(1のつづき)
前回の記事の最後で、三好行雄『日本の近代文学』から、以下の引用をしておきましたが、ここにどのような論理性の把握が見られるかを考えてもらえたでしょうか。
中には、「私は文学をやってるわけじゃないし…」という感情が、生涯をかけて本質的な道を目指すのだという当初の決意を押し流してしまい、「まあ、流し読みしておけばいいか」と、いい加減に触れてすましてしまっている人もいるかもしれません。
しかしこのような甘えを自ら戒めるだけの力がないと、本質への道はどこへやら、ただ周りから評価されるだけの仕事をして、その生涯を終えることになってしまうということは知っておいてほしいと思います。
周りから評価されるということは、とりもなおさず現時点での社会性を確保できているということですから、これは当然に経済性にも結びつきやすい性質を持っています。
食わねば死ぬ身体を持っている我々にとって、これは生存レベルの話では不可欠であることは間違いないのですが、いざこれが、たまたまの評価という結果の把握でなく、そのことの浸透の結果としての、自らの問題意識にまで転化する段階になると、話は変わってきます。
ここに至り、当人は、本質の道を歩むのでなしに、自らの表現の受け取り手である他者たちの観念に直接的に二重化する結果となり、結局のところ、評価されるということが目的としてすりかわってしまうという事態を招くのです。
受け取り手が唯一無二の一流揃い、ということであるならまったく何の問題もないのですが、それが経済性を発揮できるまでの数を揃えているような環境がありうるのか?と考えなおしてみれば、このような想定自体がまったくのナンセンス、ということがわかってもらえると思います。
もし見渡す限りの一流揃いという環境に身をおくことができないのであれば、そこでの過ごし方は当然に、そこでの成員の挨拶や振る舞い、姿勢や生き方、それらの総体としての組織風などから自らの感覚器官を通して認識に反映される像の、<量質転化>化を、なんとしても「食い止める努力」を、しかも「観念的に」しなければならないことになります。
両親に似ても似つかないような鬼っ子が、幼少の頃からどんなことを心がけているか、また爛れた組織風に染まらず立っている人物が仕事終わりや週末にどんなことをしているか、一度考えてみられるとよいでしょう。
先程も述べたように、わたしたちはたしかに食えねば死ぬのですが、だからといって、自らの夢や問題意識、覚悟といったものと、表現への評価をはじめとした社会性や経済性を、いっしょくたに捉えてしまっては、まったくの三流に転化してしまうことを覚えておいてください。
これらはあくまでも、<相対的に独立>したものとして捉えておかねばならないということであり、時には、そのための努力を、技として身につくまでやらねばならない、ということなのです。
◆
さて、そうして環境をいちおう整えたとしても、誰しも自分のまだまったく触れたことのない分野を目の当たりにして、いざその第一歩を踏み出すときには、二歩目や三歩目よりも、はるかに多くのエネルギーが必要となるものでしょう。
既にそれなりに知っていることについては、「あっ、これどこかで見たな。こことここは知らないけど、読んでいけばなんとなくわかってくるかもしれない」と、時間さえ許せば自ずと読み進めていけるものですし、相当に知識が深まった段では、「このことについてはよく知ってるぞ。どれどれ、どのくらい書けているものか確かめてやろう」と、これまた批評するつもりですいすい読めてしまうものです。
音楽が三度の飯よりも好き、という人に限ることにしても、それまで熱心に聴き入っていたジャズを離れて、ヒップホップやラップを聴こうとするときのことを考えてみれば、その感情面からの抵抗いかばかりか、と感じてみられるのではないでしょうか。
しかしもし、読者のみなさんが、本質的な姿勢、つまり、森羅万象のあらゆる事象・現象を貫く法則性を脳裏に宿しつつ、そこを起点としてさらに現象に分け入りそこから構造を引き出そうとする姿勢を忘れずにいようとしたときには、目の前の対象が、見たことも聞いたこともないことであっても、やはりそれなりの問題意識を持って取り組んでおくべきなのです。
なにしろ、ことは<構造>の話なのですから、これは一般的な段階に話を限るならば、どの分野においても通ずるものであるはずなのですし、そう認識できているのでなければ、結局、自分の専門分野についてもただただ知識を収集しているだけ、であることを露呈していることになるのです。
そもそもをいえば、エンゲルスという偉大な学者がヘーゲル哲学に取り組み提出してくれた、弁証法の三法則がなければ、<構造>を見る目を養おうにも、何らの手がかりすらない!という状態だったことを考えれば、現代という時代はあまりにも恵まれすぎているのだ、ということをぜひともわかってもらいたいと思います。
ここまでで少しでも、「文学はさっぱり興味ないけど<構造>はちゃんと見ておこう」、という気持ちになってもらえたでしょうか。でははじめましょう。
◆◆◆
前回の引用文について書き抜く際に誤りがあったこともありますし(問題を出しておきながらすみません)、答え合わせがてら少し検討しておきましょう。
◆p.26
文学はもともと、つねに反状況的な志向で支えられる。自然主義を指弾する良俗(傍点)の声が高ければ高いほど、それは自然主義に内在した反社会性、既成の道徳に挑戦する反逆精神の明証になる。自然主義の文学運動が曲がりなりにも、わが国の文学的近代の確立をなしとげたゆえんである。ここには、特に二文目に、<相互浸透>の法則性が述べられていることがわかりましたか。
社会の側が、文学における自然主義を批判することが、自然主義における反社会性を浮き彫りにする、と書かれていますね。
これを身近な例で置き換えてみれば、<相互浸透>の像がより明確になり、さらにはここで述べられている論理性がはっきりしてくるでしょう。
たとえば、空が黒く染まることが、月を浮かび上がらせる、という現象もこれにあたります。
ここではいわば、ひとつの現象は、対立物が互いに支えあって成り立っているのであり、「月が明るい」という現象は、空が明るいうちには成り立たず、また月が出ていないときにも成り立たない、という法則性が浮上してきているわけです。
その法則性を、文学における社会と文学との関係性に置き換えてみれば、それらがどのようなかかわり合いの仕方をしているかがわかってくるでしょう。
また続いて、<相互浸透>の着眼点を起点にすれば、空が暗ければ暗いほど「かえって」月が明るく輝いて見える、というより広い観点から見れば、そこに全体としては<否定の否定>が見られ、また月が明るくなってゆく過程としては<量質転化>が現れていることも見て取れます。
これらの法則性をまた、引用文に置き換えてみると…という頭脳活動を繰り返すことによって、弁証法性が高まるとともに、「あっ、ここには何やら大事なこと(=論理性)が書かれているようだ、という、ものを見るためのアタマの中の目が創られてゆくわけです。
わたしたちは三法則を照らしながら、本書をはじめとした通史に書かれている論理性の存在に気づくことができますが、筆者においては、おそらく三法則に照らして、という発想はなかったようですから、自らの専門分野である文学史を歩む中で、あらゆる事象に接し続けたことで、次第次第にその流れがアタマに論理像として定着してゆき、最終的に、「文学はつねに反状況的な志向で支えられる」という、文学における特殊的な論理として浮上してきた過程を持っていたはずです。
◆p.36
すぐれて近代的な個性が逆に、日本の近代社会の内部で反近代(傍点)的な方向に動くという、これらの事態は決して偶然の暗合ではない。ジグザグな過程を経てそれなりに実現しつつあった日本近代の到達が、その近代化の過程が内包したさまざまな要因ゆえに避けがたい痼疾をあらわにしていった時期、そして良かれ悪しかれ、日本近代の独自性があざやかな焦点を結びつつあった時期、それが明治四十年代という、自然主義の自己閉鎖を文学的反映のひとつとする時代の意味であった。西洋を指呼する理想的近代の幻像が牢固であればあるほど、日本の近代的(傍点)状況からの脱出が不可避だったゆえんである。ここはなかなかに難しかったと思います。
ただこの難しさというのは、西洋に旅した作家が見た日本がどのようなものに映ったか、という前提となる知識があるかないかにあるというよりも、筆者の捉えている論理性が高度だから、と言うべきですから、やはり文学史に詳しくなくとも、弁証法を手がかりになんとか頑張って見てゆこうとする姿勢が大切です。
どの法則に照らしてみて切り崩していってもかまいませんが、最後の三文目に「かえって」の論理構造を見つけたのであれば、ここを<否定の否定>だと見いだせたでしょう。
ここには、西洋を目指して近代化を進めてきた日本の文学界において、それがいざ実現する段になったときには、その理想が牢固であればあるほど、「かえって」そこから脱出する必然性が生まれてきたのである、と述べられていますね。
この必然性を受け止める個人の側からみれば、一文目にあるように、すぐれて近代的な個性が逆に、日本の近代社会の内部で反近代という<対立物>へ転化するという結果を招く、ということでもあります。
これらのことを総合して、近代→反近代という弁証法的な運動法則が押さえられれば、やや難しい二文目を理解する手がかりとしては充分である、と言えます。
ここまでで、個別的な知識は思っていたよりも必要なかったな、と思えたのではないでしょうか。
いずれにしても、どこかに弁証法の三法則や対立物への転化、対立物の統一などを見つけられれば、あとは、他の法則は働いていないかな?と考えてみることによって、一人でもいくらでも修練をしてゆけるはずです。
◆
ついでに、もうひとつ指摘しておきましょう。
筆者が明確に意識しているように、歴史というものは「ジグザグな過程」を経て流れを作ってゆく、とするのが正しい把握なのですが、大きな視点で物事を見ることのできない場合には、たとえ小さな現象でも、種が芽を出して麦として完成したことを原因と結果でつなぐだけで、その先を考えずにおしまいにしてしまったり、社会主義が失敗したから資本主義で世界経済のあり方が完成した、といったふうに、その前段階を見ようとしないものです。
しかし、麦や資本主義が、未来永劫に完成した形態として君臨すると考えるのは誤りです。これは右か左かというカビ臭いイデオロギーの問題ではなく、「完成する」という概念そのものに含まれている構造が正しく把握されていないことからくる問題です。
火事や世界情勢の変化など、外部的な圧力でそれらのものごとが崩壊・変化「させられる」という面の変化だけでなしに、その内部から、完成を契機としてどのような次なる運動が始まっているかを観るのが、弁証法という考え方のひとつの役目です。
ものごとは完成すると直接にその崩壊が始まっている、と言われるのは、この事情を指してのことなのです。
わたしがこの本がいいよ、と言った理由が、なんとなくでもわかってもらえてきたでしょうか。
端的に言えば、その理由、そこに運動法則が描き出されているから、なのです。
万が一、弁証法ということばの響きがどうしても嫌だというのであれば、行間に潜んでいる運動法則を、思い思いのやり方で引き出してみせればよいだけの話なのですが、いずれにせよ、法則性、しかも運動法則のありかたを熱心に手繰ってみて認識として宿すことなしには、理論と実践を導く何らの手がかりすらをも得られない状況に陥るのは当然の仕儀だとふまえておかねばなりません。
さてここまでで、通史と、そこからの弁証法性の抽出が必要な所以を少しはなるほど、と思ってもらえたでしょうか。以降の引用文には今度こそ込み入った説明をつけませんから、同じように考えてみてください。
◆◆◆
p.73
新感覚派の特色は、なによりも知的に意匠化された感覚表現にみられる。ヨーロッパの前衛芸術の影響もつよいが、事実の再現をこころざすリアリズムをしりぞけ、擬人法、比喩、暗喩、倒置などを多用した手法上のめざましい実験、横光のいわゆる<国語との不逞極まる血戦>を試みたのである。それは感覚を最後の拠点として、散文化した日常的時間へ反噬する試みであり、また、昭和文学の重要なメルクマールである小説技法上の実験性の端緒をもひらいた。
新感覚派の運動自体は、発想の内的必然性をも表現技術にまで解体する形式主義に陥り、と同時に、マルクス主義文学の影響による内部瓦解もあって、昭和期にはいってからまもなく凋落、衰微した。
p.76
「文学戦線」がすくなくとも、革命のための思想によって動く文学運動の拠点であるためには、その思想のパターンがあまりにも多様すぎたという事情は確かにあった。ボルシェヴィキとアナーキストをおなじ座標系に組みこむことは、どだい無理である。しかし、その思想的雑居を純化するための<目的意識>にかさなって、それ自体が抽象的・公式的な福本イズムが導入されたとき、プロレタリア文学はなかば必然に、理論と創作方法だけが優先する文学運動としての性格を決定されたのである。文学における創作方法は、作家がそれを金科玉条(註:原文中の「金料玉条」は誤り。文中の誤字は続く記事でまとめて指摘)とするかぎり、現実を整理するための便利な公式に似てくる。
p.97
昭和文学の実質を形成するふたつの文学運動が最盛期に達しつつあった時期、両者のいわば挟撃下に、明治大正期に個性の形成を完了した作家たちの多くはおのずから創作意欲をうしない、あるいは発表の舞台をうしなって、低迷と沈滞をつづけていた。武者小路実篤がやや自嘲ふうに<失業時代>と呼ぶ一時期である。
谷崎潤一郎はその困難な時期に、創作活動を廃することのなかった数すくない既成作家のひとりである。おなじ時期に『夜明け前』(昭和4〜10)を書きついだ島崎藤村もいたが、かれらの仕事が形こそちがえ、いずれも伝統と近代の架橋としての意味をもっていたのは注目される。伝統と意識的に断絶し、西洋を追跡してはじまった日本の近代文学が、プロレタリア文学といい、モダニズムといい、いわば西洋の粉飾のもっともきらびやかな時期に、その半極として<日本の再発見>を自己の課題としたのは決して偶然ではない。図式的にいえば、当損が倫理や思想の面で日本をとらえたのに対して、谷崎はもっと純粋な美意識に沈潜して日本を手に入れる。
p.101
(昭和のはじめ、新進作家が、旧世代の大家(秋声、白鳥、直哉、実篤ら)に「人工的退位を迫る」とした)
しかし、退位した旧世代作家の復辟もまた早かった。<人工的退位>を迫る新世代のがわにむしろ錯覚と思いあがりがあったわけで、プロレタリア文学運動の壊滅した昭和8年前後から旧世代作家の力作があいついで発表され、かれらの衰えぬ命脈と強靭な個性の貌がしめされることになる。おなじ年に、かつて新興芸術派の指導理論化であった雅川滉が<今日においても、なおかつ若い作家のうちに、いわゆる滋賀張りと考えられる思考と文体とが行われている>事実を指摘したとき、自体の推移はほぼ明瞭であった。このことはいわゆる転向文学が私小説的方法への本家がえり(傍点)とともに出現したこととあわせて、昭和文学の実質を形成した文学運動の、運動としての質にかかわる問題をふくむともいえよう。
p.119
いうまでもないが、戦争とともに戦争文学はつねに存在してきた。しかし、戦争文学が深刻な戦争体験の検認から出発したとき、戦争の本質とその意味は、はじめて、自覚的な意図と方法のもとに対象化されたといえる。ルポタージュふうな戦争の記録から虚構による構造化まで、あるいは戦争の動態を再現し、あるいは戦場における個性の内面の劇を追跡するなど、多彩な試みがあいついでいる。
p.120
河上徹太郎の指摘もあるように、プロレタリア文学以前にあっては、戦争はあたかも自然界の事実のごとくに絶対視されており、したがって、文学や思想のための真の対象化は、ほとんど不可能であった。戦争から逃避するか、さもなければ、本能的な反応にとどまるか、いずれかの道しかなかったのである。そうした傾向にたいして、プロレタリア文学運動は、視覚の一方性になお限界をのこしながらも、とにかく戦争を思想によって領略する道をひらいていった。
p.122
たとえば広津和郎は『昭和初年のインテリ作家』(昭和5)や『風雨強かるべし』(昭和8)の作者でもある。知識人の命運を執拗に問うてきたその広津が、日本の<近代>が決定的な崩壊期にさしかかったとき、ゆきくれた散文精神の拠りどころを市井陋巷の庶民にもとめたという事実は象徴的である。知識人の懐疑だとか挫折だとか、そうしたさまざまな<心の風景>とはまったく無縁に、つねに生きてゆくことをやめない庶民のエネルギーが、この作家にはきわだって魅力的に思える一瞬があったのではないか。
p.150
私小説はかつて小説の方法であると同時に、いやそれ以前に、作家の生の姿勢であった。私小説作家にとってどう書くかという問題はつねに、どう生きるかという問いと一体不可分であった。その方法と肉体の癒着が分離したのだといってもよい。第三の新人たちの私小説(傍点)には、かつて作品世界に屹立し、読者がつねに直截に読みつづけた作家の生身はもはや不在である。<私>は話者の位置にしりぞき、そのことで小説的世界の<私>からの上昇が実現する。
第三の新人にとって、伝統への後退と見えた私小説への復帰は、実は戦後文学の運動を通過した文学風土でのみ可能な方法的自覚にほかならなかったのである。
p.228
前近代が近代の内部で反近代に転化し、その近代と反近代をともに包括する形で、日本の近代社会は成立している。そこに後進国としての日本近代の特殊性があったはずで、俳句は反近代の文学様式として近代芸術の内部に自己を位置づける可能性をうしなっていない。
続く最後の記事では、歴史の流れを論理的に読むという意味で重視すべき箇所ではなく、文学をはじめ表現にたずさわる人間にとって、その内容が重要である箇所を指摘しておきます。
また加えて、正誤表を載せてあります。
(3につづく)
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