2011/05/04

このBlogはなにを伝えたいのか(3)

(2のつづき)

※一節目を中心に、初学者にも読み解くための手がかりを記した上で、圧縮した表現をやや解きほぐす形で、補足と修正を行いました。なんとか理解したいがどうにかならないか、とご意見をくださった読者の方、ありがとうございます。(2011/5/4)




 余談として、趣味についてのエントリが持っていた大まかな構造を述べておきます。
(ここで「余談」と前置きして、「読まなくてもいいよ」というニュアンスを持たせたのは、
同記事がもともと初学者向けのものだったからです。
ところがある表現を弁証法、つまり事物を固定したものではなくそれらの運動形態として描き出そうとすると、
それが「あれからこれへ」といった変化ではないために、それ相応の立体構造への理解が必要になってきます。
初学者のみなさんへは、こういった立ち入った構造の精確な理解ではなくて、
「なるほど、あの記事はこういった『思い』をもって書かれたのか」、
とわかっていただければ十分だと思っていたから、というわけです。)

 あの記事にふくまれていた、全体の構造はこのようなものでした。
それはひとつに、一般的な人間観から人間らしい趣味を媒介としての本質的な人間観へ。
ふたつには、趣味レベルの感性的な趣味を正しい人間観で捉え返しての理性的な筋を通した趣味(=我が道)へ。
それら二重性を持った否定の否定の流れです。


 ここでは「正しい人間観」が把握されていることが前提となっていますが、その内実とは、「人間とは、目的意識を持って対象に働きかけるとともに、その対象を変えることによって自らをも変えるものである」というものです。その人間観を土台として趣味というものを考えてみれば、「人間らしい趣味」というものが、どのような方向性を持っているのかを一般的に示すことができるというわけです。そういうことをふまえて、わたしは「趣味」を、単なる余技だとか暇つぶしの娯楽だとは扱わなかったのでした。そういうものは、そもそも人間らしい営みではないのですから。動物と人間を分けるのは、目的意識を持った「労働」をしているかどうかにあり、「趣味」はそのなかの特殊性として位置づけられるのですから、そこにも、やはり「目的意識を持って対象に働きかける」という性質がなければならないことになりますね。

 その前提を踏まえて、全体の論理性についてもう一度文章で表現してみると、あらゆるジャンルの趣味という具体的な段階から、それを突き詰めることによって抽象的な段階へとのぼり、そしてその抽象的な段階で得られた一般性・本質・原理・原則というものをとおして、具体的な段階にくだり具体的なものを捉え返す、という、「のぼり、くだり」の構造があります。そしてそれら全体の流れは、感性的認識から理性的認識への発展を示しているのです。

 あの趣味についての記事がふくんでいたのは、そういう大まかな構造です。
その大まかな構造のなかで、上で述べた二つの構造が互いに浸透しあう形で量質転化していますから、
これらは全体としてみたときにはじめて、弁証法の法則を踏まえていることがわかってくるのです。
 ですから、これは入口であって出口であり、そのことは直接に、
これらが全体として弁証法的な発展の構造を指し示しているということになります。

 そうであればこそ、表題を「趣味は何を選ぶべきか」ではなくて、「趣味はどう選ぶべきか」としたのです。
内容ではなくて、形式をこそ指し示したかったわけですね。


 弁証法を使わずに、形而上学まで論理のレベルを落とした上で言いたいことを述べるとすれば、趣味は、正しい土台に基づく目的意識さえあれば人間としての真っ当な営みになりうるのだし、ぜひみなさんにもそうしていただきたい、ということに尽きていました。べったり平面的に要約してしまうと、これだけのことなのですから、なおのこと全体をとおしての弁証法性を把握していただかなければ、あまり意味のない記事になってしまうのです。この記事を読んだ感想が、「発展というのはあれからこれへ、といったような直線的な矢印で指し示されるようなものではないのだな」といったものであれば、言いたいことは十分に伝わったと言えるでしょう。

 そういったことをわたしなりに確認し、全体の構造が描けたと思ったときに、これで言いたいことはすべて言えたと思い、最後に人間の豊かさと責任に軽く触れて擱筆したのでした。

◆◆◆

 次に、なにやら予言じみたふうに、こんなことを言ったことがあると(1)で書きました。
わたしは根拠のないことは言いませんから、理由を説明しておきたいと思います。

 わたしが「あなたの今までやってきたことは、ある時にすべて活かすことのできる瞬間が来ますから、どれもあきらめないで、ずっと持っていてください」という個人的なアドバイスをした、とありましたが、これはお話しした当人が、すでに「一つの筋」を見つけているのだな、と判断できたからこそ、そうしたのです。

 もっと言えば、自分の生涯をかけての一つの筋を見つけつつありながらも、その若さ故の不安定さや、その不足を過度に引き合いにだしてすべてが間違っているかのように頭ごなしに封じ込めるといった不理解からの外圧に負けずに、しっかりとその道を進んでくださるよう激励する意味合いが含まれているのです。
 ですから、ここではわたしは人間としてごくごく浅いとはいえ、自らの経験でもって、その人の「一つの筋」、つまりこの先に生涯をかけた道になりうる、生き方における論理的な一般性を見て取った上で、「それは間違っていない」と言っているのですから、単なる運命論や気休めなどでは断じてありません。


 本質から目を逸らさずに生きるひとたちが、そのあらゆる過程で味わうであろう、あの、気を抜いた途端に底が抜けるような不安感、道行く人の雑踏や木のざわめきまでが自らの批判に向けられているのではないかというような、息も詰まるような孤独というのは、体験したことがない人間にはとても想像のつかない重圧です。

 自分の何倍も長生きしている人間から、しかも自らを指導するはずの立場にある複数の先達からの、やれ「お前はキチガイだ」、「お前にそんなことができるか、身の程を知れ」、「前例がないからやめろ」などといった心無い批判に加えて、その尻馬に乗った連中からの、ありったけの罵詈雑言の類を浴びせかけられることが、人間の世界にはあるのです。
 その不理解に追い打ちをかけるように、理解あるような体を装いながらまるで思惑を汲むことのない、「若気の至りで一旗揚げたいのはわかるが」といった前置き。これは、想像するに余りある境遇ではないでしょうか。

 「一旗揚げる」!?
これだけのことを、目立つためにやっていると思っておられるというのか。
そうではない、そんな動機ではない、そんなことのために生きているんじゃない!

 夢のため、後進のために道を譲れないひとならば、こう叫びたくなることだってあるでしょう。

◆◆◆

 程度はどうあれ、わたしもこういった期間を、「これを諦めるのなら生きる意味がない」といった覚悟を確固たるものにしようともできない意志の弱さの揺れ動きの中で、毎日鏡に写る悄げた顔が性格として定着しないよう空元気で励ましながら、「覚悟を決めろ」、「覚悟を決めろ」と念じながら前に出る足一歩一歩に力を入れながら歩んだことによって、その意志の内実を確かなものにしてゆくという日々を過ごしてきました。
 目標が高ければ高いほど、周囲からこれが一流だと薦められるものをどう検討しても、私が探しているのは「決してこれではない、あれでもない」としか思えないものです。自分の、「これではない」という感性的な、なんの根拠もない感覚以外に、確かなものがまるで無いという中でも、周囲の理解しようとしてくれる人たち、そしてまた理念の実在形たる偉大なる先達に支えられて、どうにか心を歪めずに、志を持ち続けてこれたのです。

 そうだからこそ、ひとりの個人が持っているにもかかわらず、その身をはるかに超える夢の大きさ、重さに押しつぶされそうになる人たちにたいしても、自分が助けられたぶんの、できればそれ以上の手助けをすることで、人類全体に恩返しをしてゆきたいと決心しているのです。

◆◆◆

 たどり着いてみなければわからないのですから、
直接触れるように感じさせてあげることはできないことが本当に、心底もどかしいのですが、
決して大げさでもないのです、人間が築いてきたものの広さと、深さを強調するということは。
決して根拠のないことではないのですよ、あなたの持っている夢というものは。
現在のわたしの立場に立ってですらそう感じられるほどなのですから、
これはまだまだ捉えきれていないほどの豊かさが、間違いなくあります。

 そして「深いところでは、あらゆる道がひとつのところに通じている」のですから、
表向きはどんな職業についていたとしても、誰かの残した表現の裏側に、
その人が生涯をかけて貫いてきた姿勢を見つけ響き合うことがあるときには、
これまでの孤独にはすべて意味があったのだ、この瞬間のために生きてきたのだという、
たとえようもない感動があるものです。

 ですから、「誰にも認められない」ということは、相手の理解する気持ちが欠けている場合はともかく、
やはり現時点での自分には、目標とする高みに比べれば内実も表現力も
まだ伴っていないのだなと冷静に真摯に受け止めつつ、
それでもその事実をもって夢を諦めなければならない根拠にはならないのだ、
ということだけは、心に誓ってしっかりと覚えておいてください。

 人間存在の深さに触れるまで、そこへの信頼が根付くまで、
倒れてもなんとか起き上がってほしい、そうしてさいごまで道を歩み続けてほしい、
そういう激励を込めた後進へ向けての、趣味についての一節なのでした。

(了)

0 件のコメント:

コメントを投稿