2012/06/09

技としての弁証法は何を導くか (1)

突然ですが、


読者のみなさんに質問です。
亀は甲羅でその身を守っている、と言われるのはなぜでしょうか。
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これだけ言っても、わけがわからない、さては気でも触れたか、と正気を疑われてしまうかもしれませんね。

では少し言い添えることにして、もう一度聞いてみましょう。
わたしたちが、亀の硬い甲羅を見た時に、「ああこの生物は、身を守るための仕組みを持っているのだな」というふうに理解するのはなぜでしょうか。
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この問いはもっと言えば、こういう質問なのです。
わたしたちは亀の硬い甲羅を見て、「あんなヤワなもので大丈夫だろうか」と考えるのではなくして、「頑丈そうだな、さぞかし身体をよく守ることだろう」と考えることになっているのは、いったいどういった根拠に拠っているのでしょうか?
◆◆◆

いろいろな答えが出てくるはずです。

この問題にたいしてある人は、「そんなものは単なる誘導尋問だ、お前が「硬い甲羅」だとしているから、論理的に言って「頑丈に見える」という答えになるのだ。」と言うかもしれません。

次の人は、「我々は何を硬いと言うか?柔らかくないものである。では柔らかいとは何だと問い返されれば私は答える。硬くないものであると。」と言うかもしれません。

またある人は、「亀の甲羅の強度は、上から圧力をかけてみれば測れるではないか。個体で不足ならばサンプル数を増やして統計を取ればよい。」と言うかもしれません。

他の人は、「なるほど存在そのものには我々は触れることができないから、その根拠となっているのは私たち人間の主観によるのである。」と答えるかもしれません。

◆◆◆

しかし残念ながらそのどれもが、現代という学問に照らせば間違いです。

このどの答え方をするかによって、当人の論理のレベルがわかるのです。
ということは、それぞれの答え方は、論理のレベルがそれぞれ違っている、ということです。

なぜいきなりこんなことを言い出したかというと、ひとえに最近、身の回りで、「うまくことばにはできないけれど、あなたが使っているそれ、その考え方ってどうすれば身につきますか?」という学生さんが多いので、どこかで弁証法についての大まかな「像」(とりあえずイメージ、と考えてください)を伝えておいたほうがよさそうだ、と思われたからです。

しかしこういう質問をする時点で、すでに素晴らしく本質を突いている感受性をお持ちなのです。考える力を与えてくれたご両親とご友人に感謝するとよいのではないかと思います。
(ただこの感性的な鋭さには、良い面とともに悪い面もあることは頭の片隅に留めておいてください。)

ともあれわたしの論文の目次を一読して、「弁証法〜?ワシもわからんのにお前なんぞにわかってたまるか!」(原文ママ)と叫んだ先生たちに爪の垢でも煎じて飲んでほしいところです。

さて、では上の4つの質問を順に見てゆきましょうか。今回の記事では上の2つです。

◆◆◆

まず一つ目の答え、「お前が「硬い」甲羅だと言うから「丈夫」だということにならざるをえないのだ」、というものですが、これは論理の問題ではなくて、姿勢の方にまずもっての問題がありますから、煮ても焼いても食えません。

しかし就職活動の際のディベートなるものを根を詰めてやってしまうと、そもそもの立つべき立場が厳格に固定されていることと、多人数の最大公約数的な論理性で、つまりもっとも低い論理性に合わせて議論してゆかねばならないところから、単なる水掛け論になってしまうこともありますので、学生さんも大変です。

さて個人として真顔でこういう主張を繰り広げるような、アタマがガチガチならまだしもココロのほうもガチガチの人は、人から学ぶということを知りませんから、10代後半になるとある固定した変化しない考え方を身につけて以来、持論を譲ることを何よりの恥としそこから一歩たりとも動きたがりません。
ですから、何時まで経っても同じレベルにおり、そこから世の中にある問題を自分のレベルに引きずり下ろして一刀両断したつもりでいます。(ちなみに、「天才だったら初めから高いレベルにいるからそれでいいのでは?」という声があるかもしれませんが、そんなことはありえませんので大丈夫です。声の大きさと頑固さならそのとおりですが)

そもそも運動形態としてあることが森羅万象の常体なのに、自分のほうで凝り固まって「意地でも動こうとしない」という運動を必死にするのですから、本人もとても疲れますが、その悪い努力の姿勢が転化すると、ついには誰の意見も耳に入らなくなり、当然ながらその考え方そのものから学ぼうという姿勢すらまったく失われます。

もっとも、このレベルの人はこんな文字ばっかりの記事は「意地でも」読まないでしょうが、読者のみなさんの身近に実際におられる場合にはあなたもさぞかし…といったところで、大変ですね、つきあう人は選びましょう、とお伝えしておきます。

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2つめは、ココロは硬くないのですがアタマがガチガチになっている人の考え方です。世に言う「ロジカルシンキング」あたりの啓蒙(?)書や、書店で平積みになっているようなビジネス書に謙虚に学んでしまった人は、こういう考え方になります。

他にも、意気揚々と大学に入学した初めての授業で「形式論理学」に感化されたり、工学部で「論理回路」、「人工機械言語」をいきなり学ばされてこれが論理か!と合点してしまったり、自分が理系的な考え方ができることに度外れな優位性を見出していたりすると、こういう考え方に染まりがちです。

このうち、形式論理だけは反面教師としては使えますが、他のものは僅かばかりも影響されてはいけません。
なぜ断言できるのかと反論したい方は、形式論理でもかまいませんから、それを使ってラブレターなりを書いてみて、うまくいくかどうかを確かめてみれば事実が証明してくれます。

当人は、「あなたは女性である。私は女性を愛する。ゆえに私はあなたを愛する。」のような論理展開でも相手をなびかせられると思っているかもしれませんが、「相手がそれをどう感じるか?」ということについては想像すらできないはずです。(論理のレベルのお話をしているのですよ、念のため。)

これをそれなりにまともに受け止めたとしても、「何を馬鹿な、論理で人の気持ちを云々するとは!?」と反論され直すでしょうが、そのことがそもそも論理のレベルを示しているのです。
もし弁証法的な論理を技として習得しているなら、その弁証法段階の(個別科学に達しておらずとも、という意味です)認識論を使って、実に見事なラブレターを書くことができます。
それだけでなく、恋愛というものが持っている一般的な構造も読み解くことすらできはじめているでしょう。

しかし、人類総体として過去を振り返れば、このような段階の論理性を散々に議論していた時代が確かにありました。


(2につづく)

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