時間というのはあっという間に過ぎてしまいます。
身の回りがごたごたしているときほど身を引き締めねばいけませんね。
◆文学作品◆
菊池寛 若杉裁判長
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 若杉裁判長ー菊池寛
刑事部の裁判長をしている「若杉浩三」は、罪人に対して強い同情心を持っていました。その為に若杉は罪人たちをなかなか憎めず、彼らの動機を聞いて汲み取っては寛大な処置を常に施していました。
ところが自分の家に強盗が押し入ったことで、妻や子供たち、そして若杉自身の心に大きな傷負ったことをきっかけにそんな彼の思想は大きく変わってしまいます。そしてある時、彼は悪戯心で富豪の家の門に癇癪玉を投げ入れた少年の裁判で、禁錮1年という普段の彼らしからぬ判決を言いわたし、その場を後にしました。
この作品では、〈罪を憎むあまり、かえって罪人を許せなくなっていった、ある裁判長〉が描かれています。
若杉は別に罪を憎んでいない訳ではありません。寧ろ、ある警官が自分だけ罪人を捕まえず手ぶらで帰る気まずさから、またまた反抗してきた青年を捕まえて警察署に送る場面を見て、憤る程の正義感は持っていました。ただ彼は罪人そのものに対しては強い同情心をもっており、厳しい判決を言いわたすことは出来なかったのでしょう。そこで彼は、文中の「この少年の犯罪は、これ少年自身の罪にあらずして、社会の罪である。」という箇所からも理解できるように、罪人と罪そのものを切り離して、罪そのもの(罪人が犯行に至った原因)を憎むことにしたのです。
ですが、若杉は自身の家が強盗に襲われた事でこの考え方を一変させます。金品は盗まれなかったものの、彼は犯罪者に襲われる恐怖を知り、罪人と罪とが切っても切り離せない関係にあることを身をもって理解しはじめます。そして次第に彼は罪人と罪を切り離すという考え方をやめ、罪人と罪、両方を憎むようになっていったのです。
◆わたしのコメント◆
あらすじについては論者がまとめてくれているとおりです。
若者らしい正義感を持ったまま裁判長となった「若杉」が、罪を憎んで人を憎まず、という価値観を、自身の身に降りかかったある事件をきっかけに一変させるまで、を描いている作品です。
わたしはいつも、論者の評論をまずは一般性から読みますが、今回の評論について、論者の引き出した一般性を見ると、「罪を憎むあまり、かえって罪人を許せなくなっていった」とあるのを見て、「なんだかおかしいな?」という感想を持ちました。
というのは、論証部を読む前にここを読むと、「罪を憎む」ことの度が過ぎるのならば、「罪人を許せなくなる」のは当然なのに、なぜそれらを「かえって」ということばで繋いでいるのだろう?という違和感があったからです。
「かえって」というからには、「可愛さ余って憎さ百倍」などということわざに代表されるように、あるものの度が過ぎるあまりに対立物へと転化してしまうという運動法則を示しているはずですが、論者の指摘していることは、一見すると単に量質転化を扱っているように見えますからね。
◆◆◆
その疑問を抱きつつ論証部を読むと、なるほど論者は、「罪」というものと、「罪人」というものを、対照的に扱っていることがわかります。
「罪を憎んで人を憎まず」ということを、あれかこれかの関係で考えて、「罪を憎む派」と「罪人を憎む派」とが相容れない関係にあるものとみなすと、「罪」と「罪人」が対立物として位置づけられることになりますから。
そういうわけで、論者の「かえって」の使い方が間違いではないことはいちおうわかるのですが、だからといって手放しで合格をあげられるかというと、残念ながらそうではありません。
ここで問題となっているのは、主人公である裁判長「若杉」の世界観についてです。
特に、彼が「罪」というものをどう考えているか、ということです。
「若杉」の世界観では、「罪」と「罪人」があれかこれかの関係として扱われているわけではありません。
彼は学校を出て以来、「罪」というものを考え続けていたのは間違いなく、その罪にふさわしい処罰を与えることをこそ責務としてきたのですが、その肝心の「罪」というものの扱い方が、抽象的な、つまり観念的で頭でっかちなものになっていなかったかどうか、ということを、自宅へ盗賊が侵入したことによって考えさせられているのです。
次の箇所を見てみましょう。
若杉さんを襲った賊、それは罪名からいえば、窃盗未遂でした。が、一家に及ぼした悪影響を考えれば、身の毛もよだつほどです。夫人が、それから受けた激動のために発熱し、その発熱のために衰弱して、ついにはそのために殪(たお)れるようなことがあれば、かの盗賊は形式はともかく、明らかに夫人を殺したのです。◆◆◆
ここで、彼において「罪」というものが、どのように扱われているかわかりますか。
「罪か罪人か」というあれかこれかの関係として扱われているでしょうか?そうではないでしょう。
わたしたち人間は、目の前の現実が自分の思い通りのものでなかったり、より良くできる余地があることを見つけると、頭の中に「こうだったらいいな」、「こうなればいいな」というひとつの目的をもって対象に向き合うことになりますね。
どんな行動を起こすときにも、その前には必ずある目的意識が働いています。
そのように自分の思い描く結果をもたらすために、思い思いの結果が生まれるような目的像を持って対象と向き合いますが、その目的というのは、必ず達成されるとは限りません。
たとえば意中の女の子の気を惹こうと思って花を摘んできたら、その花を見た相手がカンカンになって怒ってしまった、ということだってあり得ます。
この場合はアザミの花言葉が「復讐」だった、という事実を知らなかったことが失敗を招いたからですが、考えたままの合理性が実際の合理性とはかけ離れていたということもあるのです。
ある人間が犯罪を犯す場合にも、このことは言えるでしょう。
犯人が物取りに入った動機が、たとえ自分の子供に飯を食わさねばならぬ、などといった止むに止まれぬ事情によるものであったとしても、作中の若杉のような産後で衰弱している妻と三人の子供を抱える立場であれば、その動機だけをもって情状酌量をするわけにもゆきません。
当人の動機というものは、実際に刑罰を決める時にも厳しく問われる問題ですが、それでもなお、事情はともかく、意図したか意図しなかったかはともかく、自らの行動が人の心や身体を害したのなら、しかるべき罪を受けねばなりませんから。
◆◆◆
事件が起こる前には若杉は、裁かれている当人に悪意があったかどうか、ということだけを主眼においていました。
このような考え方からすると、どれだけの結果が起きた時にも、当人にさほどの悪意がなかったり、止むに止まれぬ事情があったり、ほんのいたずら心からのものであったのなら、そのことを汲み取った上で情状酌量をすべきである、ということになります。
しかしこういった罪についての考え方は、盗賊が侵入し自分のみならず家族の精神が傷つけられたといういまや、「罪人の側からのみ、罪を考えていたのではあるまいか。自分の目の前に畏まっている被告が、いかにも大人しく神妙なのに馴れて、彼らが被害者に及ぼした恐ろしい悪勢力については、なんの考慮をも費やさなかったのではあるまいか。」という疑念を呼び起こすに十分なものになっているのです。
整理して言うならば、彼はここで、「罪」というものは「罪人」の側から見ただけのものなのではなくて、かといってその「被害者」から見たものなのでもなく、その双方を統一した「関係性」にこそあるのだ、ということに改めて気づきはじめているのです。
しかし罪の及ぼす影響を、「骨身に滲みるほど」に感じさせられたところの彼は、対立物を統一して考えるところからさらに進んでしまいます。
それは、若杉裁判長の、今まで懐いていた罪悪観を、根底から覆してしまいました。彼は、被害の翌朝、世の中の犯罪者一般に対する憎悪が、初めて自分の心の中に湧き出るのを感じました。が、若杉さんは、自分の感情の転換が、あまりに自分本位の動機から出ていることを心苦しく思いました。が、転換したのは、若杉さんの感情ばかりではありませんでした。若杉さんの思想もある転換を示して、最初に変った感情をぐんぐん裏づけていきました。
これがどういった変化かわかりますか。
<対立物への転化>というものでしたね。
ここまでわかったのなら、それを作中の表現を使った一般性として引き出せばよいことになります。
論者の認識は、とても惜しいところまで近づいているようですが、もう一歩進めて考える余地があったようです。
またここは言い換えれば、若杉の思想の転換というものが、第一の否定の段階に達した、ということもできます。
ひとつの文学作品では、登場人物の思想があれからこれへ、これからあれへと揺れ動くことは珍しくありません。
それを表現する者の立場からすれば、その感情の揺れ動きがどのように表現されていれば、「なるほど、このようなことがあれば考え方が一転してもおかしくないだろうな」と読者に感じてもらえるのかという視点から、学んでおく必要がありますね。
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