わたしの寄り道のせいでずいぶん間が空いてしまったので、どんな記事だったっけな?と思われているみなさんも多いと思います。
この記事では、亀はその甲羅で身を守っていると思われているのはなぜか?というお題を取り上げて、その問題に向き合う姿勢と考え方について、いくつか検討してきました。
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その中で、これまで触れてきた考え方はそれぞれ、以下のような欠陥があるのでした。
まず問に向き合う姿勢そのもののまずいもの。
次に、あれかこれかで考えることが論理的に考えることであるという思いが強いあまりに、問題を形而上学的に片付けてしまっているもの。
そして、数値的に厳密な処理をすることを科学的に考えることであるという誤りに陥っているもの。
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特に注意を要するのは3つ目のもので、それは、科学はどこまでも精確を期するものでなければならない、という信念のもとに、眼の前の対象をそれ以上分割できないほどにバラバラに還元することが科学であるとか、まったくの何らの前提にも立たないところから考え始めるのが科学であるとか、自然言語で論じると科学には成り得ないので数学的に表現されねばならないとかいう結論を引き出してしまうものです。
前回の記事でも述べたように、たしかに科学、つまり学問的な世界観で言う唯物論というものは、観念論のように、ア・プリオリ(先天的)に立てた本質論から組み立てた体系ではなく、あくまでも対象的な事実を客観的に把握したところから論理を引き出した上で、そのなかから次第次第に本質論を組み立てた体系です。
しかしだからといって、客観というものを主観は把持し得ない、などと言い始めるところを度外れに延長させて、科学を数値処理などに落ち着かせてしまっては大きな誤りに陥ってしまうのです。
世界の森羅万象は0と1で表しうる、といったような情報理論については、単に眼の前の現象を数値に「置き換えた」だけにすぎず、それ自体での運動性を把持し得ないのであるから、結局のところ新しい現象が登場するたびに置き換え続けなければならないので論外です。
これはひとえに、眼の前の現象と、そこに潜む構造を区別と連関において把握できないという論理力の無さゆえの誤りであり、たとえば人工知能を作るときにも、本当に目指すべきなのは現代の人間が持つ反応のあり方を現象的にコピーすることなのではなくて、地球上で生命体が生成されて現在の人間にまで発展してきた、という過程的な運動のあり方を、一般的にでもコンピュータの中でなぞらえてみる、という考え方でなければいけないのです。
ここまで極端でなくとも、大脳の各部のそれぞれに、たとえば「恋を感じる機能」や「文法を理解する機能」などを個々別々に見出してゆくという大脳局在論も、現象論の域を出ないどころか明確に誤りなのです。
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またここで「客観視する」といったことの内実は、これはこれで学問的には必須でありながらも修練の必要な技術ですから、これは一口で論じきれるものではありません。
また事実、実践の中から客観視の技術を磨いてきた人の概念的な内実と、この言葉を辞書的に理解している人のそれとは大きな隔たりがあるため、実際に対象に取り組んだことのない人には伝えたくとも伝えられないという事実があります。
しかし世を見渡すと、失敗例はゴロゴロと転がっているのですから、まずはそこから学ぶだけの姿勢を持ちたいものです。
我こそは客観的な真理を扱う者なり、ということを振りかざして、「客観主義」という学派を作る研究者は、あらゆる学問にいるものです。
たとえばアメリカの心理学の一分派である客観主義心理学のうち、極端な立場の研究者は、主観などというものは人によって違うため信用が置けないということで、恋人同士が別れ際に振り返った回数を数えて好感度とみなしています。
心理学の発祥の地ともいえるドイツでは、これらの傾向をなんとも冷ややかに見守っていますが、日本人のみなさんが率直に感じられるところからしても、「なにかおかしいな?」と思うのではないでしょうか。
わたしたちは、偉い肩書きの学者先生の発言の中に、なにかおかしいな、を見つけたときには、それを、おかしいけれども偉い人だから自分のほうが間違っているのだろうと短絡してしまわずに、しっかりとつっこんで考えてみなければなりません。
恋人の別れ際といっても、その内実をつっこんでみて、つまりその互いの認識に分け入りその関係性を把握することでなければ、好感度など測れるものではないでしょう。
たとえばというところで一例を出しておきますが、「こんなバカと二度と会ってやるもんか」と憤慨して睨みつけることしばし、の恋人の好感度こそが高いものとして見做されてしまうというのは、素人が考えてもおかしいとは思いませんか。
逆に奥ゆかしい恋、というものはどうかと考えてみれば、偉い肩書きの人が人間を機械かなにかのように見るという落ち込んでしまっているのを目の当たりにして、なんだかおかしい気がしてくるというのが自然です。
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さて、あり得るであろう細かな突っ込みにまで気を使っていると先に進みませんが、この一連の記事では雑談はここまでとして、さいごの答えについて検討してみましょう。
最後のものは、こういった答え方でした。
「なるほど存在そのものには我々は触れることができないから、その根拠となっているのは私たち人間の主観によるのである。」
この答えを出す人は、問題で聞かれていることを、少なくともここで挙げた答え方の中ではいちばんよくわかっている人です。
誤解を恐れずに言えば、これは18世紀を生きていた大哲学者・カントの立場からなる主観主義的観念論、いわゆる物自体論で表明されているような立場です。(細かな議論にまで立ち入ることができないので「誤解を恐れずに」、という但し書きをつけてふまえてください。)
これも誤解を恐れずに言うならば、それなりに物事を考える習慣のある人の中には、物心ついた時に、自分の座っている机や、授業中に少し呆けて眺める外の景色、もっと言えば今授業をしている先生、家族や友人たちも、それと接している当の主体、つまり自分自身がいないことには、なんらの成立根拠を失ってしまうのではないか、という疑問にぶつかる人があります。
一言でいえば、「私が死ねば世界も死ぬ」というような考え方であるといえばわかってもらえるでしょうか。
子供の時の、自分がもし居なくなったらみんな悲しむだろうな、という立場から180度踏み出して、観念的に延長させると、自分がいなくなるということは、自分が見たり聞いたり味わったり感じているこの世界そのものがありえなくなることも同じなのであるから、自分の死は世界の死でもあるのだ、という結論にたどり着くことがある、ということです。
自分の主観如何で世界の有り様は如何にでも変えられる、世界の存立根拠は世界の側にあるのではなくて自らの主観にある、これが、いわゆる主観主義的な観念論の立場です。
しかし歴史に学ぶと、この考え方が明確に反駁されていることがわかります。
カントと遅れることわずか半世紀ほどに生きたヘーゲルという、これまた大哲学者は、この考え方を批判しました。
いつも文献としてあげる三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の中で、以下のように書かれていたことがそれです。
カントのように物の性質を主観的なものだと考えるなら、木の葉を黒としてではなく緑として眺め、太陽を四角でなく丸として眺め、砂糖を辛いものとしてでなく甘いと感じ、時計は一時と二時をいっしょに打つのでなく順次に打つと聞き、二時から一時になるのではなくてその反対だと考えることなどが、物のありかたと無関係にわたしたちの認識の中だけで行われることになります。カントのように物の性質と物との間に絶対的な壁を設けるのはまちがいで、物自体は性質を持ち、いわゆる「二律背反」も世界自体の持っている性格である、とヘーゲルは主張しました。(p61)これらのことを要して、カントの立場は主観主義的観念論であり、ヘーゲルの立場は客観主義的観念論である、と言われることになるわけです。
三浦つとむがカントからヘーゲルへの発展を示すために挙げた例示を見た時に、わたしが問題として挙げておいたこととの共通性が見えてきたでしょうか。考えてみてください。
答え合わせは、明日の21時ということにしましょう。
(4につづく)
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