2012/08/20

【メモ】研究会の補足と、弁証法の立体構造、世界は過程の複合体である、について

研究会に集まってくれたみなさん、お疲れさまでした。


どんなことをご説明するときにも惑星の運行の物理的一般性、それに従いつつも抗するところの、わたしたちの地球が存在する太陽系の化学的一般性、その地球で育まれた生命現象というものの生成発展、そこから自然、社会、精神の三重構造…というふうに、いちばんの土台から何度も何度も説明し直すので、はじめから参加されていた方は、そろそろ耳にたこができそうだ、との思いが心の奥底から浮かび上がってきたのではないかと思います。

しかしこういった論理的な修得を目指そうとする個人の内面にも、そういった感情のゆらぎがあったとしても、これは当然ですし、まったくかまわないのです。

そもそも論理的な修得ということをやってゆくときには、自分の個性を、感情と論理とに分けて見られる実力を養ってゆく必要があります。
つまり、心の奥底にある「これは何の意味があるのかな…?」「これは本当かな…?」という「感情」的な疑念といったものを、まずは棚上げした上で、相手の話している事柄のなかから「論理」を掴もうとする姿勢を繰り返しながら、対象を感情を交えずにありのままに見る、という客観視の実力を養ってゆくということです。

唯物論の立場を表明しながら、対象をあれやこれやの感情を込めて見つめてしまうというのは、入り口の時点ですでに躓いてしまっている、つまり本質をア・プリオリ(先天的)に規定するという観念論的な踏み外しをやってしまっているわけですが、個性というものがそもそも、十人十色の生まれと育ちによって相互浸透的な量質転化が起きた結果として個々人それぞれの精神のあり方として現象しているものですから、踏み外しを避けるということは実のところ、十分な訓練を積んでいなければ、非常に困難なのです。

もっとも、事情はこのようであるとはいえ、実際にわたしの感じたところは、みなさんの、目に見える現象の奥底にはどのような構造があるのか知りたい、それを手繰り寄せて正しく実践したい、という熱意と探究心、それに裏付けされる誠実さ、謙虚さでした。

その姿勢を、第三者の目がないときにでも目的的にしっかりと持ってコツコツと人知れず努力を続ければ、「耳にたこができる」という認識の変化がどのような過程的な構造を持っているのかが、実感としてよくわかると思います。

そうすると、みなさんが後進を、学的能力・人格を含めた育成を目指すときには、どのようなところに力点を置いて指導に当たればよいのかが、把握されてゆくことになるでしょう。

それから、喋りに喋っていたのですっかり喉をやられましたが、休日は十分に休めたので声はちゃんと出るようになりました。
お気遣いをいただき感謝。今週から後半戦です。

◆

下は、ご質問への簡単な解答です。

ただ簡単な解答と言いながら結論的なことを書いてあるので重要なことを書いてあると思ってしまいがちですが、それはこれらの答えが、ものごとの探求が最終的な段階にまで達すれば、自ずと明らかになってくることでしかない、と言っておきたいと思います。
ですから、ものごとを論理的に見ようとする時に、指針としては有用でありながらも、その言葉だけを知識的に捕まえて云々しはじめることになると、そもそもの「論理修練」の道から踏み外してしまうために、かえって害をもたらす恐ろしさを持ったものである、と理解してください。

これらは単なる結論であり、極意論です。
その過程については、みなさんそれぞれが、自分の専攻分野を論理的に見ることを通して、必ず、各々の努力によって追ってゆかなければなりません。
こんなものをまる覚えしてしまっては、頭脳活動を高めるどころかかえって引き下げる作用しか持ちません。
ざっと流して読んだあと、アタマの片隅に留めておいて、自らの修練が一定の段階にまで達した時に、「ああ、あの人がああ言っていたのはこういうことだったのか」と、ごく自然に気づいてゆける修練過程を持つことが、何よりも重要です。

学問、文芸をはじめとした人類文化というものについて、それらすでに現象したものをいくら集めていくら覚えていくら組み合わせたとしても、なんら自慢できるようなことではないのです。
わたしたちに要請されているのは、それら人類文化の歴史を、自分自身の一身に繰り返したうえで、そこからさらに生涯をかけて人類文化の新しい一歩を付け加えてゆくことです。
そのための論理、なのです。


◆弁証法の立体構造について◆

「弁証法とはなにか?」と聞かれた時には、いろいろな答えがあり得ます。

このことは、ごく一般的にでも自分自身の認識が弁証法的なものとして技化している人間にとってはごく当然のことなのですが、初歩の習練過程にある人にとっては、尋ねるたびに違う答えが返ってくるので、「結局どういうことなのか?ああいえばこう言い、こういえばああ言う…弁証法というのは結局のところ、論者によって様々な解釈が成り立ちうるといったたぐいのものなのではないか?」と、疑いの思いが心の奥底から浮かび上がってくることでしょう。

しかしその疑念を棄てる必要はありませんが、まずは一旦棚上げすることにして、このように考えてみてください。

あなたには保護者やご両親がいますね。
ここではその中で、あなたのお母さん、という一人の個人を取り上げて考えてみましょう。

さてでは、その個人は、母ですか、娘ですか、姪ですか、日本人ですか。そのうちのどれでしょうか?

あなたは「どれといっても…見方によっては違いますから…」と言いかけたところで、「あっ、そうか!」とわかってくれるのではないでしょうか。
ひとりの個人は、母でもあり娘でもあり名でもあり日本人でもあるのであって、そのどれかひとつが本質である、というものではないのでしたね。

同じような理由で、弁証法についての説明がなされるときにも、様々な説明が成り立ちうるわけです。

◆

ただ上で例に挙げた「ひとりの個人」というのはひとつの実体ですから、目に見え手で触れるだけに明確なかたちをもった像として認識しやすく、よって誰しもがなるほどと納得しやすいのですが、弁証法はそうではありません。
目にも見えず手でも触れず、文字表現としても限界があるという、<論理>に属する事柄です。

文字表現が困難であると言ったのは、もし<知識>であれば、事実を淡々と書けばよいのにたいし、弁証法の<論理>というものは、文章全体を通して根底に貫かれている運動法則の把握なのであり、読み手がそれを、自分自身の認識において捉え返してみる実力がなければ、まったく浮かび上がってこない論理の像だからです。

しかも、弁証法は、因果関係を直線的な関係で結んだだけの形而上学的な論理とは違って、対象の<立体構造>をこそ浮かび上がらせる論理ですから、なおのこと困難がつきまとうことになるわけです。

そう断った上で答えてゆきますが、ここでは、弁証法の立体構造を少しでも把握してもらうために、立体構造をあえて切り分けるかたちで書いてみましょう。
しかし念を押しておきますが、これらはあくまで立体構造なのですから、それぞれを知識的に覚えてしまっても何の意味もありません。
必ず、自分でコツコツと習練・修練を積み重ねて、自分自身の責任において「技」として身につけねばなりません。

◆

まず「弁証法は、自然・社会・精神という森羅万象における運動法則である」とされていることについて。
これは、【本質】的な段階における規定です。

太陽系において、太陽から振り飛ばされた惑星が、他の惑星を媒介として太陽のエネルギーを受け止めることによって、冷えてゆくという物理的な一般性を土台にしながらもなお、冷えてゆかないという契機を持つことによって、結果として化学的な一般性を持ちうるまでになり、そこから生命現象が生まれることになった、というところから現在の自然のあり方までが、ここでの<自然>が指している意味内容です。

この自然の生成と発展という自然の一般性を土台として、社会性を持った動物の生成と発展があり、さらにそれら二重構造を土台としての社会性の中から精神の生成と発展があり、それらは当然に相互浸透をしつつ現在にまで至ったというのが森羅万象のあり方です。
それぞれの一般性を三重構造として受け止めたときに、弁証法という運動法則が浮かび上がってきたのだ、ということです。

◆

森羅万象の大きな流れを捉え運動法則としてみるときには、古代ギリシャの哲学者ゼノンがアキレスと亀などの例示を挙げて哲学上の根本問題を提出していたように、運動というものが一般的に、「そこにあるとともにない」という構造を持っているものであるがゆえに、その構造として<矛盾>を含んでいることになります。

こういった、現実と認識との矛盾のほか、弁証法はそもそも、古代ギリシャにおいて、考えの違うそれぞれが議論を闘わせるなかで互いにより高い認識に到達するという過程において発展してきたという経緯を持っているものですから、「弁証法は矛盾の統一にかんする学である」、というときには、これらの【構造】的な側面を指してのことであるのです。

◆

では、いつも習練としては必要だという意味を込めて、ここのBlogでも括弧書きで、ことあるごとに登場する三法則、つまり、量質転化、相互浸透、否定の否定についてはなにか?と言うときにはどうなるでしょうか。

このそれぞれは、上で述べた矛盾の統一、対立物の統一という統一過程の、ある一面を切り抜いて表現したところの法則です。
ここまで段階が下りてくると、具体的な例示を使って説明することが容易くなります。

たとえば、「新しい靴に履き慣れる」という現象を調べてみるときには、まだなじまない新しい靴に足を通し、何度も何度も歩きつづけることを通して、自らの身体とふるまいによってカカトが擦れたりつま先が傷ついたりといったように足が靴の形を変え、またタコが出来たり歩き方を矯正したりといったように靴が足へ、互いが互いへと影響を与え合いながら、最終的に馴染んでゆくことになるという構造があることがわかります。

これらは全体として、新しい靴と足のあり方という、対立物が統一されてゆく過程として見ることができますね。
同じようにして、上で述べた太陽から振り飛ばされた地球を見るときには、「冷えてゆく」という物質としての一般的な過程と、「冷えてゆかない」という化学的な抗力が、結果として、押し寄せ揺り戻す波、といったあり方の運動を生んでいることがわかります。

ですから、この段階で表現されているのは、【現象】的な段階です。

◆

他にも、<対立物への転化>は、<否定の否定>のうち第一の否定が行われた過程を捉えたものです。
また<相対的な独立>というのは、「そこにあるとともにない」という運動における矛盾のうち、「つながっているとともにつながっていない」という性質を持っている事柄について一言で論じていることがわかります。

弁証法が技として身についたときには、ここまで述べてきたようなことはごく自然に把握されます。
このBlogでは括弧書きで三法則が出てくるので、あたかも対象に弁証法的な解釈を押し付けたように見える人がいてもおかしくありませんが、あれらは単に、弁証法的な認識によって把握されたものを、三法則の段階にまで下ろして明記することで、初心の読者の便益を図ったものにすぎません。
一時は段階的に除こうとしていたこともあったのですが、新しい読者が増えてくださっていることがわかったので、依然として続けているだけのことです。

今回の記事では、直接表記したもの以外にも弁証法が働いています。
今回はあえて、括弧書きで明記しませんでしたから、探してみてください。
もっとも、弁証法が技化されてくれば、論文、メール、文芸作品、立ち居振る舞い、その者がとる表現すべてに弁証法的な性質が自ずと現れてくるものですから、ごく当たり前のことではあります。


◆世界は過程の複合体である、について◆

何度も念押しをしますが、先ほどもお伝えした通り、これらの立体構造は極意論としての規定ですから、これらを丸暗記してしまうのはもちろんのこと、これらのことばそのものに振り回されすぎるのも良くありません。

これらはあくまでも、弁証法の修練が一定の段階に達し、そのことと並行して専攻分野についての探求が本質的な道程にしたがって一定の段階にまで成されたとき、つまり自然・社会・精神という土台の上に専攻分野を正しく位置づけられたときには、ごく当たり前の構造として認識に浮かぶものです。

ですから、またまた念押しをしておきますが、一般、構造、本質や世界観などといった言葉だけと、いくら向きあったところで、これらの構造を導出することはもちろん、正しく像として持つことは絶対にできません。

論理というものは、それ自体像として持つことはできるものであっても、それはあくまで対象についての探求が一定の段階に差し掛かった時に持ちうるものなのであって、それ自体をいきなり学び「きる」ことはできません。
ですから弁証法という論理を修得するには、まずは三法則に照らしながら対象的な事実と向きあった上で、そこから自らの力で、論理を引き出してみることから始めなければならないのです。

論理というものは、具体的な個物を抽象化したところにある一般的な像であるがゆえに、最終的には具体的な個物と切り離せはしても、過程的には必ず繋がりを持ち続けているものですし、またそうでなければなりません。

この前の記事で、「亀の甲羅」や「硬い」という概念、それらの連関についての考え方のうち、どう考えるのが正しいのか、つまりどう考えれば現実の立体的な構造を正しく浮かび上がらせることが出来るのか、と検討してきたとおり、これら日常言語のレベルであっても、それぞれの概念は、必ずそのうちに過程を含んでいるものなのです。

当人の言葉や人格が本物であるかどうかは、その言葉や表現の中に、どれだけの過程性が含まれているのか、という原則に照らして判断される、ということでもあります。

このことは学問的な段階、文芸における最高の段階では厳しく問われるために、たとえば上のそれぞれの概念を示すときにも、必ず亀の甲羅の生成と発展という過程性を自らのアタマで捉え返したうえで、それらを一言に要したものを、「<亀の甲羅>はこれこれこういう生成・発展の必然性を持ち、こういった性質のものとして現象しているものである」として概念規定しなければならないわけです。

対象の持っている具体的な過程性を捉え返して一般的な概念として持つことを、過程を止揚する、といいますが、実体として見えない論理的な概念についてもこの姿勢は貫かれていなければなりません。

思想家レベルの人たちは、過程性を捉えずに他所の学説を横滑りさせたり組み合わせたり、その見方を現実に押し当てて解釈したりしますが、学問のレベルで絶対的に必要なのは、<過程>であり、<過程性>の把握、なのです。

この立場にしっかり立つのであれば、たとえば「マルクスは死んだ」と言う場合には、好きや嫌いやといった自分の感情を棚上げした上で、彼の学説を正面に据えて検討し、彼が言ったことが現実に起こったか否かということだけで成否を判断するのではなく、彼が歴史から引き出した論理的な把握が高かったのか低かったのか、どうすれば正しくあれたのか、を提出しなければならないのです。

同じように、「いろはにほへと」、「諸行無常」、「万物は流転する」、「理念の自己展開」などといったことばが、いかに同様のことを指していると考えられるときにでも、それらのそれぞれが、一体どのようなレベルの認識に基づいてのものなのか、つまりどのような論理の段階において対象を捉えているのか、を問わねばならないのです。

「世界は過程の複合体」ということばはとても単純に聞こえますが、これが人類文化を担おうとする者にどれほどの学的献身を要求しているのかを、自らの人生に直接的に関わりのあるものとしてまともに考えてみるという姿勢は、わたしたちの各々の人格に、厳しく問われているのです。

2012/08/07

本日の革細工:iPadトラベルケース

6月ごろから、


急な研究が入って公開できた記事は少なかったものの、個々の記事についての反響がとても大きくて驚いています。

とくに変わったことを書いたつもりはないのですが、叱咤激励のために自分の体験を交えながら書き進めたのがよかったのでしょうか。
わたしのところに出入りしているみなさんも、たまには叱られてみるものですね。

ここで例示してあることはすべて精神的にも身体的にも自分自身で探求したことばかりで、現在でも基礎修練として日々継続していることばかりなので、本当ならもっとつっこんで書きたいこともたくさんあるのですが、ただでさえ文字ばっかりだし…と、書き終えてから少し冷静になって枝葉についてはバッサリと削除してしまうことが多いのです。

しかしただ、ここで心身を整えるために挙げた事柄を、単に他人に自慢するための趣味や道楽、と一緒にしてしまわないようにだけはお願いしておきたいと思います。

たとえば問題意識さえあれば、たとえばペン習字ということのなかから、「漢字からひらがなへ」という歴史的な一般化の過程が、日本人の個々の美意識としてたしかに息づいていることがわかってくるものです。
同じようにピアノを弾くときにでも問題意識さえあれば、古代ギリシャにおいては音楽と論理とが強い関連性のあるものとして探求されていたことが実感としてよくわかるのです。

文字表現の中から論理を取り出すことすら難しいのですから、一瞬たりともとどまっていない・変化し続ける対象から論理を取り出すというのは、常日頃の問題意識なくしては、自らの技として絶対的に身につかないというほどに大事なことなのです。
(ここについては次回あたりの記事として書くつもりです)

問題意識や目的意識というのは、「何を考えながら対象に向かい合っているか」といってしまえばそれだけに見えるので、とても単純に脇に片付けてしまいがちなのですが、実のところ、これこそが人生を決定づけているとさえ言ってもおかしくないほどに、とてもとても重要なことなのです。

アルキメデスがあふれる風呂の水を見て「ヘウレーカ!(わかったぞ!)」と叫んだように、眼の前に見逃してはいけないものが飛び込んできたその一瞬に、それをしっかりと捕まえるにはどうすればよいでしょうか?
その答えは、毎日毎時間毎秒、常に考えておく、これだけです。
ただ惜しむらくは、多くの人が、倦んだり疲れたり忘れたりすることを理由に、その問題意識をいつも持続しておくだけの胆力・精神力・粘り強さ・探究心を持っていられないことです。

というわけで、例示として挙げたことについて、もっと詳しいことを聞きたいな、もっと良い方法があるよとか、ぜひとも議論したい、という方は一声かけてくださると嬉しく思います。

◆◆◆

さて、今日は久しぶりに革細工の記事にしましょうか。

お題は、友人が海外旅行に行くというので、貴重品を持ち運べるケースを作って、と言われたのがきっかけなのでした。…羨ましい。

昨今の貴重品といえば何でしょうか。パスポート、現地通貨と…


あとは、iPadです。

これだけ大きな画面で写真を見ながら乗り物のなかで同席した人といろいろ喋れれば、さぞかし楽しいだろうなあ…と思います。


わたしが旅狂いだった頃は、現地でいちいちフィルムを現像するか、デジカメが出たといってもちっちゃな画面の、すぐバッテリーの切れる機械をいじりながら、肩を寄せ合って旅先の写真を紹介するしかなかったものですから。

あれはあれで楽しかったものですが、今は恐ろしく便利です。
あとは、手荷物検査でiPadをぶん投げられないことを祈るばかり。

◆◆◆

上の写真を見るとわかってもらえますが、本体を掴みやすいように、取り出し口に切り欠きをつけました。

これがあると閉じた時も、こんなふうに使えるのです。


オーナーがイヤフォンをつけて音楽を聴くというので、イヤフォン端子にもアクセスできるだけの深さになっています。

◆◆◆

製作時に気を使ったことはといえば、
・iPadのせっかくの薄さを損なわないこと
・ガラスでできた画面をしっかり守れること、傷つけないこと
でした。

前者を考えるとき、iPadを画面をこちらに向けて挿入するかたちにすると、丸まった背面部が蓋にテンションをかけてしまうので、蓋が突っ張って閉じにくくなってしまいます。

そのため、画面を下向きにした状態で挿入するかたちにし、画面の触れる側一面にスエードを貼り付けました。
このことで色彩的な豊かさの確保と、運んでいるうちにスエードに優しく擦られて画面の指紋を拭きとってくれるようになりました。


またこのことによって側面のマチの部分も厚みを稼げたので、ポケットの容量を増やせました。
手持ちのパスポート、外国の通貨や搭乗券をいくらかつっこんでみましたが、5カ国ぶんくらいなら問題無なく入るでしょう。自分用にも欲しくなってきました…。

◆◆◆

一般のiPad用スリーブケースでは、タテ型・ヨコ型関わらず、本体をつまみ上げた側に画面が来るようになっていますが、そうするとどうしても、画面側にホックが来てしまうのです。

ですからここは、取り出してすぐに画面が見られるようにするか、万が一にも画面が傷つかないようにするか、の二者択一になるというわけです。

この選択についてわたしとしては、このケースを鞄の中に放り込んだ時、万が一にも、蓋を開閉するための金具が液晶の一点を圧迫してガラスを割ってしまわないようにしたかったものですから、やはりこのかたちがいちばん合理的だったと思います。


金具がスエードに埋もれるように配置してありますので、iPadの背面についても金具のせいで傷がつくことはないでしょう。

◆◆◆

実はこのケースのオーナーは、以前にご紹介した自転車バッグG4のオーナーさんなので、ご本人の要望で当時仕入れておいたワインレッドのスエード生地をあまさず使うことができ、バッグと合わせて世界観の統一ができたものと思います。

今年の秋くらいには出るはずの新しいiPhoneも入手されるそうで、それも合わせて「旅の一行」として考えておられるようなので、全体としてどういった世界観として発展してゆくのか、今から楽しみです。

ちなみにその一行のなかで、G4は馬車、今回のケースは執事、というところだそうな。

2012/07/28

どうでもいい雑記:最高のボールペンはどれか

ひとりの友人から、


最近アレないの?、と聞かれました。
“アレ”とは何です、と聞き返しましたら、「雑記。」とのこと。

なんでもここの文章は楽しみにしているけれど、内容が内容なので読む方も大変、たまには息抜きもさせてほしい、と言う。
こんなところに息抜きをしにくるというのは、水をもらいに砂漠にでかけるようなものでは…と思うのですが、まあそれだけちゃんと受け止めようとしてくれているのは嬉しく思ったので、では研究も落ち着いたし楽な話題探しときます、とお約束したのでした。

といっても、毎日ほとんど同じ過ごし方のわたしにとっては、NewでHotな話題なんてものは無いので、今回は身の回りにある道具についてお話しましょうか。


◆WiMAXルーター(AtermWM3600R)◆


ほんとにどうでもいい方から。

これまで固定線を引いていたのですが、大きな画像ファイルをやりとりするようなデザインの仕事もしばらくしそうにないし、ということで、持ち運べるルーターに乗り換えました。
よく行く場所はサービスの圏内だったので、WiMAXに。
自宅と実家、研究室、iPhoneの通信費をまとめられ、月額8,000円弱くらいは浮くので、ソーセージをコラーゲン皮からシャウエッセンに、ニンニクを国産に変えられそうです。
ただこれだとわたしがいない時には実家の人間もインターネット出来ませんが…まあいいでしょう。

このルーターの何がいいかといえば、外に持って出られることの他に、自宅ではクレードルを使って有線接続できる、というところ。
写真のうち、青いガチャピンとムックがプリントしてあるのが本体、それが刺さっている黒い台座がクレードル、です。

クレードルの背面には、有線LAN(Eathernet)端子がありますから、こことAirMacなんかをつなげられるのです。
そうできると何が良いかといえば、鉄筋コンクリートで電波が入りにくい集合住宅でも、窓際から入ってくる電波を受け止めた本体の電波を、AirMacが増幅して、各部屋に送ってくれる、ということなのですね。

こういったコンピュータ、とくに目に見えない通信の仕組みを基礎知識の無い方に説明するのはかなり難しいので必要なら調べてください、というしかないのですが、大雑把に言えばこんな具合です。

(屋外)WiMAXの電波
↓無線
(屋内)ガチャピンとムックが電波を受信
|有線
(屋内)AirMacが電波を増幅、各部屋に届くように

ガチャピンとムックがいくら頑張ったところで5mも離れればあからさまに電波が弱まりますし、家の奥まったところに本体を持って行くと、そもそも屋外からの電波を受信できませんから。

そういうわけで、すでにある光回線やADSL回線をWiMAXに置き換える場合には、このモデルといっしょにクレードルを注文すると良いと思います。

デザインが表現が云々、と述べているわりにガチャムク押しってどうなの?と言われるかもしれませんが、わたしは気に入っています。落としたときに目立つでしょ。

もし導入するときには、ひとくちにWiMAXと言ってもいろんな会社からサービスを受けることができますし、各社ともいろいろと値引きをしまくっているので、よく検討すると損がありません。
わたしの入ったのはUQ WiMAXというところで、お友達割引というようなものもあるそうですが、会社のマワシモノだと思われると癪なのでリンクは張りません。割引を受けたい人は直接声をかけてください。もっとも、他にももっと安いところがありますけども。

あっちなみにガチャムクモデルは、UQからでしか買えないようです。


◆ZEBRA HYPER JELL◆

JJ101

どこぞの会社が鳴り物入りで発表した電子書籍リーダーは、セットアップが煩雑だったり購入者レビューが一斉に削除されたりとなんともいえない有様のようですが、良くも悪くもそれだけに注目度が高いということもあるのでしょう。

しかしそんな時代になっても、わたしの場合は紙の本と筆記用具は手放せません。
電子機器についての偏見はまるでないし、実際にiPadを手洗いだろうが風呂だろうが持って入る人間ですが、紙でつくられた本が、内容が同じだからといっていきなり電子機器に置き換わるかといえば、そんなことはないのです。

ひとつのものごとを深く突き詰めて探求する、という傾向のない人は、世の中にある文字や音や色彩といったものを、単に「情報」といったレベルでしかとらえません。
現代は何につけてもマネタイズ(お金にすること)が求められるということもあって、忙しい現代人は情報、情報、と、店頭で平積みになっているような本や研究論文を読んでは捨て、読んでは捨てをします。

これらの場合、その書籍からなにを得るのかといえば、「あそこでは今こんなことが起きている」だとかいう個別の情報でしかありません。
ですからたとえば、ブラジルの国債の値段が上がった下がっただとか、どこぞのCEOが不祥事を起こしただとか、新しい粒子が見つかっただとか、それぞれのダイジェストを「結論だけ」知ってしまえば、それで用済みなのです。

◆

わたしはここの記事では、知識よりも論理に焦点を当ててお話しているし、事実学問という山の頂にまで上り詰めようと思っている人間にはそれこそが絶対的に必要なのですが、このことが直ちに、知識の収集を軽視してもよいということにはつながるわけはありません。

学問をするにあたっても、知識というのは当然に膨大な量が必要です。

では、ものごとを実用主義的に捉える場合と、ものごとそのものを突き詰めてやらなねばならないという場合に、知識の受け止め方がどのように変わってくるかといえば、それは、その知識を流れを持って読む、その「過程」をこそ読み取る必要があるかないか、ということなのです。
後者の見方を一言でいえば、「知識」のことを「情報」レベルで受け止めてしまってはいけない、ということなのです。

ビジネスマンでも、日々、新聞を読んで「定点観測」をしていなければそう遠くない将来、ビジネス能力に質的な差が出てきてしまうものですが、自分の道を無上の段階にまで高めようと考えて、大衆からの評判ではなくあくまでも歴史性を一身に受けた自らの価値基準で以ってものごとを徹底的に突き詰めるときには、なおのこと過程に目を向けねばなりません。

今日の株価がこうだったという知識ではなく、それを前後日と比べながらさらに広げ、数ヶ月、数年間という大きな流れの中に位置づけられるかどうかはもちろんのことながら、「その「流れ方」はどういうものであるか」を論理として見極めることができるというのが、一流という名にふさわしい能力ということです。

もっと言えばその論理が、周辺的な事情と正しく位置づけられ体系性を帯びてきた時、「こんなときにはこういうことが起きるであろう」という将来的な見通しが鮮やかに立てられる認識にまで達すると、これを論理の体系、つまりひとつの「理論」を認識として持った、ということになるのです。

◆

ただビジネスの現場に身を置いている場合には、会社組織が永続してゆくためにはとにもかくにも経済が回らなければいかんともしがたいという事情があり、それゆえ「歴史性を一身に受けた自らの価値基準」よりも、「現時点・近い将来での大衆からの支持」に圧倒的な重きがおかれるあまりに、これら論理、理論といったものに着目するだけの合理的な理由を欠きがちになります。

支持をしてくれる人間の数が多ければ多いほどよいというときには、無上の真理などよりも、大衆の、いわば最大公約数的な認識に訴えかけねばならないのは当然というものです。
文芸を創るやり方と、経済のやり方は、その根本的な原理が異なるために、あちら立てればこちら立たずの関係にあるのであり、これらを中途半端にちゃんぽんしたときには三流の道しか待っていないというのは、実にここに理由があるわけです。

そこまでいかなくともビジネスの現場で、よし100年先の我が社の存続と従業員の生活を思えばこそ、ここで科学的な運営の理論を身につけねばなるまい、と志そうとも、それを株主や取引先といった利害関係者に根本から理解してもらうというのは、難事中の難事でもあるのですから。

自分がこの世に生を受けたという事実を、人類総体としての大きな流れの中に位置づけることをしないのなら、100年先どころか10年先、それよりも明日のことが一番気になるのもやむを得ず、地球の裏側で起きている飢饉よりも、今日出来たニキビのほうが気がかりであるとなるのも必然、というものでしょう。

さてこのような、知識についての受け止め方の質的な差がある以上、それを受け止めるやり方というものも、質的に違ってきます。
ごく一般のビジネスマンは、感性的な差はあれど、電子書籍で十分に用を済ませられます。
ところがそれよりも視線を高みに向けて、人類総体のうちの一員として、我が生涯をかけての人類文化の向上を目指そうというときには、現時点の電子書籍では、まるで力不足です。

知識のみならず、大きな流れの中でそれを位置づけ自分のものとしてつかまえたうえで、その流れ方そのものを修得してゆこうという場合には、事実との何回も、何回も、気の遠くなるほどの何回もの取っ組み合いのなかで自らがそのものとなってゆくという、相互浸透的な量質転化が絶対的に不可欠だからです。

このためには、これと見定めた書籍を、その著者の他のすべての表現を手がかりにしながら、自らの人生のおける問題と関連させながら読み解くという過程が必要になりますから、書き込みはもちろんのこと、読みすぎて本がバラバラになってもう一冊買う、というくらいの浸透ぶりでなければいけません。
これが直感的にできる電子書籍というのは、どれだけのものであってもなかなかに出てこないのではないかな、と思うのです。
わたしもiPadで論文や文学作品を少なくとも毎日2万字は読みますが、これはというものは必ずプリントして書き込みをして付箋を貼って、ファイルに綴じる必要がどうしてもあります。

◆

さてそろそろ、友人の怒りを通り越して呆れる顔が浮かんできましたが、今回の取り上げたいボールペンの話題にまでようやくたどりつきました。

お叱りを受けるのは後日として、ともかくそういうわけなので、わたしにとっては良い筆記用具というものは欠かせないのです。
わたしがかつて受験勉強をしていた時に、当時から知識的な丸覚えが実に苦痛でありましたので、単語の語幹を調べてまとめて絵に書いたり概念をリズムに乗せて何回も何回も書きながら覚える、などというありったけの工夫をしながら勉強に取り組んでいたのですが、そのことと並行して、勉強に取り組む環境を整える、ということも実に熱心にやりました。

こういうことは、いっさいの不要な努力を排除する、ということに力を割いておくと、後々ぐっと楽になるのです。

その際、景色の見える机に座る、ということとともに、わたしの心を大いに助けてくれたのが、このボールペンでした。
一口にボールペンといっても、実に様々ですから、わたしは知る限り一番大きな文房具屋さんに行って、すべてのボールペンの書き味を比べたのです。
そのうち、わたしにとってはあまりに光り輝いていたのが、ZEBRA社の「HYPER JELL」という筆記用具だったのです。

受験勉強、資格試験ともなれば1日12時間ほどは手を動かしていましたので、1日に1本は空にしていましたっけ。
そのときも腱鞘炎にならず、ハネやハライもきちんと表現でき、書き始めから他のボールペンのようにボール跡を残さず気持ちよく、書き進めるほどに筆が乗ってくる、というのはこのおかげ、だったのです。

いつも毎朝のペン習字のときに必要なので、まとめ買いをしてたくさん持っているのですが、つい最近、語学の基礎を習得する要があったため、久しぶりにそのありがたさに感じ入ったものでした。

お話はこれでおしまいですがそういえば、心のあり方を整えたい、悪筆を直したい、という学生さんたちにも、この筆記具を薦めたことがあります。
もし読者のみなさんもそういったことを目指したい場合には、「字が綺麗になってゆく」という過程と、「気持ちが整ってゆく」という過程を、直接的に同じものとして受け止めながら、少しずつでも毎日欠かさず取り組んでください。

100円均一のお店に行けばマス目のついたこくごノートを売っていますから、練習帳には直接書き込んでしまわずそちらに、毎日1ページは書くことにしましょう。
そのとき、正しい姿勢で机に向かい、ちゃんと顎を引いて30cmは机を目を離し、ひとつひとつお手本をよく見て、一文字ずつ、「いまある心の中の迷いはとりあえず棚上げして、今はこの字をしっかり綺麗に書くことにだけ集中するのだ」という一念を込めながら書いてゆくのです。
ここで間違っても、自分のさっき書いた文字などは参照してはいけません。
お手本とこそ、心身ともに浸透するのが目的ですから、目的を違えないように。

姿勢の悪い人や悪筆のひどい人は苦痛を感じるでしょうが、苦痛の大きいのは現時点でそれだけの歪みがあるということなのですから、一文字を書くたびに、これらのことを確認し直す、ということを怠け心に負けじとやってください。

今の時期ならじりじりと汗ばんできて、こんな同じことを繰り返すよりもジュースを飲んだりシャワーを浴びたりしたいという気持ちがふつふつと沸き起こってきますが、それをぐっと堪えて椅子に深く腰掛けなおし、ひとつの文字を書く、ということにすべての神経を集中させるのです。
まずは1ヶ月取り組んで、窓の外の蝉の鳴き声や喧騒、蒸し暑さが消えてなくなるくらいの感覚が少しでも掴めれば、心を整える力がつき始めていると見てよいでしょう。

そもそも幼少の頃から間違った生活習慣のなかで過ごしている場合には、度外れな温度で冷房を入れていないとイライラしたり、食事をするまえに歯を磨いたり、着替えるものがないからと入浴しなかったり、といった感性が身についてしまっており、それが感性的に心地よい、という間違った感覚として生成されてきてしまっています。
しかしたとえば、そもそも歯に食べかすが残るのを防ぐために歯を磨くのであり、着替えがなくとも入浴したほうが健康上良いのですから、これははじめは嫌でも、正したほうが身のため、なのです。

人間の習慣はこのようにその実体としての器官にも相互浸透していることをふまえれば、煙草を吸い続けていると異常な状態を好きなものと勘違いしてしまう生理のあり方を養ってしまっていることがわかるのであり、心が乱れているのもそれと同じことなのですから、ご自分のためにも整えてゆくのが肝要、ということであるのです。
整っていることを正しく整っている、と判断できるような心身を創っていってほしいと願っています。

さて、この修練の説明を見て、「実体と精神を同一視するとは…」という向きには反駁しておこうか、思いましたが、やめておきましょう。今回は雑記ですからね。

2012/07/24

自らを恃むとはどういうことか

タイトルにある、


「恃む」というのは「たのむ」と読みます。

同じ「たのむ」でも、わたしたちがよく使うほうの「頼む」が、「まかせる」という意味であるのにたいし、こちらの「恃む」というのは、「あてにする」といった意味合いを強く含んでいることばです。

ですので、「自らを恃む」といえば、自分自信を深く信用して、ものごとを決める時の最終的な拠り所として認める、有事の時の頼みの綱とする、といったことを指しています。

さてでは、あなたには自分自身を恃むだけの力がありますか、と問うたとき、読者のみなさんはどのようにお答えになるでしょうか。

たとえば万事休す、となったときにでも、「自分にまだ何かできることはないだろうか」という一点から、解決の糸口を探していけるだけの気概を持てているかどうか、ということとして考えてもらえばよいと思います。

今回は、そうやって恃めるだけの自分というものを、いかにして作るべきか、ということをお話したいのです。

◆◆◆

なぜこんなことを言うのかといえば、今の世をみると、二言目には「自分には無理です」と言うことを、なにやら謙虚さや慎ましさと勘違いしている傾向があるのでは、と思われてならないからです。

自分を恃みにできないことの原因を、世の人は、「私は天才じゃないから…」だとか、「良い大学を出ていないから」だとか、はたまた遺伝子やらのせいにしてしまうことで正当化してしまいますが、根本的な問題はそんなことではないのです。

ここに頭脳活動の良さを伸ばしてゆくことのできた人物がいるとしても、その人は、そうしてゆけるだけの過程があってこそですね。

ですから本来ならば、その過程にこそ目を向けねばならないのです。

それは運動能力にしても、芸術的な感性にしても、また自分を恃みに出来るだけの自信の積み重ねにしても、やはりそれを伸ばしてゆくための過程があったのであり、たとえばそのやり方がいったいどのようなものであったのか、と考えてゆかねばならないのです。

◆◆◆

ここで過程、ということばが出てきた時に、弁証法は<量質転化>の大事さを教えますから、ここの読者のみなさんならば、ふむふむ上達のためには…と、だいたいの筋道をつけられる方もおられることと思います。

たとえば、ということでイメージしやすいように実体的な例を引きますが、腕の筋肉をつけようとするときに、一週間に100回の腕立て伏せをすると決めたときにでも、1週間のうち1日に集中的に100回をやるのか、それとも1日10回程度に分けてそれを継続するのかでは、まったく効果は違ってきますね。

この「継続は力なり」ということは、なにも体力づくりなどに限らず、頭脳活動についても同じことが言えるのですが、そういった上達の方法を具体的に突き詰めようとするのなら、より土台となることがらも、やはり確かなものとして作り上げてゆかねばならないことがわかってきます。

それが、自分自身の生活習慣、というものなのです。

◆◆◆

結論を先取りすると、今回の記事は、質問へのお答え (3):「私のどこが弛んでいるのでしょうか」という記事の中でわたしが、「自分自身の表現というものは、自分自身の人格を表しているのですよ」と述べていたことと深いつながりがあります。

このことを少し具体的に考えていくことで、生活習慣のまずさが、なぜ上達の妨げになり、またそのことで成功体験が得られずに「自分自身を恃みにする」ことのできない人格を形成させてしまっているのか、ということをどうしてもお伝えしておきたいのです。
人の人格形成を見れば、20代に創り上げた習慣こそが、その先の全人生を決定づける、というほどに大事なものですから、手遅れになっては遅いから、というのがその理由です。

たとえば学生さんがわたしにレポートをメールで送信するときのことを考えてみましょう。
ここを生活習慣や如何に、という問題意識に照らして言えば、メールの文面はさておき、大きな問題となっているのは実は、その「送信時刻」、なのです。

一人の人が、ある時は夜中の2時に、次の日は昼前の10時に、そのまた次の時は朝方の5時に…といった、極端にばらばらの時間に送ってくるとしましょう。
その時間と内容を照らし合わせれば、その連絡の必要に応じて、締切時間ぎりぎりになってその時間にならざるをえなかった場合や、夜中にすごいアイデアを思いついたあまりに急ぎ報告したかった場合などは、それとわかるものです。

しかし、まったく「その時間である必然性がない」連絡が何回も続くのであれば、わたしは、「この学生さんはどうも、ただれた生活をしているのではないかな」という問題意識を持ちますから、雑談やアルバイト、交友関係のお話を聞くときにも、それに照らして生活習慣を浮き彫りにしてゆくことになるわけです。

これも、当人の表現は、その認識のあり方を表す、ということのひとつです。

もしこの学生さんが万が一、自分がこれと見定めた道に向かって歩みたい、と言うのならば、わたしはその修練内容をお伝えすることはさておいて、「まずその生活習慣をなんとかしないことには、まともな上達はあり得ないものと心得てください」、と伝えなければならないことになるでしょう。

◆◆◆

それがなぜだかわかってもらえるでしょうか。

みなさんが知っている、<量質転化>になぞらえて、そのことを考えてみてほしいのですが、その手がかりとして、以下の引用を読んでください。

昭和40年の前後に集英社から出版された本、日本子どもを守る会・編 『世界100人の物語全集 私はこんな人になりたい 10 芸術に生きぬく物語』からの引用です。
ちなみに、これはいちおうは子ども向けの本なのですが、自分の人生の目標、みちしるべ、苦境の際の心の拠り所となる人物を探すにはとても良い本で、全12巻で、全世界の歴史を作り上げてきた偉人が計100人ほどが紹介されています。

わたしは国会図書館の書庫に入り浸りの日々のなかで疲れ果てた時、たまたま家にあったこの全集を手に取りました。
そのあとすぐ休みのとき、日本で唯一全巻を所蔵している奈良の図書館まで足を運び、数日通い読了し、大いに感化され勇気づけられたものです。
偉人の生涯というものは、子どもに夢を抱かせるだけでなく、大人になったればこそ響くものも持っているので、自らが目指す分野だけでも先人の伝記をお読みになることをおすすめします。
現在では、こういった全集のかたちをとったものはほとんどが絶版になっているのは教育の上でも残念な限りですが…。

◆◆◆

さてともかく、その本から、このBlogで扱った偉人二人にご登場願いましょう。
この二人に共通する日々の生活の仕方は、いったいどういうものでしょうか?
近代彫刻の道を開いた人 フランスが生んだ偉大な彫刻家ロダン 
 ロダンは、そのころは、たいへん有名な人なのに、いつも質素にくらしていた。また、何年も心をこめて作った像が、たのんだ人に気に入られないために返されれば、お金はもらわなかった。くらしがたち、仕事ができればそれでよかった。
日曜日には、夫人とふたりで、場末のレストランへ行き、スープと、肉と、キャベツとを食べたが、それが夫婦のごちそうだった。
朝は早く起き、すぐに仕事にかかり、夕方になると、休み、食事を終わると、七時か八時にねてしまう。それが毎日、規則正しくくりかえされた。
「パリは、小さすぎるくつのようだ。」
と、住居をムードンといういなかにうつし、毎日、パリまで汽車で出てきて、アトリエに通った。
こうして、時がたつうちに、ロダンの芸術の高さや深さが、だんだん世間の人にもわかってきた。
(ロダンが、わかいころから、どんな歩みを彫刻にみせていただろう。)
と、人びとは考えた。
◆
東洋の愛を詩に ノーベル賞を得たインドの詩人タゴール 
(※引用者による要約:タゴールがノーベル賞を受賞したあと第一次世界大戦が起こった。彼はそれらの国ぐにに心から怒り、現代の文明に失望して学校を作ることに力を入れた。このささやかな学校を愛と平和と国際的な知識による、未来の新しい文明のよりどころにしようと決心をかためたのである。) 
 かれは、じぶんの全財産を投げ出して、イギリス、フランス、日本など、世界の各国からすぐれた先生をまねいて、一歩一歩、じぶんの理想の大学を作りあげていった。そして、タゴールのその努力は、みごとにむくわれた。かれをしたって、多くの学生が世界の各地から、この国際大学に集まってきたのであった。
やがて、この、幼稚園から大学までそなえた国際大学は、世界でも、もっとも特色のある学校のひとつといわれるほどになっていた。
今や、タゴールは学校の中に住みこんで、すべてをこの学校のためにささげた。
かれの学校での生活は、ほがらかなユーモアにあふれたものであった。タゴールの一日は、毎朝早く、決まって屋上に上り、静かに考えごとにひたることから始まるのであった。食事には、米やジャガイモ、それにマメやバターなどの菜食しかとらず、散歩と庭づくりをとても喜び、しっそな生活をしながら、けだかい考え方をするという生活を続けたのだった。
◆◆◆

どうですか、彼ら文芸の巨人に共通する日々の生き方というものがわかったでしょうか。

質素な生活をした、という価値観の問題については、生まれ育った時代性や地域性などを加味しなければ良し悪しがわからないのでさておくとしても、彼らができうるかぎり、「規則正しく」日々の生活をこそ大事に、自分の道を歩んでいた、ということがわかってもらえたでしょうか。

では、なぜに、自らの道を歩むためには生活をこそまずは整えねばならないのかといえば、これは、日々をそのような目的意識をもって過ごしている方にとっては、実のところ、なぜそんなことが問題になるのか?と怪訝な顔をされるほどの、常識中の常識、であることなのです。

一流の道を目指すということは、数日全力の努力をしたからといって成されるものではないということは、どんな方であっても納得されるはずです。
では、数日ぶっ倒れるほど頑張る、のではなくて、少しずつでも毎日、量質転化を心がけて頑張る、というときに、どんな工夫がなされねばならないでしょうか。

たとえば毎日8時間、椅子に座り続けて研究するためには?毎日8時間、キャンバスと向きあうためには?毎日8時間、武道の修練をするためには?
しかもそれを、1年と言わず5年、10年と続けてゆくためには?

◆◆◆

ここまで念押しすると、そういうものかなあ、と、なんとなくの像を描けてきた人が多いのではないかなと思います。

ここをもう少し具体的なお話をすることにしましょう。
同じ時間働くにしても、動き続けの武道や立ちっぱなしの油絵というのは大変そうだが、椅子に座って本を読むくらいならできそうだ…と思われるかもしれませんので、ならばということで、もしあなたが研究者になったとしたらどうなるか、と考えてみてもらいましょう。

あなたは1日8時間、本を読んだりノートを取ったり原稿用紙にペンを走らせます。
この際、どんなやりかたでこれらの仕事に向き合いますか。
その姿勢はといえば、椅子に座り続け、でしょう。
本来は運動し続けるのが常体のはずの万物、人間の身体を、同じ姿勢のままの状態を強いる、ということになるのです。
動くのが億劫になった老齢の人間が寝続けて床ずれによる褥瘡に悩まされていることを考えれば、また航空機のフライト時間の中でもエコノミークラス症候群がこれほど危険なものとして知られるまでになったことを考えれば、いかに働き盛りの人間であっても、この身体の使い方は実に酷、ということがわかるでしょう。

これに加えて、実際の労働を見れば8時間で終わるはずもなく、身体の硬化をほぐすためには湯船での時間をかけてのマッサージが必要になりますし、また身体を満足に動かさないために、自律神経をはじめ、精神にまで異常をきたしがちになるのです。
ニーチェやマックス・ウェーバーの晩年を想起してもらえればなるほどと分かる通り、机上であっても激務ともなれば有り体に言って鬱的な症状が見えてきます。
生理学的な観点から言っても、身体の器官のはたらきを極度に制限するということを続ければ、結果、質から量への転化がおきるために、器官そのものの実体的な能力もが低下してゆくことになるのです。
したがって、座って凝り固まった心身をほぐすために五体を日常的に動かしておかなければ、人間として満足な身体運用も精神状態も保てないはめになります。
しかしこの対策として毎日ランニングを日課にすると、さらに足の甲や足首を痛めないように、走法とケアのまともな技術が必要になります。

さて、これらの事柄を精神的に高度な問題意識を持ったままに日々を送るということにしたときに、これらの仕事と日課を、毎日バラバラの時間帯に、バラバラの順番でこなすことにすると、どういった結果を招くと思いますか。

今日は朝4:30に起床し1時間走ったのち8:00から研究に取り掛かり、17:00に帰宅し学生のレポート添削をすませ22:00に就寝した。
しかし次の日は、起床したくも寝足りなかったために8:00直前まで睡眠をとり、それから机に向かって20:00まで机に向かい、夜にランニングすることにした。
3日目はと言えば、起床してからランニングに行こうかと思ったが先ほどやったところで回復もままならないままである…

といったふうになるのが自然、というものではないでしょうか。
この上さらに酒好きで付き合いが多く夜遊びもしばし、となると、どうしようもないほどに生活は乱れます。

◆◆◆

大上段に構えた志など立てなくとも、日々を懸命に生きておられる労働者ならばわかることですが、毎日の疲れをしっかりと癒すこと自体が難しい時に、生活上の不摂生が、どれほどまでに心身ともの重荷としてのしかかっているか、ということは、言うまでもないことなのです。

こういった観点からみたとき、学生さんや同業者のふるまい方を見ていると、その人がどういう心がけで生きておられるのか、ということはどうしても一目瞭然となるわけです。
めちゃくちゃな時間に連絡をする人は、いつもそうなのです。
ですからわたしは、そういった学生さんや知り合いが連絡をしてきても、ああまたか、と受け止めてしまいます。
逆に規則正しい生活をしている人が深夜に連絡をしてくるときには、緊急であろうと受け止めますから、直ちに電話に出ます。
わたしはこの対応で、いまだ失敗したことがありません。
いかに「習慣」というものの恐ろしさが現れているかがわかろうというものです。

これらのことを要して、前回の親記事のほうで、立ち居振る舞いは当人の人格を表す、もっと大きくは、表現はその当人の認識を表す、と言っておいたのですが、その内実を受け止めてもらえたでしょうか。

◆◆◆

念のためにことわっておきますが、わたしはここで、酒を飲むな付き合いは断れ睡眠時間を削れ、などと言っているわけではないのです。
同じことをやるのならば、規則正しい生活をしなければ最大限の効果は得られるはずもないし、また量質転化で自らの心身を質的に高めてゆこうとするならば、今日の努力が明日もその次も続いてゆくものでなければならないのだ、と言いたいのです。

ですからまずは、せめて起床時間と就寝時間だけは、その時間はともかく、毎日同じ時刻に行うものとして整えてゆかねばなりません。
またそれが、習慣として身について、「そうしなければ身体に違和感がある」というくらいにまで続けて、真剣そのもので生活を整えてください。
そのうち専門とする仕事に専念するなかで、その毎日を支えるためにするべきことが次第に明らかになるでしょう。
その上で、より自分のあり方を高めたいのであれば、これも真剣に趣味を選び、これまた時間をきっちり決めて一定期間のなかでの目標を定め、それに取り組んでゆけばよいのです。

この上の、たった四行の中身を生真面目に守って、まともにやってゆくだけで、それなりの年齢になればいったいどれだけの人格を養えてゆくかが想像してみれるでしょうか。
逆にこれまでのことを振り返って、わけのわからない時間に「しょっちゅう」連絡をよこすということが、いかに自分の人格を傷つけていたのか、ということをふまえてみれるでしょうか。

毎日規則正しい習慣を続けている者にとって、決まった時間に決めたことができないというのは、実に残念で、恥ずかしいことなのです。
そういった実感が、自然に湧き出るくらいのことを、「習慣」というのです。

ですから、自分が努力を続けているつもりでも、気を抜けばたちまち実力が質的に低下してしまうというのは、またそれだからいつまで経っても自分自身を恃みにできないというのは、突き詰めて言えば、それを支える生活の基盤がないから!なのです。

これはなにも、配偶者がおらず家事が大変だからダメなのではなく、ましてや、自らに「努力する遺伝子が欠けているから」などでも決してない、純然たる自らの意識の問題なのだということを、ほかでもない自分の人生のこととして、ぜひとも受け止めてほしいのです。

◆◆◆

先ほど引用したロダンの一節には、このような箇所があります。
この記事の締めとして、読んでください。
(※引用者要約:第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに逃れていたロダンがパリに戻ったときのこと) 
 いったんロンドンへのがれたロダンは、それからしばらくたって、パリが安全だとわかると、またもとの所へ引き返した。しかし、ドイツとの戦争は、そのあとも五年続き、フランスはたいそう苦しんだ。その苦しい間にも、ロダンは、ずっと仕事にはげんだ。
それは、たゆまない努力だった。
しかも、他人からしいられる努力ではなく、心の中からほとばしる芸術への情熱であった。くる日もくる日も雨の日も、風のふきすさぶ日も、朝から夕方まで、規則正しい生活が続けられたが、それでもロダンは、少しも疲れなかった。
彼が周囲からの不理解にもめげず、さりとて周囲からの強制でもなく自らを律することができたのは、彼が、自分の人生を自分の人生として生きるという、ごくごく当たり前のことを続ける工夫をしてきたからだ、とわかるでしょう。

いったい誰が、自分の人生を背にかついで高みへと連れて行ってくれるでしょうか。
そんなことを頼みにしているようでは何事をもなし得ません。
恃みにするのは自らのみ、なのです。

【メモ】最近の記事のまとめ

ここのところ、


質問に答えるかたちで記事を書いていたので、公開する順番が前後してしまっていました。

そういうわけで、ここのところの記事の一覧を下にまとめましたので、読み返す時の手がかりになれば幸いです。

◆◆◆


技としての弁証法

質問へのお答え
(“┗”で示したのは、派生する記事ですから、親記事・子記事をともに参照してもらうのがよいかと思います)
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

◆◆◆

以上のうち、前者の一連の記事については、大きくは学問というものを、知識的な習得一辺倒のものと勘違いしてイメージしてしまっている人にたいして、「学問の本質は知識ではなく認識、しかもその技にあり」として書いたものです。

そのうち、弁証法というのは、ひとまずは認識における技として目的的に習得されなければならないものなので、このようなタイトルにしたわけです。

ここはたとえば、わたしたちがピアノでもやってみるか、とまったくの素人の段階からその修得に励むときのことを考えてください。

楽譜を読めるようになったり、またそれをアタマのなかで繰り返せるようになったところで、実際にそれを弾いてみることができるかどうか、ということはまた別の問題ですね。
つまりここが、認識が表現に移し替えられるという段階、つまり「技術」の段階における問題なのです。

ですから、楽譜を読める、暗譜できる、という認識を実際の演奏として表現するために、とににもかくにもたどたどしい運指からはじめ、何度も何度も不協和音を鳴らしながら恥ずかしい思いをしながら、日々の練習として取り組んでゆかねばならないわけです。

ここをふまえて弁証法に話を戻しますと、まずは人から教わった弁証法はこれこれこういう法則を持ったものである、ということを押さえて「習得」したのちに、それを何度も何度も認識から表現、表現から認識へとのぼりおりを繰り返すという「修練」を積んでゆかねばならないわけです。

実際の表現のためにはこの修練が必要なところを、机の上で考えるばかりの思想家たちはどうしてもわかろうとせず、弁証法など使い物にならないと切って棄てるのですが、このような「認識即ち実践」という短絡は、いわば「モーツァルトの楽譜を手に入れたから私は稀代のピアニストなのである」といった阿呆ぶりを披露するのと論理的に同じなのですから、最低でも『裸の王様』からその論理くらいは学ばねばならなかったのです。

このような修練過程をたゆまず持つということはつまり、弁証法を念頭に置きながら、それを自らの認識と何度も何度も相互浸透させる、ということです。
この相互浸透が数年間にもわたる修練のうちに結果的に量質転化し、認識そのものが弁証法的に技化されてゆくという過程を持つものなので、弁証法は絶対に知識ではなく技術なのだ、という目的意識をもって習得しなければなりません、という注意を含めてタイトルとしたわけです。

「認識における技」としたので、認識なのか?技術なのか?と、概念的な整理ができている人をかえって混乱させてしまったかもしれませんが、事情はこのようなのでご了承のほどを。

◆

さてここでいう学問はなにも、一般に言う、学者がなにやら難しいことをごちゃごちゃやっている、という意味での学問だけに限ることではなく、本当の意味での学問が、その時代に人類が持ち得た最高の認識の形態であるからには、あらゆる対象と一流のレベルで向き合ってそれを我が物とし表現に移し替えるという時には、文芸やほかの文化を自分の道と定めた人にとっても、決して無関係のことではないのです。

むしろ、学問の冠石と呼ばれる弁証法は、最高の実践のためにはどうしても必要なものなのです。逆に言えば、高度な実践をしておられる方々の認識には、自然成長的ではあっても弁証法的な性質が働いている、とも言えます。

ただ自然成長的な認識というものは、目的的に培った認識とは違い、どこかが自己流にアレンジされてしまっているのです。たとえば三法則に当てはめてご当人の認識を調べてみただけでも、ひとつの法則は自らの金科玉条として無上の価値が置かれているけれども、他の2つの法則についてはまるで無頓着で玉に瑕になっている、などということがわかるものです。

たとえばわたしの歳上の友人は、その経験から「生があるから死がある。死があるから生もまたある。」などの関係についての法則性を引き出し、それを社会問題や業務上の実践にも当てはめて成果を出してきて、周囲からも賢人として認められておられる人です。

これは<対立物の相互浸透>の初歩の理解ですが、では他の法則についてはどうか?と、たとえば「生から死への転化はどういった過程があるのですか?」<量質転化>や、「生物種というより大きな視点から見れば、親が死んで種を残すからこその種の保存なのではないでしょうか?」<否定の否定>と、他の法則についての理解を促すかたちで質問をしても、知識的に知っている範囲内での事柄しか答えられないのです。

いくら強調しても、やはり実践から自らの手で引き出したという自信は抑えがたく、学者がなにやら言うておる、といった受け止め方でした。
しかし付き合いの長くなったある時ある拍子に、ご当人が突き当たっている問題について雑談していたとき、「えっ、あっそうか!ああっ…いま、きみの言ってることわかった…ずっと同じことを言ってたのか」と、なぜもっと早く納得させてくれなかったのか、と詰め寄られたものです。

三法則だけでも習得する気があれば、実践はより質的に違ったものになっていたはずで、事実ご当人も、眼前のあまりに大きな魚を逃したことに非常に悔いておられましたが、これが、自然成長というものなのです。

そういうわけで、せっかくこんな文字ばっかりの閻魔帳Blogを覚悟を決めて(これは本当です。読者でい続けてくださるみなさんの謙虚さにはいつも驚かされています)見に来てくださっている人たちは、せっかくエンゲルスがヘーゲルとそれ以前の哲学をとおして森羅万象のあり方と向き合い、三つの法則として引き出してくれた弁証法をありがたく学ぶことにしようではありませんか。

この三法則の導出というのは実のところ、本当に凄まじいほどの偉業なのであって、これはたとえば「ヘーゲルの考え方そのもの」を学ぼうとしても絶対的に不可能であったところを、三法則によって一般大衆にも大きく、一流への道を開いてくれたという素晴らしさがあるのです。

もっとも、弁証法にも当然ながら、まだ先があるのですが。
罵詈雑言が飛び交い猫も杓子も魑魅魍魎も跋扈するこのインターネットの片隅ででも、いつかそういうところまでみなさんとともに歩んでゆきたいものです。
本や公の記事よりも口悪くしゃべれ…おっと、本音が出せますし、なにしろ無料です。

◆◆◆

さて、まとめなのに全然まとまってない!というお叱りをそろそろ受けそうなので、後者の一連の記事についての説明書きは一行で済ませましょう。

後者の、とくに下記のものについては、いつまで経っても「受け身に」学ぼうとする姿勢が抜けない人には、ぜひとも一読と一考をお願いしたいと思います。
┗自らを恃むとはどういうことか(次回の記事)

次回の記事は、できれば今日の夜には公開したいと思っています。

2012/07/22

弁証法習練のための参考書はどう選ぶか

先日、いただいた質問に簡単に答えておきました。


ただそれでも、その方針にしたがって具体的に実践してみるとなるとなかなか難しく、「本当にこれでいいのかな?」と不安になってくる、ということがありますね。
今回は「質問へのお答え 1~3」を受けて、参考書の選定について、ひとつの例示を挙げて具体的に考えてみましょう。

ともあれ、実践上の不安というものがまったくなくなるということもないことはよくわかります。
とくに、ひとたび誰かを指導する立場になったならば、突き詰めるものごとの確からしさのみならず、その突き詰め方、という過程にも細心の注意を払わねばならなくなりますから。

しかしそれでも本来ならば、その不安さがあるということは、未だ過程における探求の至らざる証拠である、と捉えなければならないのです。
ここは実体的に言えば、痛みというものがあるからこそ故障の箇所や具合がわかるのであり、またそれにいかに対処するのかもわかってゆく、ということです。

◆

こと精神上の不安というものが無くならないということについては、当人の論理力の有無というものも含めて考えておかねばなりません。
感性と理性をごっちゃにするとはなんという暴論か、と言われる向きは、下の例をいっしょに検討してみましょう。

たとえば、あなたが乗車中に、誤って海に転落したときのことを想像してみてください。
車内の空気が抜けてゆくとともにずぶずぶと車体は沈んでゆきます。
後部座席に座っている友人たちが金切り声を上げ慌てふためいているのを知ると、とても落ち着いてなどいられない、というのが一般の心理というものでしょう。
となれば、この先あなたがたにどのような運命が待ち受けているかは、言うまでもないことです。

しかしもしここで、あなたの認識が実践に使えるほどに科学化されていればどうなるかも確認しておいてください。
ですからここでは、「もともと映画のヒーローや武芸者並の精神力があった」という前提はとりません。
さて万事休すかと思ったそのとき、「それでも最後までなにかできることを探さねば」というところに思いを致すことができて、また、わずかにでも冷静さを取り戻して、使える知識や考え方はないものかというほうに考えを向けられたとしましょう。

もし中学生レベルの科学的な知識さえあればあなたは、すでに水面から、身長ほどの高さくらいに車体が沈んでしまっているということから数トンの水圧がかかっているために、このままでは内側からドアをあけることは絶対的に不可能であるということがおおよそ推測できます。
だからこそ、他の乗客はこれほどまでに狼狽しているのだということも、それなりに受け止められるはずですね。

しかしここで、いま問題なのは、車内の気圧とそれを押し付けている水圧に差があるからこその問題なのだと、少しばかりの論理でもって考えることができるのであれば、どうすればよいのかもわかるのです。
実は、車内の空気がほとんど抜けてしまい、ほとんどが水で満たされてしまえば、自然とドアは手で開けられるようになるからです。

そうするとあなたは、同乗者の狼狽をなだめて、車内が水で満たされたらドアは開けられるから心配するな、それまで落ち着いて機を待ちなさい、ということができます。

◆

ものごとというのは、その先に待っているものを一般的にでも見通せる者にとっては、
「(実際的にどうなるかは経験がない以上わかりかねるけれども)少なくとも理論的にはこれでうまくいくはずだ」
という見通しが立てられることから、精神上の安定にも大きく一役買っているのです。

ですから、準備はやっているはずなのに発表ともなると不安で仕方がない、という場合には、その原因を「精神力の無さ」とか、「胆力の無さ」などといったものにいきなり解消して遺伝子やら運命のせいにしたりせずに、これから自分がやることについて、論理的に見通しが立てられているか、ということを考えてみるのも、大いに意味のあることなのです。


◆参考書の選定について◆

さて、雑談をしているとまたまた前に進まなくなりますから、本題です。

「自分自身の弁証法習練のために、社会と歴史の基礎についての参考書を選びたいのだが」ということでした。

質問者さんにお尋ねします。
あなたが本屋さんの店頭で、ページをペラペラめくりながら、どの参考書が良いものかと思案しています。
そのとき目についた箇所を比べた時、下に挙げた参考書は、どちらのものがよいでしょうか。
理由を挙げて、どちらかを支持してください。

なお図表は引用していませんが、なくても答えに変わりはありません。

◆『新しい科学の教科書 Ⅰ 第3版』
・水の不思議
水をコップに入れて冷凍庫で凍らせると体積が増えます。どうしてでしょう。
氷では、たくさんの水分子たちが集まって、互いにがっちりとスクラムを組んでいます。しかし、水分子たちはすきまの大きい集まり方をしています。液体の水では、水分子は互いに引き合いながら動きまわるようになり、すきまが小さくなります。そのため、水が氷になると、すきまの分だけ体積がふえるのです。
同じ個数の分子がつくる水と氷では、重さは同じです。しかし、体積は氷のほうが水よりも軽くなります。氷の密度は、水の密度よりも小さいのです。ですから、氷は水に浮くのです。これは特別なことなのです。
水とはちがい、ほとんどの物質は、液体から個体へと変化するときに体積が減ります。液体の水銀を冷やして個体にしたときのことを思い出してください。液体から固体になると、物質をつくっている分子のすきまが小さくなり、ぎっしりつまった状態になります。ほとんどの物質は、個体のほうが液体よりも密度が大きいのです。
◆『ブルーバックス 発展コラム式 中学理科の教科書 第1分野 物理・化学』
・氷が水に浮かぶ不思議
私たちは水に囲まれて生きていますが、水をよく観察してみると、不思議な性質をもっていることに気づきます。
温度が下がるとその体積が減少するのが物質の一般的な性質です。ですから、個体の状態は液体の状態よりも体積が小さいのが普通です。しかし、1gあたりの氷と水の、温度による体積変化は、不思議なグラフの形を示しています。氷が水に変わる0℃で体積が急激に変化しており、しかも個体の状態のほうが体積が大きいのです。
これは氷と水の構造に関係しています。水は氷になると、水分子がきれいに配列してすき間の多い構造となります。氷になると体積が増えるのはこのためです。ついでにいうと、水分子と水分子との間には結びつき(水素結合)がありますが、水分子をつくっている結びつきよりも弱いので、氷を砕いても水分子自身が壊れることはありません。
◆

「どちらも同じようなことを書いているようだが…個人の好き嫌いで選べば良いのではないだろうか。」と考えたが、答えを出せと言われるのでどちらかを選ぶことにした、というあたりでしょうか。

でも、それではいけないのです。
良い参考書がどちらなのかという問いは、読み手がものごとをどのように理解してゆくべきなのか、という尺度に照らせば、ちゃんと答えが出るのです。

「そんな、認識論もまだわからないのにできません」などと、しっかり検討もせずいきなり無理だと結論しないでください。
「無理なように見える…でも、自分にできることはまだなにかあるはずだ」と考えなければ、何事も前に進みませんし、論理の力もつきません。
ましてや後進を指導する者としては立てませんからね。続く者のために、と踏ん張って、努力の姿勢をぜひとも自分のものにしてください。

ここでもし、「読み手がものごとをどのように理解してゆくべきなのか」、つまり、一般的なものごとの理解の仕方がわからないのであれば、もっと具体的に問題を置き換えてみればよいのです。
たとえばあなたが中学生の後輩をもって、その人にいちばん正しく無駄のないやり方で理科を教えるためには、と考えてみればよいでしょう。
そのときにふさわしい参考書はどちらですか?もう一度考えてみてください。

◆

では、ということで2つの参考書の検討に移ることにすると、両者ともに、検定教科書と違って、「分子」の考え方を指導に取り入れていることがわかります。
たしかにこのほうが、熱やイオンなどに学習が進んだ時にも、すでに習った事柄を基礎にしながら考えを進めてゆけますから合理的です。

さてそういった大まかな方向性は似ている両者が、水分子について論じています。
水分子というのは、ほかの一般的な物質と違って、個体の状態のほうが液体の状態よりも体積が大きいのです。
だから、両者ともに「水は不思議である」という意味を込めた節題をつけているわけです。

これらの把握については、科学的な基礎知識であるだけに、両者ともに差はありません。
しかし、その「論じ方」は、大きく違っているのです。
その違いがわかりますか。
論理の力を実践に使えるくらいまでしっかりと伸ばしたい方は、論じ方の順番に着目しながらもう一度考えてみてください。

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ここまで書けば、「あっ、わかった!」となる人も多そうですね。

そうです。
順番が違うのです。
物質の一般的な性質と、そのなかでの水の特殊的な性質の記述の順番が、です。

『新しい〜』は、水の状態変化が持っている性質は特別だ、と述べたうえで、最もさいごの行になってはじめて、一般的な物質はそうではない、ということに言及しているでしょう。
それに対して『ブルーバックス』は、一般的な物質の性質について述べたあとで、それらと比べるかたちで、水の特殊性について言及していますね。

まとめていえば、前者はまず水の特殊性から物質の一般性へと進み、後者は物質の一般性から水の特殊性について進んでいます。

さて問題は、このどちらの記述方法が読者の体系的な理解を助けるのか?ということでした。
あなたはもう、答えがわかったのではないでしょうか。
これは、どうしても後者のほうが良い、ということになるのです。

◆

「なにも知らない人が読んだときにはどちらが理解しやすいだろうか」と考えたときに、自分なりの答えが出せましたね。
これこそが、認識論の習練になるのです。
一見するとわからないことでも、自分のできることから考えを進めれば、きちんとした答えが出るでしょう。もっと、自分こそを頼みにすべきです。そうしてそれを積み重ねてゆくべきです。

それでも、なぜに一般性から特殊性を論じるのが正しいのか根拠を述べよ、という人がいるでしょうか。
たしかに、部分的な引用で判断をするのは強引過ぎる、と判断したためにかえって答えが出せなかった人もいるかもしれませんので、もう少しつっこんで考えてみましょう。またこの確認をしておくことは、認識論的な観点からも重要です。

もしあなたが、理科についてまったく詳しくない人間だったとして、水と物質についてどのような像が描けるかを確認しながら読みなおしてください。

前者の論じ方といえば、水は不思議である。なぜなら個体のほうが液体よりも体積が増える。これは特別だ。それとは違って一般的な物質は〜、という流れです。
それに対して後者は、物質は一般的にこうだが、水はこのようである。なぜなら水分子の構造は〜、という流れです。

どのような像の描き方がなされたかがわかるでしょうか。

前者で水が不思議だと言われたとき、あなたのアタマの中の水の像は「???」となっています。次に特別だと言われても、なにがどう特別なのかがわかりません。なぜかというに、比べるものがなければそれが特別であることもまたわからないからです。そうしてやっと、最後の一行で、物質の一般性が登場します。しかし水の像が「???」のまま読み進めてきましたから、物質の一般性を提示されてもピンときません。そういうわけで読者は、物質の一般性をアタマに描きながら全文を読み返し、「ああそういう意味で、この著者は水を不思議だ特別だと言っていたのだな」と、やっと、水の特殊性について改めて理解することができるというわけです。
後者については、説明するまでもありませんね。
だから、後者のほうが良いのです。

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もし学校の実際の授業が、実験を中心としたものであるなら、水についてあれやこれや調べたあと、他の物質についても調べてみて、実は水のほうが特別だったんだよ、と、次第次第に物質の像を描かせてゆく、という方針で進めてもよいのです。

しかし、読みながら理解を進めるための教科書が、基礎的なところでさえも再読を要するものであっては、選ぶのに躊躇してしまうというものです。
この記述がさらに応用知識でも採用されていると…と考えると恐ろしくなりませんか。

わたしはこのBlogでは率直にものごとを言いたいこともあって、名指しでの批判はしないことが基本的な方針です。
しかし前者については、検定外の、よりよい教科書を作ろうという志は日本の義務教育にもよい刺激を与えるものと思うだけに、表現についての粗がどうしても目につくのです。
それは上で指摘した、子供たちがいかにものごとを理解してゆくかという認識論的な観点の欠如に加えて、あまりの落丁の多さ、です。

一般に教科書といえば、論理的にはともかくも知識的には現代という時代にまで発展した社会の構成員として、必須の知識を得るためのものであるがゆえに、落丁があってはいけないものです。
学生が、ここはもしかするとまた間違っているのではとビクビクしながら学ぶのであるなら、教科書としての役目を果たせるものではないと心得るべきでしょう。
すでに10箇所前後の落丁を見つけましたが、ウェブサイトにも正誤の一覧がないところを見ると、どうしたものか、という思いがします。

前者の編者は、実は後者ブルーバックスの高校編の編者をしているので、このあたりは出版社の校正体制に問題があるのかもしれません。
しかしともかく読者にとっては、世に出た表現こそが全てです。

認識論的な面についても、参考文献には「仮説実験授業」で、科学教育に認識論を取り入れた板倉聖宣の名が見えるだけに、当人から何を学んだのだろう、あの人の研究の偉大さは科学史から人類の認識の発展過程を学び、それを個人の認識の発展過程につなげたところにあるはずなのに…と、苦言を呈さざるを得ないのは残念です。

◆

さて、またまた余談が過ぎましたが、参考書の選び方は、大まかにはこのようになされるべきものです。
一言でいえば認識論的な観点を持つべきである、ということになりますが、弁証法の習得過程ではいきなりは難しいですから、上で述べたように、自分の出来る範囲で、「ものごとを全く知らない人でもわかるかな」という視点で比べてみて、認識論的な実力も共に養ってゆくとよいでしょう。

また良い参考書を選んでおけば、弁証法の習得の助けにもなりますから。

ここでは一部しか比較しませんでしたが、経験から総じて言えば、一部であっても明らかな優劣がつく場合には、他の箇所で盛り返すことは難しいものです。

わたしも新しい教科書が出るたびに手にとって楽しみに読んでいますが、科学という分野では、検定教科書についてはあまり大きな違いはないようです。
知るかぎりではブルーバックスシリーズは一般図書として店頭でも手に入りますし、構成についても良い本だと思います。

同様に考えて、他の分野の参考書についても検討してみてください。

2012/07/21

技としての弁証法は何を導くか (5)

この節は、具体的な一般性修得の進め方です。


さて上で述べてきていることはなんとなくわかったが、擱筆する前に具体的にどういう修練をすべきなのか教えろ、という方もおられるかもしれません。
その場合には、まずは自らの専攻分野の歴史の流れを、一般性において把握してください、ということになります。

つい最近の記事でも出しておきましたが、林健太郎『歴史の流れ』に、知識的にではなく、その一般化の程度をしっかりと学び、自分の専門分野の歴史を、それと同じレベルの一般性において把握できるのであれば、自らの目指すべき本道がいかなるものであるかがおぼろげながらわかってきます。

言い換えれば、西洋史が『歴史の流れ』という一般性として示されているのと同じようなかたちで、たとえば日本史、物理学史や経済学史、そのほか芸術史、武道の歴史、文学史といった、自らの先行する分野の歴史を一般性において表すべきである、ということです。

この一般化というものを、決して軽視しないでください。
これが把握できるということが、直接的に一流となるための条件となっているのですが、人はあまりにもここを軽視し、またあまりにも努力しなさすぎます。
だから、根拠薄弱のまま前に進み、少し小突かれては一度立てたはずの主義を撤回せざるを得なくなり、あまつさえ真理なるものはないのだ、などといった甘えた相対主義に落ち着かざるを得なくなるのです。

わたしたちは、歴史を先人から引き継ぎ、新たに創造することで受け継いでゆくのです。
自分勝手にでっち上げるのではありません。

それでも一般化というものを、「大まかなあらすじを書けばいいだけだろう、なにがそんなに難しいのか」と言いたい人には、「ではやってみなさい」と言ってあげてください。
実際にやってみれば、これはとてもとても難しいことであると、すぐさまわかります。

なぜと言うに、対象となる分野の大道が見えていなければ、どの歴史的な事実を拾ってゆけば良いのかが解らず、結局のところ、年代順に事実を並べてゆく羽目に陥るからです。
しかしそんなものは、一般性では絶対にありません。
繰り返し言いますが、本質や原理原則がおぼろげにでも見えなければ、対象を選びとることはできないのです。
原理や原則があるからこそ個別もありうるのである、という対立物の相互浸透のありかたを今一度押さえてください。

ことはこうであるからこそ、入門者用の教科書は、ものごとを一般的にでも突き詰めてからでしか書けない、と言われるのです。
しかし、専門分野の全体像が見えてくることを自然成長性に任せていては、教科書を書ける頃には引退間近、ということにもなりかねませんから、初心においてでも力不足を顧みず、全体像を見渡してやるぞ、そこに一本の筋道を見つけてやるぞ、という不退転の決意と問題意識でもって、はじめの一歩をとにもかくにも踏み出してください。

まずは、一般性を引き出すために必要な書籍の選定をやることです。
自らの専攻分野についての、通史、〜の歴史、学史、などといったものの中から、その歴史が持っている全体像を浮き彫りにしてくれる書物を探すとよいでしょう。
通史と言いながら年号と出来事を並べているようなものなど、名前負けしているものはどんなものものしい冊数の、分厚い全集であろうとダメです。
むしろ、薄くコンパクトにまとまっている本のほうがよいことさえありますので、先入観なしに網羅的にあたってください。
ある程度見て回れば、芋づる式によい本が見えてくるでしょう。

また、扱っている対象について、たとえば物理学なら「物理」、経済学なら「経済」、その根本概念について、「物理とはこれこれこういう現象である」と、明確に概念規定してあるものは最良です。

そうして、弁証法を最大の導きの石としながら、その壮大な流れを一般性をもって書いてみることです。
A3を二つ折りにして、時代ごとに一枚見開きを使って書ききる、ということを歴史全体を通してやってみて、それを何度も何度も読み返しながら不足を補い、ある程度の流れが踏まえられたら、さいごにA3一枚に、前歴史の流れを書き起こしてみてください。
それができたときには、一度見せてください。

これはいくら強調してもし足りないほどに、またまともな一般性というものはとんとお目にかかったことがないというほどに、重要でありながら軽視されていることなのです。
どんな分野の歴史でも、ある程度の一般性でもって書いてこられる学生さんがあれば、わたしは生涯にわたってその分野についてはその当人に聞くことになりますし、その人格をも尊敬してやまないことになるでしょう。

***

私事ですが、わたしは所属したすべての大学で、すべての学科の「総論」、「概論」、「入門」、「原論」、「学史」といった総論的な授業に出ましたが、そのうち見事であると思えたのはたったひとりの人物の手による、総論と学史だけでした。
わたしが記事のはじめに、いつも「前回は〜〜という内容をお話してきましたね」とあらすじを述べるのは、「それまでの流れを一般的に押さえる」ということを、読者のためのみならず自らの修練として繰り返し繰り返しやっているのだと、その構造を押さえて理解してほしいと思います。

このことの重要性は、その恩師の背中から次第次第にわからされてきたことです。
その学恩を受けて、授業修了時の試験の解答として制限時間内にありったけの筆の勢いで書き下ろした、当時のわたしなりに把握した歴史の流れを見るや、恩師は「あなたの解答は私の学問教育の一里塚として誇らしい。額縁に入れて飾ってある」と、こちらが卒倒するくらいの過大な、それはそれは受け取り切れないほどの最大限の賛辞を持って喜ばれたことを、いまでも鮮やかに思い出します。

わたしはそのときには、飛び上がらんばかりに嬉しい反面、「なぜあの解答がそれほどまでに喜ばれたのか?もっと時間があれば詳しく書けたはずであろうに…」という疑問符だらけの感情のこもった問題意識でもって、わけもわからないながら毎日毎日、頭の中の恩師と議論しながら学問と取り組んだのち、弁証法、そしてそのうちの一般性というものの無上の重要性に、これまた次第次第に気付かせてもらえることになったのです。

あの日々というは、まことに牛歩そのもので、自らのわからなさ加減、馬鹿さ加減、根性の至らなさ加減に深い失望を覚えつつも、かけていただいた言葉を唯一かつ無上の糧として自らを奮い立たせる毎日でありましたから、こうしてみなさんに確からしくなったところをお伝えできるというのも、それはそれは嬉しいことなのです。

さて思い出話はさておき、本道を歩むにあたってのはじめの難関である一般化の修練過程においては、自分の把握している歴史を、弟子や人に話して伝える、わかるように教える、ということが最良の訓練になります。

そこではあくまでも歴史の王道を一つの流れでもって示せねばなりませんから、実のところ、個々別々の人物名や年代、なんたら条約、会議、といった名称は、歴史上必要不可欠なものを除いてほとんど顔を出さないものと考えてください。
またそれらが出てくるときには、大きな歴史の流れのひとつの要素として取り込まれて登場しなければならないのです。

我こそは、と思わん方はぜひとも取り組んで、それなりのまとまりができたときにはわたしにも聞かせて、見せていただきたいと思います。
出来がいかなるものであってもダメで元々、取り組んだこと自体が価値であるとの最大の敬意を払って歓迎します。存分に志のほどを見せていただきましょう。

その暁には、また次の一歩について議論したいものですね。
少し先取りしますと、一般性を把握した後には、それを否定の否定で本質論へと転化させてゆく過程が待っています。
ものごとの探求ということには、終わりというものはないのです。
これまでには想像すらできなかった地平を目の当たりにした時の感動を、ぜひとも共に分かち合いたいものだと願ってやみません。


(了)