誰かが作った創作物をながめて評することから一歩進んで、
自分の手でなにかを創作してみようということになると、ぶつかるひとつの壁があります。
以前にお話ししたような、一般にいう「趣味」というものをたんなる娯楽ですませずに、
より深くとらたうえで、それをとおして人間の本質に迫ろうという人には、なおのこと乗り越えなければならないものです。(Buckets*Garage: 新しい季節をおくる諸君へ:趣味はどう選ぶべきか。より深い理解には、このBlogはなにを伝えたいのか(1)、(2)、(3))
その壁というのは、現実を取り巻く「制約」です。
芸術におけるそもそもの制約、という大きなくくりにして論じ始めると、
森羅万象の無限の広がりと、わたしたち人間が認識のあり方を有限の形でしか持ち得ないという矛盾があり、
そういう物質的な「枠」の存在と、芸術の表現形態としての「枠」のありかたを論じてゆかねばなりません。
これは簡単な例で言えば、たとえば現在主流となっている液晶パネルの比率が16:9のワイドスクリーンであるというのは、画面の比率と人間の認識とのかねあいのなかに、どのような合理性があるのか、という論じ方になります。
大雑把に言えば、一昔前までは、眼球がまぶたからのぞくことによって生まれる視野の縦横の比率が1.33:1であるという説が有力であり、一昔のテレビはこちらを採用していたのですが、近年のワイドスクリーンは、両目での周辺視野を含めたサイズとなってきたという経緯があるわけです。
◆◆◆
ただ、ここで表現論や映画史の講義をするのもあまり面白くありませんから、もう少し実践的に、わたしたちが実際に創作活動に取り組むときのありかたを見てゆきましょう。
表現は様々ながら、みなさんもこんなことを言われているのをご存知なのではないでしょうか。
それは、「一見すると単なる障害のようにも見える制約というものが、かえって創造性を高めるのに役立った」、
一言でいえば「制約は創造の母である」、などというものです。
さてこう問うと、もはや答えはすでに出たようなものですが、いつの場合にもそうであるように、答えそのものはさほど重要ではありません。
この格言めいたものを正しく実践へと適用するには、そこへと至る過程を正しく追えているかどうかが問われているからです。
さてそのような視点から創作活動を眺めたとき、制約といえば、たとえば
作りたいものがあるのに、画材や設備が高くて買えない場合や、
作りたいものが壮大過ぎて時間が足りるかがわからない場合などが挙げられるでしょうか。
◆◆◆
そういった外部からの物理的な制約の他に、精神的な制約もありますね。
たとえばものづくりを仕事にするなら、
「お客さんから頼まれたとおりにモノづくりをせねばならない」といった社会的な約束事が、自分のアタマのなかに「〜べきである」、「〜ねばならない」といった形で自分を縛ることもあります。
こちらは精神的な、内面的な制約であり、難しく言えば「観念的に対象化された」意志、ということです。
これは本来は自分の外部に位置するはずの「対象」(このばあいはお客さんの要望)が、
自分の内面のなかに像として残り、くり返しくり返しささやきかけてくるようになる、ということなのです。
自分のアタマの中にありながら、自由意志とはちがった形で訴えかけてくる意志が、それとは別に存在するということは、ひとつの矛盾です。
たとえば奥さんから身体を心配されタバコを禁煙を薦められているにも関わらず、「わかっちゃいるけどやめられない」という感情が生まれる場合にも、彼の内面の中に、矛盾する二つの意志が存在しているからですね。
それは、奥さんから「やめなさい」といわれたことをきっかけに生まれた「身体に悪いからやめよう」という対象化された意志と、長い年月をかけて習慣化されて定着した(量質転化した)ところの「身体に悪くても吸いたい」という自由意志が対立しているわけです。(厳密に言えば、後者はすでに自由意志よりも強い働きになっていることが、熱心な読者なら読み取れているかもしれません。ですが、ここでは意志についての矛盾について把握しておいていただければ結構です)
ここを感受性の鋭い人は、実体として好きなことをやっている「自分」のアタマの上に、ふきだしの中にはいった幽霊のような形で「ああそんなことやめとけばいいのに」と思いながら自分を客観的に眺めている「自分」を意識できたりもするのではないでしょうか。
あれは、こういったアタマの中で分裂した「もう一人の自分」を、感性的な段階で認識できているということでしかなく、人間にとっては誰でも持っている認識の在り方なのですから、いくら先生や友人から理解されなくとも、おかしなことではありません。
あなたのほうが、よりよく人間の感情を感じ取れているわけですから、将来的には人の精神を助ける仕事などにふさわしい性質だと言えるでしょう。
◆◆◆
さて外部からの命令や要望によってアタマの中に作られるものを、「観念的に対象化された意志」と言うのでした。
なぜこのような働きを持つようになったかといえば、人間の前段階であるヒトが、社会を形成するようになるにつれて他のヒトとの交通関係を持つようになると、こういったかたちで他のヒトとのあいだにあるていど共通の像を持っておかねば、総体として効率的な生活が営めなかったからです。
だって、個々別々バラバラに行動しているのなら、「社会」的な存在であることにはなってゆきませんからね。
そういうことから見れば、「観念的に対象化された意志」の成立をもって、ヒトとヒトとのあいだに「規範」の原基形態(原始的なカタチ)が成立した、ということになるわけです。
ところが、ここには一つ落とし穴があります。
これは研究職についている人間でも学問的な土台を持っていなければよく間違えるところなのですが、人間が規範を成立させるという現象だけを見てとって、それがまるで、人間の個々の体を抜けだした観念が寄り集まって、大きな「集団意志」のようなものを形成し、あろうことかそれが人間を操っているのだ、と解釈するという誤りです。
しかし、人間の認識の交通関係は、そんな霊魂のような概念を捻出せずとも十分に説明できますし、実のところわたしたち人間には「以心伝心」ということはありえません。
それがどんなに心と心でつながっているという感情を想起するものであっても、それがどうやって成立したのかを考えれば、
相手の表現した物質的な音声が空気の振動によって鼓膜に伝わることや、
注文書に記された要望を光学的な過程を経た後に自分の目に像として結ばれる、という過程を経た上で、あくまでもその上で、他者に理解されていることがわかります。
そういう過程を正しく踏まえるならば、自分の中に自由意志とは違った意志、つまり他者との間の約束である規範が存在することが理解できます。
ここの例でいいえば、自分から見れば外部からの、つまりお客さんの「ああしろこうしろ」といった口うるさいクレームや、または「できればこうしてほしい、あなたならできるはずだ」といった期待を込めての要望が、物質的な対象が感覚を通してアタマに像として反映されたものですね。
これらの意味を要して、学問の世界では「観念的に対象化された」と表現するわけです。
(2につづく)
2011/06/30
2011/06/29
学問用語はなぜあんなに物々しいのか
更新が遅れがちですみません。
昨日はまともな更新ができなかったので、
早起きして書きかけのものを見返したのですが、
勢いに乗って書きすぎて、表現が難しくなりすぎたのでボツにしてしまいました。
実のところ、こういうことがよくあります。
ボツにされた記事の慰霊というわけではありませんが、
転んでもただでは起きたくないし、この失敗を記事にしましょうか。
◆◆◆
一般の方は、学問用語というものはなぜにあんなに物々しいのか、と思われることが多いでしょう。
このBlogにはじめて来た人は、「あんなに」というか「こんなに」だろ、とおっしゃるかもしれませんね。
くわしいご説明は以下として、まずはじめに弁解させてもらうと、
実のところ、使いこなせればあれほど便利なものはありません。
なにしろ、論文1本ぶんくらいの意味合いをふくめたことばを、一語で表現できるからです。
本質的な概念規定になると、それこそ全集10冊分くらいの重みがある言葉もあります。
武谷の「技術」、三浦の「弁証法」、エンゲルスの「三法則」、カントの「二律背反」や「物自体」、ヘーゲルの「絶対精神」などなどに出合ったときには、わたしは本に額を押し当てて「参りました」、と心の底から感じ入ったものです。
わたしはここでは、一般の方にも読んでもらえるようにしたいと思っているので、
「これくらいの説明でわかってもらえるかな?、まだ誤解されるかな?」などと考えていると、
あれやこれやとたとえ話が多くなって、えらく長くなってしまったりもするわけです。
実はここ数カ月で、少しずつ話の内容をこっそり難しくしてきたので、
先週まではデザインという新しい分野の話を織りまぜながら、
難しくなりすぎないように配慮したつもりです。
◆◆◆
ただこれもまあ、言ってみれば、料理を仕掛けているあいまに赤ん坊をあやしながら来年大学受験を控えた高校生に数学を教えつつ足では雑巾がけをしながら子どもが寝静まった夜中に自分の仕事をするための考え事をしている…という有様なので、手が行き届かないところも多々あると思います。
どだい、ここだけで学問のすべてのことを網羅しつくすのは無理なので、その土台部分のところを、わたしや近しい人にとって身近なジャンルを引き合いにだしながら話をしてゆく、ということになります。
そうやって表現は馴染みのあるものとするにしても、内容についてはたしかなものにしたいという思いを常に持っているので、その言葉だけを見ると、学問などとは無縁の方にはたいへんに物々しいものに映るかもしれませんし、「なにを当たり前のことをわざわざ難しく言っておるのだ」、といった疑念さえ呼び起こすほどのものかもしれません。
実際にわたしも、実業家の方と人間というものの捉え方についてお話ししているときに、「変数」ということばを出してしまって、とても怒られたことがありました。
曰く、「人間を数で論じるとは何事か!?」、ということで、こんなところまで仔細にわたって誤解を解かねばならないとするなら、学者は一言もしゃべれないな、と心底落ち込んだものでした。
事実、言葉尻を捕まえて感情的に反発される場合には、誤解の種はそこかしこに転がっているものですが、それらに対する説明や反論を事前に用意しておくわけにはいきません。
たとえば「変数」というのは、別に「数」のことだけを指しているわけではなくて、これは定数や定量だけではなく一般のことば、つまり定性的な表現も含めた用語で、単に、「論じやすくするために規定されたことば」、といった意味合いしか持たないのです。
ましてや、人間を数字の上で、機械的に見るためのものでは決してありません。
こういった必要上の作法を、なにか価値観を含めたものとして受け止めるというやり方は、一般の方に少なくありません。
その理由は簡単で、論争で勝つ時にいちばん手っ取り早いのが、そのやり方だからです。
そのおかげで、たとえばお役所が発行している文章には、当たり障りの無さすぎて、これだけの文量があるからには何か書いていなければおかしいはずだとは思いつつも、いくら読んでもなんらの主張も見いだせないような、そんな文字列が踊っているでしょう。
あれは、言葉尻を捕まえて批判するような人間が、市井に少なからずいることの裏返し(浸透のあり方)でしかありません。
ここで論じている根本原理、「唯物論」にしたって、「精神を物質で論じるとは何事か!?」と憤慨して去ってしまえばオシマイです。
◆◆◆
ですから、このBlogで踊っているのは、お役所の出す文字列とは違って、存在そのものがリスクの塊のような文章であり、書き主はさしずめ誤解の種どころが誤解の実をたわわに実らせた大樹、というような具合です。
もし枝葉の下に、わたしが風に負けて実をおとすことを待ち受けているような、つまり揚げ足を取ることを今か今かと心待ちにしているような人間がいるのなら、とっくにこんなところは閉めてしまっているはずです。
しかし学者であるからには、ものごとを誤りなく伝えることをとおして、人類の文化に新たな第一歩を書き加えることこそ命がけの仕事なのですから、たとえ憤慨されて斬りつけられることになったとしても、譲れないことがあります。
「哲学」と「思想」は別のものですし、「科学」と「技術」、「武道」と「武術」も違います。
またこれは、このBlogでも意識していることですが、そういった「誤りなく伝えるための技術」は、なにも用語だけにとどまりません。
たとえば、「私はイチゴを食べた」と、「私はイチゴを食べたのだ」という表現のどちらが適切かとなったときにも、後者の表現を採用するときには、言い手が「私はイチゴを食べた」と<断定>の判断をしたあと、それをおおつかみに一語で捉え直したことと直接に「もの」を略したところの「の」を加え、もう一度「だ」をつけて<断定>したのだ、というすべての過程を通して<強調>を表現したのである、という理解がおこなわれています。
(掛詞です、気づいたら笑ってもいいところですよ。そのほうがよく覚えますし。)
またその理解を、いわゆる「文法」を通した理解ではなくて、日本語の文章そのものを見ることによって、既存の文法を批判的に捉え返し、「なるほど、『おおつかみに一語で捉え返す』という行為を一般的に把握したからこそ、それが<名詞>と呼ばれることになったのだな」、と、日本語から文法の理解が生成されてきた過程そのものをふくめて理解してゆきます。
逆に、「これを<名刺>だというので忘れないように」としか説明のできない先生方は、いくら肩書きがそうであっても、決して人類を代表して意味のある一歩を踏み出せる、ほんとうの学者ではありませんから。
これはなにも自慢などではなくて、それが学問だからそうである、というだけの話です。
(物を書いているのに知らなかった、と赤面している正直なお人は、三浦つとむ『こころとことば』などからはじめてください。新版は挿絵がないので、旧版を買ってください)
◆◆◆
こういうことをするのが当然であるというのは、学問という世界が、一般には同じように考えられている隣接する諸学と、隣接する概念の間に、明確な線引きをした上でなければ、まともにものごとを論じようもない、絶対に学問にはならない、という厳しさがあるからです。
この厳しさが伝わらない場合には、「細かいことを言いやがって、それがなんの役に立つのだ」と誤解されてしまうというわけですが、このことは、ビジネスはビジネスの存在意義があり、学問には学問の存在意義があるというふうに、職業に貴賎なしと理解するならば、同じ専門家としてこういった必要性はお互いに認めてゆきたいところですが…。
もっとも、実践は順序が先だから理論に勝るのだ、というような平面的な考え方を譲れない場合には、対話の可能性はなくなってしまうものです。
ただどこの世界にも俗物は居るものであり、学問の世界にも、どこぞの思想家の作った概念を、ただ単に足しあわせたようなヨコモジを、自分のオリジナルな思想だとかいって売り込もうとする恥知らずもいることは、残念ながら事実と言わねばなりません。
誤解を防ぐためにも、ああいった手合いが人様に迷惑をおかけしないよう、士道不覚悟にて内々に「処理」しなければならない責任もあるのかもしれませんね。
◆◆◆
さて、学問についての誤解が少し解けたとして、
明日はうまくいけばこんな記事が待っているはずです。
「制約は創造の母か?」、そんなところ。
これまでお話ししてきた、認識の話と、新しくはじめたデザインの話が、
一致し始めるところですが、はたしてわたしは、今日の失敗を生かせるか、どうか。
それにしても、こんな文字ばっかりのBlogを、あちこちに口をあけている誤解の落とし穴に落ちること無くさいごまで読んでくれている読者のみなさんには、感謝のことばもありません。
表現というのは、書き手と読み手の共同作業です。
谷底に転げ落ちても這い上がるのはわたしの役目ですが、
そうできるのは読み手がいてこそです。
どうか、山の頂までともに歩み進まれんことを。
昨日はまともな更新ができなかったので、
早起きして書きかけのものを見返したのですが、
勢いに乗って書きすぎて、表現が難しくなりすぎたのでボツにしてしまいました。
実のところ、こういうことがよくあります。
ボツにされた記事の慰霊というわけではありませんが、
転んでもただでは起きたくないし、この失敗を記事にしましょうか。
◆◆◆
一般の方は、学問用語というものはなぜにあんなに物々しいのか、と思われることが多いでしょう。
このBlogにはじめて来た人は、「あんなに」というか「こんなに」だろ、とおっしゃるかもしれませんね。
くわしいご説明は以下として、まずはじめに弁解させてもらうと、
実のところ、使いこなせればあれほど便利なものはありません。
なにしろ、論文1本ぶんくらいの意味合いをふくめたことばを、一語で表現できるからです。
本質的な概念規定になると、それこそ全集10冊分くらいの重みがある言葉もあります。
武谷の「技術」、三浦の「弁証法」、エンゲルスの「三法則」、カントの「二律背反」や「物自体」、ヘーゲルの「絶対精神」などなどに出合ったときには、わたしは本に額を押し当てて「参りました」、と心の底から感じ入ったものです。
わたしはここでは、一般の方にも読んでもらえるようにしたいと思っているので、
「これくらいの説明でわかってもらえるかな?、まだ誤解されるかな?」などと考えていると、
あれやこれやとたとえ話が多くなって、えらく長くなってしまったりもするわけです。
実はここ数カ月で、少しずつ話の内容をこっそり難しくしてきたので、
先週まではデザインという新しい分野の話を織りまぜながら、
難しくなりすぎないように配慮したつもりです。
◆◆◆
ただこれもまあ、言ってみれば、料理を仕掛けているあいまに赤ん坊をあやしながら来年大学受験を控えた高校生に数学を教えつつ足では雑巾がけをしながら子どもが寝静まった夜中に自分の仕事をするための考え事をしている…という有様なので、手が行き届かないところも多々あると思います。
どだい、ここだけで学問のすべてのことを網羅しつくすのは無理なので、その土台部分のところを、わたしや近しい人にとって身近なジャンルを引き合いにだしながら話をしてゆく、ということになります。
そうやって表現は馴染みのあるものとするにしても、内容についてはたしかなものにしたいという思いを常に持っているので、その言葉だけを見ると、学問などとは無縁の方にはたいへんに物々しいものに映るかもしれませんし、「なにを当たり前のことをわざわざ難しく言っておるのだ」、といった疑念さえ呼び起こすほどのものかもしれません。
実際にわたしも、実業家の方と人間というものの捉え方についてお話ししているときに、「変数」ということばを出してしまって、とても怒られたことがありました。
曰く、「人間を数で論じるとは何事か!?」、ということで、こんなところまで仔細にわたって誤解を解かねばならないとするなら、学者は一言もしゃべれないな、と心底落ち込んだものでした。
事実、言葉尻を捕まえて感情的に反発される場合には、誤解の種はそこかしこに転がっているものですが、それらに対する説明や反論を事前に用意しておくわけにはいきません。
たとえば「変数」というのは、別に「数」のことだけを指しているわけではなくて、これは定数や定量だけではなく一般のことば、つまり定性的な表現も含めた用語で、単に、「論じやすくするために規定されたことば」、といった意味合いしか持たないのです。
ましてや、人間を数字の上で、機械的に見るためのものでは決してありません。
こういった必要上の作法を、なにか価値観を含めたものとして受け止めるというやり方は、一般の方に少なくありません。
その理由は簡単で、論争で勝つ時にいちばん手っ取り早いのが、そのやり方だからです。
そのおかげで、たとえばお役所が発行している文章には、当たり障りの無さすぎて、これだけの文量があるからには何か書いていなければおかしいはずだとは思いつつも、いくら読んでもなんらの主張も見いだせないような、そんな文字列が踊っているでしょう。
あれは、言葉尻を捕まえて批判するような人間が、市井に少なからずいることの裏返し(浸透のあり方)でしかありません。
ここで論じている根本原理、「唯物論」にしたって、「精神を物質で論じるとは何事か!?」と憤慨して去ってしまえばオシマイです。
◆◆◆
ですから、このBlogで踊っているのは、お役所の出す文字列とは違って、存在そのものがリスクの塊のような文章であり、書き主はさしずめ誤解の種どころが誤解の実をたわわに実らせた大樹、というような具合です。
もし枝葉の下に、わたしが風に負けて実をおとすことを待ち受けているような、つまり揚げ足を取ることを今か今かと心待ちにしているような人間がいるのなら、とっくにこんなところは閉めてしまっているはずです。
しかし学者であるからには、ものごとを誤りなく伝えることをとおして、人類の文化に新たな第一歩を書き加えることこそ命がけの仕事なのですから、たとえ憤慨されて斬りつけられることになったとしても、譲れないことがあります。
「哲学」と「思想」は別のものですし、「科学」と「技術」、「武道」と「武術」も違います。
またこれは、このBlogでも意識していることですが、そういった「誤りなく伝えるための技術」は、なにも用語だけにとどまりません。
たとえば、「私はイチゴを食べた」と、「私はイチゴを食べたのだ」という表現のどちらが適切かとなったときにも、後者の表現を採用するときには、言い手が「私はイチゴを食べた」と<断定>の判断をしたあと、それをおおつかみに一語で捉え直したことと直接に「もの」を略したところの「の」を加え、もう一度「だ」をつけて<断定>したのだ、というすべての過程を通して<強調>を表現したのである、という理解がおこなわれています。
(掛詞です、気づいたら笑ってもいいところですよ。そのほうがよく覚えますし。)
またその理解を、いわゆる「文法」を通した理解ではなくて、日本語の文章そのものを見ることによって、既存の文法を批判的に捉え返し、「なるほど、『おおつかみに一語で捉え返す』という行為を一般的に把握したからこそ、それが<名詞>と呼ばれることになったのだな」、と、日本語から文法の理解が生成されてきた過程そのものをふくめて理解してゆきます。
逆に、「これを<名刺>だというので忘れないように」としか説明のできない先生方は、いくら肩書きがそうであっても、決して人類を代表して意味のある一歩を踏み出せる、ほんとうの学者ではありませんから。
これはなにも自慢などではなくて、それが学問だからそうである、というだけの話です。
(物を書いているのに知らなかった、と赤面している正直なお人は、三浦つとむ『こころとことば』などからはじめてください。新版は挿絵がないので、旧版を買ってください)
◆◆◆
こういうことをするのが当然であるというのは、学問という世界が、一般には同じように考えられている隣接する諸学と、隣接する概念の間に、明確な線引きをした上でなければ、まともにものごとを論じようもない、絶対に学問にはならない、という厳しさがあるからです。
この厳しさが伝わらない場合には、「細かいことを言いやがって、それがなんの役に立つのだ」と誤解されてしまうというわけですが、このことは、ビジネスはビジネスの存在意義があり、学問には学問の存在意義があるというふうに、職業に貴賎なしと理解するならば、同じ専門家としてこういった必要性はお互いに認めてゆきたいところですが…。
もっとも、実践は順序が先だから理論に勝るのだ、というような平面的な考え方を譲れない場合には、対話の可能性はなくなってしまうものです。
ただどこの世界にも俗物は居るものであり、学問の世界にも、どこぞの思想家の作った概念を、ただ単に足しあわせたようなヨコモジを、自分のオリジナルな思想だとかいって売り込もうとする恥知らずもいることは、残念ながら事実と言わねばなりません。
誤解を防ぐためにも、ああいった手合いが人様に迷惑をおかけしないよう、士道不覚悟にて内々に「処理」しなければならない責任もあるのかもしれませんね。
◆◆◆
さて、学問についての誤解が少し解けたとして、
明日はうまくいけばこんな記事が待っているはずです。
「制約は創造の母か?」、そんなところ。
これまでお話ししてきた、認識の話と、新しくはじめたデザインの話が、
一致し始めるところですが、はたしてわたしは、今日の失敗を生かせるか、どうか。
それにしても、こんな文字ばっかりのBlogを、あちこちに口をあけている誤解の落とし穴に落ちること無くさいごまで読んでくれている読者のみなさんには、感謝のことばもありません。
表現というのは、書き手と読み手の共同作業です。
谷底に転げ落ちても這い上がるのはわたしの役目ですが、
そうできるのは読み手がいてこそです。
どうか、山の頂までともに歩み進まれんことを。
2011/06/28
RSSフィードの追加について
帰ってきました。
今日はなにも記事を予約していないのと、
これからトレーニングともうひと仕事なので、
毎日の21時を暇つぶしにと来てくれている方には、
きょうは先に寝ててくださいと言っておきます。
真剣に勉強しに来てくださっている方はすみません。
余力があれば更新しておきますが日が変わる頃ですので、やはり先に寝てください。
さて、昨日友人に尋ねられたので、RSSフィードへリンクを貼っておきました。
当ブログのタイトルの下、「備忘録。」の右側にリンクがあります。
一旦リンクを踏むと、RSS対応のウェブブラウザではワンタッチでRSSに飛べるようになりますので、更新をチェックするときなどは便利です。(Safariなら、URLの書かれている欄の右側にアイコンが出ます)
というわけで、おやすみなさい。
今日はなにも記事を予約していないのと、
これからトレーニングともうひと仕事なので、
毎日の21時を暇つぶしにと来てくれている方には、
きょうは先に寝ててくださいと言っておきます。
真剣に勉強しに来てくださっている方はすみません。
余力があれば更新しておきますが日が変わる頃ですので、やはり先に寝てください。
さて、昨日友人に尋ねられたので、RSSフィードへリンクを貼っておきました。
当ブログのタイトルの下、「備忘録。」の右側にリンクがあります。
一旦リンクを踏むと、RSS対応のウェブブラウザではワンタッチでRSSに飛べるようになりますので、更新をチェックするときなどは便利です。(Safariなら、URLの書かれている欄の右側にアイコンが出ます)
というわけで、おやすみなさい。
2011/06/27
人間にとって、持って生まれた外見とはどのような位置づけのものか
みなさんが、見知らぬ人に声をかけられるというときというのは、どういう時なのでしょうか。
わたしはなんでも、どこぞの誰かに似ているらしく、
街を歩いているとそういったことで捕まってしまうことがあります。
単に見た目が誰ぞと合致しているということなどは、
正直に申しましていい迷惑そのものなのですが、先日ある出来事がありました。
ちょっと話変わって、わたしは、横断歩道で信号を変わるのを待つのが好きです。
理由といえば、自分で生活の上でいくつか設定しているルールの一つに、
「静止時は脚部を中心にして全身に力を込める」
ということを実践しているからです。
電車での通勤時、エレベーターなどをはじめ、横断歩道でもやはりやります。
これは、下駄も履かずまともな運動もまるでしない現代人が、人間としての土台を補うためにどうしても必要だから、というわけでの工夫なのですが、言ってみるほど簡単ではありません。
はじめは1分やるのでも脂汗がにじむほどで非常な努力が必要であるところを、長い間続けているとだんだんと慣れてきて、わたしの場合はこれをやらないと一日が始まった気がしません。
ですから、すんなりと信号を通過できてしまうとむしろ物足りない思いがしてしまい、あえて遅らせたりもするくらいです。
◆◆◆
なぜに物足りない思いがするかというと、手足に力を込めるということをとおして、全身に力が漲るということを、身体的に確かめられるからです。
またこれをあくまで平静を装った形でできるようになると、姿勢がすっと伸びて、どうしても多くなるデスクワークで曲がりがちな背筋を保つ役目も果たしてくれます。
そういった身体的な効果は、なにも身体的なものにとどまることなく、「今日も何があっても、上を向いて真っ直ぐに進んでみせよう」という気概を心の底から湧き起こさせることにももってこいだということが、一番の理由となっています。
(※これを実践してみようという方は、慣れてきて力を込めすぎる傾向のあるばあい、爪を故障させてしまうことがありますので、慣れてきた頃には注意をしてください。内出血などになり、慣れない方には見た目にも痛々しいものと映りますので…もっとも、数ヶ月も経てば、出血部分は伸びた爪に押し上げられてなくなります。手のひらに爪が食い込む場合には、棒を握っておいてください。過去のエントリに革細工の記事があります)
こうして、一般によく言われる「気合を入れて身体を前に進める」のとは逆に、身体的な運動が精神に与える影響を実感を伴った体験としてもっておくと、精神的に逃げ場がないようなときへの対処法としてとても有効なのです。
◆◆◆
そのことはさておき、先日、いつものとおり横断歩道で足と手にぐっと力を込めて待っていましたら、横に立った人から、「あの、」と声をかけられました。
つづく言葉がたまにある、「どこかでお会いしましたか?」なんかだったら嫌だなと思って振り向くと、「何かやっておられますか?」とのこと。
この「何か」というのは、なにも横断歩道でなんぞトレーニングをやっているとかそういうことだけではなくて、「どういうことを目指して生きておるのですか」といったより深い響きのように受け取れました。
見れば眼に少し力のある、すっきりとした物腰の方で、直接には背筋だかを評していただいたあと二言三言交わして分かれましたが、こんな人もいるのだなと思わせられたものです。
指摘されたときは死角から一本取られたような気がして、なぜに少しでも察知できなかったのかと、自らの鈍感さがとても恥ずかしかったものですが、思い返してみればなんとも不思議な体験でした。
◆◆◆
わたしは学生時代、服飾系の職場で働いていたことがあり、外見的なものがどれほどに人の目を惹きつけるかというものを思い知ってきましたし、普遍的な美というものは、いつも注意を払ってみてきたことでもあります。
ただこれは、だから外見を整えなければ、ということなのではなくて、わたしの場合は逆に、器量や身なりなどの外見ばかりを手がかりにして人を判断しがちである、ということへの自戒の意味合いがとても大きいものです。
たしかに、人それぞれが生まれ持ってきた背丈や体つき、器量などというものは、メスで身体に手を入れるのでもなければなかなかに変えがたいところがあります。
学生のみなさんであれば見聞きしたことがあることかもしれませんが、少なくとも若いあいだは、そのことが人生をある程度左右しているともとれる事実を見ているはずです。
大学でのミスコンで優勝するのは、なにも「お天道様に恥じることは決してするまいと心がけて日々を生きる女の子」だったりはしないでしょう。
こう言うと、くすりと笑う学生さんの顔が眼に浮かぶほどです。
ところが、ある程度齢を重ねると、やはり人の生き方というものは、見た目にも反映されてきます。
大きな腹を揺らして大衆にはおべっかを使いながら個人的な付き合いには人を見下すような態度を取る人間を、その身なりや立ち居振る舞いから見てとって、わたしたちは一見して「タヌキおやじ」などと言ったりします。
政界を知らない人からみると、そういった人間がなぜにあれほどの支持を受けるのかまるでわからない、といったところでしょう。
また、「三十がらみの、べちょっとしたいやらしい女」(高橋留美子『人魚 第1巻』)といった表現を見れば、漫画での描かれ方にあたるまでもなく、実際の像として思い浮かべて想像してみることができます。
ところが、ああいった直感的な把握というものが、その人の内面についての、ある真理をつかまえていることは、誰しも経験的に知っていることです。
◆◆◆
たしかに、背丈にしろ器量にしろ、持って生まれた要素がより良く見えるように伸ばしてゆく努力をしてもよいのだし、相手に失礼にならぬくらいには身なりも整えることはしてもよいのです。
女優さんが駆け出しの頃には垢抜けないように見えても、外面や服装を整えだしてからは独特の雰囲気を発するようになることは、環境や外面からの内面への浸透が大なりなのですから、過小評価し過ぎることもできません。
ただ、それで内面まで取り繕えたり潰しが効くというのは、とても限定的な期間のうちだけなのだ、ということもまた、一方の真理として想像することはしてみてほしいものです。
「想像してほしい」と書いたのは、実際にあるていど歳をとってみるまでは、学生のあいだには、まるで想像できないほどに理解しがたいことだから、です。
わたしの場合は、学生時代にそういった向きを身を持って経験してきてしまったので、いまではむしろ、外面をあまりに整えすぎている人からは距離をおくくらいがちょうどいいのではないかとさえ思えます。
わたしは学生さんから好きなタイプの人を聞かれたときに、テレビは見ないために具体的な人物としては誰も挙げられないものですから、「格好をつけて高い服を買ったり、派手に化粧をしない人でしょうか」、などと言います。
事実、自分と向き合って日々を過ごされて個人的にもとても信頼している人たちは、身なりは整えるくらいにとどめ、過度に取り繕うことは一切していません。
ともあれ、男であろうが女であろうが、明確な目標を目指して生きている人というのは、生活の中でのあらゆるところに、目標を実現するための細かな工夫を積み重ねているもので、結局のところ、齢を経て残るのは、そういった意識的な積み重ねの結果でしかないのであり、見る人が見るのならばそれは明らかなのだな、と今回の件は改めて教えてくれたものでした。
「男であろうが女であろうが」と書いたのは、横断歩道で声をかけてこられた方が異性だったためですが、学生のみなさんはぜひとも、このことをそれぞれのちいさな教訓としてほしいと思い、筆を認めた次第です。
あくまで人間であろうとする者ならば、持って生まれたものだけを誇るような存在には、なんらの感銘も受けないものですから。
わたしはなんでも、どこぞの誰かに似ているらしく、
街を歩いているとそういったことで捕まってしまうことがあります。
単に見た目が誰ぞと合致しているということなどは、
正直に申しましていい迷惑そのものなのですが、先日ある出来事がありました。
ちょっと話変わって、わたしは、横断歩道で信号を変わるのを待つのが好きです。
理由といえば、自分で生活の上でいくつか設定しているルールの一つに、
「静止時は脚部を中心にして全身に力を込める」
ということを実践しているからです。
電車での通勤時、エレベーターなどをはじめ、横断歩道でもやはりやります。
これは、下駄も履かずまともな運動もまるでしない現代人が、人間としての土台を補うためにどうしても必要だから、というわけでの工夫なのですが、言ってみるほど簡単ではありません。
はじめは1分やるのでも脂汗がにじむほどで非常な努力が必要であるところを、長い間続けているとだんだんと慣れてきて、わたしの場合はこれをやらないと一日が始まった気がしません。
ですから、すんなりと信号を通過できてしまうとむしろ物足りない思いがしてしまい、あえて遅らせたりもするくらいです。
◆◆◆
なぜに物足りない思いがするかというと、手足に力を込めるということをとおして、全身に力が漲るということを、身体的に確かめられるからです。
またこれをあくまで平静を装った形でできるようになると、姿勢がすっと伸びて、どうしても多くなるデスクワークで曲がりがちな背筋を保つ役目も果たしてくれます。
そういった身体的な効果は、なにも身体的なものにとどまることなく、「今日も何があっても、上を向いて真っ直ぐに進んでみせよう」という気概を心の底から湧き起こさせることにももってこいだということが、一番の理由となっています。
(※これを実践してみようという方は、慣れてきて力を込めすぎる傾向のあるばあい、爪を故障させてしまうことがありますので、慣れてきた頃には注意をしてください。内出血などになり、慣れない方には見た目にも痛々しいものと映りますので…もっとも、数ヶ月も経てば、出血部分は伸びた爪に押し上げられてなくなります。手のひらに爪が食い込む場合には、棒を握っておいてください。過去のエントリに革細工の記事があります)
こうして、一般によく言われる「気合を入れて身体を前に進める」のとは逆に、身体的な運動が精神に与える影響を実感を伴った体験としてもっておくと、精神的に逃げ場がないようなときへの対処法としてとても有効なのです。
◆◆◆
そのことはさておき、先日、いつものとおり横断歩道で足と手にぐっと力を込めて待っていましたら、横に立った人から、「あの、」と声をかけられました。
つづく言葉がたまにある、「どこかでお会いしましたか?」なんかだったら嫌だなと思って振り向くと、「何かやっておられますか?」とのこと。
この「何か」というのは、なにも横断歩道でなんぞトレーニングをやっているとかそういうことだけではなくて、「どういうことを目指して生きておるのですか」といったより深い響きのように受け取れました。
見れば眼に少し力のある、すっきりとした物腰の方で、直接には背筋だかを評していただいたあと二言三言交わして分かれましたが、こんな人もいるのだなと思わせられたものです。
指摘されたときは死角から一本取られたような気がして、なぜに少しでも察知できなかったのかと、自らの鈍感さがとても恥ずかしかったものですが、思い返してみればなんとも不思議な体験でした。
◆◆◆
わたしは学生時代、服飾系の職場で働いていたことがあり、外見的なものがどれほどに人の目を惹きつけるかというものを思い知ってきましたし、普遍的な美というものは、いつも注意を払ってみてきたことでもあります。
ただこれは、だから外見を整えなければ、ということなのではなくて、わたしの場合は逆に、器量や身なりなどの外見ばかりを手がかりにして人を判断しがちである、ということへの自戒の意味合いがとても大きいものです。
たしかに、人それぞれが生まれ持ってきた背丈や体つき、器量などというものは、メスで身体に手を入れるのでもなければなかなかに変えがたいところがあります。
学生のみなさんであれば見聞きしたことがあることかもしれませんが、少なくとも若いあいだは、そのことが人生をある程度左右しているともとれる事実を見ているはずです。
大学でのミスコンで優勝するのは、なにも「お天道様に恥じることは決してするまいと心がけて日々を生きる女の子」だったりはしないでしょう。
こう言うと、くすりと笑う学生さんの顔が眼に浮かぶほどです。
ところが、ある程度齢を重ねると、やはり人の生き方というものは、見た目にも反映されてきます。
大きな腹を揺らして大衆にはおべっかを使いながら個人的な付き合いには人を見下すような態度を取る人間を、その身なりや立ち居振る舞いから見てとって、わたしたちは一見して「タヌキおやじ」などと言ったりします。
政界を知らない人からみると、そういった人間がなぜにあれほどの支持を受けるのかまるでわからない、といったところでしょう。
また、「三十がらみの、べちょっとしたいやらしい女」(高橋留美子『人魚 第1巻』)といった表現を見れば、漫画での描かれ方にあたるまでもなく、実際の像として思い浮かべて想像してみることができます。
ところが、ああいった直感的な把握というものが、その人の内面についての、ある真理をつかまえていることは、誰しも経験的に知っていることです。
◆◆◆
たしかに、背丈にしろ器量にしろ、持って生まれた要素がより良く見えるように伸ばしてゆく努力をしてもよいのだし、相手に失礼にならぬくらいには身なりも整えることはしてもよいのです。
女優さんが駆け出しの頃には垢抜けないように見えても、外面や服装を整えだしてからは独特の雰囲気を発するようになることは、環境や外面からの内面への浸透が大なりなのですから、過小評価し過ぎることもできません。
ただ、それで内面まで取り繕えたり潰しが効くというのは、とても限定的な期間のうちだけなのだ、ということもまた、一方の真理として想像することはしてみてほしいものです。
「想像してほしい」と書いたのは、実際にあるていど歳をとってみるまでは、学生のあいだには、まるで想像できないほどに理解しがたいことだから、です。
わたしの場合は、学生時代にそういった向きを身を持って経験してきてしまったので、いまではむしろ、外面をあまりに整えすぎている人からは距離をおくくらいがちょうどいいのではないかとさえ思えます。
わたしは学生さんから好きなタイプの人を聞かれたときに、テレビは見ないために具体的な人物としては誰も挙げられないものですから、「格好をつけて高い服を買ったり、派手に化粧をしない人でしょうか」、などと言います。
事実、自分と向き合って日々を過ごされて個人的にもとても信頼している人たちは、身なりは整えるくらいにとどめ、過度に取り繕うことは一切していません。
ともあれ、男であろうが女であろうが、明確な目標を目指して生きている人というのは、生活の中でのあらゆるところに、目標を実現するための細かな工夫を積み重ねているもので、結局のところ、齢を経て残るのは、そういった意識的な積み重ねの結果でしかないのであり、見る人が見るのならばそれは明らかなのだな、と今回の件は改めて教えてくれたものでした。
「男であろうが女であろうが」と書いたのは、横断歩道で声をかけてこられた方が異性だったためですが、学生のみなさんはぜひとも、このことをそれぞれのちいさな教訓としてほしいと思い、筆を認めた次第です。
あくまで人間であろうとする者ならば、持って生まれたものだけを誇るような存在には、なんらの感銘も受けないものですから。
2011/06/26
どうでもいい雑記:良いデザインに辿り着くには、見る目を養うにはどうすればよいか
この記事、ほんとうは前回の記事の最後に書き足していたのだけど、
例のごとく長々と書いてしまったので別記事にしました。
というわけで、前回の続きとして読んでください。
◆◆◆
◆◆◆
◆◆◆
わたしは、優れているものをどんどん取り入れてゆくべきだと思っているし、もし学者などでなくても、あたらしい物事をはじめるときには、まずは目指すジャンルのことをおおまかにでも網羅的に調べた上で、大きな絵地図を描いておくべきだと考えている。
それが「学ぶ」ということである。
その姿勢なくして、自分は能力があるからだとか天才だからとかのたまって、その姿の中に謙虚さが微塵も感じられない人間というのは、これは接するに値しない。
もし能力があるというのなら、その能力で以て、己の「才」というものがいかにして生成されてきたのか、というくらいは問うてみて明確な答えを提示してほしいものである。
もっとももし仮にそれができるのならば、そんな姿勢などとれるはずもないのであるが。
褒められるために動くというのは、物心つくまでで卒業としたいものである。
例のごとく長々と書いてしまったので別記事にしました。
というわけで、前回の続きとして読んでください。
◆◆◆
どうでもいいけれど、今回をはじめとする一連の、デザインに関する記事は、美的なものに関心がない読者にも少しでもわかってもらおうと敬語調に書いたのだが、なんだかやっぱりはっきりとモノを言うためには常体のほうがいいなあ。
ってわけで、いまさらながらいつもの調子でいちばんさいご(※前回の記事のさいご、ということ)に言いたいことを言ってしまうと、自分の実績がどんなものであろうが、そこに胡座をかいているようなものは、会社でも人間でもやっぱり話にならないな、とおもう次第。
ってわけで、いまさらながらいつもの調子でいちばんさいご(※前回の記事のさいご、ということ)に言いたいことを言ってしまうと、自分の実績がどんなものであろうが、そこに胡座をかいているようなものは、会社でも人間でもやっぱり話にならないな、とおもう次第。
いまは戦争というものの本質が、資本主義の中に巧妙に包み隠されている時代だから、どんな作品も、そのほとんどが商品としての形態をとって世の中に現れてくる。
そこには、「商品としての商品」と、「商品の皮を被った作品」が混在しているから、作り手の認識を手繰り寄せながら、両者をあるていど区別することのできる鑑識眼が求められている。
これはもちろん、作品の商品としての性格を否定するものでもないし、逆に作品としての質が高ければそれを受け入れない消費者がおかしいなどといいたいわけではない。
しかし、同じ市場でシェアを競っているように「見える」ことに引きずられて、ある組織がどのような意図をもってその商品を生み出しているのかを見ずに、「勝ったか負けたか」という現象でしか物事を語れない人間がほとんどであることを見ていると、(見た目には)同じ人間としてなんとも悲しくなる。
◆◆◆
デザインにしろ芸術にしろ、もし少しでも見る目を付けたり、自分のことを目利きだと言いたいのならば、ひとつにはその作品の作り手が、「どのレベルまでそのものを突き詰めているか」ということくらいは見ておいてほしいと思う。
以前に、ものづくりにおいては、95%まではそれなりの人なら誰でもやってくるけれど、残りの5%をどれだけ血の滲むような思いをして突き詰められるかで、作品の寿命は2倍にも3倍にもなる、だから「神は細部に宿る」というのだ、というようなことを述べたことがある。
どんな例をとってみてもよいが、たとえば同じコンピュータのOSだと思われているMacとWindowsであるが、ひとつウィンドウをとってみても、前者は常に"OK"がウィンドウの右下にあるのに対し、後者は同じ位置には"キャンセル"が占めており、"OK"はばらばらである。
もしMacが使い勝手に定評があると知っていたり、また使い勝手になにか違いがあるなと感じたときには、「そこに何があるのか」、言い換えれば「そこには作り手のどのような工夫があるのか、ないのか」と問いかけてみてほしい。
このたとえの答えは、Mac OSの作り手は、人間の認知のありかたを研究した上で、人間はまず大枠を認識したあと、そこから目立つものをさがすように絞り込む、という性質を特定した上で、作業中のウィンドウにおいてもっとも使用頻度の高いボタンを、「常に」右下に持ってくるようにしているのである。
ではWindowsの作り手はどうかといえば、これはただMacのインターフェイスを模倣した上で、訴訟なんかで面倒がないように「単に逆にした」だけ(!)である。
◆◆◆
ここをオタク連中は、「慣れればどっちでも同じ」などと短絡してしまうが、同じなわけがなかろう。
一般人は、オタクではないのである。
もしはじめて訪れたビルの玄関に丸ノブがついているときに、押しても引いてもドアが開かないものだから鍵が閉まっているのだと諦めたとしよう。
待ち合わせに遅れているがどうしたものかと待っていたら、おもむろにドアが開き、中から取引先が厳しい顔を出した。
「いったいどれだけ人を待たせるのか!?」
しかしあなたはそのとき、ひとつのことに気がついた。
実のところそのドアは、引き戸だったのである。
これでも、「慣れればどっちでも同じ」と言えるだろうか?
デザインというものは、そういうものである。
ユーザーインターフェイスの第一人者とされるドン・ノーマンの著作に、『誰のためのデザイン?』というものがあるが、慣れれば云々などと短絡してしまう連中は、「誰のため」という以前に、デザインが「人間のためにあるし、そうでしかない」ということすら失念してしまっているという情け無さを自ら露呈しているのである。
◆◆◆
ユーザーインターフェイスの第一人者とされるドン・ノーマンの著作に、『誰のためのデザイン?』というものがあるが、慣れれば云々などと短絡してしまう連中は、「誰のため」という以前に、デザインが「人間のためにあるし、そうでしかない」ということすら失念してしまっているという情け無さを自ら露呈しているのである。
◆◆◆
わたしは、優れているものをどんどん取り入れてゆくべきだと思っているし、もし学者などでなくても、あたらしい物事をはじめるときには、まずは目指すジャンルのことをおおまかにでも網羅的に調べた上で、大きな絵地図を描いておくべきだと考えている。
それが「学ぶ」ということである。
その姿勢なくして、自分は能力があるからだとか天才だからとかのたまって、その姿の中に謙虚さが微塵も感じられない人間というのは、これは接するに値しない。
もし能力があるというのなら、その能力で以て、己の「才」というものがいかにして生成されてきたのか、というくらいは問うてみて明確な答えを提示してほしいものである。
もっとももし仮にそれができるのならば、そんな姿勢などとれるはずもないのであるが。
褒められるために動くというのは、物心つくまでで卒業としたいものである。
ともあれ、売れていたり、優れていると言われるデザインを単に形だけを真似るのではなくて、そこに「作り手のどのような意図が働いているのか?」と問いかけて、彼女や彼らが、「使い手のためにどのような工夫を凝らしたか?」を認めなければ、真の模倣というものは絶対にありえない。
ここは、観念と物質をまるで関わり合わない別個のものとしか理解出来ないアタマの堅い連中には詭弁としか映らないことのようだけれど、わたしたちが抽象画を観たり、新しいジャンルの音楽を聴き始める時には、「はじめはわからなかったものがだんだんわかってくる」という事実を誰しも経験するものである。
そうすると、わたしのいつも大事だと強調する認識の在り方というものは、実のところ、対象との関わり合いにおいて、量質転化的に感覚へと相互浸透してゆくものなのである。
ここをどれだけ大雑把に見ても、観念が物質へ、物質が観念へと影響を与え合ってゆくさまくらいは見て取ることができよう。
極意論的に述べるとするなら、仮にもまっとうな人間たろうとするなら、作品の理解はその作り手の思いを読み取ったればこそである。
であるから、世の中に溢れているくだらない製品のために、貴重な資源を浪費しまくっている会社にこう言いたい。
「パクるなら、ちゃんとパクれ」、と。
2011/06/25
本日の革細工:自転車用バッグとフロント/サドルの互換性の問題
昨日までの記事でサドルバッグの話は終わったはずなのですが、
ところがどっこい。
よく考えたら、肝心の自転車への取り付けの仕方を紹介するのを忘れてました。
デザインはもういいから次の話に行っておくれ、
と言われるかもしれないので、もう一つ記事を公開しておきますので勘弁を。
◆◆◆
さてサドルバッグというからには、自転車のサドルに取り付けられなければなんの意味もないわけです。
いちおうご説明しておきますと、従来の自転車用のバッグといえば、サドルにしかつけられないか、ハンドルの部分にしかつけられないものがほとんどでした。
◆◆◆
なかには、サドルにも付けられるようなフロントバッグもあります。
以下のようなものや、
わたしが今回のバッグをつくるときに参考にした、ジンバーレのバッグ(Buckets*Garage: デザインにおける弁証法 01)がそうです。
フロントバッグにもサドルバッグにも併用できるものは、探すのが難しく、事実数えるほどしか無いのですが、その理由の一つが、「ベルト部」に互換性を持たせにくい、ということです。
◆◆◆
今回は、自分でわざわざバッグをつくるくらいですので、バッグの設計当初から、その問題にも取り組んでみようと考えていました。
そういうわけで、ひとまずモンベルが採用している仕組みを参考にしながら、上面と、背面にそれぞれベルトループとなる穴を設けました。
そうしてバッグが完成したのちに、自転車に実際に取り付けるときに、
以前に作ったベルトでとりあえずフロント部に固定してみました。
このままでは揺れたときにタイヤと擦れそうなので、
フロントキャリア(荷台)はあったほうがよさそうですが、とりあえず装着できます。
ひとまずこれでよし。
◆◆◆
さて次は、面倒なサドルとの固定です。
サドルは、もしバッグを付けられたとしても、ふとももに当たらない工夫が必要だったりと、けっこう難しいのです。
これは面倒かもしれないぞと警戒していたのですが、
いろいろといじってみたら、非常に具合の良い方法を思いつきました。
どうなっているかわかるでしょうか。
こうやって、2本のベルトをクロスさせているのですね。
ハンドルと固定するのと同じベルトでサドルにも、しかもワンタッチで固定できるというのは、うれしい誤算でした。
◆◆◆
ものづくりをしていると、あれやこれやと計算し尽くして設計したあとには、こういう偶然が起こることがあります。
ただ計算するというのは、現実から抽象された数字という一般性を使って、あるものと別のものとを同列に比べることなのですから、それも十分にありうることなのであり、またそこに人間の認識の癖、作り手の整合性への関心をはじめとした癖といったものが加味されてきますから、まったくの偶然というわけではありません。
人間の指の数が左右合わせて10本でなければ、わたしたちの使っている数字は十進数ではなかった可能性が高いですし、わたしが使っているものさしがメートル法に基づいているのでなければ今回の一致はまた違った形であらわれていたはずです。
そういう意味で、今回の一致は、その前提の段階で、ある程度絞りこまれていたのだ、ということですね。
さてその証拠といってはなんですが、今回はもうひとつの偶然がありました。
今回のバッグには、底面をキャリアと固定するための金具があります。
この金具に、下のベルトを通してフロントおよびリアのキャリア(荷台)と固定するわけです。
裏返すとこういう具合ですね。
◆◆◆
これを、フロントでもリアでも使えるものにできれば1本だけですみます。
それではいったい、穴の間隔をいくつにすればよいのかと、それぞれ計算してみました。
その結果は、以下のとおりです。
(1) フロントキャリアとの固定…257mm
(2) リアキャリアとの固定…300mm
(※それぞれのキャリアは、リーベンデール専用キャンピーです)
また念のため、このベルトを他の部分とも互換性を取れないかどうか、言い換えれば他の部分にも流用できないかと考え、それも同じように測ってみました。
(3) シートポストと背面ベルトループとの固定…330mm
(4) 革サドルにある金具と背面ベルトループとの固定…300mm
また、これは紙で測ったときのもので、ためしに革でできたベルトを当ててみると、紙で測ったときの誤差が15mmであることがわかりました。
そうすると、(5) それぞれに15mmを足した分の穴もほしいところです。
◆◆◆
さてここで、なにか気付くことがありませんか?
わたしたちは、義務教育で「公約数」というものを習いましたが、ここでもそれが使えることになりました。
なぜかというと、300mmを基準点としてそこから15mmをひとつの区切りとすれば、上で挙げたそれぞれの固定が順に、
(1)3区切り小さいところ、(2)基準点、(3)2区切り大きいところ、(4)基準点、(5)
としてすべてに当てはまるように設定できるからです。
つまりベルトの穴の間隔を15mm刻みにすれば、バッグをどこに固定するときにでも、1本のベルトだけですべての用途をこなせるわけです。
細かいことを言えば(1)は区切りよりも2mmだけ遠いのですが、革は柔軟性がありますから問題にはなりませんでした。
◆◆◆
そういうわけで、今回のバッグを自転車で使うときには、以下のものさえあれば、どのような装着の仕方を採用するときにでも問題はない、ということになりました。
・上面および背面のヒネリ(金具)つきベルト×2
・底面のバックルつきベルト×1
今回は偶然に助けられた部分もありますが、こういったことは、あるテーマに基づいて、作品や製品を「つくり込む」ことによって、突き詰めてゆけることでもあります。
裏をかえせば、素人でもここまでできることを、同様の製品を売って生業としているメーカーが満足にできていないということは、「残念」の一言です。
いつもながらいいかげんな写真で申し訳ない。 ここに貼るのは、すべて「(人様ではなく)自分のために」「撮れたまま」である。 だって、凝りだすといくら時間があっても足りないんだもの… |
よく考えたら、肝心の自転車への取り付けの仕方を紹介するのを忘れてました。
デザインはもういいから次の話に行っておくれ、
と言われるかもしれないので、もう一つ記事を公開しておきますので勘弁を。
◆◆◆
さてサドルバッグというからには、自転車のサドルに取り付けられなければなんの意味もないわけです。
いちおうご説明しておきますと、従来の自転車用のバッグといえば、サドルにしかつけられないか、ハンドルの部分にしかつけられないものがほとんどでした。
よくあるフロントバッグ(ハンドル部につける) |
よくあるサドルバッグ |
◆◆◆
なかには、サドルにも付けられるようなフロントバッグもあります。
以下のようなものや、
モンベル製の、フロント/サドル共用バッグ |
わたしが今回のバッグをつくるときに参考にした、ジンバーレのバッグ(Buckets*Garage: デザインにおける弁証法 01)がそうです。
フロントバッグにもサドルバッグにも併用できるものは、探すのが難しく、事実数えるほどしか無いのですが、その理由の一つが、「ベルト部」に互換性を持たせにくい、ということです。
◆◆◆
今回は、自分でわざわざバッグをつくるくらいですので、バッグの設計当初から、その問題にも取り組んでみようと考えていました。
そういうわけで、ひとまずモンベルが採用している仕組みを参考にしながら、上面と、背面にそれぞれベルトループとなる穴を設けました。
バッグを背面から見たときの図。 |
以前に作ったベルトでとりあえずフロント部に固定してみました。
背面のベルトループにベルトを通し、ハンドルと固定。 |
フロントキャリア(荷台)はあったほうがよさそうですが、とりあえず装着できます。
ひとまずこれでよし。
◆◆◆
さて次は、面倒なサドルとの固定です。
サドルは、もしバッグを付けられたとしても、ふとももに当たらない工夫が必要だったりと、けっこう難しいのです。
これは面倒かもしれないぞと警戒していたのですが、
いろいろといじってみたら、非常に具合の良い方法を思いつきました。
サドルの下にあるレールと固定。 |
こうやって、2本のベルトをクロスさせているのですね。
ハンドルと固定するのと同じベルトでサドルにも、しかもワンタッチで固定できるというのは、うれしい誤算でした。
◆◆◆
ものづくりをしていると、あれやこれやと計算し尽くして設計したあとには、こういう偶然が起こることがあります。
ただ計算するというのは、現実から抽象された数字という一般性を使って、あるものと別のものとを同列に比べることなのですから、それも十分にありうることなのであり、またそこに人間の認識の癖、作り手の整合性への関心をはじめとした癖といったものが加味されてきますから、まったくの偶然というわけではありません。
人間の指の数が左右合わせて10本でなければ、わたしたちの使っている数字は十進数ではなかった可能性が高いですし、わたしが使っているものさしがメートル法に基づいているのでなければ今回の一致はまた違った形であらわれていたはずです。
そういう意味で、今回の一致は、その前提の段階で、ある程度絞りこまれていたのだ、ということですね。
さてその証拠といってはなんですが、今回はもうひとつの偶然がありました。
今回のバッグには、底面をキャリアと固定するための金具があります。
底面部。金具がどちらを向いてもうまく収納されるような形の固定具になっている。 |
この金具に、下のベルトを通してフロントおよびリアのキャリア(荷台)と固定するわけです。
裏返すとこういう具合ですね。
◆◆◆
これを、フロントでもリアでも使えるものにできれば1本だけですみます。
それではいったい、穴の間隔をいくつにすればよいのかと、それぞれ計算してみました。
その結果は、以下のとおりです。
(1) フロントキャリアとの固定…257mm
(2) リアキャリアとの固定…300mm
(※それぞれのキャリアは、リーベンデール専用キャンピーです)
また念のため、このベルトを他の部分とも互換性を取れないかどうか、言い換えれば他の部分にも流用できないかと考え、それも同じように測ってみました。
(3) シートポストと背面ベルトループとの固定…330mm
(4) 革サドルにある金具と背面ベルトループとの固定…300mm
また、これは紙で測ったときのもので、ためしに革でできたベルトを当ててみると、紙で測ったときの誤差が15mmであることがわかりました。
そうすると、(5) それぞれに15mmを足した分の穴もほしいところです。
◆◆◆
さてここで、なにか気付くことがありませんか?
わたしたちは、義務教育で「公約数」というものを習いましたが、ここでもそれが使えることになりました。
なぜかというと、300mmを基準点としてそこから15mmをひとつの区切りとすれば、上で挙げたそれぞれの固定が順に、
(1)3区切り小さいところ、(2)基準点、(3)2区切り大きいところ、(4)基準点、(5)
としてすべてに当てはまるように設定できるからです。
つまりベルトの穴の間隔を15mm刻みにすれば、バッグをどこに固定するときにでも、1本のベルトだけですべての用途をこなせるわけです。
細かいことを言えば(1)は区切りよりも2mmだけ遠いのですが、革は柔軟性がありますから問題にはなりませんでした。
◆◆◆
そういうわけで、今回のバッグを自転車で使うときには、以下のものさえあれば、どのような装着の仕方を採用するときにでも問題はない、ということになりました。
・上面および背面のヒネリ(金具)つきベルト×2
・底面のバックルつきベルト×1
今回は偶然に助けられた部分もありますが、こういったことは、あるテーマに基づいて、作品や製品を「つくり込む」ことによって、突き詰めてゆけることでもあります。
裏をかえせば、素人でもここまでできることを、同様の製品を売って生業としているメーカーが満足にできていないということは、「残念」の一言です。
どうでもいい雑記:生き物はいつ生きることを諦めるか
わたしの実家には、眼の見えないアブラボテがいます。
アブラボテってなんじゃい、という人がほとんどだと思いますが、タナゴと似たコイ科の魚です。
◆◆◆
アブラボテはあまり見栄えがしないので本家ほどの人気はないため、ペットショップなどでの取り扱いもそれほど派手ではないと思うのですが、本家タナゴのオスともなれば、繁殖期になると綺麗な虹色になることから、観賞用の魚として有名でした。
ところがタナゴのつがいが二枚貝に産卵することが災いして、二枚貝の生態系の影響を直接にうけてしまうのです。
みなさんも、小さい頃には土手だったはずのところが、いつのまにかコンクリートで固められたりした覚えがあるでしょう。
河川の氾濫を防ぎ、ボウフラの繁殖を防ぐこの施策は、人間にとってはそれなりに意味がありますが、川に生きる生き物にとっては、その生活を根底から揺るがす大問題なのです。
魚類は多かれ少なかれ泳ぐことができますから、住んでいた環境が悪くなったときには、ある程度であれば住む場所を変えることができます。
しかし二枚貝というのはそうはいきませんね。
世界は広く、中には貝殻をパタパタさせて遊泳する能力のある二枚貝もいたりしますが、あれはカルシウムで身を守るための殻をもったことの、副次的な働きなのであって、あくまでも本来の働きではないですし、とくに淡水二枚貝にはそんな運動選手はほとんどいません。
◆◆◆
生命史に軽く触れるためにちょっと脱線しますけれど、生物一般に言えることのひとつに、運動能力の一つである「移動する力」というものが、その担い手の運命を大きく左右することがある、ということが挙げられます。
生命史をたどれば、岸壁に固着していたカイメン段階の生物が、大海の生成と共にクラゲへとその姿を変えてゆき、さらに海流の生成と共にサカナ段階へと進化していったのでしたね。
身体を統括する「脳」が生成されなければならなかった必然性も、クラゲとは違ってサカナが、波に身を任せて漂うだけではなくて、それに逆らって遊泳する必要性があったからなのでした。
人類の歴史を大局においてとらえたときにも、ある力を持った民族が移動し、その先で多民族との対立が起きたときにこそ、歴史が大きく動くことをみてとることができます。
また学問の歴史に目を向ければ、観念論と唯物論が互いに競いあう中で、本質的な発展がなされてきたことは、もはや常識と言ってもよいでしょう。
学問の用語で言えば、これらは保存しなければならない「矛盾」ということから、「非敵対的矛盾」という位置づけにあたるものです。
ここを非常に限定してとらえれば、「競争なくして発展なし」といったような極意論がでてきますが、あれは人間からの意味付けがとても大きいので、みなさんはこの際ですから、もっと大きくものごとをとらえる見方をしてほしいと思います。
ともあれ森羅万象については、古代のギリシャから人類はそのあり方をとらえていたのであって、たとえば古代ギリシャの哲学者とみなされるヘラクレイトスは、「万物は流転する」と言いました。
そのように、自然・社会・精神に限らず、「移動」する力、つまりより大きな観点から見たときには「運動」というものごとのあり方は、いくら強調してもし足りないほどの大きな意味合いを持っているのです。
森羅万象はつねに運動し続けるものであるからには、運動をしないというのは、その意味でとても不自然なことなのです。
わたしたちの身近な例を見ても、休息をとるはずの睡眠も、とりすぎるとかえって疲れてしまいますし、また運動しなければ欝になりやすく、またボケにもなりやすいことからも読み取れますね。
◆◆◆
そういう前置きをした上で、ここでは生物に限定してお話ししてゆくわけですが、生物の場合にでも、移動能力に乏しい存在は、かなり簡単に種の分化が起きることになります。
たとえばマイマイ科の巻貝、一般にいうカタツムリなどは、日本国内に限っても、旅先で見つけたものがとても珍しく映る場合が多いでしょう。
同様の形態のものにかぎっても、鹿児島と北海道では、その大きさははもちろん、色までもが大きく異なっています。
関東と関西でも、渦の巻き方が違っていたりするほどです。
ですからわたしは、旅行に行くと必ずカタツムリを探してまわり、定規を横において写真を撮ることにしています。
なにしろ、人間にとってはとてもゆっくりですから捕まえやすく、横にノギスを置くこともできるために意味のある写真を残しやすいので、あとから比較するのにとても便利なのです。
彼女や彼ら――カタツムリにはオスもメスもありませんが――は、まさにその移動能力の無さゆえに、移動したりさせられたりした先で、ほそぼそとした独自の生活を送るしかないわけです。
カタツムリたちは多湿なところでしか住めませんから、大きな樹の陰や川のせせらぎの近くなどでよく見ることができますが、それでも大雨ともなると、それらにとっては度がすぎるということなので、やはり容易に生息地が分断されてしまうのです。
それに人間が自然に大きく手を入れ始めるようになると、日中のアスファルトなどはとても横断できないことから、なおさらに分化が進んでしまいます。
◆◆◆
カタツムリの移動する力はこのようなものでしたが、ここから類推してみると、二枚貝はどういう生活を送ることになるでしょうか。
彼女や彼ら――ただしこっちも同じく雌雄同体ですね――の場合は、まともな意味で移動することができるのは、卵から孵化した幼生の時だけです。
小さい頃には簡単な遊泳能力をもっていたこれらの場合は、生育してしまったときには、カタツムリのように這って歩くことすらできないのですから、こと「移動」に関しては、その制限たるや恐ろしいものがあるのです。
その生き方はまさに「運を天に任せる」といったところで、人間存在が、その生まれや育ちを乗り越えて自らの足で前へ進もうとする自由意志の力を持っているのとは比ぶべくもない大きな差があることになるわけです。
ここまでふまえると、ようやくタナゴという生き物に話を戻す時がきました。
このタナゴという魚は、魚であるにも関わらず、その生殖活動を直接的な形でこの二枚貝に依存することとなってしまっているのです。
ということは、彼や彼女らの生態系というのは、いってみれば重い足かせをはめられていることになりますね。
◆◆◆
アブラボテというタナゴの仲間も、やはり二枚貝の存在にその生活を大きく左右されるという点で、タナゴという大きな括りからは抜け出ることはありません。
しかも彼女や彼らといえば、その強い縄張り意識のおかげで、ここだと決めたらテコでも動きません。
他の魚が入ってきたら追い出すか、アブラボテのオスどうしともなれば、どちらかが力負けするまでの喧嘩になってしまいます。
ところでわたしは研究するときにはどんなときにでも、景色の見える場所を選んで取り組みます。
窓を少し開けて風が入るようにしておくと、春には山が色づき始めるとともの草いきれ、梅雨にはぐっと色が濃くなって鮮やかになり、夏の終わりには冬支度をする木々に励まされながらの勉学ができます。
どうしても机上での研究が多くなってしまう研究者にとっては、運動というものを念頭におくことが、まっとうな人間観をつくるためには欠かせないのですね。
それと同じようにアブラボテたちの動きを見ていても、春が近づくとソワソワしはじめますから、どれだけ寒い日でも、ああ春の訪れを感じているのだなあ、と実感が湧いてくるものです。
◆◆◆
しかし当のアブラボテはその名のとおり、タナゴの仲間であるはずなのに繁殖期にもとくに虹色になるわけでもない茶色な油いろで、天はなんとも罪づくりであるなあと思わずにはいられません。
飼育する側から見れば、地味で頑固で他の魚と共存しにくいというもので、これはよほどの物好きではない限り飼う意味を探すことすら難しい、というくらいではないでしょうか。
わたしの実家で飼育している個体も例にもれず、水槽のド真ん中の大きな流木のくぼみに陣取ったかと思うと、アブラボテらしい頑固さで迷い込んだ不運な魚をことごとく撃退して過ごしていたのです。
ところが我が家に来て数年したころ、なにやら動きが怪しくなってきました。
水面の当たりを、頭を突き出すようにして泳ぐようになったのです。
これは老衰か、と覚悟したものですが、そうなってからもう数ヶ月、まだがんばっているので注意深く眺めていましたら、あることに気づきました。
いまは眼球の部分がはっきりと白濁してきており、どうも眼が見えなくなっているようなのです。
ああなるほどそういうことだったのか、と振る舞いの怪しさについては合点がゆきましたが、それでも数ヶ月生き延びてきたということは、どうにかしてエサにありついているはず。
どうやっているのかと確認してみたら、エサを察知してやってきた他の魚たちが騒ぎ立てる水音や波の動きを察知するやいなや、アタマを水面から付き出して、口がエサにぶつかるまで泳ぎわる、ということなのでした。
◆◆◆
彼は目が見えませんから、たとえ食料が頭の真横にあってもわからないわけで、下手な鉄砲なんとやら、というやり方をとるしかないのですね。
そうはいっても、彼らの本能のなかには、人間のように「こうすればこうなるだろう」という予測を立てるための仕組みはありませんから、彼のこの行動というのは、あくまでも必死の積み重ねのなかから偶然に掴みとった、こうすればなんとか食える、という彼独特の振る舞い方なのです。
わたしはこれに気づいたときに、ひとり驚きました。
ものを考えることを知らぬ魚の身にあって、自分の身体の不足にあわせたここまでの工夫をすることができるのか、と。
意志を持たない動物のふるまいを、わたしたち人間の意志のありかたを押し付けて解釈することは誤りにつながりますが、それでもやはり、生きることにすべてをかけたものの姿というものは、荘厳に映るものです。
◆◆◆
わたしは今回、わけあって実家に帰ってきたのですけれど、実家の人たちとは必要なだけのかかわりあい方にとどめることにしています。
こう言うと、なんと薄情なと思われるでしょうが、人の生き方というものは浸透しあうだけに、違った生き方をしたいのならば、どうしても意識的に区別して振舞わねばならないところもあるのです。
そういうわけで今回も、他につられて甘えが身につくことだけはなるまいぞ、との思いを念頭においていましたから、それだけに、今回のアブラボテの姿というのは、思うところ大なり、というものがあったのです。
人の築きあげてきた文化を一歩でも前に進めたいと望むなら、そこには人の身を越えた覚悟というものが要求されるのであり、これはいうなれば、内なる甘えとの闘いです。
安易な甘えに流されずとも、真剣勝負のさなかに小指が切れた、耳がもげたと騒いでいたら、次は首をもっていかれます。
目が見えぬ、それがなんだというのか。
この仕打ちは神の与えたもうた運命か悪魔の仕業かと御託をのたまったあげく、自らの不運を逃げ口上にして前に進むことを諦めないひとつの生命のありかたは、人間の言う「覚悟」というものとは質的に違ってはいても、なかなかに見どころがあることには変わりがない、そう思うのです。
ふるい図鑑に載っていたアブラボテ。名前の由来は重油のような体色から。 |
◆◆◆
アブラボテはあまり見栄えがしないので本家ほどの人気はないため、ペットショップなどでの取り扱いもそれほど派手ではないと思うのですが、本家タナゴのオスともなれば、繁殖期になると綺麗な虹色になることから、観賞用の魚として有名でした。
ところがタナゴのつがいが二枚貝に産卵することが災いして、二枚貝の生態系の影響を直接にうけてしまうのです。
みなさんも、小さい頃には土手だったはずのところが、いつのまにかコンクリートで固められたりした覚えがあるでしょう。
河川の氾濫を防ぎ、ボウフラの繁殖を防ぐこの施策は、人間にとってはそれなりに意味がありますが、川に生きる生き物にとっては、その生活を根底から揺るがす大問題なのです。
魚類は多かれ少なかれ泳ぐことができますから、住んでいた環境が悪くなったときには、ある程度であれば住む場所を変えることができます。
しかし二枚貝というのはそうはいきませんね。
世界は広く、中には貝殻をパタパタさせて遊泳する能力のある二枚貝もいたりしますが、あれはカルシウムで身を守るための殻をもったことの、副次的な働きなのであって、あくまでも本来の働きではないですし、とくに淡水二枚貝にはそんな運動選手はほとんどいません。
◆◆◆
生命史に軽く触れるためにちょっと脱線しますけれど、生物一般に言えることのひとつに、運動能力の一つである「移動する力」というものが、その担い手の運命を大きく左右することがある、ということが挙げられます。
生命史をたどれば、岸壁に固着していたカイメン段階の生物が、大海の生成と共にクラゲへとその姿を変えてゆき、さらに海流の生成と共にサカナ段階へと進化していったのでしたね。
身体を統括する「脳」が生成されなければならなかった必然性も、クラゲとは違ってサカナが、波に身を任せて漂うだけではなくて、それに逆らって遊泳する必要性があったからなのでした。
人類の歴史を大局においてとらえたときにも、ある力を持った民族が移動し、その先で多民族との対立が起きたときにこそ、歴史が大きく動くことをみてとることができます。
また学問の歴史に目を向ければ、観念論と唯物論が互いに競いあう中で、本質的な発展がなされてきたことは、もはや常識と言ってもよいでしょう。
学問の用語で言えば、これらは保存しなければならない「矛盾」ということから、「非敵対的矛盾」という位置づけにあたるものです。
ここを非常に限定してとらえれば、「競争なくして発展なし」といったような極意論がでてきますが、あれは人間からの意味付けがとても大きいので、みなさんはこの際ですから、もっと大きくものごとをとらえる見方をしてほしいと思います。
ともあれ森羅万象については、古代のギリシャから人類はそのあり方をとらえていたのであって、たとえば古代ギリシャの哲学者とみなされるヘラクレイトスは、「万物は流転する」と言いました。
そのように、自然・社会・精神に限らず、「移動」する力、つまりより大きな観点から見たときには「運動」というものごとのあり方は、いくら強調してもし足りないほどの大きな意味合いを持っているのです。
森羅万象はつねに運動し続けるものであるからには、運動をしないというのは、その意味でとても不自然なことなのです。
わたしたちの身近な例を見ても、休息をとるはずの睡眠も、とりすぎるとかえって疲れてしまいますし、また運動しなければ欝になりやすく、またボケにもなりやすいことからも読み取れますね。
◆◆◆
そういう前置きをした上で、ここでは生物に限定してお話ししてゆくわけですが、生物の場合にでも、移動能力に乏しい存在は、かなり簡単に種の分化が起きることになります。
たとえばマイマイ科の巻貝、一般にいうカタツムリなどは、日本国内に限っても、旅先で見つけたものがとても珍しく映る場合が多いでしょう。
同様の形態のものにかぎっても、鹿児島と北海道では、その大きさははもちろん、色までもが大きく異なっています。
関東と関西でも、渦の巻き方が違っていたりするほどです。
ですからわたしは、旅行に行くと必ずカタツムリを探してまわり、定規を横において写真を撮ることにしています。
なにしろ、人間にとってはとてもゆっくりですから捕まえやすく、横にノギスを置くこともできるために意味のある写真を残しやすいので、あとから比較するのにとても便利なのです。
彼女や彼ら――カタツムリにはオスもメスもありませんが――は、まさにその移動能力の無さゆえに、移動したりさせられたりした先で、ほそぼそとした独自の生活を送るしかないわけです。
カタツムリたちは多湿なところでしか住めませんから、大きな樹の陰や川のせせらぎの近くなどでよく見ることができますが、それでも大雨ともなると、それらにとっては度がすぎるということなので、やはり容易に生息地が分断されてしまうのです。
それに人間が自然に大きく手を入れ始めるようになると、日中のアスファルトなどはとても横断できないことから、なおさらに分化が進んでしまいます。
◆◆◆
カタツムリの移動する力はこのようなものでしたが、ここから類推してみると、二枚貝はどういう生活を送ることになるでしょうか。
彼女や彼ら――ただしこっちも同じく雌雄同体ですね――の場合は、まともな意味で移動することができるのは、卵から孵化した幼生の時だけです。
小さい頃には簡単な遊泳能力をもっていたこれらの場合は、生育してしまったときには、カタツムリのように這って歩くことすらできないのですから、こと「移動」に関しては、その制限たるや恐ろしいものがあるのです。
その生き方はまさに「運を天に任せる」といったところで、人間存在が、その生まれや育ちを乗り越えて自らの足で前へ進もうとする自由意志の力を持っているのとは比ぶべくもない大きな差があることになるわけです。
ここまでふまえると、ようやくタナゴという生き物に話を戻す時がきました。
このタナゴという魚は、魚であるにも関わらず、その生殖活動を直接的な形でこの二枚貝に依存することとなってしまっているのです。
ということは、彼や彼女らの生態系というのは、いってみれば重い足かせをはめられていることになりますね。
◆◆◆
アブラボテというタナゴの仲間も、やはり二枚貝の存在にその生活を大きく左右されるという点で、タナゴという大きな括りからは抜け出ることはありません。
しかも彼女や彼らといえば、その強い縄張り意識のおかげで、ここだと決めたらテコでも動きません。
他の魚が入ってきたら追い出すか、アブラボテのオスどうしともなれば、どちらかが力負けするまでの喧嘩になってしまいます。
ところでわたしは研究するときにはどんなときにでも、景色の見える場所を選んで取り組みます。
窓を少し開けて風が入るようにしておくと、春には山が色づき始めるとともの草いきれ、梅雨にはぐっと色が濃くなって鮮やかになり、夏の終わりには冬支度をする木々に励まされながらの勉学ができます。
どうしても机上での研究が多くなってしまう研究者にとっては、運動というものを念頭におくことが、まっとうな人間観をつくるためには欠かせないのですね。
それと同じようにアブラボテたちの動きを見ていても、春が近づくとソワソワしはじめますから、どれだけ寒い日でも、ああ春の訪れを感じているのだなあ、と実感が湧いてくるものです。
◆◆◆
しかし当のアブラボテはその名のとおり、タナゴの仲間であるはずなのに繁殖期にもとくに虹色になるわけでもない茶色な油いろで、天はなんとも罪づくりであるなあと思わずにはいられません。
飼育する側から見れば、地味で頑固で他の魚と共存しにくいというもので、これはよほどの物好きではない限り飼う意味を探すことすら難しい、というくらいではないでしょうか。
わたしの実家で飼育している個体も例にもれず、水槽のド真ん中の大きな流木のくぼみに陣取ったかと思うと、アブラボテらしい頑固さで迷い込んだ不運な魚をことごとく撃退して過ごしていたのです。
ところが我が家に来て数年したころ、なにやら動きが怪しくなってきました。
水面の当たりを、頭を突き出すようにして泳ぐようになったのです。
これは老衰か、と覚悟したものですが、そうなってからもう数ヶ月、まだがんばっているので注意深く眺めていましたら、あることに気づきました。
いまは眼球の部分がはっきりと白濁してきており、どうも眼が見えなくなっているようなのです。
ああなるほどそういうことだったのか、と振る舞いの怪しさについては合点がゆきましたが、それでも数ヶ月生き延びてきたということは、どうにかしてエサにありついているはず。
どうやっているのかと確認してみたら、エサを察知してやってきた他の魚たちが騒ぎ立てる水音や波の動きを察知するやいなや、アタマを水面から付き出して、口がエサにぶつかるまで泳ぎわる、ということなのでした。
◆◆◆
彼は目が見えませんから、たとえ食料が頭の真横にあってもわからないわけで、下手な鉄砲なんとやら、というやり方をとるしかないのですね。
そうはいっても、彼らの本能のなかには、人間のように「こうすればこうなるだろう」という予測を立てるための仕組みはありませんから、彼のこの行動というのは、あくまでも必死の積み重ねのなかから偶然に掴みとった、こうすればなんとか食える、という彼独特の振る舞い方なのです。
わたしはこれに気づいたときに、ひとり驚きました。
ものを考えることを知らぬ魚の身にあって、自分の身体の不足にあわせたここまでの工夫をすることができるのか、と。
意志を持たない動物のふるまいを、わたしたち人間の意志のありかたを押し付けて解釈することは誤りにつながりますが、それでもやはり、生きることにすべてをかけたものの姿というものは、荘厳に映るものです。
◆◆◆
わたしは今回、わけあって実家に帰ってきたのですけれど、実家の人たちとは必要なだけのかかわりあい方にとどめることにしています。
こう言うと、なんと薄情なと思われるでしょうが、人の生き方というものは浸透しあうだけに、違った生き方をしたいのならば、どうしても意識的に区別して振舞わねばならないところもあるのです。
そういうわけで今回も、他につられて甘えが身につくことだけはなるまいぞ、との思いを念頭においていましたから、それだけに、今回のアブラボテの姿というのは、思うところ大なり、というものがあったのです。
人の築きあげてきた文化を一歩でも前に進めたいと望むなら、そこには人の身を越えた覚悟というものが要求されるのであり、これはいうなれば、内なる甘えとの闘いです。
安易な甘えに流されずとも、真剣勝負のさなかに小指が切れた、耳がもげたと騒いでいたら、次は首をもっていかれます。
目が見えぬ、それがなんだというのか。
この仕打ちは神の与えたもうた運命か悪魔の仕業かと御託をのたまったあげく、自らの不運を逃げ口上にして前に進むことを諦めないひとつの生命のありかたは、人間の言う「覚悟」というものとは質的に違ってはいても、なかなかに見どころがあることには変わりがない、そう思うのです。
2011/06/24
デザインにおける弁証法 05
(04のつづき)
おおまかな考え方の話は以上で触れてきた。
実のところデザインというものも、世の人がいうほど、天の才に頼り切った営みではないのだ。
長く世に残るデザインを残す人ほど、「死に物狂いの勉強」をとおして、自らが作り上げてゆくものの一般性、つまり「バッグとはどういうものか」、「絵画とはどういうものか」、「彫刻とはどういうものか」などといった概念の像を明確に把握しているものである。
それだから、「新しいアイデアは既存のアイデアの組み合わせに過ぎない」といわれたりもするのだが、この把握はひとつの「考え」を、単なる思いつきレベルで捉えているにすぎないところに問題がある。
新しく優れたアイデアというものは、なにも既存のアイデアをいいとこ取りしたわけではない。
それらを、論理性をもって噛み砕き自分のものとして再構成、再創造するところに要点があるという事実をわすれてはならない。
(了)
以下は、写真と解説。
◆◆◆
さて語るべきことは尽きないが、以下では写真を見ながらどうやってモチーフを整えてゆくべきなのかをともに考えてみよう。
実際に使ってみると手直ししたいところも出てくるであろうが、とりあえずの完成度はまあまあかなと思っているもので、ご笑覧いただければ、幸い。
↑製作途中。蓋の部分は直線にすると、経年での湾曲が目立つのと、強度が確保できないことから、フクロウの嘴のつもりで曲線をつけた。
またストラップを単に縫いつけただけだと、あからさまな縫い目がついてしまうので、フクロウの目の位置に「盾」の形のエンブレムを作って、そこにストラップをとおすことで縫い目を目立たなくした。
蓋の下にあるヒネリの受け手は、一旦、盾の中央にあるエンブレムの形の革に縫いつけた後、改めて本体と縫い合わせた。こうすると、裏側に出た金具によって、内容物が傷つくのを防ぐことができる。
↑今回使った盾のモチーフは、セント・ジョージとおぼしき盾。よくある形である。
↑ところが、真ん中にたまたま見つけた「五十銭のコンチョ」を付けたくなったから、西洋・東洋が入り交じった世界観になってしまった。ここらへんはもはや理由付けができない。率直に言って、なんとかそれなりに見えるようになってほっとしているくらいだ。もっと大きなモチーフをしっかりと決めてから創作すれば、より統一感のある世界観にできるだろう。
↑製作途中。はじめに一枚の大きな革を切り取って、ぐるりを作ってしまう。立体にした後各種のパーツを付けることはできないからである。革工作は、作る順番をあらかじめきちんと決めておくことがどうしても必要であり、つくってゆくうちに大きな番狂わせがあるという意味で、旅にとてもよく似ている。旅が好きな人は、番狂わせも愛するものである。
↑側面をつけたところ。縦型のエンブレムが、蓋の正面部分の形を整えるのにも役立つことになり、思っていたよりもはっきりとした箱型になった。結果としていちばんはじめに載せた、わたしが憧れている古いバッグに近い雰囲気になった。ここらへんは、いくら紙で試作をしてみても、実際に革という素材で作ってみないことにはわからない。作りかけの丸っこい形のほうが好みだ、という人もいると思う。
↑フラップを開けると、一眼カメラの保護ケースが入る。注文したのは「ジンバーレ カメラケースS」でオレンジのはずだったが、届いたのはブラック。こういうところが異様にいい加減なところも、自転車用品市場らしい。こういういい加減さで、ブランドが恐ろしく傷つくのがわからないのだろうか。クレームものだと思うけれど、よく考えたら身の回りにオレンジが多すぎるし、実用性には問題がないので返品せず。
↑横から荷物が落ちないように側面のフラップを使う。しかしここまで無理にものを入れることがあるのだろうか…。
◆◆◆
デザインの面で反省点があるとすると、やはりモチーフにしたものが多すぎるということである。このバッグの細部をよくしらべると、「フクロウ」、「西洋の盾」、「五十銭に描かれた菊花紋章」、「五十銭に描かれた鳳凰」など雑多なモチーフが使われている。人に頼まれて同じようなものを作るときには、これらを前もって意識しておけば、さらに統一感のあるものができるはずである。
ここにはもっと良いものを作れる余地があるわけで、今から楽しみである。
さてほかに機能面といえば、あとは実際に自転車に搭載してみて、どのくらいの使用に耐えられるかの耐久テストが待っている。そのあたりは、また後日。
おおまかな考え方の話は以上で触れてきた。
実のところデザインというものも、世の人がいうほど、天の才に頼り切った営みではないのだ。
長く世に残るデザインを残す人ほど、「死に物狂いの勉強」をとおして、自らが作り上げてゆくものの一般性、つまり「バッグとはどういうものか」、「絵画とはどういうものか」、「彫刻とはどういうものか」などといった概念の像を明確に把握しているものである。
それだから、「新しいアイデアは既存のアイデアの組み合わせに過ぎない」といわれたりもするのだが、この把握はひとつの「考え」を、単なる思いつきレベルで捉えているにすぎないところに問題がある。
新しく優れたアイデアというものは、なにも既存のアイデアをいいとこ取りしたわけではない。
それらを、論理性をもって噛み砕き自分のものとして再構成、再創造するところに要点があるという事実をわすれてはならない。
(了)
以下は、写真と解説。
◆◆◆
さて語るべきことは尽きないが、以下では写真を見ながらどうやってモチーフを整えてゆくべきなのかをともに考えてみよう。
実際に使ってみると手直ししたいところも出てくるであろうが、とりあえずの完成度はまあまあかなと思っているもので、ご笑覧いただければ、幸い。
↑製作途中。蓋の部分は直線にすると、経年での湾曲が目立つのと、強度が確保できないことから、フクロウの嘴のつもりで曲線をつけた。
またストラップを単に縫いつけただけだと、あからさまな縫い目がついてしまうので、フクロウの目の位置に「盾」の形のエンブレムを作って、そこにストラップをとおすことで縫い目を目立たなくした。
蓋の下にあるヒネリの受け手は、一旦、盾の中央にあるエンブレムの形の革に縫いつけた後、改めて本体と縫い合わせた。こうすると、裏側に出た金具によって、内容物が傷つくのを防ぐことができる。
↑今回使った盾のモチーフは、セント・ジョージとおぼしき盾。よくある形である。
↑ところが、真ん中にたまたま見つけた「五十銭のコンチョ」を付けたくなったから、西洋・東洋が入り交じった世界観になってしまった。ここらへんはもはや理由付けができない。率直に言って、なんとかそれなりに見えるようになってほっとしているくらいだ。もっと大きなモチーフをしっかりと決めてから創作すれば、より統一感のある世界観にできるだろう。
↑製作途中。はじめに一枚の大きな革を切り取って、ぐるりを作ってしまう。立体にした後各種のパーツを付けることはできないからである。革工作は、作る順番をあらかじめきちんと決めておくことがどうしても必要であり、つくってゆくうちに大きな番狂わせがあるという意味で、旅にとてもよく似ている。旅が好きな人は、番狂わせも愛するものである。
↑側面をつけたところ。縦型のエンブレムが、蓋の正面部分の形を整えるのにも役立つことになり、思っていたよりもはっきりとした箱型になった。結果としていちばんはじめに載せた、わたしが憧れている古いバッグに近い雰囲気になった。ここらへんは、いくら紙で試作をしてみても、実際に革という素材で作ってみないことにはわからない。作りかけの丸っこい形のほうが好みだ、という人もいると思う。
↑側面にはなにも付けなかった。ポケットの付いているものもあるけれど、フロントバッグにしたときに手に触れてしまって具合が良くないからである。
↑背面のストラップ穴にも盾のモチーフ。上に2つある金具Dカンには、盾の曲線を使った。
上部には、常用に耐えるように革のフードをつけた。革の端が手に喰い込むと、使い心地が悪くなるからである。常用のカバンとして、肩掛けベルトのためのDカンを付けようかなとも思ったが、さすがにうるさくなるのでやめた。
写真には載っていないが、底面にもキャリアとの固定用のDカンがある。
↑常用でいつも使う本と文房具が、縦に入る。背表紙が見えるから、選んで取り出すときも便利である。これは縦型にして正解だったと思う。写真はフラップが開いているけれど、もちろん閉じている状態でも入る。
↑フラップを開けると、一眼カメラの保護ケースが入る。注文したのは「ジンバーレ カメラケースS」でオレンジのはずだったが、届いたのはブラック。こういうところが異様にいい加減なところも、自転車用品市場らしい。こういういい加減さで、ブランドが恐ろしく傷つくのがわからないのだろうか。クレームものだと思うけれど、よく考えたら身の回りにオレンジが多すぎるし、実用性には問題がないので返品せず。
↑フラップを開けるとiPadも持ち運べる。縦にすればMacBook Airの11インチも入らないことはない…かもしれないがたぶんやらないだろう。
↑フラップをフルに使うとこんなふう。なんか…ムーミンに出てくるニョロニョロを思い出してしまった。2泊3日用の装備を入れてみたけれど、あまり膨らまなかったので、ヘーゲル全集も入れてみたのがこの姿。
↑横から荷物が落ちないように側面のフラップを使う。しかしここまで無理にものを入れることがあるのだろうか…。
◆◆◆
デザインの面で反省点があるとすると、やはりモチーフにしたものが多すぎるということである。このバッグの細部をよくしらべると、「フクロウ」、「西洋の盾」、「五十銭に描かれた菊花紋章」、「五十銭に描かれた鳳凰」など雑多なモチーフが使われている。人に頼まれて同じようなものを作るときには、これらを前もって意識しておけば、さらに統一感のあるものができるはずである。
ここにはもっと良いものを作れる余地があるわけで、今から楽しみである。
さてほかに機能面といえば、あとは実際に自転車に搭載してみて、どのくらいの使用に耐えられるかの耐久テストが待っている。そのあたりは、また後日。
2011/06/23
デザインにおける弁証法 04
(03のつづき)
前回では、バッグの容量を拡張できるようにするのと直接に、短期間の自転車ツアーにも対応するべく隠しフラップを追加するところにまでたどり着いた。
前回では、バッグの容量を拡張できるようにするのと直接に、短期間の自転車ツアーにも対応するべく隠しフラップを追加するところにまでたどり着いた。
ところが、中の荷物が膨れることになれば、固定式のベルトのままでは蓋が閉まらなくなる。
これはどう解決すればよいだろうか?
◆◆◆
ストラップの長さを変更するために、わたしたちが身につけている服飾用のベルトによく使われているのが、「バックル」である。
バックル |
これならば、荷物が増えてもベルトの長さを調整するには困らないであろう。
しかしバックルを採用すると、荷物が増えたときという「特殊な状況」のために、荷物を出し入れするたびの「普段の使い勝手」に支障が出る。
わたしたちがズボンのベルトをさほどおっくうに感じないのは、それが衣服を着るときと脱ぐとき、ほぼ1日に数回しかそれを開け閉めしないからであるが、バッグともなれば、一桁違う開閉回数になってくる。
だから、バッグにはよく、「ヒネリ」と呼ばれるワンタッチの開閉部品が採用されるのだ。
ヒネリ |
もしここで蓋の開け閉めが面倒なままであるなら、はじめに立てた道具の使用の際に「ユーザーに努力を強いないこと」、という原則に反するわけである。
一番初めの記事で取り上げた「ブルックス レザーミルブルック」は、頻繁に開け閉めをするというユーザーの用途を想定していないという意味で、気に入らなかったわけである。
そうするとわたしの実現したい内容を整理すると、以下のようになる。
・ベルトの長さを変えられるようにしたい。
・ワンタッチで開け閉めしたい。
こういった、一見すると相反する要素を、「あれもこれも」両立させるためにはどうすればよいだろうか。
◆◆◆
今回はそれを解決するために、従来では一つであった部品を、あえて2つに分けた。
ものごとには、従来のやりかたを力技で押し通すよりも、一旦遠回りをしたほうが、かえって近道だったりもするものである。
そういう「急がば回れ」のやり方を、今回は採用した。
右側でバラバラになっているものを組み合わせると、左のようになる。
部品をわけたことで、荷物が増えたときにだけ固定式のバックルを調整して長さを合わせればよい、という機能をもたせた上で、あくまでもワンタッチの開閉式を実現したことがわかってもらえるだろう。
というわけで、最終的なデザインはこうなった。
いちばんはじめに挙げたレトロなバッグに、使いやすい機能を盛り込んだ形に落ち着いた。
◆◆◆
わたしは、良いデザインには論理性があるというお題目を上げて、そこには弁証法が働いているから、「あれもこれも」という考え方が大事なのだと言ったけれど、それはなにも、あらゆる機能を一つの部品であれもこれも実現できるようにすべきだ、などと言っているわけではないこともわかってもらえると嬉しい限りである。
あくまでも、「実践における必要性」というユーザーの立場にたった結果としての利便性を実現するために論理を使うのであって、創作過程に発揮した自らの論理性を、ユーザーに押し付けるようなやり方を用いてはならない。
設計思想がいくら洗練されているからといって、使われている技術がいかに高度だからといって、それらと直接に使い勝手がよくなるわけではないことは、わたしたちはあらゆる製品を使うことから学んできているはずである。
◆◆◆
わたしが今回、どのように考えてきたのかは、ほとんどが以上のことのような判断の結果でしかない。
気軽に読めるはずのデザインの記事にまであまりくどくどと説明をつけるのも無粋なので、以下では写真を見ながら、細部のモチーフをどう工夫すれば、見た目での必然性や合理性が確保できるかを追ってゆこう。
(04につづく)
2011/06/22
デザインにおける弁証法 03
(02からのつづき)
前回では、機能とデザインの適切な妥協点は、「実践の必要性」によって導かれる、と書いた。
上では、自分の実践の必要性を念頭において、レトロな自転車バッグの写真を批判的に検討しながら、改善すべき点を洗い出してきた。
上ではたんに、ストラップというもののあり方においての考察であったが、それをバッグの大まかな形状についても考えてみる。
実践の必要性を考えると、わたしの場合は、常に書籍を持ち歩いているから、常用に耐えうるバッグをつくるためには、書籍数冊と筆記用具が入ることが望ましい。
今回は、サドルバッグ/フロントバッグ/常用しうるバッグをつくることが目的であるから、そのうちのフロントバッグのための条件をみたすためには、バッグの横幅が左右のハンドルの間に入り、ブレーキを持つ手と干渉しないことが上限となる。
またふつうのバッグとして常用しうる形状を考えると、サドルの下の空間を使おうとするような台形型は、なんともゴツゴツしたものに映る。
一般的なサドルバッグ(台形型)を人間が背負った図。 |
◆◆◆
こうして、「実践の必要性」に照らしてイメージするだけでも、どういう形状にするか、どういうサイズにするかなどは、ほとんど自然に、とても合理的に導き出せることがわかる。
一般的に人間の創作活動というものを論じるときに、制限こそが創作の母だと言われることがある。
その理由はと問えば、目的意識がなくては制限がうまれようもないからであり、目的意識は、強い実践の必要性に照らすからこそ生まれているからである。
ここでいう「制限」ということばのなかに、「限られた素材から取捨選択しなければならない」という消極面と、「目的意識に従って形状や大きさが規定される」という積極面が含まれていることを、一般には意識できていないから、的外れに制限をありがたがる、という風潮が生まれるのである。
ところがこの場合のそれは、制限というよりもむしろ、与えられた環境とでも言うべきものだから、その実態は結局のところ、与えられた環境を実践の必要性に照らしてみる、という上で述べた一事に解消してもよい。
さて以上のことを踏まえると、形状とサイズは以下のようになりそうである。
奥行きよりも縦のほうが少し長い直方体。(以下、単位はmm) |
これらには、ストラップの機能の切り離しが盛り込まれている。
◆◆◆
わたしの持ち歩きたい本のフットプリントは210×150であり、縦に収納する形になるから、背表紙を確認しながら取り出せる形になっている。
この点では、常用のバッグの条件を満たしてはいるが、280×160×140=6.27リットルでは、数泊するにあたっては心もとない容量である。
しかしこれ以上に大型化してしまうと、荷台を装備しなければタイヤと接触することになるから、単に大型化することではなくて、他の方法を考えねばならない。
そこで考えたのが、隠しフラップである。
こうすることで、常時は折りたたんでおき、必要なときに条件が整っていれば容量を拡張できる仕組みにすることができる。
無理のないやり方で、「あれもこれも」と考えることが、創作活動において前進するための基本的な考え方である。
今回の工夫をしたことによって、他にも切り離せない要素が加味される。それらは以下のとおりである。
・フラップによって、正面の型くずれを防ぐ。
・フラップのぶん、重量が増えた。
「あれもこれも」という考え方をしたときには、そのこととは切り離せない関係として、どういった要素が減ったり増えたりしているのかをしらべ、それが実践の必要性という観点から見て適切かどうか、という視点で確認しておくことが望ましい。
◆◆◆
またこのことが、バッグの形状に与える変化は少なくない。
というのは、フラップを引き出したときには、ストラップの長さを変えることができなければ、蓋を閉めることができなくなるからである。
ここの矛盾も、「あれもこれも」という考え方で解決することができなければ、これまで考えてきた隠しフラップの仕組みそのものを諦めざるを得ないわけである。
そうするとストラップには、どのような工夫を盛り込めばよいだろうか。
(04に続く)
2011/06/21
デザインにおける弁証法 02
(01からのつづき)
この一連の記事は、次のようなことを考えるために書かれたものである、ということだった。
“「デザインする」という過程の中に、どのような合理性、論理性が含まれているのか?”
◆◆◆
今回は、その議論のたたき台として、自転車用のバッグを作る、ということを目指してゆくから、ここではアタマの中に描いたものを実際に手を動かして作る、という技術の面よりも、アタマの中に明確な像を描いて作成にとりかかるまでの過程をいっしょに追っていってもらいたい。
極度に単純化して一般化して言えば、ものづくりをはじめとした芸術の創作過程の大まかな構造は、以下のとおりである。(詳しくは、三浦つとむ『芸術とはどういうものか』を参照)
ここでは、これから創るものを思い浮かべて、物質的な資料を集めそれを参考にしながらアタマの中に明確な像として描いてゆくまでを追ってゆくから、この図式で言えば、「対象→認識」に焦点を当てていることになる。
もっといえば、最も重要なのは、対象から認識までの過程、つまり「→」そのものである。
わたしたちが、現実の世界にあったものをそのまま複製するのではなくて、それらの資料を組み合わせたり不要なものを取り除いて新しく自らが目指すものを思い描くというのは、そこで行われている活動が、「単なる模写」ではない、ということを示している。
◆◆◆
さて具体的なバッグのわたしが最終的なイメージとして目指したのは、下にある、
ずいぶん古い写真のバッグである。
ただしこれは、わたしにとって雰囲気が魅力的であるということに過ぎず、
機能面に目を向ければ欠点も少なくない。
・中のものを取り出すためには、バックルを外さなくてはならない。
・一本のストラップでしか固定されていないようだから、走行中に荷物が揺れてしまう。
・構造上、サドルに固定したままでフタを開けるとすると、バッグが傾いて荷物がこぼれ落ちてしまうだろうから、そえ手が必要になる。
これらのことは総じて、
・ストラップ一本で「サドルとの固定」、「蓋を閉める」をはじめとした複数の役割を担おうとするところに無理がある
という大まかな判断ができる。
◆◆◆
この欠点は、それぞれの機能を、複数の部品にわけて持たせることによって解消できそうである。
ところで、ここで機能とデザインにおける「適切な妥協点」と言ってはみたが、さて「適切な妥協点」とは、一般的に導くことのできるものであろうか?という疑問があるかもしれない。
これが人によって異なるのなら、デザインから論理を引き出すことなど不可能になるからである。
このBlogを、興味のないジャンルまでの読んでくれているような読者であれば、わたしの言わんとするところを読み取ってくれるかもしれないが、ともかくその「適切な妥協点」は、「実践の必要性」から導きだされるのである。
これは、いつか「飼い犬の生命を救うために家族の生命を危険に晒すべきか」(Buckets*Garage: このBlogはなにを伝えたいのか(1))とたとえを出しておいたことと、論理的に同一の問題である。
今回の場合であれば、わたしはこのバッグを使って数日間の自転車ツアーにゆかねばならない、という目的があるから、それが実践の必要性、ということである。
これがたとえば、近所のスーパーでの買出しに過不足がないバッグで良いのなら、必要な条件は変わってくるであろう。
(03につづく)
【余談】
一般の読者にとっては余談ではあるけれど、この一連の記事に出てくることばというものは、いちおうの整理をしているつもりではあるが、まだ明確な概念規定が行われているとは言いがたい。
たとえば「デザイン」、「機能」、「合理性」などといった重要な用語が、明確な区別と連関によって整理されていないままであり、その場所その場所で違ったニュアンスをふくんでいる。
ところが、これまでたんに「格好が良い」といった感性的な理解が大勢を占めているデザインという分野に、論理性のメスをいれて整理してゆくという試みをするときには、どうしても試行錯誤の中で、つまり論じてゆく中で概念を明確にする作業が欠かせない。
そういうわけで、読者にとっては読み返しながら理解してもらう努力が必要になるかと思うが、わたしとしてもそういった努力がなるべく少なくなるように工夫してゆこうと考えているので、お付き合いいただけると嬉しい限りである。
これまで「自称ハイセンス」な一部の思想家、評論家の手に委ねるしかなかったデザインという分野に論理の光を当てることを通して、それを万人の手に還すという作業は、これからの時代の人々の手によって為されてゆかねばならない作業だと考えている。
学問的には、三浦つとむの唯物論的芸術論を、実践を通して科学化してゆく過程にこそ、わたしの目指すところはある。
この一連の記事は、次のようなことを考えるために書かれたものである、ということだった。
“「デザインする」という過程の中に、どのような合理性、論理性が含まれているのか?”
◆◆◆
今回は、その議論のたたき台として、自転車用のバッグを作る、ということを目指してゆくから、ここではアタマの中に描いたものを実際に手を動かして作る、という技術の面よりも、アタマの中に明確な像を描いて作成にとりかかるまでの過程をいっしょに追っていってもらいたい。
極度に単純化して一般化して言えば、ものづくりをはじめとした芸術の創作過程の大まかな構造は、以下のとおりである。(詳しくは、三浦つとむ『芸術とはどういうものか』を参照)
ここでは、これから創るものを思い浮かべて、物質的な資料を集めそれを参考にしながらアタマの中に明確な像として描いてゆくまでを追ってゆくから、この図式で言えば、「対象→認識」に焦点を当てていることになる。
もっといえば、最も重要なのは、対象から認識までの過程、つまり「→」そのものである。
わたしたちが、現実の世界にあったものをそのまま複製するのではなくて、それらの資料を組み合わせたり不要なものを取り除いて新しく自らが目指すものを思い描くというのは、そこで行われている活動が、「単なる模写」ではない、ということを示している。
◆◆◆
さて具体的なバッグのわたしが最終的なイメージとして目指したのは、下にある、
ずいぶん古い写真のバッグである。
ただしこれは、わたしにとって雰囲気が魅力的であるということに過ぎず、
機能面に目を向ければ欠点も少なくない。
・中のものを取り出すためには、バックルを外さなくてはならない。
・一本のストラップでしか固定されていないようだから、走行中に荷物が揺れてしまう。
・構造上、サドルに固定したままでフタを開けるとすると、バッグが傾いて荷物がこぼれ落ちてしまうだろうから、そえ手が必要になる。
これらのことは総じて、
・ストラップ一本で「サドルとの固定」、「蓋を閉める」をはじめとした複数の役割を担おうとするところに無理がある
という大まかな判断ができる。
◆◆◆
このことから、あるひとつの部品に複数の機能を持たせようとするには限界がある、というとりあえずの仮説が導き出せる。
機能とデザインの両立のためには、適切な妥協点を探さねばならない、ということである。
上の写真の場合で言えば、シンプルな形状の箱に一本だけのストラップが備え付けられているというデザインは、無駄がなく魅力的だといえるが、「無駄がなさすぎる」という逸脱によって、使い手に努力を強いる、という欠点も備え持っていることになる。
この欠点は、それぞれの機能を、複数の部品にわけて持たせることによって解消できそうである。
ところで、ここで機能とデザインにおける「適切な妥協点」と言ってはみたが、さて「適切な妥協点」とは、一般的に導くことのできるものであろうか?という疑問があるかもしれない。
これが人によって異なるのなら、デザインから論理を引き出すことなど不可能になるからである。
このBlogを、興味のないジャンルまでの読んでくれているような読者であれば、わたしの言わんとするところを読み取ってくれるかもしれないが、ともかくその「適切な妥協点」は、「実践の必要性」から導きだされるのである。
これは、いつか「飼い犬の生命を救うために家族の生命を危険に晒すべきか」(Buckets*Garage: このBlogはなにを伝えたいのか(1))とたとえを出しておいたことと、論理的に同一の問題である。
今回の場合であれば、わたしはこのバッグを使って数日間の自転車ツアーにゆかねばならない、という目的があるから、それが実践の必要性、ということである。
これがたとえば、近所のスーパーでの買出しに過不足がないバッグで良いのなら、必要な条件は変わってくるであろう。
(03につづく)
【余談】
一般の読者にとっては余談ではあるけれど、この一連の記事に出てくることばというものは、いちおうの整理をしているつもりではあるが、まだ明確な概念規定が行われているとは言いがたい。
たとえば「デザイン」、「機能」、「合理性」などといった重要な用語が、明確な区別と連関によって整理されていないままであり、その場所その場所で違ったニュアンスをふくんでいる。
ところが、これまでたんに「格好が良い」といった感性的な理解が大勢を占めているデザインという分野に、論理性のメスをいれて整理してゆくという試みをするときには、どうしても試行錯誤の中で、つまり論じてゆく中で概念を明確にする作業が欠かせない。
そういうわけで、読者にとっては読み返しながら理解してもらう努力が必要になるかと思うが、わたしとしてもそういった努力がなるべく少なくなるように工夫してゆこうと考えているので、お付き合いいただけると嬉しい限りである。
これまで「自称ハイセンス」な一部の思想家、評論家の手に委ねるしかなかったデザインという分野に論理の光を当てることを通して、それを万人の手に還すという作業は、これからの時代の人々の手によって為されてゆかねばならない作業だと考えている。
学問的には、三浦つとむの唯物論的芸術論を、実践を通して科学化してゆく過程にこそ、わたしの目指すところはある。
2011/06/20
デザインにおける弁証法 01
Blogおやすみのあいだに何をしてたのかというと、
ひとつには、自転車用のバッグの作成。
報告に時間がかかることはおいおいとして、
わかりやすいものから記事にしてゆきたいので、今回はこれ。
自転車のバッグ?なんだそんなの買えばいいじゃん、
という方がおられるかもしれないけれど、
自転車用のアクセサリというのは、全然割りに合わないものが多いのだ。
割りに合わないというのは、
・機能の割に高すぎる
・デザイン性に乏しい
・かゆいところに手が届かない
などなど、要するに「とにかく品質が低いモノが多い」、ということである。
◆◆◆
わたしは、モノそのものに納得ができなければ、
それが100万円だろうが100円だろうが、とにかくビタ一文払わない。
要らないものは、タダでも要らない。
だから百均ショップでも1年に1回買うかどうかくらいだし、
今流行りのスマートフォン向けアプリなんかも、115円のアプリを買うのに、本当に必要なのかと1週間検討するくらいである。
安いからとかタダだからとかいって、
要らないものなのに無駄買いしたり、
そこらへんでもらえるものをなんでもかき集めるのが好きな人がいるけれど、少なくともわたしは、「いつか使う」というようなものを、使う日がきたためしがないんだもの。
たとえただでも場所をとるのだとしたら、それって在庫費用がかさんでいるということだ。
物理的なものではないものでも、たとえば無料のアプリをダウンロードすれば
iPhone本体の容量のうちいくらかを使うのだから、これもコストである。
◆◆◆
そういう、不要なものを身の回りに置きたくない人間からすると、自転車用品市場なんてものは、ちゃんと吟味しなければとんでもないものを掴まされるという玉石混淆、高リスクの市場といってよい。
たとえば、気圧計のついていない空気入れ(タイヤがいまどのくらいの気圧なのかわからない!)とか、走っていると外れてくるライトホルダ、数泊用の荷物を積んでいると折れちゃう荷台、丈夫だけれど荷物を出すのに数分かかるバッグなど、開発者は実際に使ってみたのか?と、ユーザーを馬鹿にしているとしか思えない商品は枚挙にいとまがない。
こういうところは、どれだけ流行りが来たとしても全然洗練されてこないのが不思議なほどなのだけれど、もうこうなると、自分がしっかりと、それを使っている光景を想像してみて本当にまともに使えるだろうかと熟慮しなければならない。
わたしはとくに、長距離ツアーなどにも出かけてきたから、
デザインは優れているけど長く使えない、という製品をどうしても評価できない。
旅先で致命的な機能が欠けていることに気づいても、ときすでに遅しなのだ。
わたしは、「気持よく使える」、という要素を欠いたものは、
どうあがいても「道具」とは呼べない、と考えている。
彫刻のために彫刻刀が存在する理由は、ナイフを使うよりも無理なく便利で気持ちよく使えるからであって、自転車の場合であれば、そこらへんの気に入ったバッグを荷紐で縛り付けたほうが便利なのなら、なにもあたらしいバッグを買う必要などない。
なのに、現実に目を向けると、そんなレベルの、商品どころかその物の存在理由すら満たせないような、どうしようもないクオリティのアクセサリが存在していることが、目に余る問題なのである。
で、革細工も日々前進でやってきて5ヶ月ほどになるのと、
学生さんに美学の入門として、いわゆるデザイン論を教えはじめたことなんかも相まって、
ひとつ叩き台になるものを提示する必要があったのがきっかけでつくることになった。
ダメで元々の素人だから、怖いもの知らずである。
◆◆◆
じゃあこういうときに何をするかというと、ここは学者らしく考えて、
「自転車用バッグとはどういうものか」という像を明確にするためにも、
まずは網羅的にしらべてみて、全体像を掴むことからはじめよう。
どんな仕事をしている人でも、その人が経験の中で創り上げてきた、
「ものごとの考え方」があるはずで、それを他のジャンルにでも適用できるかどうか、と考えてみることが、論理性を高めるための第一歩である。
形式としてはそれでよいから、内容としては、ひとまず真剣に、「先人から学ぶ」。
さてそのなかで、目標のためのたたき台になるかなあと思ったのはこれ。
でもどっちもあまり大きくない上に、けっこういい値段。
前者はともかく、後者は質感は確かなものの、ちょっとプレミアが付き過ぎではないかと思う。
機能性にしても、ペダルを踏み込んだ時に太ももに当たってしまうようだし、フラップを外すのが面倒なバックル型だし、サドルバッグとしてだけの役割しか果たせないものとしては高すぎるのだ。
わたしはどうしても、なにかを我慢しながら使わなければならないようなものには、テコでもお金を出したくない。
これはいくらお金を持っているかには関係はないのであって、不味いものを買うということは、いわばそれを認めたことになり、世の中にダメなものがのさばる契機を作るという片棒を担いだことになる。
これは、万人のために正しいものを正しく考えるという学者の原則に反するのである。
◆◆◆
ともかく、お金を出せば買えるもののなかで参考になりそうなものは、これくらいであった。
次に、わたしの勝手に弟子入り(=私淑)しているお師匠様のサイト「英国式自転車生活」から見つけてきたものがこれ。
(失礼ながら、ご本人にはまだ連絡をとったことがありません。まだまっとうにお話できる実力がないからですが、いつかは!)
これは単に、「見た目が好きだ」という感性的な理由からである。
こうして世にあるものをほとんど調べつくしたことをとおして、
自分の実現すべきものが見えてきた。
わたしの目指す自転車用バッグの要素は、次のとおりである。
・サドルバッグとしても、
フロントバッグ(ハンドルの前に付けるバッグ)としても使えること。
・いつも持ち歩いている荷物が満足に入ること。
・あらゆるデザインに、根拠があること。
・ユーザーに努力を強いないこと。
(ベルトを外すのが異常に面倒でない、必要以上の装飾によって
重くなっていない、運転中に太ももに当たらない、など)
これらはすべて、わたしが理想に近いなと思って挙げた商品を、
「わたしが実際に使うとしたら、ここはこうなっていてほしいな」
という観点で調べてみて、引き出してきた欠点である。
◆◆◆
さて、これから続きの記事を書いてゆくけれど、そのときに注意してほしいことは、
いわゆる「良いデザイン」というものが、単に「なんとなく格好が良い」ということとは違っている、ということに注意して読み進めてほしいということである。
言い換えれば、「良いデザイン」というのは、
前回懐中時計のスタンドを作ったときの結論として触れたとおり、
「明確な合理性を持っている」のだ、ということを意識してほしい。
歴史上に名を残した芸術家が、歴史に名を残すことになったまさにその理由というのは、論理性が高かったからである。
身近な例を引いても、たとえばAppleの製品が優れているのは、論理性が高いことがその理由である。
デザインが論理性だとは迷言もたいがいにしろ、とのお叱りがあるのではないかと察するが、そういった方は、まずこのことを考えてみてもらいたいと思う。
「では、『良いデザイン』とはどういうものなのですか?」
このことに明確な答えが出せないのなら、どうしてもまっとうな批判にはならないからである。
◆◆◆
わたしはこの問いには、こう応える。
「良いデザインには、弁証法という論理性が含まれているのだと考えています」。
その根拠は、これから続く一連の記事で展開するとして、ひとまずこのように仮定しておくと有意義なのは、自分自身がモノづくりをするときにも、その過程において、いま自分のやろうとしていることは、しっかりと「弁証法性を含んでいるだろうか?」と問えばいいことになることである。
ここでいう弁証法とは、たとえばひとつに、いまバラバラに考えているこれとあれの機能は、このひとつの部品で両立できるのではないか?といったことが挙げられる。
あれを優先するあまりにこれが蔑ろになっていないか、という観点は、
「見た目には良いが使い勝手が悪い」という落とし穴にはまらぬ予防として非常に有意義である。
そうして各所に弁証法性を含んだ状態で、それが客観的に見て良いデザインだと思ってもらえるのなら、この仮説に、ひとつの根拠が生まれたことになるというわけである。
なかなか理解されないけれどもわたしは理屈が嫌いだから、
もし実物を見てもらってまるで評価されなかったとしても、
「お前たちのようなバカにはわからないかもしれないが、ここには高度な理論が含まれているのだ!」
などといったような、見苦しい弁解をするつもりはない。
ここからの記事では、デザインという営みに含まれている過程的構造をわたしなりに説明してゆくので、どうしても論理、論理という言葉が含まれてきはするけれども、それはなにも、どこぞの偉大な学者の理論を適用したのだという権威付けなどでは決して無くて、たんなる説明でしかない。
読者に判断していただきたいのは、あくまでも最終的にできたモノが、まっとうなものに見えるかどうか、ということである。
そこにまっとうな部分があるのだとしたら、わたしの考え方をあらためて追ってみて、その過程が考えていた通りのものなのかどうかを確かめてほしい。
そしてまた、最終的なデザインや過程の中に欠けているものを認め、これまたまっとうに批判して、前進のためのたたき台としていってほしい。
そうした批判の過程を持っている人の意見は、
たとえその内容が自分のものといかに対立していたとしても、
敬意を持って受け止めてきたし、これからもそうありたいものである。
さて、能書きはこれくらいにして、話を始めましょうか。
(02につづく)
ひとつには、自転車用のバッグの作成。
報告に時間がかかることはおいおいとして、
わかりやすいものから記事にしてゆきたいので、今回はこれ。
自転車のバッグ?なんだそんなの買えばいいじゃん、
という方がおられるかもしれないけれど、
自転車用のアクセサリというのは、全然割りに合わないものが多いのだ。
割りに合わないというのは、
・機能の割に高すぎる
・デザイン性に乏しい
・かゆいところに手が届かない
などなど、要するに「とにかく品質が低いモノが多い」、ということである。
◆◆◆
わたしは、モノそのものに納得ができなければ、
それが100万円だろうが100円だろうが、とにかくビタ一文払わない。
要らないものは、タダでも要らない。
だから百均ショップでも1年に1回買うかどうかくらいだし、
今流行りのスマートフォン向けアプリなんかも、115円のアプリを買うのに、本当に必要なのかと1週間検討するくらいである。
安いからとかタダだからとかいって、
要らないものなのに無駄買いしたり、
そこらへんでもらえるものをなんでもかき集めるのが好きな人がいるけれど、少なくともわたしは、「いつか使う」というようなものを、使う日がきたためしがないんだもの。
たとえただでも場所をとるのだとしたら、それって在庫費用がかさんでいるということだ。
物理的なものではないものでも、たとえば無料のアプリをダウンロードすれば
iPhone本体の容量のうちいくらかを使うのだから、これもコストである。
◆◆◆
そういう、不要なものを身の回りに置きたくない人間からすると、自転車用品市場なんてものは、ちゃんと吟味しなければとんでもないものを掴まされるという玉石混淆、高リスクの市場といってよい。
たとえば、気圧計のついていない空気入れ(タイヤがいまどのくらいの気圧なのかわからない!)とか、走っていると外れてくるライトホルダ、数泊用の荷物を積んでいると折れちゃう荷台、丈夫だけれど荷物を出すのに数分かかるバッグなど、開発者は実際に使ってみたのか?と、ユーザーを馬鹿にしているとしか思えない商品は枚挙にいとまがない。
こういうところは、どれだけ流行りが来たとしても全然洗練されてこないのが不思議なほどなのだけれど、もうこうなると、自分がしっかりと、それを使っている光景を想像してみて本当にまともに使えるだろうかと熟慮しなければならない。
わたしはとくに、長距離ツアーなどにも出かけてきたから、
デザインは優れているけど長く使えない、という製品をどうしても評価できない。
旅先で致命的な機能が欠けていることに気づいても、ときすでに遅しなのだ。
わたしは、「気持よく使える」、という要素を欠いたものは、
どうあがいても「道具」とは呼べない、と考えている。
彫刻のために彫刻刀が存在する理由は、ナイフを使うよりも無理なく便利で気持ちよく使えるからであって、自転車の場合であれば、そこらへんの気に入ったバッグを荷紐で縛り付けたほうが便利なのなら、なにもあたらしいバッグを買う必要などない。
なのに、現実に目を向けると、そんなレベルの、商品どころかその物の存在理由すら満たせないような、どうしようもないクオリティのアクセサリが存在していることが、目に余る問題なのである。
で、革細工も日々前進でやってきて5ヶ月ほどになるのと、
学生さんに美学の入門として、いわゆるデザイン論を教えはじめたことなんかも相まって、
ひとつ叩き台になるものを提示する必要があったのがきっかけでつくることになった。
ダメで元々の素人だから、怖いもの知らずである。
◆◆◆
じゃあこういうときに何をするかというと、ここは学者らしく考えて、
「自転車用バッグとはどういうものか」という像を明確にするためにも、
まずは網羅的にしらべてみて、全体像を掴むことからはじめよう。
どんな仕事をしている人でも、その人が経験の中で創り上げてきた、
「ものごとの考え方」があるはずで、それを他のジャンルにでも適用できるかどうか、と考えてみることが、論理性を高めるための第一歩である。
形式としてはそれでよいから、内容としては、ひとまず真剣に、「先人から学ぶ」。
さてそのなかで、目標のためのたたき台になるかなあと思ったのはこれ。
ジンバーレ レザーサドルバッグ(1.5万円) |
ブルックス レザーミルブルック(4.5万円) |
前者はともかく、後者は質感は確かなものの、ちょっとプレミアが付き過ぎではないかと思う。
機能性にしても、ペダルを踏み込んだ時に太ももに当たってしまうようだし、フラップを外すのが面倒なバックル型だし、サドルバッグとしてだけの役割しか果たせないものとしては高すぎるのだ。
わたしはどうしても、なにかを我慢しながら使わなければならないようなものには、テコでもお金を出したくない。
これはいくらお金を持っているかには関係はないのであって、不味いものを買うということは、いわばそれを認めたことになり、世の中にダメなものがのさばる契機を作るという片棒を担いだことになる。
これは、万人のために正しいものを正しく考えるという学者の原則に反するのである。
◆◆◆
ともかく、お金を出せば買えるもののなかで参考になりそうなものは、これくらいであった。
次に、わたしの勝手に弟子入り(=私淑)しているお師匠様のサイト「英国式自転車生活」から見つけてきたものがこれ。
(失礼ながら、ご本人にはまだ連絡をとったことがありません。まだまっとうにお話できる実力がないからですが、いつかは!)
これは単に、「見た目が好きだ」という感性的な理由からである。
こうして世にあるものをほとんど調べつくしたことをとおして、
自分の実現すべきものが見えてきた。
わたしの目指す自転車用バッグの要素は、次のとおりである。
・サドルバッグとしても、
フロントバッグ(ハンドルの前に付けるバッグ)としても使えること。
・いつも持ち歩いている荷物が満足に入ること。
・あらゆるデザインに、根拠があること。
・ユーザーに努力を強いないこと。
(ベルトを外すのが異常に面倒でない、必要以上の装飾によって
重くなっていない、運転中に太ももに当たらない、など)
これらはすべて、わたしが理想に近いなと思って挙げた商品を、
「わたしが実際に使うとしたら、ここはこうなっていてほしいな」
という観点で調べてみて、引き出してきた欠点である。
◆◆◆
さて、これから続きの記事を書いてゆくけれど、そのときに注意してほしいことは、
いわゆる「良いデザイン」というものが、単に「なんとなく格好が良い」ということとは違っている、ということに注意して読み進めてほしいということである。
言い換えれば、「良いデザイン」というのは、
前回懐中時計のスタンドを作ったときの結論として触れたとおり、
「明確な合理性を持っている」のだ、ということを意識してほしい。
歴史上に名を残した芸術家が、歴史に名を残すことになったまさにその理由というのは、論理性が高かったからである。
身近な例を引いても、たとえばAppleの製品が優れているのは、論理性が高いことがその理由である。
デザインが論理性だとは迷言もたいがいにしろ、とのお叱りがあるのではないかと察するが、そういった方は、まずこのことを考えてみてもらいたいと思う。
「では、『良いデザイン』とはどういうものなのですか?」
このことに明確な答えが出せないのなら、どうしてもまっとうな批判にはならないからである。
◆◆◆
わたしはこの問いには、こう応える。
「良いデザインには、弁証法という論理性が含まれているのだと考えています」。
その根拠は、これから続く一連の記事で展開するとして、ひとまずこのように仮定しておくと有意義なのは、自分自身がモノづくりをするときにも、その過程において、いま自分のやろうとしていることは、しっかりと「弁証法性を含んでいるだろうか?」と問えばいいことになることである。
ここでいう弁証法とは、たとえばひとつに、いまバラバラに考えているこれとあれの機能は、このひとつの部品で両立できるのではないか?といったことが挙げられる。
あれを優先するあまりにこれが蔑ろになっていないか、という観点は、
「見た目には良いが使い勝手が悪い」という落とし穴にはまらぬ予防として非常に有意義である。
そうして各所に弁証法性を含んだ状態で、それが客観的に見て良いデザインだと思ってもらえるのなら、この仮説に、ひとつの根拠が生まれたことになるというわけである。
なかなか理解されないけれどもわたしは理屈が嫌いだから、
もし実物を見てもらってまるで評価されなかったとしても、
「お前たちのようなバカにはわからないかもしれないが、ここには高度な理論が含まれているのだ!」
などといったような、見苦しい弁解をするつもりはない。
ここからの記事では、デザインという営みに含まれている過程的構造をわたしなりに説明してゆくので、どうしても論理、論理という言葉が含まれてきはするけれども、それはなにも、どこぞの偉大な学者の理論を適用したのだという権威付けなどでは決して無くて、たんなる説明でしかない。
読者に判断していただきたいのは、あくまでも最終的にできたモノが、まっとうなものに見えるかどうか、ということである。
そこにまっとうな部分があるのだとしたら、わたしの考え方をあらためて追ってみて、その過程が考えていた通りのものなのかどうかを確かめてほしい。
そしてまた、最終的なデザインや過程の中に欠けているものを認め、これまたまっとうに批判して、前進のためのたたき台としていってほしい。
そうした批判の過程を持っている人の意見は、
たとえその内容が自分のものといかに対立していたとしても、
敬意を持って受け止めてきたし、これからもそうありたいものである。
さて、能書きはこれくらいにして、話を始めましょうか。
(02につづく)
2011/06/18
I'll be back soon.
ご無沙汰しています。
人ほどは頻繁に個別の連絡をしないので、
ここが生存報告場所なのだけど、
前の更新から2週間ほど経ってしまいました。
記事を書いてはいるけれど、自宅で手直ししたあとで公開しているから、
自宅に帰らなかったり風呂で居眠りをしちゃう日には更新できないのです。
ここのところ、集中してやりたいことがあったので専念しておりました。
いつもの記事を楽しみにしてくださっているみなさんにはお詫びいたします。
週明けごろからいつものペースに戻ります。
追記
春先からの故障とはあまり関係ありませんので、
心配してくださった方には心配無用ですと言っておきます。
人ほどは頻繁に個別の連絡をしないので、
ここが生存報告場所なのだけど、
前の更新から2週間ほど経ってしまいました。
記事を書いてはいるけれど、自宅で手直ししたあとで公開しているから、
自宅に帰らなかったり風呂で居眠りをしちゃう日には更新できないのです。
ここのところ、集中してやりたいことがあったので専念しておりました。
いつもの記事を楽しみにしてくださっているみなさんにはお詫びいたします。
週明けごろからいつものペースに戻ります。
追記
春先からの故障とはあまり関係ありませんので、
心配してくださった方には心配無用ですと言っておきます。