬつもりであることと関係がある。

そういう姿勢で物事に当たると、自分の書いた文章を読み返してみたとき、
内容は間違っていなくても文章の流れが分かりにくい場合や、
まして誤字脱字があったときなどには、非常な反省の念にかられるものだ。

まったく申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
わたしがこの心構えで、いったいなにを教えようというのか。

これは人間としての姿勢だ。

子供を見たときに親としてろくなことをしてやれない場合には、
「他の親のもとに生まれてくれば、もっと幸せだったろうに」
との思いがあるのは、親としてもこれ以上ない不幸である。

現代における学生も、教師がまるで選べないという意味で、
事情はこれとほぼ変わりないのだが、
わたしの場合には個人的なつながりであることが多いために、
なおのこといい加減なことはできないという思いが強い。

俗世間にまみれた生き方をする大人に嫌気がさした若者にとって、
心の拠り所があるとすれば、それは流れに逆らうたったひとりの大人である。

自分が最後の砦だ、そう思えなければ、とても指導などできたものではない。



◆青空文庫落丁◆

ドーヴィル物語
・女はしかし、何か非常にこだわっで→こだわって

愚かな一日
・行わるれば行われるほど→行わられれば

八人みさきの話
・世嗣ぎは当然三男津野忠親に来るペきものであった→来るべき
・豪胆な薪三郎は腰の刀を抜いて→新三郎

モルグ街の殺人事件
・この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、
→しばしば

狂女
・ひとりで着物も著られない
→着られない

頸飾り
・如何の位辛うどざいましたか
→ございましたか

賢者の贈り物
・小銭は一回の買い物につき一枚か二枚づつ浮かせたものです。
 →ずつ

2010/11/06

朝―太宰治

うーん、このBlogger、全体的なシステムは悪くないのだけど、
プレーンテキストをコピペすると、なぜか行はじめのひとマスを勝手に削ってしまうぞ。
リッチテキスト形式にしてからコピペすればいいのだけど、なんともめんどくさい。

文章の校正なんかを引き受けると、文体や文法の乱れは仕方ないにしても、
日本語としての形式を守れていないものが結構多い。
学生さんだけではなくて、年配の方にしても、それはもう酷いものがある。

どうでもいい雑記やこういう愚痴を書くときにはひとマス空けをしないのだけど、
人に対する文面では、きっちりルールを守ってゆきたいもの。

ただでさえ、情報化なんて殺し文句やTwitterなんかに押されて、
ちゃんとした形式や論理ってものがないがしろにされがちなのだし。

みんながやらなくても、自分だけはちゃんとしていよう、
って意識は、どんなことについても譲ってはいけない。


◆◆◆


◆ノブくんの評論◆

 何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
 ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
 この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
 この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。

◆わたしのコメント◆

 あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
 論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。
 さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
 表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。

 さて、そうして、<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。
 結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。

 石→池の水→ハスの葉

 次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。

 筆者→大酒・暗闇→キクちゃん

 そうすると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになるでしょう。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。


 この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の 焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。」彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえてみているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。

 論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちど学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
 そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。

朝―太宰治

朝―太宰治

◆ノブくんの評論◆

 何よりも遊ぶ事が好きな著者は、家にいてもなかなか仕事がはかどらない為に、某所に秘密の仕事部屋を設けています。その某所とは女性の部屋なのですが、彼女との関係はやましいものではありません。ただの知り合いの娘さんとそのおじさんという、それだけの間柄でした。そして部屋を設けているとは言っても、普段彼らは互いの顔を見る事はありません。著者は彼女が仕事に出かけて部屋が空いている時間を見計らって、4、5時間だけそこを使わせてもらっていたのです。
 ところがある時、その関係がぐらぐらと揺れ動く出来事が起こりました。それは著者が例の如く大酒を飲んだ、ある晩のことです。立てなくなるくらいに酔っていた彼は、いつも部屋を貸してもらっている女性の部屋で休ませて貰っていました。ですが著者の様子が普段とは違い、彼女を一人の女性として見ているのです。普段決してそのようなことはなかったはずなのに、一体何故彼は彼女をそのような目で見るようになってしまったのでしょうか。
 この作品では、〈結果に至るまでの条件とは一体何所にあるのか〉ということが描かれています。
 そもそも、私達は「どうして彼は彼女を一人の女性として魅力を感じ、一晩の過ちを犯してしまいそうになったのか」という問題に対して、まず二人に原因があるのではないか、と考えてしまいがちです。もちろん、彼らにそうなる要因がなかった訳ではありません。部屋の女性は元々の知人よりも著者を信頼している様子でしたし、著者とも部屋を貸す程親しい間柄にあった訳ですから。ですが、原因はそれだけではありません。例えば、私達が湖に石を投げ入れると波紋が生じ、その波紋がそこに浮いていた葉っぱをゆれ動かします。ですが、この現象がおこる要因はなにも石と葉っぱだけにあったのではありません。もし湖が凍っていたら石は波紋を起こしませんし、湖ではなく沼等であったら波紋はそこまで届くでしょうか。このように、ある現象の要因というのは何も直接的な原因と結果(著者と女性、石と葉っぱの関係)だけにある訳ではなく、周りの環境にもその現象の要因というものは存在するのです。
 この作品でも、著者が一晩の過ちを起こしかけたきっかりは、お酒を飲み意識が朦朧としていたことも、夜で周りの景色が暗く周りがよく見えていない事も原因の一つになっています。それは作中の著者も認めており、「あの蝋燭が尽きないうちに私が眠るか、またはコップ一ぱいの酔いが覚めてしまうか、どちらかでないと、キクちゃんが、あぶない。」と、夜の暗さと自身が酔っている状況が今の自分にどう影響するのかを感じ取り、だからこそそれらを恐れているのです。


◆わたしのコメント◆

あらすじに関しては問題ありません。話を進めましょう。
論者は、「筆者」が顔なじみで年下の「キクちゃん」のことを、酒や夜の暗闇のせいで、女性として見てしまいつつある自分に、自省を働かせる場面を見てとります。そしてそこには、彼らという直接的な原因の他に、周りの環境という間接的な要因も働いている、と言っています。

さて、この論証は、果たしてこの物語の本質をとらえているでしょうか。論者の引用しているのは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の例をほぼそのまま抜き出した形のものです。そこで三浦は、いわゆる<媒介>の説明をするために、物事は原因と結果を見るだけではなくて、その物事が持っている性質の関わり合い方を、つっこんで調べてみなければならない、と言っています。たしかに、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、という現象は、なにも石が直接に葉っぱに働きかけているわけではありません。石を投げ込まれた水という<媒介>があってこそ、はじめて蓮の葉が揺れるのであって、同じH2Oでも、凍っていてはいけなかったという意味では、水の性質がどういったものであったか、ということも重要な原因となっている、という主張です。
表面的な読み方しかできなければ、「だからどうした」といった感触を持たれる方も多いのではないかと思いますが、実は非常に重要なことを三浦は言っています。詳しい説明をする段ではありませんが、たとえば、「光は粒子か波動か」という科学史を200年間も賑わせた話題というのは、<媒介>というものへの理解が乏しかったために起きています。


さて、そうすると<媒介>というものの重要性をなんとなくわかっていただけたのではないかと思いますが、この評論における問題は、この物語にとって、<媒介>が存在するのか、あるとすればそれは重要なのか、というものでした。

結論からいえば、答は否です。それを詳しく見るために、三浦の用いた例を整理しておきましょう。それは、池に石を投げ込むとハスの葉が揺れる、というものでしたから、図式化するとこうなります。

石→池の水→ハスの葉

次に、この物語の構造を図式化することを試みようとしてください。筆者は、大酒と暗闇のせいで、キクちゃんと過ちをおかそうとしています。

筆者→大酒・暗闇→キクちゃん

おかしいことがわかるでしょう。無理矢理に解釈してみると、筆者が大酒や暗闇に働きかけて、それらが<媒介>という形をとって、キクちゃんになにか影響を与えたものでしょうか。ここまで書くと、もうおわかりになったはずです。それらの間には、直接、間接かかわらず、とくになんの関係も認められません。


この物語は、素直に読めば、大酒と暗闇のせいでキクちゃんを女性として意識してしまう筆者の理性のともしびを、「蝋燭の焔」という象徴を用いて描いているだけだとわかります。次の箇所が決定的でしょう。「蝋燭に火が点ぜられた。私は、ほっとした。もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った」。彼は、暗闇のなかでちらちらと燃える小さな蝋燭の火を、酒の勢いに身を任せてしまいそうになりなるのを必死に堪えるという自制心になぞらえて見ているのです。最終的には蝋燭の火は消えてしまうのですが、それと同時に訪れた夜明けのおかげで、筆者は一線を超えずに帰宅することができたわけです。

論者の誤りは、論理的になにが同一であるか、という判断の間違いから来ています。『弁証法はどういう科学か』に書かれている例でいえば、「相手の表情に合わせて相手の次の手を読み、じゃんけんでは負け知らずの少年」の話から、もういちどしっかり学んでください。少年は、相手の認識にぴったりあわせた認識を、自分の頭の中に持つことができたからこそ、相手に勝利することができたのです。
そういった観念的二重化における誤りは、ひとつに、相手の力を過小評価しすぎるということです。もうひとつは、過大評価しすぎて、相手の意図していないようなことでも、自分の頭の中で勝手にでっち上げて解釈してしまうという、いわば「コンニャク問答」です。あなたは、素直に読めば理解できるものを、わざわざとんでもなく難しい読み方をしてしまっていませんか。『ぬすまれた手紙』でいえば、「G警視総監」の誤り方がどんなものであったか、思い出してください。彼は、D大臣がとんでもないところに手紙を隠したものだと自分自身の頭の中で勝手に決めつけ思い込んでいたために、目の前の手紙を見つけることができなかったのです。

2010/11/03

マイチャリ

わたしの愛車、ビフォーとアフター。

Before

After

え、「ナマズがいなくなった」?

それは関係ありません。(まだ生きてます、ずいぶん汚れたけども)

変わったのはブレーキのフード。
何回か転んだり、炎天下でも雨の中でも走り回ったことが原因で、ゴムはベタベタ、プラスチックはボロボロになっていたので、手持ちの革で作ったのだ。

壊れるたびに備品を注文するのも癪だなあと思っているときに、
くらふと工房」さんを見つけて、この手があったか!と思い、あとは見よう見まねである。(非常に感化されました、ありがとうございます)


ただはたしてこんな曲面に絞れるのか?という問題が前からあったのだけど、
北海道ツアーのときに、偶然iPhone用の革ケースが濡れてフニャフニャになったあと、
乾いた頃にはキツキツになったのを見て、「これはいける」と思ったのだ。

事実、厚さ2mmのヌメ革でも、濡らせばしっかり型を合わせられるから、
型紙をそれほどきっちり作っていなくても、現品合わせでなんとかなることがわかった。
怪我の功名である。

◆◆◆

というわけで、自作してからまだ500キロほどしか走っていないけれど、
ひとまずの経過報告。


・見た目
東急ハンズで適当に調達したヌメ革(2mm)、
はじめは肌色だったものが、だいぶ焼けてきた。
(Beforeのナマズにつけた革ベルトと同じ色だった)

ただ常に手のひらが触れている部分が黒っぽく汚れてきたので、
ここらへんは革の選び方に問題があったのか、色移りしたのかは確かめる必要がある。


・クッション性
あと、ゴムのブレーキカバーに比べるとクッション性はほとんどないといっていいので、
長時間乗っていると、手のひらが物理的に痛くなる可能性はある。
ただわたしの場合に限れば、以前からグローブもつけていない状態で長期ツアーしてるので、とくに問題にはなりそうにない。

おそらく、3mmまでなら分厚い革も使えると思います。
4mmになると、たぶん無理でしょう。
カバーの作成を約束してあるチャリ仲間のみなさんはその点よしなに。



◆◆◆

改善できそうな点としては、

・革の品質の問題
端的に言って、「もっと良い革を使ったらすごいことになりそう」。

ブレーキカバーのあとに自作した下のデジカメケースは、余った革じゃなく、
ちゃんとした革を注文して作ったものだ。(拡大すると質感が分かってもらえるはず)

米ハーマンオーク社製の、ハーネスレザー。
ヌメ革のなかでは、おそらく最高級の特Aクラスだと思う。



ブレーキカバーを作り始めたときは、
「失敗したらさっさと換えのパーツと取り替えよ」と思っていたくらいだったから、
これほどの革を使って、という考えそのものがなかったのだけど、
ちゃんと機能することが分かると欲が出てきちゃう。


・縫い目の問題
ブレーキカバーの止め方は、はじめに前方を縫った状態で現品にあわせたあと、下側を縫う、というやり方。
そうすると、ブレーキを握りこんだときに、縫い目が指に触れる、という問題が起きる。
もしかしたら違和感があったり、もっと悪ければ指が痛いかも、と思っていたけど、個人的にはほとんど気にならない。

わたしのチャリについているシマノ製のブレーキ(おそらくTIAGRAグレード)の形状からすると、これ以上のカバー形状と取り付け方は思いつかないので、あとは取り付けたあとにヤスリ掛けをしっかりする、といった後処理の方法を探してゆくことになりそうだ。
(裏返しで縫う、というやり方もあるけれど、後処理をしっかりしたほうが、むしろ実用性は高いと思う)


STIレバーの場合は、ブレーキカバーの形状もやや複雑なのだけど、ここまで革をつぶしながら試行錯誤してきたかいあって、今なら作れるのではないか、とも思っている。

ロードバイクを持ってたらさっさと試しているのだが。


◆◆◆

あとは、
・iPadのスタンド
・MacBook Airのケース
・革と木の彫刻での作品作り
あたり。



いちばんの問題は、革がとっても高いってこと…

革というのは、大きくなればなるほど値段が跳ね上がるのだ。
(合皮なんかと違って、牛の大きさは決まっていますからね)
今のところ良い革でブレーキカバーを作ると、1万円オーバーになっちゃうのが難しい。
大型ノートパソコンのケースは、ちょっと考えたくもないぞ。

思い切って牛一頭分を買っちゃえばわりと安くなるんだけどね。
誰か一緒にやりませんか。



ランニング

そういえば、先月の終りから、トレーニングを見直している。

実は夏の北海道ツアーで知り合った方が、トライアスロンをしておられるらしく、
すっかり感化されてしまったのだ。

ただトライアスロンといえば、マラソンとチャリにスイミングだから、
いつもやっていることと、形式そのものは特に変わらない。
しかしその内実を考えると、やはりそれ相応の姿勢と取り組みが必要になってくる。

◆◆◆

そのついでというわけではないのだけど、
友人から、ランニングはどうしたらいいかと聞かれたので簡単に説明。
背筋伸ばしな、と言われた学生さんも参考にしてください。


ランニングに作法もなにもなかろうと思う方も多いだろうが、これがけっこう奥が深い。
わたしの場合は、身体が潰れ研究に行き詰ったときに、なにかとってもシンドイことをやろう、それを軌道にのせられれば生活も元に戻せるはず、と思い立ち始めてから、2年とちょっとになる。

よっぽどのことがない限り、毎日5キロちょいを走るか歩く。
なぜ「走る」だけじゃないのかといえば、毎日走っていると足にガタがくるからだ。
わたしのコースは地元のため池の廻りで土面だけど、それでも毎日となると話が違う。
なので、どうしてもダメなときは歩く。
それでも池を最低3周、という距離だけは守ることにしている。


2ヶ月も毎日走っていれば、2,3キロ程度なら誰でも走れるようになると思うが、
今度は脚の強度という物理的な問題が重くのしかかってくる。
なにせ慣れない頃は、脛の前面が、ちょっと触っただけでも痛いほどになる。

ところでわたしは、人生は旅だ、と常々考えているので、
「今日と同じことを明日もやれるか、やってよいか、やるべきか」
といつも確認しながらの毎日を過ごしている。

そうすると、昨日は死ぬほど頑張ったから今日は疲労で寝ていた、
というのでは人生を踏み外しちゃうのだ。

◆◆◆

そういうことを考えて、あるていどのものは揃えておこうと思って買ったのがこれ。

・Nike+のシューズ(Nike iDで買ったもの)
・Nike+のセンサー
・アームバンド(Sumajin製)
・手持ちのiPod nano




センサーをiPodとシューズにつけて走ると、消費カロリーやら走行距離やらを測ってくれる。
わたしの場合はそういうことよりも、毎日の記録がちゃんと残るからサボれない、
という一事が重要なのだけど、やはりいつもの音楽をオンにすると、「さあやるか」と思えることも意味がある。

雨風雪に問わず、台風だろうが
学生からのとんでもないサプライズで参っていようが走りに行くのに、
どの装備もよく持ってくれている。
平気で水たまりの中につっこんでいるのだが、よく潰れないものだ。


最近はもっと良い靴もあるようなので、近くのショップでいろいろと探してみるといいかと思う。
アディダスはauの携帯電話と、ナイキはiPod, iPhoneと連携できるので、
「ちょっとくらいは楽しさがないとランニングなんかとても」と思っている人を力づけてくれるはずだ。


ランニングはしんどいか?

わたしたちは義務教育で、
「行間マラソン=横っ腹がイタイ」
という図式を見にしみて体感させられているので、
「ランニング=ダイエット以外なら苦行」
と思われる方もおられるかも、というか多そうだ。


わたしも当初はそう思ってあえてはじめたのだけど、
これがやってみると、ぜんぜんそうでもない。

むしろ、毎日の終わりに肩で風を切って汗を流し、
今日学んだことの整理をし、雨に打たれて雑念を洗い流すことは、
今日ももうひと踏ん張り、という区切りをつけるのにもってこい。
毎日こうして走れる環境にいることのありがたみが、身にしみてわかろうというもの。

そう思える2ヶ月間、毎日のように走りに行けるか、というのが分水嶺だと思う。


ほんとに毎日ランニングをしていると、なにかイベントがあって行けないときには、
身体がムズムズしてくるはずだ。こうなるとあとは楽だ。


ランニングの位置づけ

ランニングかスイミングは、武道における武道体などでもなく、
それ以前の人間体の土台になるものだから、
人間としては必須科目なのではないかと勝手に思っている。

人間体というものは、意識して身体を運動形態におくことが習慣付けられていれば、
当然ながらそのぶんだけの実体が作られていくものだ。

たとえば、電車に乗ったときは足を全力で踏ん張ったり、
友人と座席に座るときには背もたれを使わない、
帰宅後風呂場で身体を洗うときには正座、雨の日には傘を全力で握るなど。

そういうことをしっかり意識しながらやっていれば、
土台づくりとしては合格点をあげられるし、なにしろ空き時間をしっかりと使う、
という意識が磨かれてゆくことがいちばんの収穫になる。


人間としてしっかりした身体を作りたい場合、
ランニングをしているときも、正しいフォームで走れているか、
と常に明確に意識しておくといい。

背筋をやや伸ばして呼吸を整える(口から吸って鼻から吐く)、
くらいは意識しておきたいもの。

あとは、「無理なペースで走らない」ことだけを覚えておけばよい。
ずっと続けられることの方が、よっぽど大事だ。

◆◆◆


余談だけれど、これから寒くなってくると、とくに真冬の雨の日は、
「屋内でも寒いのに、今日はとても無理だ」と思わないでもない。
しかし、それでも奮起してチャリを漕いで行く。
なにかと理由をつけて休むと、きっと次の日も休むからだ。だから、あえて行く。

そうすると、やはり同じ時間にひとりでもくもくとランニングをしている方がおられる。
夜目ながら年配の方のようだが、おそらく同じ思いを振り払って来られているのだろうと思うと、やっぱり来てよかった、という気持ちになる。

だれかが走っているからわたしも走るのではないけれど、
自分と同じようなちっぽけな意地、それでも譲れないこだわりを持って生きている人を見ると、やっぱり人間はいいものだな、これだから、と思わずにはいられない。

どこかの見知らぬ方、新参者ですがどうぞよしなに。