2012/09/02

どうでもいい雑記:咳き込む<から>走るとはこれ如何に

ご無沙汰しておりました。


週明けからいつもの更新ペースに戻れそうです。

ここのところ研究会を連続で開くという無茶をやり、さすがに喉がまいっていました。
そういうわけで、今日はひとり山を走ってきました。
といってもヒルトレーニング(丘の走り込み)ではなく、コンディションコントロール目的ですから、始発で出かけて日が暮れるくらいまで、8時間前後、ゆっくり走り続けます。

わたしのこういう行動を見て、親戚は、「咳き込む<から>走るとはこれ如何に?また出たか根性論!」といって呆れ半分に楽しむのが通例になっているようで、わたしがそれを見てまた笑う、というのもまた通例なのですが、実のところ、理由というのはちゃんとあるのです。ただ、話を聞いてくれない相手にはニコニコしているだけです。

事実この1週間は咳が止まらず、常時のど飴を服用していなければならないというような状態でしたが、咳き込みながらでも2時間ほど走り続けたところで、咳がほとんど出なくなっていったのです。

動きを止めてしまえばまた出てくるのですが、それでもはるかに緩和されました。
長い座学でこもっていた身体の熱が、汗とともに流れていったことは効果が大きかったようです。
いま風邪を引いて病院に行くと、今のお医者さんは解熱剤、というものを昔ほどには処方しなくなっていますが、発汗や発熱、というものについての理解は、ここ数十年で見直されてきていることのひとつです。

ともかくそのおかげで、機能低下を起こしている箇所がよくわかるようになりました。
もっともそれと一緒に、やっぱり楽しいことでも無理し過ぎはダメ、ということもよくわかりましたけども…。
明日からの1週間は、走り続ける、という休養です。

◆◆◆

ただこのようなことは、たとえばインドでは、子供が風邪を引いたら外を走らせる、といいますし、喘息持ちを押して全国巡遊の旅に出た自転車乗りが、いつのまにか完治していた、といった実例もあり、身体の機能が低下しているからといって患部をまるで機能させないほうがよいか、というと、そうでもないのです。

わたしが故障しまくっているのにケロッとしている(…ように見えるらしいです)というのも、故障したな、と思ったときには、ゴロゴロ寝ている、患部をまるで動かさない、といったような消極的な休養をするのではなくて、故障した時こそ時間をかけて自分の心身と対話し、調子を整えるために、長くゆっくり走っているから、という理由もあるのです。

もっとも患部を動かすとカミナリが落ちたような激痛がある、という場合には、筋肉が断裂したりしている場合もありますので要治療ですが、こと筋肉についての軽い痛みであれば、動かしているうちに痛みが引いてきたりすることも少なくありません。

それに、動かしてみていつもの身体運用をしようとしてみたときには、「ここらへんがとにかく痛い」という漠然とした印象がより具体的になり、「ここに負荷がかかりすぎているようだ」、「フォームが乱れているのかもしれない」といった予測も立てやすくなる場合もあります。

故障した器官を休ませすぎて、かえって機能が質的に低下してしまった、という<対立物への転化>は、こういった生理学的な観点からいうことにすると、ほかにも毒をもって毒を制すこと、また種痘の発見、などからも見て取ることができます。

人体の生理現象を調べるときにもやはり「あれかこれか」という考え方をしていては、いちばん近いところにあった解放を素通りしてしまう、という灯台下暗し、になりかねません。

誰かさんのように、故障してみなければ本質的な理解にならない、とばかりに進んで故障しまくる、というのはあまり真似しなくてよいですが、少なくとも、自分の心身としっかり対話し、論理の光を当てて見る、という姿勢とそのための方法論は持っておきたいものです。

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