付き合いの長い学生たちと、中身のある話をできるようになってきたのが楽しすぎて、時間があっという間に過ぎてしまいます。
振り返ってみると、諦めさえしなければずいぶん遠くまで歩んでこれるのだということが、理論的な仮定が現実化された経験に裏付けられるかたちで実感できて、なんとも感慨深いものがあります。
では今日も前に進みましょう。
◆文学作品◆
豊島与志雄 風ばか
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 風ばかー豊島与志雄
ある日、子供たちは学校の先生から、人間の体は右と左では全く同じ形をしておらず、微妙な違いがあり、そのため目かくしをして歩くとまっすぐ歩くことができないのだという話を聞きました。ですが、この話をにわかには信じられなかった子供達は、早速野原に向かい、自分たちの体で実際にまっすぐ歩けるかどうかを試してみました。すると、やはり先生が言っていたように、なかなかまっすぐには歩くことはできません。そうしているうちに、子供たちの素朴だった疑問は、次第に誰がまっすぐ歩くことができるのかという競争心へと移り変わっていきます。そんな中、ただ一人、マサちゃんという男の子は見事まっすぐ歩くことに成功しました。これを見ていた他の子供達はまさちゃんに負けじと、彼に教わりながらまっすぐ歩く練習をはじめました。ところが、そんな彼も他の子供達にお手本を見せる為、もう一度歩いてみると、少し曲ってしまいました。マサちゃんはこれを横から吹く風のせいだと考え、「風にまけてなるものか。」と諦めず挑戦します。そうしているうちに、マサちゃんの耳には、彼を邪魔する風の音が「ばかー、ばかー」と聞こえるようになっていきます。はじめは彼もそんな事を気にはとめていませんでしたが、遂に我慢できなくなり、自らも「ばかー、ばかー」と、怒鳴りはじめてしまいます。この彼の異常な行動を心配しはじめた他の子供達は、彼を引きとめて家へと連れ帰りました。
こうして家に帰ったマサちゃんは、お父さんとお母さんに今日の出来事を話して聞かせました。すると、お父さんは笑いながら、「風は息なんだよ」と自然にある風に立ち向かうことへの馬鹿らしさを彼に話しました。そしてそんなお父さんに続くように、マサちゃんも息をついてさーッさーッと吹く風をみて「ばかな風だと」とばればれと笑いました。
この作品では、〈自然にある風を精神が宿った生き物のように考えている、子供の瑞々しい感性〉が描かえています。
この作品の終盤で、マサちゃんとお父さんは風とはどういうものなのかについて話し合い、それに立ち向かっていくことへの馬鹿らしさについて話していますが、2人の風に対する解釈が大きく違っている事に注目しなければなりません。では、この時の2人のやりとりを軸にして、具体的にどのようなところが違うのかを見ていきましょう。
まず、お父さんの方では、「風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」、「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」等という言葉から察するあたり、風というものはただ自然にそこに存在しているものであり、自然現象に過ぎないのだということを説明しているのでしょう。ですから、彼は我が子が風に対して、まるで同じ精神をもった生物のように考え、勝負を挑んでいたことそのものに対して笑っていたことになります。
しかし、一方マサちゃんの方ではどうだったのでしょうか。彼は、そうしたお父さんの話を聞いて、その後も尚、「ばかな風だな」と風を生物のように扱っているではありませんか。すると、彼はお父さんの話を一体どのように受け止め、風に対して馬鹿だと言っているのでしょうか。彼はお父さんの「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」を聴いて納得しているあたり、どうやら風は自分の意思で動いている訳ではないというところまでは理解していたようです。ところが、もともと風に精神が宿っていると考えている彼は、その考え事態を捨てきることは出来ず、恐らく風というものは自分から自由に吹いているのではなく、自分が息をして風をおこすように何者かによって息として吐かれ、自分の意思とは関係なく吹いているのだと考えたのでしょう。そして彼は、そうして自分の意思ではなく、誰かによって動かせれている風に対して、馬鹿だと言い、はればれと笑っていたのです。
◆わたしのコメント◆
学校での先生の発言をうけて、友人たちと真っ直ぐに歩けるかどうかの競争をはじめた「マサちゃん」は、それがうまくいかなくなったときから風が吹き始めたことを気にかけ始め、さらには風が「ばかー、ばかー」と悪口を言っているように思えてきます。帰宅したあとそれを「お父さん」に話してみると、「それは、お前のほうがばかだよ」と諭されます。マサちゃんは、お父さんとどんな話し合いをして、どんな結論を出すのでしょうか。
論者は、この物語の本質を、「マサちゃん」と「お父さん」の風についての議論に認めており、そこでの過程的構造を探ろうとしています。
二人のそれぞれの認識のあり方は、互いが互いの発話を表現として受け取る形で発展してゆき、表向きにはひとつの着地点を見出しますが、その同意は必ずしも、両者の認識がピタリと一致したことを意味しません。
ある人の表現をみた受け取り手が、その表現者の認識にまで立ち入らずに表面的に受け止めてしまうことはよくある誤解ですが、この物語では、その誤解が子どもらしい感性に由来するものであるがゆえに、かえって子どもらしさを引き立たせる効果になっています。
最終的には、マサちゃんは風をやっぱりばかな奴だと理解し、お父さんはそういう我が子の姿を見て子どもらしい発想で面白いものだ、と理解し互いに笑い合う場面で、物語はおしまいになるのです。
そのように表現と認識が相対的に独立したものと理解したうえで、作品の本質を引き出した論者の指摘はまったく正当です。
◆◆◆
ここから次の節まで脱線します。
ただ文章自体は良くなってきたものの、誤字脱字がその数を減らしていないというのは、「見なおしの回数」ではなくて「見なおし方そのものの質」のほうに欠陥があるということですから、なぜ誤るのかの過程における欠陥を、是が非でも洗い出しておく必要があります。
表現を見たところ、自分の書いた文章を自分に都合の良いように読み取ってしまうということが原因なのではないかと思います。もしそれが主たる原因なのだとすると、以前に指摘したことのある、「ひとつの作品を自分のあらかじめ設定した結論に向かって解釈してしまう」という認識の仕方にも関連があると思いますから、どれだけ不足していようとも自らの自制心でもって、どこに誤る理由があるのかを見ておいてください。
こういう言い方をすると、ひとつの表現に欠陥があっても、その読み手は文脈を読み取りながら少々の欠陥であればそれを補足しながら読むことができるのは、むしろ人間のうちの好ましい機能であるという見方を持ち出す人間がいます。
そのときに根拠として持ち出されるのは、人間が口頭で話し合うときには、純粋な音としては3割ほどしか受け取れておらず、他の7割は自分勝手に補完しながら理解しているのだ、などといった現象的な事実です。
たしかにひとつの表現が理解される過程を探るとき、そのように、表現者と受け取り手の関係性に着目してもなんらの問題はないのですが、現実の問題を解くことのできない理論は科学とは呼べませんから、なんとしても深く追求してゆく必要があります。
今回の場合に限って言えば、どうやら「意味のわからない語句などを、無意識のうちに放ったらかしにしておいてしまう」というような性質を含んでいるようなので、特別な注意が必要だと思うのです。
「わかっていないのなら調べればいいではないか」というのが一般的な見解ですが、以前記事にもしたとおり、「自分がわかっていないことそのものがわかっていない」ということがあるのが一番の問題なのです。質的に差がありすぎる理論にバッサリ切られても、切れ味がよすぎて自分が息の根を止められたことに気づかない、という場合ならありますが、質的にそれほどの飛躍もないはずの細かな表現上の誤りを見落としてしまうのは、それと区別して考えるべきです。
いまは失敗の本質が特定できないために雑多な書き方で述べてきましたが、この問題の解き方を一言で言えば、「ケアレスミスとはどういうものか」と問いかけて、その構造を立体的なかたちで取り出すことが出来れば、理論的に乗り越えてゆける筋道が立てらるということです。次回の面談時に認識論的に議論しながら探求してゆきますので、自分のミスについて思い当たるところを忘れないようメモしておいてください。
◆◆◆
閑話休題。お目汚しすみません。
さてこの物語に視線を戻すと、マサちゃんとお父さんという二人の人間が、表向きは同意に達しながらも、その両者のあいだでは認識のあり方に依然として差があるということは、ひとつの重要な事実です。
そこに誤解があるからこそ、仲睦まじい夫婦も時には喧嘩をするのですし、逆にそこをうまく突かれて詐欺に合うということもあるわけです。
ここに含まれている論理性を一言で述べれば、上で述べたように「表現と認識は相対的に独立している」と言えばすみますが、その理解が誰にとってもしっかりと理解されているかといえば、そうとは限りません。
このひとつの論理も、文字として述べたときにはひとつの表現であることに変わりがないからには、やはり相対的な独立に目を向けて、表現としては受け止めているつもりでもその内実をしっかりと踏まえられているだろうか、と考えて進めてみることが必要です。
◆◆◆
せっかくの機会ですから今回は、文中の表現をそのまま抜き出す形で、マサちゃんとお父さんのやり取りがどのようなものであったかを、評論よりも突っ込んでみて行くことにしましょう。
まずは、物語のさいごの箇所を読んでみてください。
検討が必要な箇所について、マサちゃんの表現をオレンジ、お父さんの表現をグリーンでマーカーしました。
風が悪口を言うというマサちゃんにとっては、風というものは何らかのかたちをもった実体である、という理解が前提としてあることを見逃さないでください。次の表現を見てもそのことがよくわかります。
「風って、息をするんですか」(M1)というマサちゃんの質問にたいして、お父さんは、風が固定化された実体であるというマサちゃんの思い込みをゆるやかに修正するかたちで、「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」(F1)と答えます。
(M1)「風って、息をするんですか」 |
ところが、その答えを受けたマサちゃんは、風が実体ではないということになっても実体を探すという発想そのものは手放さずに、「それでは風を吹くという行動を起こしている主体は一体誰なのか?」という問題が新たに沸き起こってきます。
だからこその、「なんの息?」(M2)という質問なのです。
(M2)「なんの息?」 |
お父さんは予想外の質問にすこしうろたえたと見えて、「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様さまの息、いろんなものの息……ただ息だよ」(F2)という答え方をすることにしました。
お父さんは、風がどのように起こるのかという仕組みを、科学的なところから説き起こしてもマサちゃんは納得しないだろうし、自分でもそこまで詳しくは理解もしていないと思ったのでしょう。そこでお父さんは、風が何によって起こっているかはともかく、風は息のようなものであることは確かですよ、という言い方をしたのです。
それを受けたマサちゃんは、そうすると、と考えて、「風には人格がない上に、風の吹きはじめるところにも人格を持った存在はいないのですか」と聞き返すかたちで、「ただ、息だけ?」(M3)と、ほんとうに自分の考えであっていますか、とお父さんに聞き返します。
(M3)「ただ、息だけ?」 |
最終的には、その念押しの問いかけに「息だけだよ」(F3)とお父さんが応じたことによって、マサちゃんは、風にはそのものに人格もないし、その背後に人格を持った存在もいない、風はただの息みたいなものだという確信を持ったのです。
ここにおいて、マサちゃんとお父さんは、「風は息のようなものである」といういちおうの結論を共有することになったのですね。
事ここに至りマサちゃんははじめて、風というものを、自分やお父さん、お母さんのように、感情を持って行動を起こすところの人間とは別種のものだという認識を新たにしましたから、何も考えずに吹いているだけなんて、ぼくたち人間に比べれば「ばかな奴だな」(M4)という素直な感情を持つことになったわけです。
◆◆◆
最終的には、マサちゃんとお父さんは、表現の上では一定の合意に達しており、その双方が「風は息のようなものだ」という理解を持っていることでは一致しているように見えますが、ここには認識の上では違いがあることを見落としてはいけません。
これまでのやり取りをまとめた図を見てください。
風を息として吐いている実体はなんなのかというマサちゃんの問い(M2)にたいして、お父さんはすこしうろたえながら「なんの息って……。どういったらいいかなあ、」と答えた(F2)箇所がありましたね。
お父さんは、自然現象としての風が、それを生み出す固定化された実体を持っていないことは知っているのですが、それでもその生成原理はなんなのかと説明する段になると、そういえば詳しくはわからないな、ということがわかりましたから、自分の認識を少し改めます。
それまでの自分が暗黙のうちに、なんらかの実体が息として風を吹かせているかのような理解をしていたことを、マサちゃんの問いかけに十分応えられなかった経験から思い知らされたので、風の原因はなんだかよくわからないものとして捉え返されることになりました。図のうち、(M2)をうけて風が生成する原因がおぼろげなものであることが明らかになったことを、点線として表現してあります。
それでもお父さんがなんとか答えようとして、「ただ息だよ」(F2)という言い方を選んだ時には、マサちゃんは風を吹かせている実体という存在を完全に消してしまいますが、お父さんとしては、風が吹くという原因はそれほど詳しくは知らないが、どんなかたちにしろたしかに存在するのだという理解はそのままであったので、マサちゃんとのあいだの風についての理解が最終的な同意に達したときにも、両者の認識のあり方には差が残ったままになっているというわけです。
お父さんは、原因ははっきりとはわからないながらも風というのはなんらかのかたちで生み出されるものだ、という風についての一定の理解がある立場から、マサちゃんの「ばかな奴だな」という感想を、子供らしく純粋な感想として受け止めますから、そこにある誤解はともかく、「声たかく笑」うことになったわけです。
この「笑い」は、マサちゃんが自分なりに風について合点がしたことによって起こった「笑い」とは、現象としては一致していてもその内実は違っていることが、この物語の面白さとなっています。
また、マサちゃんはお父さんと議論を始める前に抱いていた風への「ばかな奴だ」という感想は、議論が終わる頃になるころには、その議論が止揚されるかたちで「(やっぱり)ばかな奴だな」という結論になっていることも、お父さんにとって、この物語を読む読者にとっても、面白い点であると言えるでしょう。
マサちゃんとお父さんとの「笑い」も、マサちゃんの2つの「ばかな奴だ」も、見た目は同じながら質的に異なっていることを、論理性として引き出しておけば、創作活動をするときや、冗談を言うときにも使えるというわけです。
◆◆◆
ところで、この物語に現れている認識の発展の仕方は、なにも子どもから大人になるにつれて過程として持つことになる道筋だけに限られているのではなくて、人類の文化の壮大な流れから論理性を引き出すときにも、同じように把握されるものです。
弁証法は、古代ギリシャの時代に、相容れぬ議論を闘わせるなかで論理性として自覚されてきたものであるということは、マサちゃんが風についての認識を、誤解を含みながらも前進させると共に、お父さんが自分のわかっていない部分を明らかにするというかたちで前進を見せているということにも単純なかたちで現れています。
その流れを大きく人間ひとりの生涯として捉えるなら、子どもの時には、もっとも身近になる人間という自分の立場から、他者であったり自然であったりというあらゆるものを見てゆきますから、そこには大きな解釈の余地があることになります。夕暮れ時の藤棚がざわつくのはお化けがいるからですし、ものが燃えるのは火の精が元気になったからです。それでもよいでしょう、子どものときにはね。事実、子どものときに、大人が当たり前と見過ごしてしまう事柄にもなんらかの主体を見出すかたちで想像をたくましくするというのは、「思考の訓練としては」、と限定すれば、とても大きな効用があるものです。
子どものときには誰しもがもっており、またマサちゃんその人も手放さなかった、自然の中にも何らかの意志を持った実体があるはずだという発想は、人類総体としては古代や中世にかけての素朴な哲学のなかにありましたし、それは宗教のかたちで保存され、現代でもアニミズム、言霊信仰といった特性として、大衆の素朴なものごとの見方の中に溶け込んでいます。
ただわたしたちが友人のつくった音楽に感銘を受けて、「あなたの曲には魂がこもっている」と言ったとき、表現としてはそうであっても、友人の頭上から実体としての魂が抜けだして、ライブ会場を揺らす音響設備やCDの中に宿っていると信じているのかと問われれば、そんなことはないと言うでしょう。
現代では精神が脳の働きであることがわかっているように、実体として見られていたものが、実のところ他の器官のはたらきであることや、他の実体との関係性においてあらわれているものであることが、科学的なものごとの見方が深まるにつれて明らかになってきました。
評論のコメントで、「本質のつもりで実体を探すのをやめなさい」と言ってきたことの内実が、だんだんとわかってきましたか。
マサちゃんのような発想に心躍らせることができるのは、お父さんのようなものごとの見方ができてこそ(相互浸透)なのですから、仮にも人類の名を背負って生きるからには、わたしたちもマサちゃんのところに居続けるわけにはゆかないのだ、ということになりますね。
【正誤】
・これを見ていた他の子供達はまさちゃんに負けじと、→マサちゃん
・「ばかな風だと」とばればれと笑いました。→はればれ
・その考え事態を捨てきることは出来ず→自体
・誰かによって動かせれている風に対して、→動かせられている
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