2010/10/20

チャリ選び

「唯物論と観念論」についての続きを書かなければいけないのに恐縮ですが、ちょっとチャリの話を。
前の話はほとんど書けてはいるのですが、誤解があってはいけないと思い、調べなおしているうちに
面白くなってきてしまいミイラに…といった、よくある悪いパターンになってしまったのでした。
おかげで言語学史と文化人類学史の構造が見えてきたのは収穫でしたが、
とにもかくにもお待たせしているものです。申し訳ない。
・まえおき
さて、旅チャリを新調しようという今時奇特な学生さんへの資料。
ちょっと調べてみたところ、10万円前後で買える旅用自転車のなかで、
ジェイミスの「オーロラエリート」に目をつけた。
このバイク、毎年、カラーリングを大幅に変えてくる。
結論からいえば、好きなカラーリングのものを選べばいいのだけど、
その中身を少しつっこんで見ておきたいばあい、コンポーネントを見るといい。
・表の見方
下の表ではオレンジ色で示した行のうち、ディレイラーとシフトレバーだ。
2008・2009年モデルはシマノのロード用コンポ「105」を使っており、申し分ない。
初心者どころか、その気になれば一生乗れるグレードである。
2010年モデルは、シマノのMTB用コンポに変更されているが、グレードとしては同等のものと考えていい。
後ギアが9速になっていることはマイナスだが、MTBコンポの採用にともなって、
ブレーキがディスクブレーキになっていることは間違いなくプラスになっているはずだ。
ところが2011年モデルになると、コンポがスラム製になっている。
これは推測でしかないが、組立が台湾のジャイアントになったことにともなって、
ジャイアントの子会社であるスラムのものを採用、という運びになったのではないか。
しかしこのスラム、シマノほどの安心感はまだないので、
コンポを自前で何とかできない初心においてはリスクが大きすぎる。
というわけで、おすすめは2008、2009、2010モデルのうち、
予算の範囲内で気に入った色のものを、上記のコンポ、ブレーキとの兼ね合いで考えて選ぶとよい。
2010年モデルではドロヨケ、キャリアが装備されているようだが、こちらもお好みで。
ドロヨケがなくても旅ではそれほど困らないし、キャリアはしっかりしたものに変えることになるのではないか。
どのモデルについてもペダルはついていないので、一緒に注文して組み付けてもらうといい。





・ジェイミス オーロラエリート


・ちなみに
「コンポが違っていても、走り出したらそれほど違わないし、
プロ用バイクの位置づけであればそれほど変わりはない」、
という意見がまれにあるが、極端すぎる意見だ。
フィットもベンツもクルマであることに変わりはないから、どちらでも同じ、と言っているのと同じである。
そんなことを言い始めると、ママチャリもプロ用バイクもチャリであるという意味では同じなのだから、
ママチャリで旅をすればよいことになる。
(相対主義では本質はとらえられない、とはいつも学問の講義でも伝えている通り)

事実、コンポーネントの違うバイクに乗ってみれば、
グレードが2つほど違えば誤魔化しようもない差があることは歴然だ。
プロ用バイクにのって、2,3こぎもすれば、100メートル以上は何もしなくても進むことがわかるが、
グレードが高くなればより違った結果になる。

短距離をダラダラ走れば事足りるママチャリと違って、旅というのは、
毎日の積み重ねをできるかどうかに最大の焦点がおかれてしかるべきだ。
その一日を必死に走って、次の日は立てないから休んでいた、というのではいけないのである。
そうなると、旅の仕方・装備には注意を払いすぎるということはないのだから、
予算の範囲内でもっともよいものを安くで買う、という意識は必要不可欠なのだ。

とにかく高いものを買えとは言わないが、
できるならばコンポは105以上(MTBコンポでいえばDeoreクラス)を選んで欲しい。
今回のセールではそれができる。(通常ならば、10万円だと最下位のSoraしか買えないだろう)
そうすれば、フレームを始めとした全体のパーツが必然的に良いものとなり、総合力が違ってくる。
旅好きのひとならば、間違いなく一生の相棒になるはずだ。

王成  蒲松齢 田中貢太郎訳

ノブくんの研究へのコメントですが、学問と関連のあることなので、こちらに記してしておきます。
それにしてもYahoo!ブログのコメント数制限はどうにかならないのでしょうか…
◆ノブくんの評論
 王成は平原の世家の生れでしたが、いたって懶け者であったために、日に日に零落して家は僅か数間のあばら屋をあますのみとなり、細君と乱麻を編んで作った牛衣の中に寝るというようなみすぼらしい生活をしていました。そんな生活の折に、彼はひょんなことから自身の祖父の知り合いの老婆(狐仙)と出会います。そしてそこから彼の運命は大きく変わっていくのでした。
 この作品では、〈物事を成功するには〉ということが描かれています。
 まず王成とその細君の生活を哀れんだ老婆は、自身の40両を彼らに与え、それを元手に小生業することを勧めます。こうして、彼らは40両を老婆から得たのです。そして王成は、老婆に「言われたとおり」、これを葛布に変えて北京で売ることにしました。そう、彼はどんなときも他人の言うことに素直に耳を傾けていました。
 その後旅館で、北京で「南方との交通が始まったばかりの時で、葛布が来てもたくさん来なかったうえに、市中の富豪で買う者がたくさんあったので、価が非常にあがって平生と較べて三倍ほどになっ ていた。それが王成の着く前日になってたくさん着荷があったので、価が急にさがって」しまったことを知ったときも、そこの主人をアドバイスを忠実に守り、結果として大金を稼ぐことができたのです。
 大事を成すには素直に他人に忠実に従うことが重要なのです。
◆わたしからのコメント
 この物語は、この作品に触れた読者にむけて、ある教訓を発信する思惑があって書かれたもののようです。
 論者の主張では、この作品が表現している教訓というのは、「物事を成功に導くには、素直に他人に忠実に従うべきである」というものです。この一般性に照らして本文を読んでみると、たしかに、主人公である「王成」は、世家(文中での読みは「きゅうか」。昔、中国で、一定の地位や俸禄を世襲していた家柄。説明は『大辞泉』より)の出身でありながら身を持ち崩した人間であり、彼のある配慮から懇ろになった狐仙の言いつけに従い財を成すことに成功しています。
 ところが、彼は必ずしも、誰の言うことでもとにかく無批判に受け入れていたわけではないようです。とくに、財を成すもっとも大きな出来事である、強い鶉(うずら)を「王」に売るための商談においては、彼ははじめに提示した千両を引き下げて、六百両でそれを成立させています。これほど大きな例外があれば、やはり「他人に忠実に従った」とは言えないでしょう。
 論者の引き出してきた一般性の誤りを正すには、どうすればよいでしょうか。「王成」がこれ以上なく忠実に守り、従ったのは、どうやら狐仙である「老婆」の言葉のようです。そうすると、「物事を成功に導くには、素直に●●に忠実に従うべきである」という格言の、●●にはどういう言葉が入るでしょうか。それを考えてみてください。
 ここに「老婆」や「狐仙」という言葉を入れてみても、なんらの教訓としては読者に伝わりませんから、「王成」にとっての「老婆」が、どのような位置づけの人物であったかを確認し、その論理的な構造を引き出してくればよいわけです。
 <一般性>というものは、そこに例外があってはいけません。あってよいのは<特殊性>だけです。たとえば、「両生類は水中で生活をする生物である」という概念規定は、イモリやカエルには当てはまりますが、「爬虫類であるはずのカメが水中で生活する」という事実に矛盾します。
 一般性に誤りが含まれていれば、必ず論理の階段を踏み外して、それまでに培ってきた論理の体系、つまり理論は、砂上の楼閣と化すだけです。論理というものの正しさは、あるものの一般性の上に、どのような特殊性が乗っているのか、という構造の重層構造を指していますから、どれだけ正しく個別科学の研究をしているつもりでも、それを乗せる土台が間違っていれば、必ず間違った理論になるということです。
 「例外というものを認めてはいけない」。これは学問での原則ですが、評論など論理性を問われる営みにおいても採用すべき大原則ですから、しっかり噛みしめていただくようお願いしておきます。

どうでもいい雑記

・the icon battery pack for iPhone
これは驚いた…すさまじいアイデア。脱帽です。





・北海道ツアーでいろいろ考えていたうちのひとつ。
技術論の実践というわけで、机の上で考え事をしているだけではなく、しっかり手を動かしている。
技術は認識の適応だと、念仏のように唱えているだけではなんの意味もないからだ。


なんでもよかったのだが、とりあえず、手持ちの愛機Lumix LX3の革ケースを自作中。
オモテ面はわりと見られるが、裏面の液晶とボタン部の切り抜きがとっても難しい。
型紙を何回も作りなおして、手順をしっかりと考えていても、さっぱりうまくいかない。


ものづくりは、この頭の中でのイメージと実際に手を動かしてモノに向き合った時の、
確然とした矛盾がたまらない。
革を注文してあるので、届いたらいよいよ本番である。次も失敗だろうが、それでよい。






わたしが真剣に「勝手に弟子入り」しているのはAki-Asahiさん。
http://aki-asahi.com/sh/index.html

すばらしすぎる。
これが誇りをもった人間の仕事というものだ。
これより数段落ちるこだわりと品質で、数倍の値段をつけているひとたちは、真剣に反省すべし。


しかし人生の先達がいるというのは、そういう意味では大いなる安心感もある。
わたしの本業には、先達というものすらいないもの…
いるのは、ただ歴史上の十指にも満たない大先達だけだ。


それに比べれば、こちらははるかに幸せな世界である。




・さいごは北海道、天馬街道にさしかかるころの道。




やはり、わたしの人生は旅だ。


学問をしているときも、趣味に向き合っている時も、好きな人たちと一緒にいるときも、変わらず旅をしている。
遥かで、深く、温かいからこそ、強烈にひとりだ。
形式を作り、本質を取り出し、同じものを見ていても、そのものを直接伝えることはできない。
個として生きながら、全体としてのみ歴史を生きうるのである。


これ以上の矛盾があるだろうか。
この矛盾がなければ、歩き続ける必要などあるはずもない。


愉しい旅というものは、たしかな認識の、論理的な積み重ねの先にしかないものだ。
しっかり旅をしている人と話せばわかるとおり、旅は人を強く優しく大きくするばかりか、賢くする。