2012/06/29

記事への質問への答え (3):観念的二重化の実践

前回の記事では、老婦人を看護した知人の実例を挙げて、そこにはどのような認識についての手がかりがあるのかと考えてもらった。

 

この事例には、いくつもの注目すべき要素があるけれども、わたしたちが今回とくに注意を払わねばならないのは、この看護師は、眼の前に現象している老婦人の訴える症状と医師の診断のあいだの矛盾を手がかりに、当人の巡ってきた生活の過程をたぐることを通してこそ、その現象の本質を正しく理解することができた、ということである。

もしこの看護師が、担当医と同じ観点からでしかものごとを見れなかったり、前任の看護師と同じように現実よりも理屈を優先させてしまったのだとしたら、ものごとの本質へはとても行きつくことはできなかったのである。

ここには2つの問題がある。

ひとつは、眼の前の現実と、いかに向き合うか。
理屈からいえば問題ないと現実を例外と見做すか、それでも現実に起こっていることにはなんらかの理由があるはず、と向き合うか、ということである。

ふたつは、いかなる目的意識を持っているか。
看護師としての問題意識を、医師としての役割との区別においてどれほど明瞭に意識しているか、ということである。

◆◆◆

わたしたちがひとつめのような問題に迫られた時、あくまでも科学的な態度で臨むことを堅持するとしよう。

つまり、どれほどに理解し難いことであっても、眼の前にある現実は、なんらかの理由をもっているはずだ、と考えるということである。
今回の場合であれば、老婦人の表現をまずは肯定し認めたうえで、その原因はなんなのか、と本人の助けを借りながら探ってみた、ということである。

そもそもわたしたち人間が何らかのかたちで振る舞うとき、そこには必ず、そのもととなる認識が働いている。
実のところ、こここそが、動物と人間を大きく分ける分水嶺なのであって、たとえば人間は動物と違って、のどが渇いたら河に水を飲みにゆくのみならず、河のあり方そのものにすら手を入れ、河の流れを変え水を引き、自らの思った通りに環境を作り変えてゆくものである。

これがなぜこうなる必然性があるのかといえば、動物は、アタマのなかに、今眼の前にあるものしか像として描けないのに対して、人間というものは、アタマの中に、「こうなったらいいなあ」という理想の像を描くことができ、そしてまた、現実にはそれが達成されていないことを確認して、その像を現実のものとして実現するべく、対象に働きかけてそれを作り変えることができるからである。

「人間は認識的実在である」と言われたり、「目的意識こそが当人の在り方を規定する」と言われるのは、まさにこの、認識のはたらきを指してのことである。

◆◆◆

しかし、この当人がアタマの中に描いた認識のあり方というものは、当然にそのままのかたちで取り出すことはできない。
もし取り出せるのだとしたら、相手の頭上から幽霊のようなものが抜け出して、それが自分に語りかける、などといったかたちになるのだろうが、これは科学的な立場から言えばナンセンスそのものであるし、常識的にでもありえないことはわかってもらえると思う。

スポーツや組織的な活動において、目を合わせただけで相手の言いたいことがわかった、という以心伝心なるものが経験上存在する(ように思える)のは、人間の表現というものが、言語だけにとどまらず、ハンドサインやアイコンタクトなどをもふくんでいるからである。

この表現というものの中には、背中を曲げて歩く、口が半開きになっている、目つきが悪い、足を擦って歩く、などといった所作、立ち居振る舞いも含まれているし、もっと言えば、規範を共有する人間から見たときには、「いつも居る時間に居るはずのところに居ない」ということも、ひとつの表現になっている。
それらすべてを、わたしたちはそこに潜んでいる意味を汲みとるための手がかりにすることができるわけである。

ここでは学問のやり方に倣って、表現というものを、言語的な表現や創作した作品だけでなく、一人の人間が発する立ち居振る舞いなどといった、より広い意味を持った概念としてとらえよう。
そして以下では、学問的な意味でこのことばを使う時に、<表現>と書くことにしよう。

そうすると、わたしたち人間が、ひとつの<表現>をなしうるときには必ず、以下の図式が成り立つことがわかる。
対象 → 認識 → 表現
これは、ひとりの人間がその生活においてとらえてきた<対象>を元に、ある<認識>が行われた上で、最終的に<表現>として移し替えられる、ということである。

たとえば、作家が書いた文学作品や、画家が描いた油絵は、どれだけ抽象的なものであっても、作家がそれまでの生活経験で数限りなく出合ってきた対象をもとに認識を組み立て、それを自分の技術の許す範囲で表現したものである。
鑑賞者は、彼らの表現を鑑賞する時、その表現過程を作家とは逆向きに捉え返し、その認識を含めた作家の人格をつかんだときにはじめて、感銘を受ける。

また、足を放り投げるように猫背で歩いている人間というのも、当人が意識できているかどうかはさておくとして、その生活習慣が染み付いてしまったことからくるふるまい方であると言えよう。
わたしたちはこちらもまた、その立ち居振る舞いを手がかりにして、当人の認識の確からしさ、人格のあり方を掴みとるのである。
(この流れを大きく捉えて、物質的な対象が、認識という観念を媒介として再び物質的な表現に至る、という否定の否定を見出してもよい)

◆◆◆

しかし、ここで問題となってくるのは、ひとつの表現の受け取り手が直接に受け止めることができるのは、他でもない当人の<表現>のみである、という一事である。

美術の鑑賞にもそれなりの訓練が必要なように、人の気持ちを汲み取ろうとするときにも、それを読み取る側の認識そのものの実力と、そしてまた、相手のことを深く理解しようという目的意識が必要になってくる。

たとえば後輩に相応しい指導をしたい、相手のことを理解した看護をしたい、作品の本質をあまさず読み解きたい、といった目的意識を持ったうえで、とにもかくにもまずは、当人の<表現>をしっかりと見てゆかねばならないわけである。

そうした姿勢が整ってはじめて、しだいしだいに表現者の表現過程を逆向きにたどりなおすことができるようになり、その<認識>がどのようなものであったかを、自分のことのようにアタマの中に像として持つことができるようになってゆくのである。

上で挙げた看護師の知人の例であれば、患者の生命力の消耗を最小にするよう生活過程を整える、という看護師としての問題意識を強く自覚したうえで、主治医・前任の看護師の観察を手がかりとしながら、対象となる患者本人と正面から向き合い、彼女の人格と病を理解していったことになる。

ここでの看護師には当然ながら、物理的に何らの欠陥や外傷もないのならば、精神面になにか問題があるのではないか、そうすると、患者の生い立ちやこれまでの人生経験がどのようなものであったのかをおおまかにふまえたうえでなければ、疼痛を訴える、という表現の本当の意味するところを掴み切れない、という判断が働いていたわけである。

そのような問題の絞り込みがあってこそ、また看護師当人の老婦人にたいする働きかけがうまくいき、本人の協力を誰よりもうまく引き出せたことで、老婦人の持っている過去の特定ができたのである。
なにも老婦人についてのあらゆるデータをかき集めた、ということではないことはわかってもらえるであろう。

ここが、さきほど2つの問題として取り上げておいた後者、「どのような問題意識を持っていたか」ということの意味なのである。

◆◆◆

さて、以上のような展開を追ってみたとき、質問者であるあなたにもう一度問うてみたい。

相手のことを理解することは不可能だとする意見について、どう思いますか、と。

その問いかけに、いえ、なんとなくですがまるきり不可能でもないのだなとわかりました、という答えが返ってきたのであれば、ここまでともに考えてきたかいがあったというものである。

複雑であるがゆえに理解し難いものと映るあまりに、もはや知りえず、と短絡してしまう人間の認識というものを目の当たりにした時にも、それをなんとしても理解しようとすることが、まずは認識論の探求の入り口なのだから。

ここまでの展開をもういちど整理してみると、わたしたちを取り巻いている対象は、無限の広がりをもっていると言っておいたのと同じように、個人と向き合うときにも、わたしたちの認識のあり方は限定的であり、そうでなくとも眼の前の当人は今現在この瞬間も変わり続けているわけであるから、当人を理解「し尽くす」ことはできないないわけである。

しかし、だからといって当人の内面を汲み取ることはできないのかといえば、そうではない。
「あまさず汲み取ることはできないし、またその必要もないのであるが、その時必要とされている範囲内であれば、十分に可能である」、というのが正しいのである。

ここにおいて、前回述べておいた、「真理は一定の範囲内において成り立つ」という学問的な整理が、いかに実践を導く手引きになっているかがわかってきたであろうか。

◆◆◆

先に、わたしたちがある人の人格を読み取ろうとするときには、まずその表現のありかたに着目すると述べたね。

そしてその表現を、表現者本人が認識→表現という過程で実現してきたことを今度は逆向きにたどり直し、その認識をこそ捉え返そうとするわけである。

このことによって、自分のアタマの中に他人の認識のあり方を二重化して持つ、という認識のはたらきを、唯物論的弁証法では<観念的二重化>と呼ぶ。

この実践のためには、いかに目的的に他者の認識を読み取る努力をしてきたか、という経験は当然ながら大きくものをいうことになるが、それでもやはり、人間の認識についての基礎的な理解がないと、内面を読み取ったつもりが、結局のところ自分の身勝手な解釈を相手に押し付けて喜んだり悲しがったりしただけであったという逸脱が起きてしまうことになる。
(文学評論にたいするコメント記事で、常々論者が注意されているのはここの誤りがほとんどである)

だからこその弁証法と、弁証法によって正しく特定された問題について、認識論的に順を追って考えてゆく、という訓練が必要なのである。
(このことからわかるとおり、唯物論における認識論とは、物理学・経済学などとならぶひとつの個別科学であり、最終的には認識学として完成されねばならないものである。)

また実践的に言えば、対象となる人物の認識を読み取るときには、それを読み取るための原則、つまり自分自身の立ち位置がどういうものであるか、という自覚をよりいっそう明確にしておかねばならない、ということもわかる。

先ほど挙げた看護師の例で言うなら、彼女は、医師の役割と、看護師としての自分自身の役割を明瞭に区別し、その上で自身の役割をしっかりとわきまえておけたからこそ、患者の過去をともに振り返ってみようというところに焦点を絞って検討してみることができたわけである。

同じように考えてみると、「指導者としての役割」という原則から後輩を見たときと、「遊び相手としての役割」という原則から同じ後輩を見たときには、当然ながら当人にたいするふるまい方は異なっていなければならないことがわかる。

それでも、原則をきちんとふまえていても、後輩とどう接するのがよいかがはっきりと見えてこない、という場合には、自分が表現から読み取ったことを、本当にその当人が認識として持っていたか、ということを確認し続ければよい。
また逆に、自分の表現を、後輩がどのように認識したのかを、つぶさに確認し続ければよいのである。
また人と人との感情の揺れ動きを扱った文学作品を丁寧に読みながら、そのそれぞれの登場人物に二重化してみることもできるのだから、身の回りに学ぶための素材は無数にあるものと言ってよい。

しかしそうは言っても実際には、人の気持ちが手に取るようにわかると思っている人間が、客観的に見れば自分勝手な解釈を押し付けてひとり合点している場合もあり、それとは逆に感受性の高すぎる人が、あまりにも他者に二重化しすぎて悲しみを本人以上に引きずってしまったりもするのであるから、これは、言うは易し行うは難し、ということを自省し続けねばならない修練の過程であり、生涯を通しての修練であると言ってもよいほどである。

認識について考える端緒までどうにかたどり着いたところであるが、おおまかには了承してもらえたであろうか。

◆◆◆

私事で恐縮だけれども、先日友人と夕食に行ったところ、ともに自転車で旅行したときの話が出てきた折、「あなたの走り方は後ろから見ていて感心します。とても勉強になるのです。」と言われたことがある。

こう評価されてとても嬉しかったのは、評価されたことそのものもさることながら、それ以上にわたしがただ前を走る、という見過ごされがちな当たり前の現象を、問題意識を照らしながら見ることができ、またその表現を貫いている認識をこそ、読み取ろうという姿勢が本人にあり、そしてなおのこと、事実正しく読み取ってくれていたからである。

いくら口を酸っぱくして重要事を伝えても、他人ごとのように正面から受け止めない者と、何も言わずとも背中から学ぶという姿勢がある者とで、その成長は当然のことながら、その認識の力というものが、いかほどに大きな差となって顕れてくるかは、それなりの期間を生きてみれば自ずと知れることであるが、知れたときには時すでに遅し、という恐ろしさがあるものである。

ここからも、認識について学ぶ、ということの成否は、当人が持っている問題意識そのものにかかっているのであり、人の気持ちを理解する、という認識のあり方は、実に目的的に当人の努力によって作られていることがわかってもらえると思う。

わたしが常々、人とかかわるすべての仕事、営みについて、認識論が欠けているならばどうしても一流には成り得ない、と言っているのは、まさにここに理由があるわけである。


(了)

2012/06/28

記事への質問への答え (2):観念的二重化

前回のお手紙では、真理は一定の範囲内において成り立つ、ということを述べてきました。


逆から言えば、相対的であるところの真理が、どのような範囲でなら通用するのか、という視点を常に持っておかなければ、真理を主張しているつもりが知らず知らずのうちに誤謬に転化してしまう、ということでもあるのです。

世にある誤謬というものを調べてみると、それを主張する当人は、実に大真面目そのものであることがわかります。

前回のお返事の中でも考えてきたように、たとえば唯一絶対の真理なるものを永遠に固定された個物として探しまわる研究者というのは、実のところなぞなぞを楽しむ子供にだって馬鹿にされるほどの頭脳活動で研究に取り組んでしまっている、ということでもあったほどなのです。

しかしそのような場面に遭遇した時に、そのご当人のあり方を、ただ馬鹿だから無視せよとばかりに切り捨てるのではなくて、「なぜ高度な頭脳活動をしているはずの、しなければならないはずの研究者が、そのような単純な誤りに陥ってしまうのか?」という問題意識をもって、「真理はどのようなときに誤謬に転化するのか?」と理性的に考えてゆくことこそが、科学的な態度なのです。

自らは科学を堅持していると思い込んでいる研究者よりも、それを素朴な観点から誤りだと見なし、その誤り方をこそ客観的に見てみようとする人間にこそ、実のところほんとうの意味での科学という姿勢と認識が宿り始めているというのは、実に皮肉なことです。

このように落ち着いて見ることができれば、つまり、理性的に、論理という光を照らして見ることができさえすれば、わたしたちはそれを反面教師として捉え返し、自らの姿勢を点検しながら歩んでゆかねばならないことも、同時にわかってくるでしょう。

今回の記事では、前回質問をくれた学生さんの問いかけを書き換えるかたちで、
「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」
としておいた問題を考えてゆくことにしましょう。

ここからは手紙の本文になるので、常体表現に変わります。


◆わたしのお返事2◆

前回のお返事で、あなたの意図を汲むかたちで、問題の表現をこう書き換えておいたね。

「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」

ここで登場する<現象>と<本質>ということばは、対になる学問用語としてよく使われる概念なので、ぜひわかっておいてほしい。
簡単には、前者が、一見したところの、見たままの状態を指すのにたいし、後者は、表向きからは見えないが、その奥底にあるそのものをそのもの足らしめているところの部分、と言えばなんとなくの像を持ってもらえるだろうか。

たとえば、身体の仕組みはどうなっているかという問題意識に照らしたときには、目に見えるあなたという一人の人間が<現象>にあたり、それにたいしてあなたの体の内部の体幹・骨格などといった部分が<本質>に当たることになるだろう。

前回のお手紙の内容を受けるかたちでここでも注意してほしいのは、たとえば問題意識を、あなたの人柄はどうなっているかというものにしたときには、あなたの外面は<現象>であることに変わりはないものの、先ほどとは違って、<本質>はあなたの精神である、ということになるということである。

ここに概念というものの難しさがあるのだが、問題意識が変われば、その概念に対応する具体的な事物というものは変わるのだ、ということに注意しておいてほしい。
そういうわけなので、概念と個物を紋切り型に対応してまる覚えしてしまうというような受験勉強的な頭脳活動をしてしまうと、いくら考えたところでまともな結論にたどり着くはずもない、ということなのである。

◆◆◆

さて、ここから冒頭の問いの考え方を見てゆくことにするが、ここでは、イメージしやすいように(像を描きやすいように)、実例あげて考えてみることにしよう。

これは看護師の知人の実際の体験談であるので、あなたの問題意識とは具体のレベルでは接点はないけれども、他者の認識に働きかけるという問題を扱っているからには、論理的に見ることができるなら、指導にも、はたまた営業にも応用しうる実例である。

これは、わたしの知人からの伝聞である。

彼女が看護師として働き始めて、仕事に慣れ始めた頃、ひとりの患者さんのお世話を引き継ぐことになった。
その患者さんというのは、戦時中に幼少期を過ごした老婦人で、矍鑠(かくしゃく)としていながらも、時折疼痛(とうつう)を訴えることがあるので、通院が長引いているという人である。
担当医によれば、脇腹がずきずきと痛むとはいうが、あらゆる検査をしてもなんらの外傷も疾患も認められないことから、単なる気のせいだろう、ということであった。
また前任の看護師によれば、いつも訴えるのは、脇腹の同じ箇所が痛いということだが、医師からは問題ないとの診断が出ているし、きっと、寂しさのあまり誰かの気を引きたくて病院に通っているのであろう、という推測であった。

さて、あなたがもし、この患者さんを看る看護師になったとしたら、どのようなところに注意を払うだろうか?
わたしたちは看護の専門家ではないので、素人意見になることを承知の上での判断でかまわないので、考えてみてほしい。

まずはじめにわかるのは、ここには、ひとつの矛盾があるということである。
専門家である医師は、患者の身体に問題はないと言っている。
しかしそれに対して、当の本人は脇腹がずきずき痛む、と述べているということである。

前に担当していた看護師は、医師の判断を信用して、患者の気のせいである、とみなしていた。
結論から言えば、医師の判断はそれはそれで間違いではなかったのだが、あなたは、ひとりの人間を心身ともに理解しようとする立場から考えて、まだできることがあるのでは、と考えられはしないだろうか?

◆◆◆

ここでわたしの知人という人は、このように受け止めたのである。

医師の診断は確かのようだが、それでも当人がそこまで何度も何度も痛がるということを、まずはちゃんと受け止めよう、というのがその姿勢である。

知人は、数度の検査でもなにも別状がなく、問題がわからないところからかえって落胆する老婦人の横に座り、「おばあちゃん、またずきずきするんだね。こうしてるとちょっとは楽になるかな」と言いながら、脇腹をさすることにした。

看護師として、患者の生命力の消耗を少しでも抑えようとしたためであった。

看護師当人は、未熟な自分に手も足も出ないことがあるのが悲しい、それでもせめて、気持ちの上だけでも少しでも痛みを和らげられたら、という思いで、老婦人の語ることに耳を傾けたのである。

そしてそのことがきっかけで、老婦人はその看護師に、心を許すようになっていったのである。

このケースの転機というのは、老婦人が、「私があなたの歳だった頃にはねえ…」と昔話をしはじめた時に訪れた。
戦死した兄のことに話が及ぶと、老婦人はハッと、そうだったのか、という顔をして、泣き崩れたそうである。

本人が落ち着いた後に話を聞いてみると、老婦人の兄という人は、召集され戦地で命を落としたのだという。
彼女自身はそのことを直接見聞きしたわけではないが、帰らぬ兄を待っていた折、隣の寝室から母のすすり泣く声と、それをなだめる父の声がぼそぼそと聞こえたらしい。
わずかに聞こえるところの、「脇腹に弾を受けたのが致命傷になったそうな、可哀想に…」という母の声が、齢を重ねた今でも忘れられなかった、ということであった。

老年になり、病気になると、それまでは働き詰めだった自身の身を省みるようになり、また天寿を全うした時には兄と会えるはずだが、天国で兄はどのようにしているだろうか…との思いが重なったために、本人も意識しないままに疼痛の種となっていたことが、当人にも思いもかけずはじめてわかったのである。


わたしたちは、この事例から、どのような認識についての理解を引き出しうるであろうか。


(3につづく)

2012/06/27

記事への質問への答え (1):真理は一定の範囲内において成り立つ

やっとこちらにも顔を見せることができました。


書いた記事についての質問に答えまくっていたら、1週間も経ってしまいました。
Blogだけをお読みになっている読者のみなさんにはやきもきさせてしまってすみません。

やる気のある学生さんたちとの出会いは願ってもないことなのですが、勢い余ってありったけの質問をわたしにぶつける前に、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』は、必ず読んでから来るようにしましょう。
今回の質問については、読了前ですがその問いかけの意図を汲んで、みなさんにもお伝えしておこうと考えたものです。

あの本については、しっかり読んだつもりでも読み切れていない、ならまだしも、文中ですでに根本的な批判が与えられている話題を蒸し返すような質問がありますので…。
ちなみに念押ししておきますと、他の弁証法と名のつく本をいくら探してみても、弁証法についての理解をあれほどまとめて習得できる本はありません。

弁証法が身についたときには、こう断言する理由がよくわかりますが、それほどまでに他の書籍とは扱っている内実の深さが違います。
それでも他の本が良いのでは、と思われる方は、わたしのところに持ってきてください。
どこがどういけないのか、根本的に不足しているのかを納得させてあげますから。

まずは安心して、背筋をまっすぐに伸ばして真剣に学びましょう。

◆◆◆

話のついでに、ままよと苦言らしきものをおとな気なく述べてしまいますが、学生さんだけでなく、研究者にたいしても言えることに、堂々巡りになる問題を作った挙句、アポリアだのなんだのと名前をつけて弄ぶような向きがありますが、率直に言って、解けない問題があり得るのは、問題のなかに考えるべき原則の範囲を設定していない場合か、当人の論理力が問題に手も足も出ないレベルで不足している場合がほとんどです。(前者については今回の記事でも述べます)

ブレインストーミングの段階なら堂々巡りの問題について議論してみてもかまわないのですが、たとえば予算を決めないままどんな駐輪場を作るか?と議論したところで、答えなど出ないに決まっているではありませんか。

わたしは三浦つとむの仕事をダシにして、注釈や解説でご飯を食べてゆこうというような類の人間ではありませんし、みなさんにもそうなってほしくない、尊敬するなら当人よりも先を目指してほしいと思うので、ぜひとも、先人からしっかりと学ぶという姿勢だけは忘れないでいましょう。

何度も言いますが、ここの記事は、『弁証法はどういう科学か』を読み終えたことを前提として書かれていますからね。

弁証法を軽視しては、罰なくしてすまされぬ。(エンゲルス)

よろしく、ご了承のほど。

◆お手紙◆
昨日はありがとうございます 
今、ブログを読んで考えてみた事なのですが、「原則という土台の上に真理が成り立つ。したがって、土台となる原則が異なる為に真理は相対的である」と自分は解釈しました。 
そこで人が別の個人を理解するためには「人の表層化している人格(真理)のみならず、その下にある過去の人格、身体の形成の背景(原則)を認識する努力が必要となる。しかし、自分は自身の原則があり、それを他者のそれと完全に同一化することは出来ない。したがって,完全に他者の理解は不可能である。しかし自身の原則から他者の真理を通じ、相手の原則を視ようとする意識と能力を養ってやる」事が必要だと感じました。 
これをあなたはどう思われますか?
◆わたしのお返事◆

真理、原則といった概念の用法が混乱しているために整理は必要だけれども、問いたい事柄が本質的な問題意識から出ていることは受け止めた。

あなたの場合は、勉強は嫌いなわりにアタマの回転が早い(というかこれはある意味で必然なのであるが)ので、踏むべき階段を飛び越えてしまうことがこの先にも必ず出てくると思う。
それを避けるために、とにかく段階をひとつずつ踏みながら考えてゆくことを心がけよう。

あなたのいちばん優れた資質というのは、実際の問題をもっとも高いレベルで解決しよう、という意欲があるということだ。その意欲と姿勢を棄てなければ、必ず弁証法は身につくのでぜひとも正しく努力をしてほしい。

この問いかけが扱っている問題は、いろいろな事柄をいっしょくたに扱っているので、いくつかの回に分けて検討する必要があるけれども、こんなところでは基礎的な事柄に触れられないので、まずは『弁証法はどういう科学か』をひと通り読みこなしておいてほしい。

文面を敷衍すると、一番知りたいことは、「他者の内面をいかに知ればよいか?」という認識論の問題だと思う。
(弁証法的唯物論では<観念的二重化>と呼ぶので、Blogでそのことばが出てきたときには見ておいてほしい)
そしてこれはおそらく、自身の目指しているものと指導の実践から出てきた問題意識だね。

前回も言っておいたとおり、本質的な問いかけにはその基礎的な事柄から順を追って理解してゆかねばならないので、「急がば回れ」をすることにして、第一に、わたしたちが身の回りの対象をいかに認識しているのか、ということについて押さえておくことにしよう。

キーワード:
一定の範囲内での真理(=相対的真理)、現象と本質

◆◆◆

まず一般的に、世界は時間的にも空間的にも無限の広がりをもっているけれども、わたしたち人間は、それを有限にしか認識しえない、ということを押さえておいてほしい。

この矛盾があるからこそ、わたしたち人間のあいだで議論が成り立つのであり、またそのなかで認識が発展してゆくことになるのである。

たとえば身近な例を引いて、「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物ってなんだ?」というなぞなぞについて考えてみよう。

なんでそんな子供っぽいものを?と、馬鹿にする気持ちがあるとしたら、それは棚上げしておいてほしい。
ここで注意してほしいのは、このなぞなぞを知識的に解くということよりも、「「このなぞなぞを解く」ということそのものの中に、どのような構造が含まれているのか?」と考えることがよりいっそう大事なのだ、ということである。

対象がどのようなものであったとしても、それを好き嫌いで判断したり軽視せず真正面に据えて、あくまでも眼の前の事実から考え始める、というのが科学的な姿勢であった。まずは、ここでもその姿勢をしっかり持ってほしい。
というのも、まともに学ぶ姿勢さえあって、正面に据えて調べてみることができるのなら、単なるなぞなぞであっても、そこから弁証法の理解を深めてゆくことができるからである。
(※「眼の前の事実」などというものは人によって違うのでは、と哲学的に探求したい向きもあるであろうが、そのような存在論的な規定は、歴史的な観点、とくに歴史的な論理性を抜きにしては答えの出ない、というか堂々巡りになる必然性を持った性質のものであるので、後日の記事を待ってほしい。以下の展開は、そのような哲学的・禅的問答に深入りしない、ごく一般的なことばのレベルで考えてみるだけでも十分に考えてゆけるものである)
さて、このなぞなぞの問題を実際に考えてみて、「みなさんわかりましたか。このなぞなぞの答えは『人間』なのです。なぜなら…」という説明を聞いた時に、わたしたちがなるほど、と納得したとしよう。

わたしたちがここをどのように納得したのか、と考えてみると、「なるほど、問題にあった3つの事柄はそれぞれ、四つん這いでハイハイしている赤ん坊、成長して2本の足だけで歩くようになり、さらに成長を重ねて老いたときには杖を使って歩くようになるということか」というものであることがわかる。

この理解の流れというのは、表面的に(=現象の面から)言えば、「一見したときにはそれぞれのあり方は違っていても、そのあり方をその人の一生を通してみた時には、ひとつの存在のあり方として明確になってゆくのだな」というわかり方である。

◆◆◆

これは論理の面から言えば、さまざまな現象は、それぞれその時々で違った側面を見せてはいるけれども、より突っ込んで調べてみて、それらを貫く性質を探すことが出来たときには、ひとつの答えらしいものにたどり着くことができるのだ、ということである。

ここで、「より突っ込んで調べてみる」ための学問的な方法が、弁証法という技なのである。

「現実は、現象としては様々な面を持っている。」

この一事にどう向き合うかということが、学問の道を歩めるか否かの大きな分かれ道になっているのだが、自らが転がり落ちてしまったことにどうしても気付けない人間が多いことは悲しいことである。

子供が楽しむなぞなぞでさえ、その構造を手繰り寄せて理解するときには、現実の持っている立体的な構造が明らかになるのだから、対象を受け取る側の姿勢が、学問にとってまずは何よりも重視されることがわかってもらえると思う。
これは当然に学問の問題を解くというときのみならず、現実の複雑な問題を解くときにも、そもそもの大前提として、絶対的に要請される姿勢であることをぜひともわかってほしい。

弁証法を習得できずに使えない、と、自らの姿勢の不味さを棚上げして弁証法を切って捨てる人間が陥っているのは、残念ながらこの落とし穴なのだ。

現実の世界でなぞなぞを馬鹿にしながら、自分自身は研究の世界では「唯一普遍の絶対的な真理はどこにあるか」と探しまわっているのだとしたら、当人の頭脳のレベルが実のところ、なぞなぞで楽しむ子供より下、ということを露呈しているわけである。

一人の人間ですら、その生涯を眺めてみたときには様々な有り様として現象しているときに、「そのどれが真理なのか?」と、犯人探しをするように、つまり固定化された実体を探しまわるように探求してしまっては、解ける問題も絶対に解けなくなってしまうのだから。

なぞなぞからもわかるとおり、3つの現象は、そのどれもが正しいのである。
それと同時にこれには、「ある年齢の範囲内では」、つまり「一定の範囲内では」という但し書きをつけなければならないわけである。

Blogのなかで「原則」と表現したのは、ここの、真理が真理でありうる範囲、のことを指していたことがわかってもらえるだろうか。

◆◆◆

ともかく、上で挙げたスフィンクスの問題のようななぞなぞから深く学んで、それらのなぞなぞが持っている、その構造から学ぶことにして、「真理というものは一定の範囲内でのみ通用するものである」、ということをまずは押さえておくことにしよう。

これは同時に、その真理というものが、どのような範囲では成り立つのか、をしっかり踏まえておかねばならないことも要請する。

そしてまた、スフィンクスのなぞなぞでは3つの現象を総合してひとつの答えを導き出してきたように、一定の範囲内において浮かび上がってきた現象を総合すると、いかなる本質が浮かび上がってくるのか、という考え方も大切なのだ、と押さえておこう。

ここで押さえた事柄をふまえ、またあなた流の「他者理解」という問題意識に照らしながら、冒頭の問題を言い換えることにすると、それは「様々に現象している相手の言動やふるまいから、如何にして当人の本質を理解すればよいか?」との問いである、ということになるであろう。

あなたの問いと、先ほどのなぞなぞの持っている構造は、おおまかには一致しているけれども、決定的に違っていることがある。
それは、人間が何本の足で歩くか、という現象は目に見えるけれども、わたしたち人間の持っている「認識」のあり方は、手に取ることもできなければ目で見ることもできない、ということなのである。

相手の認識がそのままに掴めないのなら、当人を本質的に理解することは不可能なのか、と思われるだろうが、安心してほしい。
相手の認識はたしかに、そのままのかたちとしては掴みとってみることはできないが、相手の行動やふるまいを媒介として、その依って立つ認識を捉え返してみることはできるからである。

こう言うと、上で批判的に見てきたような、科学信仰の行き過ぎで「絶対的な真理を探しまわる」類の人間はこう言うかもしれない。
「相手の認識を捉え返すといったところで、相手の人格をまったくそのままのかたちで理解することはできるはずがない、自分のことさえわからないのに…」と。

このような相対主義的な発想で、珠の傷をひとつでも見つけたら珠として認めない、一羽でも白がおればカラスは黒とはいえない、人はすべて違っているので正常などというものはない、などという発想で問題そのものを不可知に追い込んで切り捨てようとする前に、自らの姿勢と論理能力を、まずは問うてみるべきなのである。

相手の人格は、たしかにそのままそっくり自分のアタマのなかに写し取ることはできないけれども、一定の範囲内においては十分に可能なのであり、それを読み取る側の目的が定まっている場合には、なおのこと正確に読み取ることが可能なのである。
たとえば、一目惚れした相手に自分の思いを伝えたいのであれば、その友人にでも当人の人物像について少しばかり話を聞いてみることで、当人の人格について、一定の理解をすることができる。

これは認識論で言えば、おぼろげながら、当人の「像」を自分のアタマの中に持つ、ということなのであり、その像の深さが、ラブレターを書くほどの深さに達していれば、十分に目的を叶えることができるわけである。
意中の相手の出生や出身校、それまでの交際相手などすべてを知るのでなければ恋文など物せるものではない、などという人間がいるであろうか。

他にも自身が取り組む実践的な問題に照らして、指導する相手についての像や、組織の成員として仕事を任せるための像などがあるように、相手を理解するというときには、全人格すべてを理解することが、必ずしも必要であるわけではないことがわかる。
職人を雇って会社を運営するからといって、職人と同じだけの専門知識が当人に必要であるはずがないように、自分が達成したい目的意識に従って、その範囲内での像を持てていればよいわけである。

◆◆◆

以上のことで、真理は一定の範囲内において成り立つ、ということを押さえてもらえただろうか。

そしてまた、目に見えている様々な現象と、その奥に潜む本質、という関係性がおぼろげながらでも受け止めてもらえたであろうか。

これらを踏まえて、次では、ご本人の問い、<観念的二重化>について、その構造面についてすこし見てゆくことにしよう。

前もって断っておくと、具体例を挙げての例示をする余裕までは無いので、形式面についての言及にとどまると思う。

独学をしたい場合は、人間心理の構造を扱った文学記事「文学考察: 風ばかー豊島与志雄」などや、三浦つとむの認識論を看護の世界で発展・継承した薄井坦子『科学的看護論』が図入りで看護師と患者の認識を扱っている箇所などに当たってほしい。

指導者の指導力が根本的に足りないのは、認識論を持たないから、という一点にほとんどの本質的な問題があるので、問題意識さえあれば十分に独学はしてもらえるはずである。


(2につづく)

2012/06/20

お詫び

このところ、記事の途中で更新が滞ってしまっていてすみません。


自身の研究が新しい学問分野についての歴史性の把握であることに加えて、3ヶ月区切りで取り組んでいる新しい表現についての探求のほか、普通は1年かけて取り組む新しい語学を複数並行して取り組むことになったので、空き時間を全部取られてしまっていました。

ある学生さんにこのように説明したら、歴史性の把握とはなんですか、と聞かれたので、こんなふうに答えました。

ひとつの学問分野に焦点を当てて、その歴史を通史的に振り返りながら、たとえば「生物とは何か?」「経済とは何か?」と、その学問が扱っている対象そのものについての像を、一般的なところにまで高めた上で、その一般論を持ちながら歴史を再び経巡り、一般から個別、個別から一般へを何度も何度ものぼりおりしながら、一般論のレベルを本質へ向かって高めてゆくこととともに、歴史の流れをその学問の特殊的な論理性として取り出す、という研究です。

といっても、これがこの文章のままで伝わるのなら、なにもここで文字を書き散らかす必要もないわけですから、そのことについてはさておく、ということにさせてください。

◆◆◆

その代わりといってはなんですが、ここでは、「なにごともはじめが肝心」だということをお伝えしておきましょう。

研究者を目指したり、将来的に、どんな仕事に就くにしても、しっかり頭を働かせながら、人間として恥ずかしくない仕事をしたい、と意欲に燃える学生さんが、いちばん踏み外しがちなのも、やはりここだと思います。

それは結論から言えば、自分の道の出立時に熱意に燃えて、とにかくたくさんの本を読んだり、たくさんの人の講演を聞きに行って見聞を広げたり、というのはとても大事なことなのですが、その前提として、これから目指すことについての大きな見通しがなければ、どうしても素人芸、喧嘩殺法になってしまうということなのです。

自分のものごとの考え方や見識が高まる前に、「これはすごい」と思った人や作品があり、それに心酔して学ぶ、ということにするとしたときに、では「その当の凄さ」や如何程に?、という観点が欠けていると、いつまでたってもはじめに設定した「自分のなかでの最高」を目指し続けてしまう、ということが起こりえます。

わたしたちが小学校のときに描いた自由帳には、「ワタシのかんがえたせかいでさいこうのぬいぐるみ」や、「ボクのかんがえたせかいでいちばんかっこいいヒーロー」が描かれているでしょう。
あなたはいまでも、それを、掛け値なしの最高、だと考えていますか?
そうではないでしょう。

子供の認識のあり方は、それはそれで尊いのだとしても、それは「子供らしさ」の観点に照らしての尊さであることを忘れてはいけません。
大人でも同じようなことをやっているというのは、なんらかの理由によって、認識の発育が妨げられているのです。

人間の認識は、その年齢なりの、質的な発展を遂げるものなのです。
その発展過程を、人類が人類として出立して、現代においてこのような繁栄を見せるに至った、ということをなぞらえながら想像してみてください。

◆◆◆

だからこそ、眼の前に飛び込んできたものにいきなり飛びつかず、ほんとうならば、その「凄さ」というものを、主観的な情熱だけでなく客観的な視座からも見つめなおす、という期間を設けねばならないわけです。

学生時代がモラトリアムだと言われるのはここを指しているのであって、そのときに、自分の依って立つ価値観や、これから進むべき道を、大きな視野から見定めることによって相対化してみて、他のよりよいかもしれない価値観と、しっかり比べてみなければならないのです。
もっと言えば、どの価値観を選ぶかということとともに、ここで、考え方の過程そのもの(!)を、しっかりと磨き上げておかねばならないのです。

たとえば、わたしたちは物心ついたころに自分の世界を見わたしてみたとき、自分の父や母のことを、なんてすごい人なんだ、この人の元に生まれてよかった、と思ったことがあったのではないでしょうか。
さてしかし、いまそのことを振り返ってみた時に、どのような感想になっていますか。当時のママでしょうか。
いまでも、あらゆる人間中の人間のなかでの最高が、自分の両親や肉親だと思え、客観的にそのように考えることができますか。

今でも掛け値なしに最高の人格は両親である、と思えるのならそれはそれでもう述べることはないのですが、わたしたちがもし、必ずしもそうではない、という率直な感想を持ったときには、やはりより大きな視点から見なおして、自分の目標とすべき生き方を、両親に謙虚に学んだからこそ、見定めてゆかねばならないのではないでしょうか。

そしてまた、なおのこと大事なことに、そのときの「感想の変遷」からも深く学び、そこから、「自分の認識が深まる前に、最高だの一流だの、神だのと心酔したものは、自分自身の認識の発展とともに、いつの日か他のものに取って代わるのだ」、という教訓をも、事実から引き出してこなければならないのではないでしょうか。

◆◆◆

学生さんは学生さんのうちに、ぜひともそこのところをやってみてほしいと思うのです。

たまたまゼミの先生として出会った人が、自分が生涯目指すべき目標となりえますか?
たまたま入学式のときに読まされた本が、生涯をかけて乗り越えるべき対象となりえますか?

これはなにも、初対面から相手のアラを探せ、などと言っているわけではないことは、ここの読者のみなさんならわかってもらえていると思います。事実ここで言いたいのは、それとはまったく逆です。

個人的なことを言えばわたしは学生時代に、あらゆる「〜主義」「〜思想」といったものに、知識的に触れてみることだけではなくて、一定の期間を決めて、「その考え方を自分の人生として採用しながら」、実際にそのとおりに生きてみました。

このときには、感情的には受け入れがたい主義や主張であっても、とにかくそれを修練・実験として頭から信じこんでみて、そのものごとの見方が、日常生活や研究の際の対象についての理解を、いかに鮮やかに解き明かせるのかを、まるで刀をとっかえひっかえしながら斬って試すように、自分の頭でたしかめてみました。
そうしてまた、ある考え方と別の考え方を、頭のなかでの真剣勝負として闘わせてみました。

このようにして過ごした毎日というのは、99%が失敗でした。
というのも、毎日自分で落とし穴に嵌ってみるようなものだから、当然といえば当然です。
自分が立てた一方の立場は、無下もなく切り倒されているのですから、これも当然です。

そのようにしてようやく決めることができたのが、弁証法的唯物論、という立場だったのであり、そこでの日々の、頭の中での実験の数々が、あらゆる落とし穴を避けながら、一本の筋を通した考え方ができるための訓練になったのであり、学生さんが道を違えた時に指摘できるための大きな経験になったのです。

◆◆◆

そもそもを言えば、わたしが大学に入った理由というのは、とんでもなく漠然としていたことなのですが、「とにかくちゃんとした大人になりたい」というものであったので、それまでの自分のあり方を棚上げして、自分がいちばんなにも知らない、どうしようもなくとんでもない馬鹿、というところから歩みなおしてみなければならなかったのです。

だからこそ、書籍や講演や授業で出会った、あらゆる人の意見を聞いて、実際にそのとおり生きて闘わせてみて、そしてまたその経験をもとの自分に戻って評価する中で、次第次第に「読むべき本はどういうものなのか」、「話を聞くべき人間とはどのような特徴を備えているのか」というものごとを見る目を、なにもないところから編みあげていったのです。

しかしいま、そこから自分の道を探し求めて、それを見定めて過ごしてきたという立場から言わせてもらうと、よくある後進たちというのは、とても危なっかしいな、と思わせられるのです。

そのときの自分の好き嫌いでとりあえず飛びついてみたものを、人との議論のなかで、内心では使い物にならないものと気づいても、むしろその気づきゆえに、意地になって手放さず、自分のその凝り固まった姿勢が、なにか尊いもののように言い繕うことに躍起になっているようなところがあるからです。

そんな人に、もう一度考えてみてほしいのです。
たまたまゼミの先生として出会った人が、自分が生涯目指すべき目標となりえますか?たまたま入学式のときに読まされた本が、生涯をかけて乗り越えるべき対象となりえますか?、と。

ゼミの先生が立っていた立場を無批判に飲み込んでしまった挙句、年齢の数倍違うような若輩に根本的な欠陥を指摘された上に、学問的には敵わぬがなにくそとばかりに、その後進に感情的・政治的な圧力をかけるような人間になりたくはないでしょう。

ですから、これぞ自分の道だと踏み出す前に、しっかりとその道が確かなものであるかどうかを、−−ここがいちばん大事なところなのですが−−謙虚な姿勢でもって、確かめてみてほしいのです。

もしわたしが定めたやり方、つまり弁証法的唯物論での立場で生涯を貫きたいと考えるのなら、その考え方でまずはしっかりと一定期間生きてみて、その有用性を確かめてほしいのです。
これはわたしのところに通っている学生たちにも、一定の期間後やってもらうことですが、自分がたまたま出会った弁証法的唯物論に学ぶことになったのはいいが、それはさておき、「それがなければどういう誤りに陥るのか?」ということを、自分の頭で考えた上で、ちゃんと説明できねばならないというわけです。(相互浸透)
それができないのなら、いちばん正しい道だったとは言えませんからね。

というのも、正しい道にたまたま出合ったり、たまたま与えられたりしたときにも、やはりそれが、自分の力で次第次第に技にしてきたものであるかどうかによって、さいごまで道を歩み通せるかどうかが決まってくるからです。

学生のみなさんが、大学や研究会、学会で、どこぞのセンセイの意見を鵜呑みにした友人に、こっぴどくやっつけられた、やり込められたという場合に、自分にもなにかないかと、そこらへんに転がっていた棒きれにすがりつきたくてたまらなくなる、という気持ちもわからなくはありませんが、学生のときこそ、たくさんの恥をかいてみればよいのですし、それが大目に見て許されるのが、学生という身分ではありませんか。

素性の悪いナマクラは、いくら磨いても切れませんよ。
学生のあいだに隠忍自重して、自分の目指すべき道と、その道を歩むための歩み方を、しっかりと見定めることです。

なにごとも、はじめが肝心です。
それも、出発する前の準備こそ、いちばん肝心なのです。

◆◆◆

さて、余談が過ぎたようです。

わたしがいま取り組んでいる語学というのにも、いくつか初めての言語があり、この習得過程というのもやはり、歩み始める前の準備、というのがいちばん大変なのです。

すでにあるていど習得済みの語学の中から、関連付けて使えないものはないかと探しまわり、いちばんいい辞書はどれかと探しまわり、使い勝手の悪い資料を複写して切って貼って…という下準備に、先週の1週間はまるきりつぎ込みました。

今回は時間がないので、初日に規則的な語形変化を学んだ後、次の日にはいきなり日本語からの訳、日本語への訳、と進んでいるのですが、率直に言って、なんとも砂を噛むような味気なさばかりが残り、辞書の文字が泳ぎ始め、椅子から離れることの誘惑を抑えこむのに必死、というあたりです。
語学が面白くなってくるのは、経験上、だいたい1ヶ月すぎたころでしょうか。今回は、それが1週間後くらいには来てもらわないといけないのですが…。

しかしともかく、言語学の先生たちのなかには、「外国語なんて、3つ習得するのも30個やるのもあまり変わりないよ」という人もいるので、その実例と、その認識のあり方そのものに学ぶべく歩みを進めているところです。


じゃあ更新はいつかと言えば、実は前回までの記事の続きについては、前にもう書けているので、あとは反応を見ながら内容に手を加えるのみなのです。
とは言いながら、それがいちばん配慮のしどころなので、明日くらいにすこし簡単な記事を挟むことになるかもしれません。

というのも、学生さんからもらっている質問についてご本人へはいちおうのかたちでお返事しておいたのですが、考え方の過程についての説明はとてもできなかったこともあり、それについて言及しておくのも、他の読者のみなさんの理解を助けることになると思うからです。

2012/06/10

技としての弁証法は何を導くか (2)

(1のつづき)


前回の記事では、「亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。」という質問を出しておき、論理性を異にする答えを4つ挙げておきました。

前回までに触れた2つの答えのうち、ひとつめは姿勢の時点で躓いており、ふたつめの答えは古代ギリシャの哲学者が各々の議論の形式を高めよう、論証の確からしさを高めよう、ともがいていたころの論理性を使ってのものでしかないのでした。

歴史を知識的にでなく、その流れを追ってみたことのある人には自明の理なのですが、論理性というものも、長い目で見れば明確に歴史的な発展を遂げているのです。

「いつの時代も人は変わらない」などという言葉を「まるっきりそのまま」真に受けてしまう、つまりその言葉がどのような論理のレベルの意味内容であるかがわからない場合には、古代ギリシャも中世もドイツ哲学の完成期にも、人類はまったくおなじ物事の考え方をしていたのだ、という短絡をしてしまいがちです。

しかしこの考え方というのは、生き物の進化というものを、サルからいきなりヒトが出現し、そこからいきなり人類がポンと出てきた、と説明するのと論理的には同一の誤りに陥っているのです。

もしあなたが人類の出現について、「地球の歴史上のある一時点において、妊娠したサルのメスから、いきなりおぎゃあと人間の赤ん坊が生まれたのだ」、という説明はいくらなんでもおかしい、と考えられるのならば、サルは永遠の過去からサルのままであり、ヒトは永遠の過去からヒトであったのだ、とも思わないはずですね。

であれば、わたしたち人間の持っている論理性というものも、永遠の過去から同じものであったなどという考え方も、おかしいのだ、と自得することができねばならないのです。

◆◆◆

宗教的な強制があって進化論を認められない場合はさておき、現代における生きるわたしたちは、どうしてもそんなところに留まっているわけにはゆかないことから、学問的にものごとを考えてみるときには、「過程における構造」が何よりも大事なのだ、という姿勢が必要不可欠になってくるわけです。
(余談ですが、わたしは日本のカトリック系の教会で宗教史の講義をさせてもらったことがありますが、現在ではどの教会もよっぽどに原理主義的なところでないかぎり進化論を認める方向ですので、進化という概念は問題にはなりませんでした。キリスト教では世界の創造が数日にして成ったと教えるために、つまりサルも人間もはじめからそのものとしてポンと出来上がったのだと教えるために、進化という考え方と矛盾が起きてしまうのです。アメリカでは、まだ根強い反対論があります)

過程における構造に着目してものごとをみるときには、眼の前にある対象がいかなるものであっても、それがどのような環境との相互浸透的な量質転化、量質転化的な相互浸透のなかで生成されてきたのか、そしてまたそれがどのように発展して現時点までの段階にまで完成されてきたのか、と追ってみなければならないのです。

そうであればこそ、人間の精神の生成を知るには人間の社会を知らねばならないのであり、社会の生成を知るには自然を知らねばならないのであり、自然のうちサルの生成を知るには哺乳類を、それを知るには両生類、魚類、クラゲ…というふうに、最終的には地球の自然を知るために、宇宙のことを知らねばならないのだ、というわけです。

ここもまたまた、知識的なお勉強に染まりきっている人は、「そんなものをすべて知り尽くせるはずがなかろう、バカを言うのもほどほどにしろ」と言ってしまうのですが、だからこそ、論理というものがあるのですよ。

◆◆◆

さていちいち長くなってしまいますが、ここでの記事は、読者のみなさんの要望に後押しされて、どうやら世間の常識とはずいぶんかけ離れたところまで来てしまっているようですから、前からの読者のみなさんも呆れずにもうちょっとお付き合いください。

***

では3つめの答え、「亀の甲羅の強度は計測可能であるから問題にすらならない」はどうなのか、と言えば、これは問題をもう一度よく読んでください、というのが答えになってしまいます。
しかし答えた人の気持ちだけは汲むことにして、それと関わりのある考え方についても少しお話しておきましょう。

実験器具や数式を使って数値化すれば真理がわかる、という姿勢は、真理というものを、永遠普遍に揺るがしがたいなにか固定化された実体である、と思い込んでいる人のものでしょう。

しかしいつも述べているように、ひとつの真理を導き出すときには必ず、それを照らしだすための原理や原則、というものがあるのです。
たとえば一人の女性は、その母から見れば一人の子であり、彼女の子から見れば一人の母であり、夫から見れば一人の妻なのであり、さらには人類総体から見ればひとつの個体なのであって、そのどれかでなければいけない、というものではないのです。

「扱う対象が社会性を含んだものだから複雑になっているのでは…」とまだ言いたい人は、その対象を実験で扱う対象に入れ替えて考えて見れば、その指摘が誤りであることに気づけるはずです。

***

同じような考え方で、科学というのを絶対不変の一般法則、一般概念を導き出す考え方であると信じきっている場合には、その考え方を突き詰めてみれば、自分自身で自分自身の考え方と敵対的な矛盾(背理)が導けることが明らかになります。

たとえば、「実験室で肉眼で観察できる対象だけからしか科学が生まれないのだ」という考え方を単純に延長させると、「論理的な推論で導かれた結論など、追試も反証もしようがないから科学でない」、「実験器具を通して見た対象には観察者を騙す悪魔が含まれているからそれを徹底的に排除せねばならない」だとか(デカルト的ですね)、「そもそも社会科学などはもっての外である」という考え方が論理的な強制として導かれます。

しかし、この誤りどころか、誤る可能性でさえも徹底的に排除する、つまりまったくの無前提からの知見でなければ科学とは認めない、という考え方をなおのこと延長させると、「実験で扱っている当の実体も、地球上の緯度や経度を変えて実験すれば違ったものであるかもしれない。そうでなくても、この一瞬はこの時この場のこの一瞬でしかありえないのだ!そうすると、追試を取った時に確かめられる確からしさとは一体何なのかもわからなくなってきた…」などと、科学を通り越して思想らしき終着点にまでも突っ走ってゆきかねません。

***

ここで、「おいおいちょっと待て、そんなところまで延長させてよいと誰が言ったのか?私はそんなことは言っていない!」という反論が返ってくるでしょうか。

そうすると、わたしはこう確認します。
「ではあなたは、「私はこれこれこういった立場に立っているのだ」」ということを主張されるわけですね?」。

そうだ、となると、わたしはこう答えることになるでしょう。
「なるほどその立場というものが、すなわちあなたの前提、「原則」というものではないでしょうか。」と。

***

意味がわかるでしょうか。
ある地点で延長を留めるという判断をするのなら、それは原則に照らしてのものであるはずなのです。
『弁証法はどういう科学か』にも同じことを指摘した箇所がありましたね。

対象やその構造を、どこまでも突き詰めて探求せねばやまないその気持ちというのは、痛いほどわかるのです。
研究者も学者も、「いちばん高い山に登りたい!そこから、下の風景がどんなふうなのかを見渡したい!誰が見たこともない景色を見てみたい!」という強い思いに駆られての出立であったはずですから。(ちなみに言えば、その景色を独り占めにしたくないと思える人間だけが、学者の道を歩むことを許されます)

その思いが強すぎるあまりに、人生を諦めた大人からの不理解や罵詈雑言、政治的な圧力や誹謗中傷など、ありったけの抵抗を受けるということもよくわかります。
それゆえ、この身だけは一流の道へと、強く強く祈念し、日々の一歩一歩の歩みを強い意志を込めて踏みしめ、弱い我が身を鼓舞して覚悟を固めてゆくということもよくわかるのです。

しかし、いいですか、その思いに突き動かされて、究極絶対普遍の真理なるものを探求したとしても、間違いなく失敗するのです!そもそものやり方が間違っている、登り方が間違っているときには、頂上まで登りつめられるはずがないのです。
今回の場合であれば、科学のつもりで疑似科学、宗教を生み出してしまうのです。

だからこそわたしたちは、最高の登り方、つまり論理というものを持たねばならないのだ、と何度も何度も、わかってもらえるまでわたしは言うのです。

***

これが単なる思考実験ではないことは、過去の科学哲学の失敗を見れば一目瞭然なのですが、ここではその失敗から知識的に学ぶことよりも、それがなぜ間違ったのか?という問題意識を持って、あくまでも「論理の光を照らしながら」過去の科学者(彼らとて馬鹿ではありません!少なくとも、彼らが出した思想的な結論から推し量るよりもずっと)の失敗を調べることがなによりも大事です。

その失敗の原因を結論から言えば、先ほども述べたとおり、ものごとの真理を導き出すときには、必ずそれを照らしだすための原理や原則、というものがあるのだ、という一事を踏み外しているからなのです。

(ちなみに言えば、「科学哲学」というのは、ヘーゲルが集結させたと言われるドイツ哲学の完成前後から大きく広がった近代科学の流れを受けて現在に至るまでの「狭義の」自然科学だけから、その思想性を引き出して議論の俎上に挙げているに過ぎませんから、間違ってもあれを本当の意味での唯物論の<哲学>だなどとはゆめゆめ思われないことです。ほんとうの意味での<哲学>は、世界全体をその掌(たなごころ)に載せて、その現象的な一般性、その構造、その本質をすべて体系立てて解き明かす、ということなのですから)

***

ちなみに統計云々のお話は、実態調査の考え方を学問的な真理の問題へと延長させてしまったという誤りです。大衆の支持を得たものが直接的に学問的な真理であった試しはありません。そうではなく学問的な真理として認められたものが時代の流れとともに大衆に膾炙する、ということならばあり得ますが、どちらかといえば学問的な真理は当時的には、その時代的精神の最高峰にいる、ごくわずかの、ほんのひとにぎりの人間の手に委ねられているのです。

もっともだからといって統計そのものを否定するわけではなく、問題のたて方が正しければ、世界が帯びている弁証法のあり方に導かれて、信じられないほどに少ないサンプル数でありながら統計学的に(推計学的に)おおよその答えを導くこともできるのです。

◆◆◆

あれやこれやとまとめて論じてしまいましたが、ここまでは、学生さんが踏み外してしまいがちな落とし穴に蓋をするという意味合いのものでした。

わたしの最も扱いたかったのは、4つめの考え方ですので、やっと本題に入る段になったということになります。


(3につづく)

2012/06/09

技としての弁証法は何を導くか (1)

突然ですが、


読者のみなさんに質問です。
亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。
***

これだけ言っても、わけがわからない、さては気でも触れたか、と正気を疑われてしまうかもしれませんね。

では少し言い添えることにして、もう一度聞いてみましょう。
わたしたちが、亀の硬い甲羅を見た時に、「ああこの生物は、身を守るための仕組みを持っているのだな」というふうに理解するのはなぜでしょうか。
***

この問いはもっと言えば、こういう質問なのです。
わたしたちは亀の硬い甲羅を見て、「あんなヤワなもので大丈夫だろうか」と考えるのではなくして、「頑丈そうだな、さぞかし身体をよく守ることだろう」と考えることになっているのは、いったいどういった根拠に拠っているのでしょうか?
◆◆◆

いろいろな答えが出てくるはずです。

この問題にたいしてある人は、「そんなものは単なる誘導尋問だ、お前が「硬い甲羅」だとしているから、論理的に言って「頑丈に見える」という答えになるのだ。」と言うかもしれません。

次の人は、「我々は何を硬いと言うか?柔らかくないものである。では柔らかいとは何だと問い返されれば私は答える。硬くないものであると。」と言うかもしれません。

またある人は、「亀の甲羅の強度は、上から圧力をかけてみれば測れるではないか。個体で不足ならばサンプル数を増やして統計を取ればよい。」と言うかもしれません。

他の人は、「なるほど存在そのものには我々は触れることができないから、その根拠となっているのは私たち人間の主観によるのである。」と答えるかもしれません。

◆◆◆

しかし残念ながらそのどれもが、現代という学問に照らせば間違いです。

このどの答え方をするかによって、当人の論理のレベルがわかるのです。
ということは、それぞれの答え方は、論理のレベルがそれぞれ違っている、ということです。

なぜいきなりこんなことを言い出したかというと、ひとえに最近、身の回りで、「うまくことばにはできないけれど、あなたが使っているそれ、その考え方ってどうすれば身につきますか?」という学生さんが多いので、どこかで弁証法についての大まかな「像」(とりあえずイメージ、と考えてください)を伝えておいたほうがよさそうだ、と思われたからです。

しかしこういう質問をする時点で、すでに素晴らしく本質を突いている感受性をお持ちなのです。考える力を与えてくれたご両親とご友人に感謝するとよいのではないかと思います。
(ただこの感性的な鋭さには、良い面とともに悪い面もあることは頭の片隅に留めておいてください。)

ともあれわたしの論文の目次を一読して、「弁証法〜?ワシもわからんのにお前なんぞにわかってたまるか!」(原文ママ)と叫んだ先生たちに爪の垢でも煎じて飲んでほしいところです。

さて、では上の4つの質問を順に見てゆきましょうか。今回の記事では上の2つです。

◆◆◆

まず一つ目の答え、「お前が「硬い」甲羅だと言うから「丈夫」だということにならざるをえないのだ」、というものですが、これは論理の問題ではなくて、姿勢の方にまずもっての問題がありますから、煮ても焼いても食えません。

しかし就職活動の際のディベートなるものを根を詰めてやってしまうと、そもそもの立つべき立場が厳格に固定されていることと、多人数の最大公約数的な論理性で、つまりもっとも低い論理性に合わせて議論してゆかねばならないところから、単なる水掛け論になってしまうこともありますので、学生さんも大変です。

さて個人として真顔でこういう主張を繰り広げるような、アタマがガチガチならまだしもココロのほうもガチガチの人は、人から学ぶということを知りませんから、10代後半になるとある固定した変化しない考え方を身につけて以来、持論を譲ることを何よりの恥としそこから一歩たりとも動きたがりません。
ですから、何時まで経っても同じレベルにおり、そこから世の中にある問題を自分のレベルに引きずり下ろして一刀両断したつもりでいます。(ちなみに、「天才だったら初めから高いレベルにいるからそれでいいのでは?」という声があるかもしれませんが、そんなことはありえませんので大丈夫です。声の大きさと頑固さならそのとおりですが)

そもそも運動形態としてあることが森羅万象の常体なのに、自分のほうで凝り固まって「意地でも動こうとしない」という運動を必死にするのですから、本人もとても疲れますが、その悪い努力の姿勢が転化すると、ついには誰の意見も耳に入らなくなり、当然ながらその考え方そのものから学ぼうという姿勢すらまったく失われます。

もっとも、このレベルの人はこんな文字ばっかりの記事は「意地でも」読まないでしょうが、読者のみなさんの身近に実際におられる場合にはあなたもさぞかし…といったところで、大変ですね、つきあう人は選びましょう、とお伝えしておきます。

***

2つめは、ココロは硬くないのですがアタマがガチガチになっている人の考え方です。世に言う「ロジカルシンキング」あたりの啓蒙(?)書や、書店で平積みになっているようなビジネス書に謙虚に学んでしまった人は、こういう考え方になります。

他にも、意気揚々と大学に入学した初めての授業で「形式論理学」に感化されたり、工学部で「論理回路」、「人工機械言語」をいきなり学ばされてこれが論理か!と合点してしまったり、自分が理系的な考え方ができることに度外れな優位性を見出していたりすると、こういう考え方に染まりがちです。

このうち、形式論理だけは反面教師としては使えますが、他のものは僅かばかりも影響されてはいけません。
なぜ断言できるのかと反論したい方は、形式論理でもかまいませんから、それを使ってラブレターなりを書いてみて、うまくいくかどうかを確かめてみれば事実が証明してくれます。

当人は、「あなたは女性である。私は女性を愛する。ゆえに私はあなたを愛する。」のような論理展開でも相手をなびかせられると思っているかもしれませんが、「相手がそれをどう感じるか?」ということについては想像すらできないはずです。(論理のレベルのお話をしているのですよ、念のため。)

これをそれなりにまともに受け止めたとしても、「何を馬鹿な、論理で人の気持ちを云々するとは!?」と反論され直すでしょうが、そのことがそもそも論理のレベルを示しているのです。
もし弁証法的な論理を技として習得しているなら、その弁証法段階の(個別科学に達しておらずとも、という意味です)認識論を使って、実に見事なラブレターを書くことができます。
それだけでなく、恋愛というものが持っている一般的な構造も読み解くことすらできはじめているでしょう。

しかし、人類総体として過去を振り返れば、このような段階の論理性を散々に議論していた時代が確かにありました。


(2につづく)

2012/06/07

文学考察: 普請中ー森鴎外

論者はこのところ、


なかなかに苦労しているようです。

わたしもここ数日、論者のレポートのあまりの不出来にたいして、どう指導したらよいものか(叩きのめすのではなくどう導くのか)と思案しながら、コメントを毎日書きなおす日々であったので、そういう意味では同じく困難な時期だった、と言えないこともありません。
言えないこともない、という言い方をしたのは、単に指導というものがそもそもそういう困難を必然的に伴うものでしかないから、ということです。

わからなければわからないで構わないのですが、わからないなりに「どこがわからないのか、どうわからないのか?」と問い続けて、自分のわからなさを明らかにする努力をしなければなりません。

では「自分のわからなさを明らかにする」ためにはどうすればよいか?

これは姿勢としては簡単です
−−何回も何回も対象に向い合ってその構造を手繰り寄せ、自分のわかるところまでをできうる限りの力で持って表現すればよいのですから−−
実際にやるのは、非常な努力が必要なのですが。

ともかくこのようにして作られた表現というものは、指導する側から見れば、「ここは言葉足らずだが、きっとこういうことを言いたいのだろう」とか、「ここは対象の構造を平面的に捕まえてしまっているのだろうな」などと予測ができるために、もし点数としては0点をつけざるを得ない場合でも、その過程をしっかりと読み取って評価し、真っ当な指導ができるのです。

これは表面上にはひとつの失敗に見えますが、その失敗の過程が必然的なものであることによって、将来的には大きく花開くための可能性を内包しているので、わたしはこれを「正しく失敗する」などと言って、とても評価します。

しかもより重要なことには、この正しい失敗の繰り返しには、立ちはだかる壁に向かって、砂を噛むような味気なさ、前進するかのように自分は思っているが実際には足踏みしているだけなのではないかという恐ろしさ、を押しての努力を続けるという姿勢そのものが、なんどもなんどもの繰り返しによって次第次第に質的に転化して、当人の認識のあり方そのものを鍛えてゆくという大きな効果があるからです。

しかしこれとは逆に、見た目の上ではひとつの成功を示していても、そもそもの問題のたて方が自分の実力よりも低かったり、もっと悪いことには問題を甘く見て手を抜いたりするときには、その姿勢が「質から量」への転化を遂げるために、これでもかというほど厳しく指導することになります。

◆◆◆

さてそういう観点から言って、今回の評論は正しく失敗できているのか?と言えば、残念ながら今回のものは、まぎれもなく「悪い失敗」である、ということになります。

点数も0点ですが、そこで働いている認識も0点であり、さらに悪いことには作品に向きあうという姿勢そのものも0点です。

そもそも学問という観点に立てば、どのような分野のレポートであったとしても、もし弁証法という論理学を知らなかったとしても、つまり経験的に獲得した自然成長的なものであったとしても、対象から手繰り寄せたそれなりの論理性が含まれていないものに点数をつけるわけにはゆかないのですから、当人に伝えるかどうかはさておき、だいたいのレポートは0点からのスタートになりますし、それでよいのです。
そして、わたしたちの立場といえば、それぞれの専門分野は違っていても、学問という立場を絶対に手放さない、ということでは一致しているし、そうであらねばならないのです。

ですから認識を評価するにあたっても、もし弁証法を技ではなく、受験勉強的に単なる知識的に習得しようとする認識の場合にはさらに悪く、0点どころかマイナス点からはじまるのであり、まずはその自然成長的な個性を感性と理性(論理性)とに切り分けさせる努力をしてもらったあと、使えない論理性面をまずは棄て去り、弁証法的に根本的に新しく作り変える、という努力をさらに最低1年はしてもらいます。

しかしここまる2年は、弁証法の修練とともに弁証法の範囲ではあっても認識論を「習」得し、また「修」得せんとしてきたはずの論者にあっては、このレポートについては大きな問題として捉えてもらわねばなりません。

作品の理解を違えてしまう、という面に関しては、論者の能力がまだ不足しているということでしかないのですから、そんなことを詰っても仕方がありません。
それゆえ点数が取れないことはさておいても、ではどうすれば、姿勢くらいには点数をもらえたのか?と考えてゆかねばなりません。

そうすることでなければ、「悪い失敗」は「悪い失敗」のままなのであり、そのままでは必ず、質から量への転化へと繋がってゆきます。これを軽視してはいけません。

論者自身に対しての厳しい表現はあえて使いませんから、論者自身の力でしっかりと今回の教訓を捉え返すようにしてください。


◆文学作品◆
森鴎外 普請中

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 普請中ー森鴎外
文明開化の時代、ある時渡辺は、普請最中のホテルにてドイツ人らしき女性と再会を果たした様子。その中で、女性は渡辺に対して気のある素振りを見せていますが、渡辺の方はそれに一切応じません。そんな渡辺の様を見て女性もやがては諦め、新たな関係を築いていくのです。 
 この作品では、〈一度別れた男女が、新たな関係を当時の時代と共に築いていく様〉が描かれています。 
 この作品はタイトルの通り、日本が鎖国をやめて外国の文化を取り入れて立てなおしている頃に描かれています。そしてそれに合わせるかのように、この作品に登場する渡辺と女性の関係もまた、一度は壊れたものの、新たな関係を築いて行っている様子が描かれています。この2人の関係というものはまさに、当時の時代を象徴したものと言っても過言ではないでしょう。

◆わたしのコメント◆
わたしは論者の評論を評価するときに、まずは作品を読む前に評論を一読します。

その表現から論者の認識をアタマの中に手繰り寄せるかたちで、論者がどれだけ作品を大きな視点で把握できているか、そして深く読めているか、という論者の認識を読み取るわけです。

しかしわたしはエスパーではありませんから、やはり表現そのものがある程度豊かでなければ、その書き手がどこで踏み外しをしているのか、どこを読めていないのか、どこを自分のレベルに押し下げて読んでしまっているのか、ということを判断する手がかりが得られない、ということになってしまいます。

残念ながら、今回の場合はまさにそのことが大きな欠陥となっています。

大掴みに言えば、文章の内容が豊かでない(文量が少なすぎる、ことも問題ですがここでは本質的な原因ではありません)ことに加えて、それを身勝手な解釈で埋めてしまおうという姿勢がそれにあたります。

◆◆◆

論者は、二人の男女が一度壊れた関係を新たなものへとしつつある、その二人の関係が、文明開化という時代の象徴ともなっており、この作品のタイトルともなっているのである、ということを言いたいようです。

しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
もしあなたが評論を読む側の立場、つまり読者であったなら、論者が一般性として挙げている次の文言から、作品そのものの特殊性(この作品をこの作品足らしめている本質)を取り出すことができるでしょうか。

二人の男女は「壊れた関係を捨てて新しい関係を築きつつある」。

どうですか、なにか明確な像を描けましたか。

ここで問題なのは、あなたはすでに作品を読んでいますから、その記憶をたどることをとおして、この文言の像を豊かにしながら読むことができるということです。
しかし、一般の読者は当然ながらそうではないでしょう。

ですから本来ならば、一旦自らが表現したものを、「まったくの白紙の段階から」、「作品にも筆者にもまるで馴染みのない人の立場に立って」、捉え返してみなければならないはずなのです。

そのことをしっかり踏まえて、上記の表現をもう一度読んでみてください。

◆◆◆

さて、脳裏になんらかの像が浮かんできたでしょうか。

ほとんどなにもない!

というのが素直な実感というものではありませんでしたか。

それもそのはずで、
壊れた関係を棄てる、というからには当然ながら、その後に新しい関係がはじまるのであって、
また新しい関係がはじまる、というからには当然ながら、前提として古い関係があったに決まっているのです。

そもそも文学として表現されているからには、何らかの変化を扱っているのが当然というものではないでしょうか。

このたとえでは皮肉っぽく聞こえてしまうでしょうが、この表現というのは、「3時間目が終わりを告げると次には4時間目が始まった」と言っているのと大差ないのです。

もし身銭を切って買った小説の中に、こんな表現がいくつも出てきたら、怒りを通り越して「この作家は自らの職業にかける誇りというものがないのか…」と呆れてしまうとは思いませんか。表現を通して当人の認識や姿勢が見える、ということのあり方が少しはわかるでしょう。

さらにここで感じる違和感は、「新しい関係」という表現が漠然としすぎていることがさらに火に油を注ぐかたちになっており、読者からすれば、「それはそうだろうが、この書き手は何を言いたいのだろう?ひょっとすると、文字数を稼ぎたいから意味のない言葉を並べているのではないだろうか?それとも最悪、作品を読んでいないのではないだろうか?」などと邪推されても弁護しようがない、というたぐいの、内容を読み取りたくてもできない、という表現なのです。

◆◆◆

評論だけではなんとも要領を得ない、ということで仕方なく、何の手がかりも無しに作品に向き合うことにすると、以上のことに輪をかけて残念なことに、論者が作品そのものを読み誤っていることに気付かされます。

この作品のあらすじはというと、参事官である「渡辺」が、以前に恋仲であったと思われるドイツ語を話す「女」と、日本で再び出会う、というお話です。

渡辺は昔の恋人と久しぶりに再会するというのに、自らの内面に何らの感情をもが呼び覚まされないことを、自分自身で驚きながら感じています。
実際に彼の態度は、始終変わらず冷澹(れいたん)なままで、女が、舞台の仕事で各国を共に回っている同業者との関係をほのめかしても彼は何の感情も示さず、「キスをして上げてもよくって」と言う女にわざとらしく顔をしかめ「ここは日本だ」と返す有様で、どこまでもつれません。
そんな彼の態度に痺れを切らせて、最終的に女が折れるかたちで切り出します。

その箇所は物語のもっとも最後の部分です。引用してみましょう。
 女が突然「あなた少しも妬(ねた)んではくださらないのね」といった。チェントラアルテアアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合ってすわっていて、おこったり、なかなおりをしたりした昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は想い浮かべずにはいられなかったのである。女は笑談のようにいおうと心に思ったのが、はからずも真面目に声に出たので、くやしいような心持がした。
渡辺はすわったままに、シャンパニエの杯を盛花より高くあげて、はっきりした声でいった。
“Kosinski soll leben(コジンスキイ ゾル レエベン)!”
凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯をあげた女の手は、人には知れぬほど顫(ふる)っていた。
×    ×    ×
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面(おもて)を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
“Kosinski soll leben !”の意味内容について、ドイツ語の日本語訳がありませんが、文脈からすると、「コジンスキイ(女の同業者)に乾杯!」とか、「コジンスキイの健闘を祈って」などという意味だろうな、と推測ができるはずです。

女は渡辺に、コジンスキイとの間柄を嫉妬して欲しかったのに、まったくそうではなかった返事がここにあるはずなのですから。

◆◆◆

このことをふまえて論者の引き出してきた一般性を評価することにしても、どうにも困る、あまりに悲しい、ということがわかってもらえるでしょうか。

論者の言う「新しい関係」というのは、気のある素振りを隠さない女にたいして、どこまでも「NO」のサインを出すという、あまりといえばあまりに存在(ぞんざい)な態度をとる渡辺と、彼女のあいだに結ばれた間柄のことを言っているのでしょうか。

しかしもっと言えば、彼女の気持ちに、遠まわしな拒否の姿勢でなく明確な「NO」を提示するならば、まだ彼女の新しい一歩を促す意味では彼女にとって好意的であるとも言えるのに、当の渡辺はそうするつもりもないのですよ。

そのことをふまえれば、そんな彼と、彼女とのあいだに、なんらかの意味のある新しい関係が結ばれたとは考えにくいのではないでしょうか。

むしろ最も最後に添えられた一文を見れば、彼らの、かつて途切れた関係は、この再会があったとしてもなお修復には至らず、さらに崩れていったのだ、と理解するのが自然です。

この物語では、「渡辺」の冷澹な態度がくどいくらいに述べられており、彼にとっては昔の恋人よりも、屋内の調度品のほうが気になる描写さえあるほどなのですから、その大掴みな方向性を念頭に置きながら、正しく作品を読み進めることが必要なはずでした。

◆◆◆

そしてここを今回のもっとも大きな反省点である「姿勢」の問題として述べるなら、もし作品をあまさず理解できなかったとしても、自分のわからなさをわからないままで評論というかたちにして人前に出す、ということは避けねばならないはずのことではなかったでしょうか。

わたしがこの評論を読んで一番寂しかったのは、「わからないことをわからないままでほったらかしにする」ばかりか、あろうことかそれを「どこかから取って付けたような解釈を添えて」「人前に晒す」ということなのです。

この表現に込めた思いの中に、いい加減に作品を書いてもどうせコメント者が推敲してくれるだろう、という甘えがまったく無かったと言い切れるでしょうか。

それが言い切れるというのは、自分の現時点での実力はとうていこの作品に敵わないけれども、それでも、登り切れない断崖絶壁でも、自分はありったけの力でここまで登った、もう手の力どころか指先さえ動かせないけれども、どこかを動かそうと思えば転落あるのみの無様な姿を晒したままだけれども、とにかく自分は、いまの自分はここまで登った、それは、そのことだけは見てもらえるはずだ、そういう感想があるときだけだとは思えませんか。

これが、姿勢に問題がある、ということの内実であり、「悪い失敗」のそもそもの初歩にして致命的な問題点なのです。

表現がダメなのが悲しかったり寂しいのではありません。
そこに文学者としての覚悟、意地、思想性、果てるとしても前のめりで困難に立ち向かう、という姿勢がまったく感じられないのがなんとも悲しいのです。

たとえ学者だろうがなんだろうが、専門分野でない文学にまで偉そうに口出しするコメント者を一泡吹かせて、日々の人知れずの修練を糧に必ずいつの日かその地位から引きずり下ろして転倒させ、これが人類に誇る文学というものの高みだ、誰にも理解されなくても毎日毎日大志を込めてやってきたのだ、どうだ専門外の人間には手も足も出まい、と、なぜ言おうとしないのか、やろうとしないのか、日々を生きようとしないのか、その姿勢の欠如について悲しく思う気持ちが、少しでもわたしの立場になってみればわかってもよさそうなものです。

少しばかりは読み取ってくれていればよいのですが…。

◆◆◆

ちなみに言えば、この作品は、筆者の個人的な経験をもとにした、いわば自伝的な小説なのであって、『舞姫』のなかでの豊太郎とエリスの関係が、違ったかたちで描き出されているという位置づけの作品なのです。
そういう意味では、深い作品理解のためには、作品についての予備的な知識も必要になってきます。

ただここのところの論者の誤り方を見ていると、予備的な知識の有無などでは、到底埋まらないほどに、作品理解の溝は大きいものであるように感じられます。

今回の評論についての苦言はとりあえず以上とし、次回面談時に作品を真正面に据えてじっくりと反省をするとして、論者の失敗を客観的に見つめてみると、最近まで扱っていた菊池寛をはじめとした作品などと比べたときの、森鴎外作品のひとつの特徴が浮き彫りになってきます。

それはひとえに、物語が予定調和で終わらない、ということです。
おそらくここが、論者にとっては致命的に読みにくいところなのではないでしょうか。

察するに論者の価値観というものはたとえば、
苦難の道を歩んでいた登場人物には、等しく幸福な結末が待ってい「なければならない」のであり、
仲違いしていた恋人や家族は最終的には、当初よりもより強い絆で結ばれてい「なければならない」、
といったたぐいのものだと考えるのが自然のようです。

こういった価値観は、当然ながら対象となる作品の理解にも影響を及ぼさざるを得ず、自分自身は注意しているつもりでも、作品を読み進めるうちにいつしか、自分勝手な解釈を押し付けて文章表現を取捨選択する、つまり気に入るところは拾い、気に入らないところは棄てる、ということを無意識のうちにやってしまうことになっているのです。

ここでいつも書いているように、科学的な認識は、まずもって「事実から考え始める」ことをその要諦としなければならないのです。
眼の前にある対象が、その観察者が好きだとか嫌いだとか、認めるとか認めないとか、そんなことは科学にとってどうでもよい!のです。

科学者を装いながら、感性的に合うか合わぬかの向き合い方に思想的な味付けをして学問だ研究だと言いはる人間がいることは知っていますが、あんなものを参考にしてはいけません。

その道の専門家として以上に、人として失格だからです。
食えれば何をしたってよい、レベルが低いほうがむしろ大衆受けが良い、という生き方の、どこに人としての評価に耐えうる価値があるのでしょうか。
いいですか、わたしたちは人間です。動物とは違うのです。
最高位である精神たる人間として、まずはそれに相応しい誇りを持たねばなりません。

まずはそのことを言うまでもないほどの下限とし、そのとき向きあった作品が自分の価値観には相容れなかったりなどといった好き嫌いは「さておいて」、事実としてその作品がどのような構造を持っており、どのような本質と一般性を持っているのか、と読み進めなければなりません。

今回の場合で言えば、「作品のどこかではきっとこの二人は仲直りするはずだ。どこだろう?どこだろう?」という問いかけをしながら(目的意識を持ちながら)作品に向き合うのなら、まともに作品を理解できるはずもない、ということをまずはもう一度徹底的にわからねばなりません。

論者が作品理解などというものは人によって違うのだからどう読んでもいいのだ、などという種類の阿呆ではないことは信用するとして、とりあえずの指導を終わりとします。