彼は事情があって筆をとれませんので、わたしが彼のぶんを代筆することにします。
つい最近、わたしもあわや大惨事という怪我を経験しかけた
(それでも少し傷は残ると思いますが)ところで、
十分に気持ちは理解できると思いましたので、
こういう時こそ、平時では得られない体験をとおして、
物事の見方を深めてくださるようにとお伝えしておきました。
異常時ほど、自分が物事に向き合う際に、問題意識を働かせているかどうかということが、
とても判断しやすくなりますので。<対立物の相互浸透>
タイミングよく、今回扱った作品とも関連性があります。
わたしも半年に一度ほどでしょうか、気が抜けた時にはどうしても倒れますが、
そのときには枕元にはスケッチブックを置くようにしています。
眼をつぶっただけでも、普段はとてもお目にかかれないようなものが見え、
認識における異常性を確かめるにはもってこいですからね。
他にも、日々を我が道の半ばと捉えられている方々には当然でもありますが、
思う思わぬに関わらず雌伏の時を過ごされている方に、こうお伝えしたいものです。
深くかがまねば、高くは跳べないものである。
◆◆◆
というわけで、下のリンクは今回に限り、青空文庫の本文です。
変則的ではありますが、3作品ほどお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
◆わたしの評論◆
太宰治 新郎
「一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。」という一文で始まるこの随筆には、日々を大切に生きる心がけを持つことがいかに大事なのかが、筆者の身近な経験をもとに書き記されています。そこでの彼は、子供にいつもより気持ちを込めて優しくし、食材不足で筆者の要望に応じられない妻を気遣い、また自宅へ遊びに来る大学生たちにたいしていいかげんなごまかしの親切ではなく、本音で向き合おうとしています。さらに、その姿勢を世の中に生きるすべての人々に向けることができれば、とまで祈念しているのです。さて筆者が、こういった思想を持つに至ったのには、どんな理由があったのでしょうか。
◆◆◆
この作品には、<身の丈を越える大きな不安に、最後まで抵抗する決意をした人間の姿>が描かれています。
キリスト者を自認する筆者のことを考えれば、彼が上で述べたような心がけをするようになった理由を、「筆者のキリスト教的な博愛の精神の表れ」であるとして片付けてしまいそうです。しかしそれでも、これほど急に思い立ったように日々の過ごし方の大事さを説くというのは、それなりのきっけがあってのことなのでしょう。おそらく筆者は、あるきっかけで、そういった心がけを持つべく決意したのです。結論を先取りすれば、それというのは、筆者が彼自身の生きた時代を、戦争の足音が聞こえてくるものとして、誰よりも敏感に感じ取っていたからだ、と言えそうです。事実、この随筆が記されたその朝、日本は真珠湾攻撃をもって、第二次世界大戦の口火を切る事になるのです。
文中をみると、彼の健康や暮らしぶりを心配する叔母にたいして、本人が説明しているところからも、彼の心情が伝わってきます。筆者の、将来のことをあまり顧慮しようとしない姿勢を見るに見かねて、叔母は心配の手紙を寄越します。それに彼が答えているところを見てみましょう。彼の主張はこうです。叔母さんが心配されるのもやまやまだが、それは決して、虚無主義でも諦観によるのでもない、と。その行動原理を要すると、「先のことを思い悩んで無駄な徒労をするよりも、日々を大事に生きることが、いまの自分に出来ることの全てなのです。私はそう信じているから、それに基づいて行動しているだけであり、決していい加減に暮らしているわけではありません。心配はご無用です」、といったところです。彼の思いは、「私に出来ることは、先の心配ではなくて今を大事に生きることだ」、そのことに尽きるでしょう。冒頭の一文も含めて、この作品全ては、その基本線に沿って描かれています。
◆◆◆
この箇所に限らず、文中には「信じる」という言葉が何回も出てきます。「私の子供は丈夫に育つと信じている」、「日本は必ず成功すると信じている」、「文学を、信じて成功する」。しかし、「なぜ信じうるのか」という疑問には、具体的な計画は見て取れませんし、結局なにも答えることが出来ていません。しかしともかく、筆者の姿勢を見ると、家庭の内外、また人生観としても、「まずもってとにかく信じる」ことから始めねばならない、との思想があるようです。そこから、信じて日々を生きていさえすれば、必ず成功が訪れるはずだ、との結論を導き出したいのでしょう。そうして心の安定をなんとか得たい、という筆者の感情が見て取れます。
では実際に日々をどう過ごしているかといえば、それは以下のようにです。
「このごろ私は、毎朝かならず鬚(ひげ)を剃る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤いを持たせる」
彼によれば、これらの日々の過ごし方はすべて、ある成功を信じる、という思想から引き出された行動です。ところが現代を生きる私達からすれば、これがなぜ成功につながるのだろうか、との疑問を呼び起こさずにはいられないでしょう。上で述べたように、具体的な方法が、まるで語られていないからです。
もっと悪く言えば、彼の、先に起こる物事の成功を無条件に「信じる」という彼の姿勢が、まるで問題に対して行動することを諦め、ただ信じる、信じると唱えているだけに映るかもしれません。私たちは、観念だけでは物事は進展せず、それがある種の実践的な行動に繋がってゆかなければ、もとの思いがどんなに素晴らしいものであっても画餅に帰することを知っています。しかしそれというのは、私達が生きる現代という時代が、先の見通しが立ちやすい、少なくとも明日の生命が脅かされることはない、という前提から成り立っている発想なのです。
もっと悪く言えば、彼の、先に起こる物事の成功を無条件に「信じる」という彼の姿勢が、まるで問題に対して行動することを諦め、ただ信じる、信じると唱えているだけに映るかもしれません。私たちは、観念だけでは物事は進展せず、それがある種の実践的な行動に繋がってゆかなければ、もとの思いがどんなに素晴らしいものであっても画餅に帰することを知っています。しかしそれというのは、私達が生きる現代という時代が、先の見通しが立ちやすい、少なくとも明日の生命が脅かされることはない、という前提から成り立っている発想なのです。
社会が安定して、先行きの見通しが立つ場合には、おそらく明日も、今日と同様の過ごし方ができるのですから、何も今日という日を全身全霊を持って過ごさなくても、どうせ明日があるさ、という姿勢で生きることもできるものです。ここでは、直感的に明日の確からしさがそれなりに担保されているわけですから、わざわざ「信じる」ものを探さなくても、精神的にはそれほどの不安定はもたらさないため、安定の根拠を探すことはまれなのです。
しかし世界が戦争へとなだれ込んでゆこうとしている世の中ともなると、明日の生活どころか、場合によっては明日の生命すら危ぶまれるという事態にもなりかねません。最悪の場合、いくら仕事に精を出して貯蓄を蓄えても、明日空爆で死んでしまえば元も子もないわけですから、この場合にまともに日常生活を送ろうとすればどうしても、「明日もきっと平穏無事に暮らせるであろう」という心の安定が必要となってくるわけです。そう考えれば、私達が普段それとなく暮らしている日常生活が、物質的・精神的な安定の上にこそ成り立っていることを知るのは、わけもないことです。
とくに彼のように、この先起こり得、ますますその可能性の高まっているであろう戦争の足音を、誰よりも鋭く敏感に察知できている感性を持っているとしたなら、ずいぶん事情は変わってきます。
身の丈をはるかに超える危険を知りながら、それがもはや自分のみならず、誰の手にも負えぬところにまで膨らみ、その不安に押しつぶされそうになるという状況に置かれた彼の身になって考えてみてください。そんな彼であれば、「この日、この日だけは」との思いで、自分に手の届くところだけでも、そのいとおしさをしっかりと噛み締めて、後悔のないように過ごしてゆこう。そう決意したことがわかるのではないでしょうか。
(同じ筆者の手になる『ヴィヨンの妻』の最後に、主人公がつぶやくセリフに彼の思想との類似性があったことを思い出してください。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」)
◆◆◆
ある危険が、もはや自分の手には負えぬとなったときに、人間の脳裏には二つの極端な選択肢が訪れます。それはひとつには、自暴自棄になってなにもしない、ということです。もし行動したとしても、結局はなにも変わらないのですから、これはこれで、ある種の合理性に基づいた選択ということになります。しかし他方、自分の行動によってなにも変わらないことを知りつつも、それでも自分にできることをやろう、無駄でもやろう、という姿勢でもって、日々をかけがえのないものとして過ごすことも、人は選べます。
この作品における筆者の姿から学ぶとするなら、後者の姿勢をとるときに必要になってくるものが、「信じる」という心がけである、ということになるでしょう。この心がけは、自暴自棄になるという選択が大口を開けて眼前に待ち構えているときに、それを最後の最後の力でもって飛び越えうる力として扱われているからです。現在の問題が好転する具体的な方法は思いつきもしないが、それでも、事態は良くなるはずだと信じることなくしては、何も始められない、ということなのです。
筆者が、「一日一日を、たっぷりと生きて行くより他は無い。」と言い、また「いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。」、「本当にもう、このごろは、一日の義務は、そのまま生涯の義務だと思って厳粛に努めなければならぬ。」と言いきるのは、彼が社会情勢の不安が手の付けられないほどに増大していることを感じ取ったことの、裏返しでもあります。その不安を、「信じる」という一念で振り切り、まずは日々の暮らし方から整えて、いつか来る成功を、ただ信じて待つことを選んだ。この作品には、筆者のその覚悟が見て取れます。
日々の暮らし方についての正しい姿勢がしっかりと身につけば、日々の生活で見慣れた町並みや雑踏、身を取り巻くあらゆるもの、目に飛び込んでくるものすべてが目新しく感じられ、それはこれからの幸福な生活が約束されているかのような心地であるはずです。それはまるで、新しい生活に思いを馳せ、将来はきっと幸せなものになるという希望で満ち満ちている人間のよう。彼はこれらのことを縮めて、「私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きている」と表現しているのです。その心構えこそが、取り返しの付かない動乱のなかにあって、彼がたったひとつすることのできた、抵抗であったのでしょう。
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