2011/06/20

デザインにおける弁証法 01

Blogおやすみのあいだに何をしてたのかというと、


ひとつには、自転車用のバッグの作成。

報告に時間がかかることはおいおいとして、
わかりやすいものから記事にしてゆきたいので、今回はこれ。

自転車のバッグ?なんだそんなの買えばいいじゃん、
という方がおられるかもしれないけれど、
自転車用のアクセサリというのは、全然割りに合わないものが多いのだ。

割りに合わないというのは、
・機能の割に高すぎる
・デザイン性に乏しい
・かゆいところに手が届かない

などなど、要するに「とにかく品質が低いモノが多い」、ということである。

◆◆◆

わたしは、モノそのものに納得ができなければ、
それが100万円だろうが100円だろうが、とにかくビタ一文払わない。
要らないものは、タダでも要らない。

だから百均ショップでも1年に1回買うかどうかくらいだし、
今流行りのスマートフォン向けアプリなんかも、115円のアプリを買うのに、本当に必要なのかと1週間検討するくらいである。

安いからとかタダだからとかいって、
要らないものなのに無駄買いしたり、
そこらへんでもらえるものをなんでもかき集めるのが好きな人がいるけれど、少なくともわたしは、「いつか使う」というようなものを、使う日がきたためしがないんだもの。
たとえただでも場所をとるのだとしたら、それって在庫費用がかさんでいるということだ。

物理的なものではないものでも、たとえば無料のアプリをダウンロードすれば
iPhone本体の容量のうちいくらかを使うのだから、これもコストである。

◆◆◆

そういう、不要なものを身の回りに置きたくない人間からすると、自転車用品市場なんてものは、ちゃんと吟味しなければとんでもないものを掴まされるという玉石混淆、高リスクの市場といってよい。

たとえば、気圧計のついていない空気入れ(タイヤがいまどのくらいの気圧なのかわからない!)とか、走っていると外れてくるライトホルダ、数泊用の荷物を積んでいると折れちゃう荷台、丈夫だけれど荷物を出すのに数分かかるバッグなど、開発者は実際に使ってみたのか?と、ユーザーを馬鹿にしているとしか思えない商品は枚挙にいとまがない。

こういうところは、どれだけ流行りが来たとしても全然洗練されてこないのが不思議なほどなのだけれど、もうこうなると、自分がしっかりと、それを使っている光景を想像してみて本当にまともに使えるだろうかと熟慮しなければならない。
わたしはとくに、長距離ツアーなどにも出かけてきたから、
デザインは優れているけど長く使えない、という製品をどうしても評価できない。
旅先で致命的な機能が欠けていることに気づいても、ときすでに遅しなのだ。

わたしは、「気持よく使える」、という要素を欠いたものは、
どうあがいても「道具」とは呼べない、と考えている。
彫刻のために彫刻刀が存在する理由は、ナイフを使うよりも無理なく便利で気持ちよく使えるからであって、自転車の場合であれば、そこらへんの気に入ったバッグを荷紐で縛り付けたほうが便利なのなら、なにもあたらしいバッグを買う必要などない。

なのに、現実に目を向けると、そんなレベルの、商品どころかその物の存在理由すら満たせないような、どうしようもないクオリティのアクセサリが存在していることが、目に余る問題なのである。

で、革細工も日々前進でやってきて5ヶ月ほどになるのと、
学生さんに美学の入門として、いわゆるデザイン論を教えはじめたことなんかも相まって、
ひとつ叩き台になるものを提示する必要があったのがきっかけでつくることになった。
ダメで元々の素人だから、怖いもの知らずである。

◆◆◆

じゃあこういうときに何をするかというと、ここは学者らしく考えて、
「自転車用バッグとはどういうものか」という像を明確にするためにも、
まずは網羅的にしらべてみて、全体像を掴むことからはじめよう。

どんな仕事をしている人でも、その人が経験の中で創り上げてきた、
「ものごとの考え方」があるはずで、それを他のジャンルにでも適用できるかどうか、と考えてみることが、論理性を高めるための第一歩である。

形式としてはそれでよいから、内容としては、ひとまず真剣に、「先人から学ぶ」。

さてそのなかで、目標のためのたたき台になるかなあと思ったのはこれ。

ジンバーレ レザーサドルバッグ(1.5万円)

ブルックス レザーミルブルック(4.5万円)
でもどっちもあまり大きくない上に、けっこういい値段。
前者はともかく、後者は質感は確かなものの、ちょっとプレミアが付き過ぎではないかと思う。
機能性にしても、ペダルを踏み込んだ時に太ももに当たってしまうようだし、フラップを外すのが面倒なバックル型だし、サドルバッグとしてだけの役割しか果たせないものとしては高すぎるのだ。

わたしはどうしても、なにかを我慢しながら使わなければならないようなものには、テコでもお金を出したくない。
これはいくらお金を持っているかには関係はないのであって、不味いものを買うということは、いわばそれを認めたことになり、世の中にダメなものがのさばる契機を作るという片棒を担いだことになる。
これは、万人のために正しいものを正しく考えるという学者の原則に反するのである。

◆◆◆

ともかく、お金を出せば買えるもののなかで参考になりそうなものは、これくらいであった。

次に、わたしの勝手に弟子入り(=私淑)しているお師匠様のサイト「英国式自転車生活」から見つけてきたものがこれ。
(失礼ながら、ご本人にはまだ連絡をとったことがありません。まだまっとうにお話できる実力がないからですが、いつかは!)


これは単に、「見た目が好きだ」という感性的な理由からである。

こうして世にあるものをほとんど調べつくしたことをとおして、
自分の実現すべきものが見えてきた。


わたしの目指す自転車用バッグの要素は、次のとおりである。

・サドルバッグとしても、
フロントバッグ(ハンドルの前に付けるバッグ)としても使えること。
・いつも持ち歩いている荷物が満足に入ること。
・あらゆるデザインに、根拠があること。
・ユーザーに努力を強いないこと。
(ベルトを外すのが異常に面倒でない、必要以上の装飾によって
重くなっていない、運転中に太ももに当たらない、など)


これらはすべて、わたしが理想に近いなと思って挙げた商品を、
「わたしが実際に使うとしたら、ここはこうなっていてほしいな」
という観点で調べてみて、引き出してきた欠点である。

◆◆◆

さて、これから続きの記事を書いてゆくけれど、そのときに注意してほしいことは、
いわゆる「良いデザイン」というものが、単に「なんとなく格好が良い」ということとは違っている、ということに注意して読み進めてほしいということである。

言い換えれば、「良いデザイン」というのは、
前回懐中時計のスタンドを作ったときの結論として触れたとおり、
「明確な合理性を持っている」のだ、ということを意識してほしい。

歴史上に名を残した芸術家が、歴史に名を残すことになったまさにその理由というのは、論理性が高かったからである。
身近な例を引いても、たとえばAppleの製品が優れているのは、論理性が高いことがその理由である。

デザインが論理性だとは迷言もたいがいにしろ、とのお叱りがあるのではないかと察するが、そういった方は、まずこのことを考えてみてもらいたいと思う。

「では、『良いデザイン』とはどういうものなのですか?」

このことに明確な答えが出せないのなら、どうしてもまっとうな批判にはならないからである。

◆◆◆

わたしはこの問いには、こう応える。

「良いデザインには、弁証法という論理性が含まれているのだと考えています」。

その根拠は、これから続く一連の記事で展開するとして、ひとまずこのように仮定しておくと有意義なのは、自分自身がモノづくりをするときにも、その過程において、いま自分のやろうとしていることは、しっかりと「弁証法性を含んでいるだろうか?」と問えばいいことになることである。

ここでいう弁証法とは、たとえばひとつに、いまバラバラに考えているこれとあれの機能は、このひとつの部品で両立できるのではないか?といったことが挙げられる。
あれを優先するあまりにこれが蔑ろになっていないか、という観点は、
「見た目には良いが使い勝手が悪い」という落とし穴にはまらぬ予防として非常に有意義である。

そうして各所に弁証法性を含んだ状態で、それが客観的に見て良いデザインだと思ってもらえるのなら、この仮説に、ひとつの根拠が生まれたことになるというわけである。

なかなか理解されないけれどもわたしは理屈が嫌いだから、
もし実物を見てもらってまるで評価されなかったとしても、
「お前たちのようなバカにはわからないかもしれないが、ここには高度な理論が含まれているのだ!」
などといったような、見苦しい弁解をするつもりはない。

ここからの記事では、デザインという営みに含まれている過程的構造をわたしなりに説明してゆくので、どうしても論理、論理という言葉が含まれてきはするけれども、それはなにも、どこぞの偉大な学者の理論を適用したのだという権威付けなどでは決して無くて、たんなる説明でしかない。

読者に判断していただきたいのは、あくまでも最終的にできたモノが、まっとうなものに見えるかどうか、ということである。
そこにまっとうな部分があるのだとしたら、わたしの考え方をあらためて追ってみて、その過程が考えていた通りのものなのかどうかを確かめてほしい。
そしてまた、最終的なデザインや過程の中に欠けているものを認め、これまたまっとうに批判して、前進のためのたたき台としていってほしい。


そうした批判の過程を持っている人の意見は、
たとえその内容が自分のものといかに対立していたとしても、
敬意を持って受け止めてきたし、これからもそうありたいものである。

さて、能書きはこれくらいにして、話を始めましょうか。


(02につづく)

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