(2のつづき)
今回の一連の記事では、「観念論に滑り落ちずに唯物論的な世界観を維持すること」と、「形而上学的な考え方に落ち込まずに弁証法的な論理性を維持すること」に主眼を置いて、どういう心がけが学問的な段階を維持するために必要なのかを説明してきたのでした。
そして前回までで、世界の見方が、<世界観>と<論理性>の立場と考え方においてそれぞれ大きく二分されてきていることを書きましたが、今回は、日常的な問題を考える時に、これらの立場と考え方においてはどのような解き方になるか、を確かめてみるお約束でしたね。
◆それぞれの<世界観>・<論理性>では、日常の問題はどう見えるか
以下の説明は少々強引なのでまる覚えされてしまうと困ったことになりますが、それぞれの立場・考え方についてのイメージがどうしても湧かない人に、「なるほどこんなものか」という印象を持ってもらえることを願ってのものです。
すでに理解が進んでいる方は、この例えが「ほんとに強引だね」と感じられるでしょうが、その場合にでも言わんとしていることは汲み取ってくださるはずです。
さて今回たとえとして取り上げるのは、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか」
という、わたしたちがふつうに生活を送っていてもよく取り上げられている問題です。
これをどうのように解くかは、前回までの記事で述べてきた立場と考え方のどれを採用するか、によって異なってくるはずです。それぞれ順を追って、どうなるのかを考えてみましょう。
◆1. 世界観による立場の違い
まず<世界観>による区分から。
◆1-a. 観念論の立場から見る問題
<観念論>の立場であれば、この世界はあるときなんらかのきっかけによって生み出されたものとみなします。そうであるからには、世界を生み出した主体を認めねばならないことになるために、それが物質ではないとするなら精神である、とするのです。ですから精神を、物質よりも先行する存在であるとみなす立場がこの観念論です。
詩などで「あなたが見ている世界はあなたがいてこそ(=あなたという精神があってこそ)」といった思想が展開されることがありますが、あれもひとつの観念論的な考え方と言えるでしょう。そこでは、あなた、つまり世界を見る精神がいなくなれば世界も消えてなくなる、というようなものとして世界を見ていることになります。
この場合、極端に言えば、あなたの気持ち次第では、世界は希望に満たされ歩くたびに幸運が舞い降りる楽園にもなりますし、また別の気持ち次第では、あなたの一挙一動は不幸に見舞われており苦しみにあふれた地獄のような世界にもなりえます。
このように精神に、物質よりも優位な地位が与えられているときには、ものごとを決めるのはそれを見たり感じたりしている精神如何、ということになります。そこでは現実は精神の映しだしたところの写し絵のような位置づけとなり、好きや嫌いというものは、好きだから好きであり嫌いだから嫌いなのであって、そこには物質的な条件は介在せず、好きや嫌いも「ただ精神によって決められているもの」としてとらえられることになるでしょう。
また精神が優位であることから、物質である身体は従属的な関係に置かれます。この場合、好きや嫌いも生まれつきだとみなされたり、もっと進んでは生まれる前からの魂のあり方が好きや嫌いを規定しているのだ、ともなってゆきます。
実践的に言って、もし気持ちが病んだ人物がいる場合に、「気持ちが上向きになるまで待つ」、という対処法をとる場合には、精神のあり方は精神によって整えるべきだと見ていることになりますから、これは観念論の立場でものごとを見ていることになります。
◆1-b. 唯物論の立場から見る問題
これとは逆に<唯物論>の立場であれば、あなたや、ひいては人間の精神が生まれる以前から世界は存在してきたのであり、わたしたち人間がそれぞれアタマの中に持っている精神というものは、頭脳という器官のはたらきであるとします。つまり唯物論では、物質を、精神よりも先行する存在としてみなすわけです。
ですからそれを担っている個体が死ねば当然に、そのはたらきも止まることになり、精神もその時点で消滅することになりますが、あなたの心身が消滅した後にも、世界は存在し続けます。
この立場にとっては、精神でさえも物質的なところから考え始めます(「精神を物質であるとして」考える、のではありません。これはタダモノ論です)ので、あるひとりの人間がおぎゃあと産声を上げて生まれたときから、お母さんの胸に抱かれてお乳をもらって産婦人科を出て、家族のなかや友人関係を結びながらいかにしてその精神を生成させ発達させてゆくのかを探究してゆくことになります。
ですからこの、物質を精神よりも優位に置く立場から先ほどの問題に答えるとするならば、「物質的な条件、たとえばあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって好き嫌いという感性のあり方が決まっている」という答え方になるでしょう。ただだからといって、好きや嫌いも遺伝子によって決定されている、と言っているわけではありません。
もし実践的に、気持ちが病んだ人物がいる場合、「身体を(少しずつ)動かすことで気持ちを整えてゆく」という方向性を示すとするならば、精神的な問題が起こる原因を物理的な土台に帰しているわけですから、これは唯物論の立場に立っていることになります。
◆2. 論理性による考え方の違い
では次に、同じ問題を<論理>の問題として捉えてみましょう。
◆2-a. 形而上学的な考え方から見る問題
まず<形而上学的>な論理によって考えるときには、「あれかこれか」と、あれとこれを乗り越えられない区分としてみなすのですから、答えは簡単です。
たとえばある人の好きな食べ物が卵焼きであるという場合を考えるときには、「生まれつきそれが好きだったのであり、死ぬまでずっと好きなものである」というふうにみなされます。この考え方によれば、食わず嫌いは固定化されたものであり治すことができません。
なぜならこの立場から言えば、あるひとつの性質は別のものに変化したり互いに移行しあうということを認めないからです。
他のたとえとして、あなたがもし、ある異性が自分についてどう感じているかを確かめてみたくなり、「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとして、「嫌いじゃないなら好きってことね!」と、「あれじゃないならこれだ」式に判断するのであれば、あなたは形而上学的に考えているということになります。
◆2-b. 弁証法的な考え方から見る問題
さてこれとは逆に、<弁証法的>な論理によって考えるとするならば、個々人の好きや嫌いというものは、互いに移行しあう、という運動法則を認めます。
大好きだったイチゴも食べ過ぎて吐き気をもよおせば嫌いになることもありますし、あれだけ好きだった煙草も、いったん禁煙が成功してから人の煙を吸うと「こんなに嫌なものだったのか」と、以前とは一転して嫌いになっている自分に気づくことがあるでしょう。
ですから、好きや嫌いは「習慣や体調、気の持ち方を整えたり崩したりすることによって変わってゆく」ということになります。
もし「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとするならば、「完全に嫌いではないのだとしてもどのくらい好きだと思ってくれているのかな?」と、好きと嫌いのあいだには一定の範囲があることを前提として考えます。また、一個人の中でもある部分は好きだが他の部分は嫌いだとされることも認めますし、ほかにも一つの性質について、誰とでも仲良くなれるという長所を別の側面から見れば八方美人という短所にもなることも認めます。あれかこれかではなく、「あれもこれも」と見るわけです。
好きなものが嫌いになったり、嫌いなものが好きになったりを認め、その過程性を追おうとするのが、この弁証法という考え方です。もっと言えば、好きや嫌いも、ひとりの人間が生まれ育てられる過程で決まってきたものであり、今後も変わってゆくものである、というふうに考えます。
現実の物事をうまく運びたいと考えるのであれば、その運動の仕組み(=過程的な構造)がどのようになっているかを確かめて、その認識になぞらえた実践を現実的に取り組んでゆかねばなりません。たとえばあなたの子供の食わず嫌いを直したいというときには、嫌いなものを好きになるように働きかけてゆかねばなりませんから、この場合も当然に、対象が変化することを前提として、弁証法的に考えることを求められているというわけです。
◆<弁証法的唯物論>から見る問題
さてそうすると、ここまで整理した2つの<世界観>と2つの<論理性>は、対立しながらもそのうちのそれぞれは互いに移行しあう関係にあるために、わたしはその転落を防ぐようにこそ厳しく指導する必要があることがわかってもらえてきたことと思います。
では、<世界観>と<論理性>同士であれば両立しえないのか、ということになると、これは当然にそうしえる、のですし、実際的にはそうでなければ存在し得ないからこそ、以上の例えが強引なものになっているのでした。
これらは、おおまかに、<形而上学的観念論>、<弁証法的観念論>、<形而上学的唯物論>、<弁証法的唯物論>に分けられます。
(2×2の表にまとめてもかまいません。先述したように、読者のみなさんが独力で我がものとしてもらうために、わたしのほうではあえてまとめません)
(ではたとえばこの一番はじめのものを、<観念論的形而上学>というふうにひっくり返すとどうなるのか?と聞きたい方も出てくるかと思います。答えとしては、これでもおかしくありませんし、ほかの3つもひっくり返すことができます。ただ先ほど述べた言い方が世界観を中心に据えたものであるのに対し、これらの4つは論理性を中心に据えて世界観を加味した言い方であるというだけです。たとえば<形而上学的観念論>は、形而上学の論理性を用いた観念論の立場を示したものですし、<観念論的形而上学>は、観念論の立場に立った形而上学的な論理、ということです。)
ここで4つのカテゴリがおおまかに浮かび上がりましたね。
わたしがはじめに以下の展開は強引なものにならざるをえない、と断ったのは、ひとつの<世界観>を決めたとしても、それをどのように考えてゆくのかという<論理性>が定まらないことには、精確に言えば現実の問題にも答えようがない、という理由があったからです。一口に唯物論の立場に立つといっても、そこには形而上学的な段階もあり弁証法的な段階もあり、これらの幅はとても大きな広がりを持っていますから、たとえば物理学的な物の見方を押し付けて人間の精神のあり方を論じようとするならば、わたしたちが抱く恋や恐怖といった感情も、電気信号や遺伝子のせいにされかねません(これを揶揄して、タダモノ論と呼びます)。
しかしともかく、当人が意図していようが意図していまいが、ある人がひとつの意見や考えを文章や口頭で表現するときには、これらのどこに位置づけられるかが決まってきます。「人は死んでも魂は残る」とすれば観念論ですし、「魂などありはしない、死ねば塵となるのみ」とすれば唯物論です。いったん告白したのに振られた相手でも諦めず、何度も何度も立ち向かって関心を引こうとするのなら、経験的につかみとってきたとはいえ、いちおう弁証法的にものごとを考えているということになります。
ですから、わたしはそれがどのようなものであるか、どのような段階のものであるかを判断します。その上で良い評価するときは、唯物論から滑り落ちずによく歩み切っているなあということか、弁証法をしっかり意識しながら発揮できているなあということが当人の表現から見て取れる時、というわけです。
何をやってもちっとも評価されないという場合は、ただ単にそれらを満たせていないからであって、ご当人と気質が合うか合わんやといったつまらないことでは絶対にありません。そもそも弁証法的に考えられるのであれば、気質は合わせてゆけるもの、ですから。
さてまとめの最後になりましたが、わたしたちの研究の立場・考え方は<弁証法的唯物論>です。世界は、物質を土台とした過程の複合体として把握されます。
もしこの立場と考え方でさきほどの問題を考えるとするなら、好きや嫌いは「あなたがおぎゃあと生まれた瞬間から生成をはじめる精神がそこを土台として、その後どう育てられてきたかという周囲の物質的な条件によって折り重なりあうように発達してきており、これは人間として育てられてきたあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって決められてきているが、その法則性を目的的に適用してゆくのならば自ら変えてゆくこともできるもの」として扱われます。
さきほどの、世界観としての<唯物論>と論理性としての<弁証法>を加味して、それぞれがバラバラであったときとはどのように問題の解き方が変わっているのかがわかってもらえるでしょうか。何を必死になって指導してきているのか、だんだんわかってもらえてきたでしょうか。それがわかってもらえれば、ここまでの記事は修了です。
次回ではようやく本題に移り、『道は開ける』の一般性についての議論を見てゆくことにしましょう。
(4へつづく)
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