今年はまだ涼しいですね。
なんだか春を飛ばして梅雨になってしまいそうな気がします。
わたしは雨の中を走っているうちにそうするのが好きになってきたので、梅雨入りしても世間の人たちが抱いているような嫌な印象はありません。
それを言うと暑いのも寒いのも好きなのですが、冬なら冬で、どだい、袖をまくって身体のどこかを冷たい風に当てておかなくては、暖かいということも本当には理解できないでしょう。
外が寒いから家の中が暖かいということがわかるのであって、どちらかだけを取ろうとすれば、好んでいたはずのものもそこそこしか理解できなくなってしまいます。
こんなことを言うとどうも他人行儀のようですが、今回扱った作品は、その他人行儀の話です。
◆文学作品◆
アンリ・ド・レニエエ Henri de Regnier 森林太郎訳 不可説 UNERKLARLICHT!
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 不可説ーアンリ・ド・レニエエ(森鴎外訳)
ある時、「僕」はあることをきっかけに、自殺する決意をしたためた手紙を「愛する友」に送ります。そのあることとは、どうやら夫を持つある女性との交際が関係している様子。ところが、彼はそれについて悲観的な感情を一切抱いてはいません。加えて、その女性との関係は、単なるきっかけに過ぎないというのです。では、一体彼は何故自殺を心に決めていったのでしょうか。
この作品では、〈理想を追い求めるあまり、かえって死というものに希望を抱かなければならなかった、ある男〉が描かれています。
上記にもあるように、「僕」は夫をもつある女性に対して好意を抱いてしまいます。ですが、彼女の方は夫がいることを理由に彼の申し出を断り、代わりに「友達」でいようと提案しました。どうしても諦めきれない彼は、心のなかで彼女との将来像を描いていきます。ところがそうして描いた将来像でも、彼は彼女と一緒にいる場面が想像できない様子。そこで、彼はこうした自身の恋愛を含めた自分の理想により近づく手段として、自殺を選んだのです。何故なら、死後の世界では他人は関係なく、自分の思い通りの未来を描けるのですから。
◆わたしのコメント◆
結論から言えば、論者の作品理解は誤りです。
とは言え、この作品が書かれた時代がちょうど100年も前であること、訳出されたものであること、表現のみならず扱っている心情が複雑であることなどが、その理解の妨げになっていることもわからないではありません。
一般の読者のみなさんも作品を一読されてみればその理解しにくさを納得できることと思いますが、その難しさをもたらしている要因がどこにあるのかを、まずは明らかにしておきましょう。
「僕」が友人に宛てた遺書のかたちで書かれたこの作品は、僕が死を選ぶことになった理由が書かれています。
しかしその決定的な理由は?という目的意識で作品を読むと、論者のような誤りに陥ってしまうのです。
論者は、「僕が一人の夫人に恋してしまったものの、友達でいようと言われたことがきっかけに自殺につながったのだ」としていますが、まったくの誤りです。
作品が難解だからといって、自分の理解できる範囲の恋愛感情を作品に押し付けて解釈してしまってよい理由にはなりません。
次の箇所をしっかり読んでいれば、その誤りは十分に防げたはずです。もう一度読んでください。
僕は、世間一般の自殺者が抱いているような「恋愛、心痛、厭世、怯懦(けふだ)、自惚(うぬぼれ)、公憤」や「恐怖や絶望」などの理由によって死ぬのではない、とことわったうえで、以下のことばを続けます。
僕には失恋の恨は無い。啻(ただ)に恨が無いばかりではない。目下頗る心を怡(たのし)ましむるに足る情人を我所有としてゐる。自分は夫人に失恋の念を抱いているというようなことはないし、ましてや恨みもしない。むしろ心を怡ましむるほどである、と言っているではありませんか。
本文を読み進めていっても、このようにあります。
実際ジユリエツトがいつか僕の情人になつてくれるだらうと云ふ想像は、僕には嬉しかつた。ですから、僕が失恋のために死に至ったのだ、という線はまったく無かったものと理解するのが自然です。
◆◆◆
しかし、自殺に至った原因について失恋の可能性を棄てる段になっても、ではなぜ僕は自殺をせねばならなかったのか?は、依然として疑問符がついたままでしょう。
遺書を宛てた「愛する友」が、やはりそのことを訝しく思ったとしても無理のないことだと考えた僕は、友の気持ちを代弁するように語りかけています。
(他人の気持ちを汲み取って、あらかじめ誤解のないように説明書きを用意しているところから、「僕」が狂人ではないことが窺い知れる、という構成になっています)
一体妙な事ではないかねえ。僕が酒にも酔つてゐず、気も狂つてゐない所を見ると、一層妙ぢやないか。勿論僕は此自殺によつて、何の自ら利する所もないが、それでも僕は此遂行を十分合理で自然だと認めてゐると云ふことを明言することが出来る。僕は此外に行くべき途を有せない。僕のためには此死が恰も呼吸の如き、避くべからざる行為である。尋常で必然な行為である。詰まり僕の今日(こんにち)までの生活は此点に到達しようとする、秘密な序幕である。僕はかうしなくてはならないやうに前から極められてゐるのだ。自らが泥酔しているわけでも、気が狂ったわけでもない僕の主張を見ると、彼は自分自身の自殺について、これ以外の方法がないというほどに合理的で、必然性を持ったものであり、いわばこれまでの人生というのは、今日この日のための秘密な序幕であったのだ、と言っているのです。
ここで注意しておかねばならないのは、彼の発想からは病的な妄想、気の迷いや極端な決め付け、現実からの逃避が見られる、などと言ったからといって、作品を理解するための何らの前進もないのだ、ということです。
論者の場合はそこまでのひどさはありませんが、僕の自殺の原因を、これほど本人が否定している失恋だと見做し続けるというあたり、いわば彼を失恋病者だと言って安心しきり、作品を読み進めてもその決めつけを一向に解消しない、という誤り方の第一歩を踏み出しているようにも感じられてしまいます。
ひとつの作品を理解するときも、ひとりの人間を理解するときも、「この人は病気だ」と判断してなんらかの病名を付与するというのは、その理解の第一歩ではあっても本質的な理解ではないどころか、むしろそれとはまったく逆向きの考え方なのであるということをまずは理解してください。
わたしたちがやらねばならないのは、解釈の押し付けなどではなくて、過程における構造の理解です。そのためには、まず事実から逃げずにしっかりとそれを見据えねばなりません。
◆◆◆
※学習の進んだ読者の方へ:存在するものには何らかの必然性がある
自分が向きあった現象が、いかに理論の埒外にあるように見えたり、また自分の嗜好からは大きくはずれるものであったとしても、「存在するものには何らかの必然性があるはずだ」という下限で踏みとどまって、「ではそれはなぜ起きてしまっているのか?」と考えを進めてゆくというのが、科学的な態度です。
本当の意味で科学者でありたいというのであれば、つまり学問的に唯物論の立場に立っていたいのであれば、もし眼の前に「変わった子供がいる」、「湯のほうが水より早く凍る」、「飛べないはずのものが飛んでいる」などといった現象があるときに、それを馬鹿だとか理論に反するだとかの、自分の価値観を対象に押し付けて解釈するような立場でなくして、どんなに自分の世界観や価値観と反しているように見えても、「それが一体なぜ起きるのか?」と考えて、究明してゆかねばならないのです。
これは人間としての謙虚さというものでもありますが、もし学者・研究者として生きたいのならばそれ以上に、自らの世界観が絶対的に要請するものごとの考え方ですから、この土台を踏み外せばもはや科学を名乗れないのだ、と厳に戒めておかねばなりません。
加えて申し添えておきますが、この世界観の把持という問題は、なにも唯物論だけに限ることではなくて、観念論でも同じことが言えるのです。
研究者の世界を見るに、自分の好き嫌いをあらかじめ前提として置いた上で対象を受け入れるかどうかを検討し、その因果関係の説明に他人に借りた理論や思想などで権威付けることが学問だと思い込んでいる人間が少なからずいることは、なんとも残念な事実です。
繰り返しますが、自分の好きや嫌いを正当化するために借り物の理論を拝借するなどというのは、単なる屁理屈であって、論理や理論ではなく、ましてや科学的な態度では絶対にありません。
このような立場をとる人間の表現は、その肩書がどのようなものであれ、検討するに値しないものと、自らの姿勢に照らして理解しておきたいものです。
◆◆◆
さて、「現象するものはすべてなんらかの合理性を備えている」という根本的な姿勢を、この作品理解にもしっかりと適用してゆくことにしましょう。
事実に忠実に、この作品に真正面から向きあおうとするとき、わたしたちはこう考えねばなりません。
「僕」は、失恋したわけでもなく、むしろ意中の情人がおり、街中の風景を楽しめるだけの余裕を持ち、「精神上の難関があつたとしても、それを凌いで通る手段」をいくらでも持ちうるのに、それでもなお、自ら死を選ばねばならなかったのはなぜなのか?
彼の言う「自殺の必然性」を、彼自身になりかわかったかのごとくに我が身に捉え返して追体験してゆかねばならないわけです。
先ほど引用しておいた彼のことばのなかで、「僕はかうしなくてはならないやうに前から極められてゐるのだ。」という言葉がありましたね。
そう結んだひとつの段落のなかで彼は、これまでの人生が、今日という死に向かっての前段階でしかなかったのだ、という趣旨の発言をしています。
彼は振り返ってみれば、これまでの生活はそのようなものであった、と述べているのですから、その中に彼が自殺という結論に思い至った原因があるわけです。
その生活というもののなかで、遺書の中で取り上げている事柄こそが決定的なのですから、その箇所をよりくわしく調べてみて、そこからどのようにして「不可説にして必然な心」が醸成されてきたのか、を追ってみましょう。
◆◆◆
遺書の大半は、一人の夫人との思い出を記述することに割かれています。
僕が情人になってくれることを望んだ夫人「ジユリエツト」が、僕の自殺の直接的な原因ではないというのに、なぜ彼女についての記述が遺書の大半を占めているのかといえば、このような理由からです。
僕の心の内で行はれてゐる事、即ち僕の「前定(ぜんてい)」とでも名づくべき或る物を、僕に示してくれる徴候は、その女の傍にゐる時一層明かに見えるからである。彼にとっての彼女は、自分自身が、自分自身にさえ知らずに持っている価値観や世界観というものを、眼前に浮かび上がらせてくれるという存在なのです。
彼は、自分自身すら知らないながらも彼自身が抱いている直感を、「妙な精神状態」ということばで表しています。
彼女とはじめて出会ったとき、彼が狼狽する様子を見てください。
此笑声(せうせい)を相図に、僕の不愉快な気分は、魔法の利いたやうに消え失せた。どうして僕はあんな馬鹿な事を思つたのだらう。僕の感じたのが恋愛に外ならぬと云ふことを、なぜ僕は即時に発明しなかつただらう。僕の妙な精神状態を自然に説明してゐるものは即ち此女ではないか。今噴水のささやきと木の葉のそよぎとに和する笑声を出してゐる此女、薔薇の谷の珈琲店に、あの晴やかな顔と云ふ一輪の花を添へてゐる、この美しい、若い女に、僕は惚れてゐるのだ。彼が狼狽せざるを得なかったのは、他でもなく彼女が、彼以上に彼の「妙な精神状態」を「自然に説明してゐ」たからだったのです。
ここにおいて彼の中で、彼自身が恋焦がれ、また本人からも悪からず思ってくれているであろう夫人「ジユリエツト」は、僕の精神のあり方を、彼の内省以上に詳(つまび)らかにしうる存在であることが印象づけられます。
◆◆◆
そういった彼女についての理解を前提としてしっかりと持っておいてください。
そうしたうえで、僕に再び「妙な精神状態」が訪れた際、それを彼女という存在に照らしてみたとき、どのような彼自身の価値観が浮かび上がってきたのでしょうか。ここが、物語の最大の山場です。
未来に楽しい事があるだらうと云ふ見込は、幸福の印象をなす筈だから、僕はジユリエツトとした此散歩の土産に、さう云ふ印象を持つて帰らなくてはならないのだ。実際ジユリエツトがいつか僕の情人になつてくれるだらうと云ふ想像は、僕には嬉しかつた。僕は度々スクタリで話をした時の事を思ひ浮べて見た。高い糸杉の木、倒れてゐる柱形の墓石、僕に手を握らせて微笑(ほゝゑ)んでゐる若い女の顔。こんな物が又目に浮ぶ。併しどうもその場合に、僕は局外者になつてゐるやうでならない。詰まり秘密らしく次第にその啓示(けいし)の期の近づいて来る、僕の生涯の隠れた目的は、この目に浮ぶ物の外にあるのだ。彼は、彼女と出会った時のように、ジユリエツトに照らして自分の本心を捉え返してみようとしています。
僕の脳裏には、夫人と散歩した時に見た風景が次々と照らしだされてゆきますが、それでもひとつだけ欠けていることは、自分自身のことを、どうしてもその思い出の当事者として感じることができない、というその一点なのです。
未来に楽しいことがあるはずだという見込みは、一般的には幸福と言われる感情のようであり、ジユリエツトとの散歩の思い出は、自分にとっての幸福を示している。
しかし僕の場合、それは「局外者になつてゐるやうでならない」。
このことは、僕が生活する中で触れてきたものは、どこか夢物語のようでいて、いつか来る約束された日のための単なる道程に過ぎないのだ、という感触を生み出しています。
自らの脳裏にある思い出がたしかに自分のものである、と感得できない以上、「僕の生涯の隠れた目的は、この目に浮ぶ物の外にある」ということにならざるをえなかったのでした。
◆◆◆
「僕」の持っていた価値観がわかってきたでしょうか。
彼は自分の思い出が自分のものだと思えないために、まるで浜辺で綺麗なビー玉を拾って歩く子供のように「ジユリエツトの姿、薔薇の谷の小さいトルコの珈琲店、糸杉の木、スクタリの柱形の墓石、ベゼスチンの刀剣商」などといった思い出を集め、それを枕元に並べて、本来の目的に向かおうと死を選ぶことになったのです。
この大まかな方向性をきっちりと掴んでいれば、本文のあちこちに現れている状況証拠から、彼がどんな意図でどんなことを試み、最終的には自殺へと決着してゆかざるを得なかったのか、ということが一本の流れを持って読めてゆきます。
一般性についてもあえて明記しませんので、自分自身の手で引き出してみてほしいと思います。
こういったふうに、ある人の人生というものを、まるで当人になったかのように捉え返した上で自らのアタマの中に当人の観念を像として描く、ということが、<観念的な二重化>というものです。
このことばだけをまる覚えして、心情理解のためにこれが必要だ、唯物論の立場での認識論には必須の要件だ、などと述べてもなんらの意味もありません。
もし少しでも自分自身の手で認識論を実践し発展させてゆきたいと思うのならば、相手がどれほどの馬鹿であろうと変わり者であろうと映ったのだとしても、まずはその相手がそういう性質・気質を持ってしまったということには、なんらかの合理性があるのだ、という姿勢で、その認識が生成されてきた過程的な構造をたぐり寄せる努力をしなければなりません。
このことは当然に、他人を指導する者、他人を看護する者をはじめ、あらゆる人と関わってゆくことが実践上必要不可欠の仕事をする時にも、ゆるがせにできないものごとの見方なのです。
◆◆◆
以下は余談です。
作品の中で、自分の思い出に現実感が伴わない、といった「僕」の人生観がありましたね。
あれはなにも、彼のような人物だけが持ちうる感触というわけではないのです。
わたしたち人間というものが、過去のことを思い出すときには、現在の自分自身という自我、つまり<自由意志>の立場に立った上で、アタマのなかに<対象化された観念>をつくり出します。
そうした上で、「あのときはあんなことがあった」と、対象化された観念に二重化して、現実に戻った自分が「あれは楽しかった」と言い、「もう一度あんなことがあったらなあ」と両者を比べて感想を述べたりするというわけです。(三浦つとむ『言語と認識の理論』ほか)
このときに、自分自身のほかにもう一人の自分が生まれるという観念的な分裂が起こることを、感受性の強い人がそれを強く認識できてしまうところに、「私でないもう一人の自分が私の中に居る」という違和感が生まれます。
思い出ばかりでなく今現在でも、私の精神はひとつだけであるはずなのに、なぜだかもう一人の自分が後ろから自分を見ていて、あしろこうしろとかつぶやいたり、やめておけ、と忠告したり、今やらないと一生後悔するぞ、と促したりする。
この事実を、どちらの観念が私の本質なのだろうか?などと考え始めるところから様々な雑多な思想や宗教が生まれることにもなるのですが、あれらはすべて、出発点から踏み外しをしているわけです。
そういった矛盾が眼の前にあるとき、「どちらの観念も私なのだ」というのが正しい答えなのであり、ではそれぞれの観念がどのような区別と連関を持っており、どのような構造を持っているのか、を調べてゆくのが弁証法という考え方なのです。