山を走りに来ているので更新できません。
今日のぶんは、あしたまとめて公開しますね。
2011/11/03
2011/11/02
構成とはなにを意味するか:「文学考察: あしー新美南吉」を中心にして (3)
(2のつづき)
前回では、技術の習得過程を少し触れることで、「山頂まで登りつめる」ためのやり方には原則がある、ということの理解を進めてもらいました。
その方法とは、何も考えずにただがむしゃらに努力をするよりも、その前に立ち止まって、自分の目指すべき方向は本当に正しいのか、という問いかけのなかから掴みとってくるべきものであり、現時点での最高の正しさというものは、歴史性をふまえることによってこそ導いてこれるのだ、ということです。
歴史性というからには、それまでの過程をまずは一身に繰り返し、自分が現在取り組んでいる事柄を一言で要すことができるところまで一般化してしっかりと把握し、最後には自分力でその先の道を築いてゆく、ということを最低限おさえておかねばならないはずです。
(わたしが記事のたびに、「前回は〜と言いましたね」と一言に要してことわる理由も、なぜだかわかりますか。)
前回述べた技術の上達過程については、心理学を専攻されている学生さんは「無意識の無能、意識の無能、意識の有能、無意識の無能」といった学説を思い出すかもしれませんし、武道を専攻されている学生さんは、「動けばすなわち技となる」と言われていることを思い起こすかもしれません。
ただひとつ注意しておいてほしいのは、その過程に、どのような内実が含まれているかと考えていってほしい、ということです。
ああいう経験主義的な理論や、極意論を振りかざしてみても、何らの実践を導かないことにがっかりしてそれらそのものを棄ててしまう前に、あれらはなにもまったく意味のない空論などではないけれども、それでもひとつの結論でしかないのだから、その「過程」は自分の力で論理的に補ってゆかなくてはならないのだ、と正しく理解しておいてほしいのです。
(※文学以外の、一般的な関心をお持ちの読者のみなさんは、おそらくここまでが興味の持てる範囲なのではないかと思います。以下では、このblogでは珍しく、文学の特殊的な色合いが増してきますので)
◆◆◆
さてそろそろ脱線が過ぎましたから、文学の話に戻りましょう。
「山頂まで登りつめる」ための一般的なものごとの考え方が、評論についてはどういうことが言えたのかをおさらいしておきましょう。
「1. あらすじ」では作品そのものの要点を捕まえながら全体の流れを捉え返し、
「2. 一般性」ではそれをさらに一言で要することで、
「3. 論証」での論者自身の読み解き方を読者へ伝えることへと繋げてゆく、
ということでした。
この段階をふまえるという修練を繰り返すなかで、しだいしだいにそのものごとの考え方が自分の認識と浸透してゆくと直接に、学問的に考えられるアタマを技として創り上げてゆくことが、山頂まで登りつめるための出発点なのです。
◆◆◆
ではここまでの原則をふまえられているかどうか、という観点から、今回の評論も評価してゆくことにすると、全体的な論じ方は悪くない、と言えそうです。
より突っ込んだことを言えば、「1. あらすじ」と「2. 一般性」は、いわば「作品を正面から見据えて理解する気があるか、またそうできているか」にあたるところであり、もはや初心と名乗ることを許されない論者にとっては、当然乗り越えてくれるであろうところですし、事実その期待には応えてくれています。
しかし「3. 論証」の部分については、より多くの工夫が必要である、という判断ができます。
なぜかというと、この論証部分こそがひとりの人間が評論をするという営みにとっての独自性そのものなのであり、評論ということもひとつの表現のあり方であることをふまえるのならば、評論も表現についての原則(対象→認識→表現)に則らねばならないことから、「読者の認識のあり方をもその念頭においておかねばならない」(観念的二重化)という厳しい条件が要求されることになるからです。
くだけた言い方をすれば、論者がもし、どんなに優れた認識や人格を持っていたとしても、それが表現をとおして読者に伝わらなければ何の意味もないのだ、ということです。
読者が目にするのは表現のみである!という事実を、まずはしっかりとふまえてください。
かつて、文芸に携わる者ならば肝に銘じておかねばならないとして、太宰治がしきりに述べていたことがありましたね。
作品が完成したあとに、あそこにはこういう意味があったのだとか、読者からの評価に戦いて後付けの言い訳を考えるくらいなら、作品そのものをきっちりしっかりと完成させればよい。作品をして作者を語らせるのでなければならぬ。それができぬのは作家失格である。
といった趣旨の主張がそれです。
(太宰治『作家の像』、『自作を語る』、『鴎 ――ひそひそ聞える。なんだか聞える。』)
あれは、矜持を含んだ経験からの直感的な把握だったとはいえ、表現についての本質を捉えた発言だったのであって、表現というのは、とにもかくにも筆者の手を離れればいかようにも解釈しうるのである(相対的な独立)から、作者は、読者が自分の書くであろう作品を見たときに、どのように感じて考えるかを、あらかじめ織り込み済み(観念的二重化、相互浸透)としておくのが当然なのだ、誤解もそのままに受け止めるべきなのだ、ということです。
◆◆◆
そう断った上で今回の新美南吉『あし』の「3. 評論」部分を検討するなら、作品の論理構造を把握できているのであれば、同じ構造を持った他の身近な例を引きながら、より読者が作品の理解を深めてゆけるような論証をしてほしかった、というのが本音です。
修練の際に読者を想定することが大事だと強調するのは、なにも直接的に読者の益になるかどうかということに力点が置かれているのではなくて、ともかくその目的意識性がないことが、論者にとって、論理構造を把握するための修練過程が片手落ちになってしまうという、修練が持つ意味合いの欠陥につながってしまうからです。
この欠陥は、この作品に限って言えば、この作品が児童文学であり、さほどの複雑な表現と構造を持たないことに助けられて(相互浸透)、表面化してくることはなかったものの、岡本綺堂『牛』の評論では、その欠陥が浮き彫りになっていると言えます。
論者が、作中の、牛に襲われた経験のある芸妓が、夜逃げの最中に牛の亡霊が見えたと騒ぎ始める部分を、論者がどのように理解してどのように書いているかを見ましょう。
文学考察: 牛ー岡本綺堂
西洋の合理的な物事の考え方が人口に膾炙するところのなかった江戸時代において、たとえば現在言われるような身体と精神との二元論的な区分がそもそもなかった、というところに考えを進めてみることができないのは、過程に目を向けそこねていると言われても仕方がないほどの踏み外しであるといえます。(デカルトの二元論を知らないのなら、その大まかな内容と発表時期、日本への伝播の時期を調べておいてください。)
もし周辺的な予備知識がなくとも、この作品を読んだ限りでも、江戸時代においては、身体も精神も、その概念的な区分がそもそもなく、ただありのままがあるようにあった、人々の認識のあり方はそのようなものであった、と捉えるほうが正確なところでしょう。
『牛』についての評論が、こういった「過程」への注意を欠いている理由を、論理的な修練の進め方と、人々への観念的な二重化の修練がやや不足していることにあると言い切ってしまうのは、単なるヤブニラミでしょうか。
わたしは、「山頂に登りつめるための道」を指し示すことまではできますが、その険しい道は、わたしが変わりに登ってあげることは決してできないのだ、ということを今一度確認してほしいと思います。
そうであるからこその日々の、唯一無二の、自分自身の頭脳と身体を用いた修練なのであって、それを怠ったとき、いかなる質量転化的な転落が待っているかは、それを目の当たりにできる段に来てしまっては手遅れなのだと知ってほしいと思います。
せっかく、ここまで来たのですから。
◆◆◆
文学作品を見渡してみると、違った場所で生まれた人間や、違った世代の人間のあいだに軋轢や愛情が生まれるところに、ドラマが描き出されていますね。
断るまでもなくわたしたちは、ひとつの身体から外に出ることのできない一人の個人なのですから、「直接的には」他人の気持ちを知ることはできません。
しかし、相手の表情やふるまい方、時には目を合わせただけであったりとか、「連絡がない」ということを手がかりにして(「連絡があった」から<こそ>「ない」が際立つ、相互浸透)、相手の感情を敏感に察知できることさえあります。
それはわたしたちが、相手の表現の裏に、その人の感情を自分のことのようにして読み取るからであり、これを学問の世界では「観念的二重化」と呼ぶのです。
観念的二重化を正しく行うためには、簡単にいえば「相手の立場に立って気持ちをさぐる」ことができればよいのですが、違った場所で生まれた人間、違った時間で生まれた人間のことをしっかりと理解するためには、とてもとても、細心に渡っての捉え返しが必要であることが、今回の失敗をとおして理解できたのではないでしょうか。
論者は以前に、自分勝手に用意した物語のテーマを、どんな作品にでも「度外れに押し付けて解釈してしまう」という間違い方を幾度となく繰り返し、そのたびに厳しく指摘された過去を持っていましたね。
その誤り方はなにも、物語のテーマだけにあるのではなくて、江戸時代に生きる登場人物の感じ方を、「現代を生きる私たちの価値観で解釈してしまった」という、時間的、時代的な問題にも含まれていることがあるのです。
目に見える結論や現象だけではなく、その裏側にはどのような「過程」が潜んでいるのかをこそ探ってゆかねばならない、という弁証法の教えは、実際に適用してみるときには、とてもたくさんの落とし穴が待ち構えていることを、ぜひともわかってもらいたいと思います。
(4につづく)
前回では、技術の習得過程を少し触れることで、「山頂まで登りつめる」ためのやり方には原則がある、ということの理解を進めてもらいました。
その方法とは、何も考えずにただがむしゃらに努力をするよりも、その前に立ち止まって、自分の目指すべき方向は本当に正しいのか、という問いかけのなかから掴みとってくるべきものであり、現時点での最高の正しさというものは、歴史性をふまえることによってこそ導いてこれるのだ、ということです。
歴史性というからには、それまでの過程をまずは一身に繰り返し、自分が現在取り組んでいる事柄を一言で要すことができるところまで一般化してしっかりと把握し、最後には自分力でその先の道を築いてゆく、ということを最低限おさえておかねばならないはずです。
(わたしが記事のたびに、「前回は〜と言いましたね」と一言に要してことわる理由も、なぜだかわかりますか。)
前回述べた技術の上達過程については、心理学を専攻されている学生さんは「無意識の無能、意識の無能、意識の有能、無意識の無能」といった学説を思い出すかもしれませんし、武道を専攻されている学生さんは、「動けばすなわち技となる」と言われていることを思い起こすかもしれません。
ただひとつ注意しておいてほしいのは、その過程に、どのような内実が含まれているかと考えていってほしい、ということです。
ああいう経験主義的な理論や、極意論を振りかざしてみても、何らの実践を導かないことにがっかりしてそれらそのものを棄ててしまう前に、あれらはなにもまったく意味のない空論などではないけれども、それでもひとつの結論でしかないのだから、その「過程」は自分の力で論理的に補ってゆかなくてはならないのだ、と正しく理解しておいてほしいのです。
(※文学以外の、一般的な関心をお持ちの読者のみなさんは、おそらくここまでが興味の持てる範囲なのではないかと思います。以下では、このblogでは珍しく、文学の特殊的な色合いが増してきますので)
◆◆◆
さてそろそろ脱線が過ぎましたから、文学の話に戻りましょう。
「山頂まで登りつめる」ための一般的なものごとの考え方が、評論についてはどういうことが言えたのかをおさらいしておきましょう。
「1. あらすじ」では作品そのものの要点を捕まえながら全体の流れを捉え返し、
「2. 一般性」ではそれをさらに一言で要することで、
「3. 論証」での論者自身の読み解き方を読者へ伝えることへと繋げてゆく、
ということでした。
この段階をふまえるという修練を繰り返すなかで、しだいしだいにそのものごとの考え方が自分の認識と浸透してゆくと直接に、学問的に考えられるアタマを技として創り上げてゆくことが、山頂まで登りつめるための出発点なのです。
◆◆◆
ではここまでの原則をふまえられているかどうか、という観点から、今回の評論も評価してゆくことにすると、全体的な論じ方は悪くない、と言えそうです。
より突っ込んだことを言えば、「1. あらすじ」と「2. 一般性」は、いわば「作品を正面から見据えて理解する気があるか、またそうできているか」にあたるところであり、もはや初心と名乗ることを許されない論者にとっては、当然乗り越えてくれるであろうところですし、事実その期待には応えてくれています。
しかし「3. 論証」の部分については、より多くの工夫が必要である、という判断ができます。
なぜかというと、この論証部分こそがひとりの人間が評論をするという営みにとっての独自性そのものなのであり、評論ということもひとつの表現のあり方であることをふまえるのならば、評論も表現についての原則(対象→認識→表現)に則らねばならないことから、「読者の認識のあり方をもその念頭においておかねばならない」(観念的二重化)という厳しい条件が要求されることになるからです。
くだけた言い方をすれば、論者がもし、どんなに優れた認識や人格を持っていたとしても、それが表現をとおして読者に伝わらなければ何の意味もないのだ、ということです。
読者が目にするのは表現のみである!という事実を、まずはしっかりとふまえてください。
かつて、文芸に携わる者ならば肝に銘じておかねばならないとして、太宰治がしきりに述べていたことがありましたね。
作品が完成したあとに、あそこにはこういう意味があったのだとか、読者からの評価に戦いて後付けの言い訳を考えるくらいなら、作品そのものをきっちりしっかりと完成させればよい。作品をして作者を語らせるのでなければならぬ。それができぬのは作家失格である。
といった趣旨の主張がそれです。
(太宰治『作家の像』、『自作を語る』、『鴎 ――ひそひそ聞える。なんだか聞える。』)
あれは、矜持を含んだ経験からの直感的な把握だったとはいえ、表現についての本質を捉えた発言だったのであって、表現というのは、とにもかくにも筆者の手を離れればいかようにも解釈しうるのである(相対的な独立)から、作者は、読者が自分の書くであろう作品を見たときに、どのように感じて考えるかを、あらかじめ織り込み済み(観念的二重化、相互浸透)としておくのが当然なのだ、誤解もそのままに受け止めるべきなのだ、ということです。
◆◆◆
そう断った上で今回の新美南吉『あし』の「3. 評論」部分を検討するなら、作品の論理構造を把握できているのであれば、同じ構造を持った他の身近な例を引きながら、より読者が作品の理解を深めてゆけるような論証をしてほしかった、というのが本音です。
修練の際に読者を想定することが大事だと強調するのは、なにも直接的に読者の益になるかどうかということに力点が置かれているのではなくて、ともかくその目的意識性がないことが、論者にとって、論理構造を把握するための修練過程が片手落ちになってしまうという、修練が持つ意味合いの欠陥につながってしまうからです。
この欠陥は、この作品に限って言えば、この作品が児童文学であり、さほどの複雑な表現と構造を持たないことに助けられて(相互浸透)、表面化してくることはなかったものの、岡本綺堂『牛』の評論では、その欠陥が浮き彫りになっていると言えます。
論者が、作中の、牛に襲われた経験のある芸妓が、夜逃げの最中に牛の亡霊が見えたと騒ぎ始める部分を、論者がどのように理解してどのように書いているかを見ましょう。
文学考察: 牛ー岡本綺堂
では、彼らは何故、その区別をつけることができなかったのでしょうか。その大きな要因の一つは、やはり化学(※「科学」が正しい)が現在のように発展していなかった事が挙げられるでしょう。例えば、私達が病気にかかった時、私たちはこれまでの知識から、どここ(※「か」)からか細菌を体の中に入れてしまったことや、体の何処かに負担をかけた為にそれが起こっていると考え、そこから予防策として生活習慣の見直し等を図ろうとします。ところが、細菌等のそういった言葉や知識を知らない昔の人々は、それが何故起こっているのかを理解することが出来ず、結局精神の世界から、悪魔や悪霊といったものをつくりだし、そうして現実の世界の出来事である、病気に至るまでの過程を埋めなければならなかったのです。こうして現実の出来事を精神の世界で埋めることによって、その境界は曖昧になり、やがては区別できなくなった(※「て」)いったのです。ですから、物語の中の小雛の話も、江戸の人々はおのおのの空想によって、牛の出現という奇妙な現象を受け止めるしかなったのです。ここなどを読むと論者は、現実の世界とは別にあらかじめ用意された精神の世界があることを前提として、江戸時代の人々は現実で突き当たった問題を精神の世界に混同して考えてしまった、と捉えているようですが、それは現在のわたしたちが生きている水準の常識から見た時の整理ではないでしょうか。
西洋の合理的な物事の考え方が人口に膾炙するところのなかった江戸時代において、たとえば現在言われるような身体と精神との二元論的な区分がそもそもなかった、というところに考えを進めてみることができないのは、過程に目を向けそこねていると言われても仕方がないほどの踏み外しであるといえます。(デカルトの二元論を知らないのなら、その大まかな内容と発表時期、日本への伝播の時期を調べておいてください。)
もし周辺的な予備知識がなくとも、この作品を読んだ限りでも、江戸時代においては、身体も精神も、その概念的な区分がそもそもなく、ただありのままがあるようにあった、人々の認識のあり方はそのようなものであった、と捉えるほうが正確なところでしょう。
『牛』についての評論が、こういった「過程」への注意を欠いている理由を、論理的な修練の進め方と、人々への観念的な二重化の修練がやや不足していることにあると言い切ってしまうのは、単なるヤブニラミでしょうか。
わたしは、「山頂に登りつめるための道」を指し示すことまではできますが、その険しい道は、わたしが変わりに登ってあげることは決してできないのだ、ということを今一度確認してほしいと思います。
そうであるからこその日々の、唯一無二の、自分自身の頭脳と身体を用いた修練なのであって、それを怠ったとき、いかなる質量転化的な転落が待っているかは、それを目の当たりにできる段に来てしまっては手遅れなのだと知ってほしいと思います。
せっかく、ここまで来たのですから。
◆◆◆
文学作品を見渡してみると、違った場所で生まれた人間や、違った世代の人間のあいだに軋轢や愛情が生まれるところに、ドラマが描き出されていますね。
断るまでもなくわたしたちは、ひとつの身体から外に出ることのできない一人の個人なのですから、「直接的には」他人の気持ちを知ることはできません。
しかし、相手の表情やふるまい方、時には目を合わせただけであったりとか、「連絡がない」ということを手がかりにして(「連絡があった」から<こそ>「ない」が際立つ、相互浸透)、相手の感情を敏感に察知できることさえあります。
それはわたしたちが、相手の表現の裏に、その人の感情を自分のことのようにして読み取るからであり、これを学問の世界では「観念的二重化」と呼ぶのです。
観念的二重化を正しく行うためには、簡単にいえば「相手の立場に立って気持ちをさぐる」ことができればよいのですが、違った場所で生まれた人間、違った時間で生まれた人間のことをしっかりと理解するためには、とてもとても、細心に渡っての捉え返しが必要であることが、今回の失敗をとおして理解できたのではないでしょうか。
論者は以前に、自分勝手に用意した物語のテーマを、どんな作品にでも「度外れに押し付けて解釈してしまう」という間違い方を幾度となく繰り返し、そのたびに厳しく指摘された過去を持っていましたね。
その誤り方はなにも、物語のテーマだけにあるのではなくて、江戸時代に生きる登場人物の感じ方を、「現代を生きる私たちの価値観で解釈してしまった」という、時間的、時代的な問題にも含まれていることがあるのです。
目に見える結論や現象だけではなく、その裏側にはどのような「過程」が潜んでいるのかをこそ探ってゆかねばならない、という弁証法の教えは、実際に適用してみるときには、とてもたくさんの落とし穴が待ち構えていることを、ぜひともわかってもらいたいと思います。
(4につづく)
2011/11/01
構成とはなにを意味するか:「文学考察: あしー新美南吉」を中心にして (2)
前回の最後には、
おねしょの話がでてきました。
わたしたち人間が、大人になるにつれておねしょをしなくなる理由を考えてみてほしい、と言っておきましたが、少し思うところはあったでしょうか。
それとも、おねしょと評論に一体何の関係があるか、と思われたでしょうか。
どうでもいい話ですが、わたしは経営学を専攻していた時期もあり、実地でビジネスをしておられる方とたとえ話をまじえて理論の話をすると、大体は後者のような反応が返って来て叱られる、という経験をしてきましたが、こんな文字ばっかりのblogにわざわざ来てくださっている読者のみなさんの反応がそうでないことを願います。
ここで例示した両者のあいだに横たわっている共通性というのは、一言で言えばひとつの技術が自分の技として身につく過程を一般的に捉えたときの構造なのです。
わたしたちが当たり前に身につけて駆使している人間としての技は、わたしたちが幼少の頃に、お母さんやお父さんが熱心に注意して導いてくれたことによってその振る舞い方として完成されてきたものですが、その過程に置かれていたわたしたちにとっては、それらの経験を正しく記憶の中で位置づける心身ともの実力を持たなかったために、「すでに完成されたもの」としてしか自覚しにくいものであるという特徴を持っています。
人間として完成されてきた存在には等しく、この「人間として育まれた」という過程があり、完成されてきたというよりもむしろ、「完成させられてきた」というほうが正確なほどの蓄積があるものなのです。
◆◆◆
ここまでいっしょに考えて来てもらえれば、前回のさいごの問も、なるほどなんだかわかりかけてきた、という方も多くなっていそうです。
もしそうであれば、ここまで大きくなっているわたしたちが、
水を張ったおけと同じようだからとフライパンで熱せられた油に手をつっこまないのは、
犬小屋を掃除した雑巾で顔を拭かないのは、
蛇口を締めるときはお湯の方から締めるのは、
食事の前には手を合わせて「いただきます」と言うのは、
なぜ身についているのか、ということもわかりつつあるはずです。
これらはすべて、自分で合理的に考えて導きだした生活の作法であると言うよりも、わけもわからないままにそう教えられてやっているうちに、そのなかから合理的なものを見つけるとともに、その実力そのものをも養わされてきたという過程を持っていることなのです。
どれほどに幼少の頃の自分の精神のあり方を思い返すことができない人間でも、実際に自分の子どもが生まれたり、身近に接するようになると、彼女や彼らを自分の写し鏡として、自分がかつてそうであったころのことを振り返る(観念的な二重化)ことができる場合がほとんどです。
そうすると、物心つくころには、それまでの少ない経験の中からでもひとつの考え方を導きだしてきますから、「あれかこれか」という割り切り方しかできなかったとしても、素朴なものごとの見方、つまり「物心」というものを身につけ始めることがわかります。
たとえば、親戚の子どもにたいして「●●くんはそのブロックで遊ぶのが好きなのね。保育所ではみんなそれで遊んでいるの?」という聞き方をすると、「ううん、みんなじゃない」、という答えが返ってくることがあります。
この子供さんは、なにを指してそう応えたのかわかりますか。
これはなにも反抗したいなどというのではなくて、「みんな」という言い方が、「そこにいるすべての人たち」という意味以外ではないために、それは事実と違うよと言いたかったのであって、こういう種類の反応が、大人からすれば、一見すると融通が利かないようにも思われるのです。
もっともこの反応は、大人が社会的な経験の中で多数に合わせたりして知らず知らずのうちに妥協したりぼかしてきたりしたことばそのものの意味を再確認する契機となる事実でもあり、「嬰児のしだいしだいに智慧づきて佛に遠くなるぞ悲しき」と一休禅師に謳わしめたのは、こういったことがらを指しているわけです。
◆◆◆
ここまで言うと、なにか言いたくてうずうずしている読者の顔が浮かんでくるようです。
面と向かっての授業なら目があった人に、「鋭いですね」と答えてもらうところですが、おそらくうずうずしている読者のみなさんの言いたいとおり、この、人間として育てられてはじめて人間足りうる、というのは、なにも「個別的な知識」だけに限るものではありません。
両親に教えられて、はじめは「そんなものかなあ、よくわからないけれど」と疑問を感じる実力もないままに導かれて、形から真似始めているうちに、その方法でものごとを進めると危険を避けることができたり、また学校に入ったときには同じ歯磨きでも友だち同士でやり方が違っているという経験を見ることをとおして、「なるほどこういう理由があったのか」と学んで、質的に身についたことを逆向きに捉え返し始めることがあります。
そのことに疑問を持って、友だちのやり方と自分のそれとはどちらが良いのかなと考え始めて、そこに一本の道がすっと通ったときに、ひとつの道がうっすらと見え始めます。それが、「ものごとの考え方」、つまり「論理性」になってゆくもとになるものです。
わたしたちが人間として育てられる過程に受けた教育の中には、具体的な知識の他に、こういったものごとの考え方が含まれていますから、小学校入学当初から、すでに「理解の早い子」という個性が生まれているわけです。
ここで理解がはやいというのは、直接には知らないはずのあたらしい分野の学習でさえ、飲み込みが早いという不思議がありますから、それをほとんどの人は「天の才」であるというふうにみなします。
たとえば両親を医者に持つ子どもが、ままごとでも医者らしく振舞うのは現象としてわかりやすいことながら、そのほかにも、教えていないことまでどうしてだか考えを進められているという事実に、保護者や先生がびっくりさせられるというのは、知識だけでなく、考え方や目のあたりにしたものごとを整理して理解するやり方そのものをも学んできているからに他なりません。
この論理性の養成にまで筆を進めるとさすがに脱線しすぎの感がありますから掘り下げて論じませんが、両親がすぐに感情的にならずにちゃんとした理由を持ってしつけをしたり、また子どもが答えにたどり着く前にあれやこれやと説明してしまわないことが大切だと言われる理由も、こうして過程に目を向ければ見えてくるはずです。
◆◆◆
これはなにも、子どもの教育だけに限ることなのではなく、あらゆる修練について必ず守らなければならないほどの重要事を含んでいるのであり、文芸についても同じことが言えます。
わたしが文芸の指導ではデッサンや作品の理解に手を抜かせなかったり、フォームが整っているかを、長期間にわたって厳しく指摘するというのはまさにここに理由があるのであって、はじめに定めた形がそのもののうちに持っている実力以上には、武芸は絶対に上達し得ない、という恐ろしさがあるからです。
上達過程で、あれがいいこれがいいと、形や型をコロコロ変えて良いものではなかったという事実は、到達した結果を自分で目の当たりにすれば自ずと知れることですが、人生を棒に振る前に、ぜひとも生涯をかけての上達過程を前もって仮定してみて、「ほんとうにこの道は頂上までつながっているのか?」と、やり方そのものが最上のものであるかを確認して欲しいと思います。
人からダメだと言われると、なおさら意固地になってしまうものですから…。
以前知り合いが、「私は幼少から剣道をしてきたから右腕の腕力が常人の3倍あり云々」などと話しているのを耳にして、思わず「あなたは右腕を柄の近くにして竹刀を握っているのですよね?」と確認してしまったことがありました。
つまり、ごく一般的な剣道をしているのなら、右腕だけが異常に発達することなどあり得ないからです。(左腕ならまだしも、ですが)
いつも言っているように、「頂上にはたどり着かない道」というものもあるのです。
もっと言えば、「やればやるほど下手になる」というやり方もあるのです。
指導してきた側に責任があるとはいえ、数年の蓄積が苦い結果に終わってしまうのを見るのは、なんとも悲しいことだと言わねばなりません。
◆◆◆
専攻する分野はともかく、自分の取り組むやり方だけは、考えうる最上のものであることが一流になるための絶対的な条件です。
水難事故のための水泳を学びたい、武道を護身術のレベルまで学ぶことが出来れば良いなど、「わたしはこのレベルで十分」という目標設定の仕方はあり得ることですが、「どうせ到達しないであろう」という含みをもたせた目標や夢の描き方しかできないのであれば、そもそもその対象には取り組むべきではありません。
そんなことに時間を使うなら、どんなことでももっと自分のためになることがあるでしょう。
そもそもの夢や目標を目指すための動機のほとんどを、異性にモテたい、強く見せたい、などという外聞ばかりが支配しているから、やりたくもないようなことをいい加減な目標を掲げてやってしまうことになるのではないでしょうか。
泣いても笑っても一回きりの人生ですから、どうせやるなら最上のやり方で、と考えてゆきましょう。
歴史上に名を残している偉人たちが例外なく、若い頃は非情な不理解に苦しめられてきたり、爪弾きになったあと力を得て元の道に戻ってくるのは、そのころに、「ただがむしゃらに頑張った」というのではなく、努力はもちろんのことながら、「やりかたそのものが本質的かどうか、最上のものかどうか、一流に通じる道なのかどうか」ということを、日々真剣に考えながら歩んできたからです。
こういう過程がなければひとつの道を歩き通すことはできないというのは、ひとつの歴史的な必然性であり、構成を整えるということの本質は、論理性を整えるということに他なりません。
文学の場合であれば、構成を整えて論じることをとおして、自らの認識を整え、整えた認識を技として持つことが最低限度必要であるということです。
やっと話が元に戻ってきましたが、ともかくわたしはあらゆる事柄を、やりかたそのものを歴史性をふまえて考えることのできる力が身につけば、それは一見遠回りのようでありながら、その力はどこでどんな問題にぶつかった時にも使えるほどの確かなものとなってゆくことを学問の世界を歩く中で学び、その力に突き動かされるようにしながら実際の問題を解きながら確かめてきたので、後進にもそのやり方を自然に踏まえてもらえるようにと考えているのです。
こう説明されると、今回例に挙げたところの、力をつけつつある論者も、当初はとにかく言われたとおりにやってきただけだった修練内容を振り返ってみて、そこにどのような内実が含まれていたのかを確認してもらえるのではないかと思います。
(3につづく)
おねしょの話がでてきました。
わたしたち人間が、大人になるにつれておねしょをしなくなる理由を考えてみてほしい、と言っておきましたが、少し思うところはあったでしょうか。
それとも、おねしょと評論に一体何の関係があるか、と思われたでしょうか。
どうでもいい話ですが、わたしは経営学を専攻していた時期もあり、実地でビジネスをしておられる方とたとえ話をまじえて理論の話をすると、大体は後者のような反応が返って来て叱られる、という経験をしてきましたが、こんな文字ばっかりのblogにわざわざ来てくださっている読者のみなさんの反応がそうでないことを願います。
ここで例示した両者のあいだに横たわっている共通性というのは、一言で言えばひとつの技術が自分の技として身につく過程を一般的に捉えたときの構造なのです。
わたしたちが当たり前に身につけて駆使している人間としての技は、わたしたちが幼少の頃に、お母さんやお父さんが熱心に注意して導いてくれたことによってその振る舞い方として完成されてきたものですが、その過程に置かれていたわたしたちにとっては、それらの経験を正しく記憶の中で位置づける心身ともの実力を持たなかったために、「すでに完成されたもの」としてしか自覚しにくいものであるという特徴を持っています。
人間として完成されてきた存在には等しく、この「人間として育まれた」という過程があり、完成されてきたというよりもむしろ、「完成させられてきた」というほうが正確なほどの蓄積があるものなのです。
◆◆◆
ここまでいっしょに考えて来てもらえれば、前回のさいごの問も、なるほどなんだかわかりかけてきた、という方も多くなっていそうです。
もしそうであれば、ここまで大きくなっているわたしたちが、
水を張ったおけと同じようだからとフライパンで熱せられた油に手をつっこまないのは、
犬小屋を掃除した雑巾で顔を拭かないのは、
蛇口を締めるときはお湯の方から締めるのは、
食事の前には手を合わせて「いただきます」と言うのは、
なぜ身についているのか、ということもわかりつつあるはずです。
これらはすべて、自分で合理的に考えて導きだした生活の作法であると言うよりも、わけもわからないままにそう教えられてやっているうちに、そのなかから合理的なものを見つけるとともに、その実力そのものをも養わされてきたという過程を持っていることなのです。
どれほどに幼少の頃の自分の精神のあり方を思い返すことができない人間でも、実際に自分の子どもが生まれたり、身近に接するようになると、彼女や彼らを自分の写し鏡として、自分がかつてそうであったころのことを振り返る(観念的な二重化)ことができる場合がほとんどです。
そうすると、物心つくころには、それまでの少ない経験の中からでもひとつの考え方を導きだしてきますから、「あれかこれか」という割り切り方しかできなかったとしても、素朴なものごとの見方、つまり「物心」というものを身につけ始めることがわかります。
たとえば、親戚の子どもにたいして「●●くんはそのブロックで遊ぶのが好きなのね。保育所ではみんなそれで遊んでいるの?」という聞き方をすると、「ううん、みんなじゃない」、という答えが返ってくることがあります。
この子供さんは、なにを指してそう応えたのかわかりますか。
これはなにも反抗したいなどというのではなくて、「みんな」という言い方が、「そこにいるすべての人たち」という意味以外ではないために、それは事実と違うよと言いたかったのであって、こういう種類の反応が、大人からすれば、一見すると融通が利かないようにも思われるのです。
もっともこの反応は、大人が社会的な経験の中で多数に合わせたりして知らず知らずのうちに妥協したりぼかしてきたりしたことばそのものの意味を再確認する契機となる事実でもあり、「嬰児のしだいしだいに智慧づきて佛に遠くなるぞ悲しき」と一休禅師に謳わしめたのは、こういったことがらを指しているわけです。
◆◆◆
ここまで言うと、なにか言いたくてうずうずしている読者の顔が浮かんでくるようです。
面と向かっての授業なら目があった人に、「鋭いですね」と答えてもらうところですが、おそらくうずうずしている読者のみなさんの言いたいとおり、この、人間として育てられてはじめて人間足りうる、というのは、なにも「個別的な知識」だけに限るものではありません。
両親に教えられて、はじめは「そんなものかなあ、よくわからないけれど」と疑問を感じる実力もないままに導かれて、形から真似始めているうちに、その方法でものごとを進めると危険を避けることができたり、また学校に入ったときには同じ歯磨きでも友だち同士でやり方が違っているという経験を見ることをとおして、「なるほどこういう理由があったのか」と学んで、質的に身についたことを逆向きに捉え返し始めることがあります。
そのことに疑問を持って、友だちのやり方と自分のそれとはどちらが良いのかなと考え始めて、そこに一本の道がすっと通ったときに、ひとつの道がうっすらと見え始めます。それが、「ものごとの考え方」、つまり「論理性」になってゆくもとになるものです。
わたしたちが人間として育てられる過程に受けた教育の中には、具体的な知識の他に、こういったものごとの考え方が含まれていますから、小学校入学当初から、すでに「理解の早い子」という個性が生まれているわけです。
ここで理解がはやいというのは、直接には知らないはずのあたらしい分野の学習でさえ、飲み込みが早いという不思議がありますから、それをほとんどの人は「天の才」であるというふうにみなします。
たとえば両親を医者に持つ子どもが、ままごとでも医者らしく振舞うのは現象としてわかりやすいことながら、そのほかにも、教えていないことまでどうしてだか考えを進められているという事実に、保護者や先生がびっくりさせられるというのは、知識だけでなく、考え方や目のあたりにしたものごとを整理して理解するやり方そのものをも学んできているからに他なりません。
この論理性の養成にまで筆を進めるとさすがに脱線しすぎの感がありますから掘り下げて論じませんが、両親がすぐに感情的にならずにちゃんとした理由を持ってしつけをしたり、また子どもが答えにたどり着く前にあれやこれやと説明してしまわないことが大切だと言われる理由も、こうして過程に目を向ければ見えてくるはずです。
◆◆◆
これはなにも、子どもの教育だけに限ることなのではなく、あらゆる修練について必ず守らなければならないほどの重要事を含んでいるのであり、文芸についても同じことが言えます。
わたしが文芸の指導ではデッサンや作品の理解に手を抜かせなかったり、フォームが整っているかを、長期間にわたって厳しく指摘するというのはまさにここに理由があるのであって、はじめに定めた形がそのもののうちに持っている実力以上には、武芸は絶対に上達し得ない、という恐ろしさがあるからです。
上達過程で、あれがいいこれがいいと、形や型をコロコロ変えて良いものではなかったという事実は、到達した結果を自分で目の当たりにすれば自ずと知れることですが、人生を棒に振る前に、ぜひとも生涯をかけての上達過程を前もって仮定してみて、「ほんとうにこの道は頂上までつながっているのか?」と、やり方そのものが最上のものであるかを確認して欲しいと思います。
人からダメだと言われると、なおさら意固地になってしまうものですから…。
以前知り合いが、「私は幼少から剣道をしてきたから右腕の腕力が常人の3倍あり云々」などと話しているのを耳にして、思わず「あなたは右腕を柄の近くにして竹刀を握っているのですよね?」と確認してしまったことがありました。
つまり、ごく一般的な剣道をしているのなら、右腕だけが異常に発達することなどあり得ないからです。(左腕ならまだしも、ですが)
いつも言っているように、「頂上にはたどり着かない道」というものもあるのです。
もっと言えば、「やればやるほど下手になる」というやり方もあるのです。
指導してきた側に責任があるとはいえ、数年の蓄積が苦い結果に終わってしまうのを見るのは、なんとも悲しいことだと言わねばなりません。
◆◆◆
専攻する分野はともかく、自分の取り組むやり方だけは、考えうる最上のものであることが一流になるための絶対的な条件です。
水難事故のための水泳を学びたい、武道を護身術のレベルまで学ぶことが出来れば良いなど、「わたしはこのレベルで十分」という目標設定の仕方はあり得ることですが、「どうせ到達しないであろう」という含みをもたせた目標や夢の描き方しかできないのであれば、そもそもその対象には取り組むべきではありません。
そんなことに時間を使うなら、どんなことでももっと自分のためになることがあるでしょう。
そもそもの夢や目標を目指すための動機のほとんどを、異性にモテたい、強く見せたい、などという外聞ばかりが支配しているから、やりたくもないようなことをいい加減な目標を掲げてやってしまうことになるのではないでしょうか。
泣いても笑っても一回きりの人生ですから、どうせやるなら最上のやり方で、と考えてゆきましょう。
歴史上に名を残している偉人たちが例外なく、若い頃は非情な不理解に苦しめられてきたり、爪弾きになったあと力を得て元の道に戻ってくるのは、そのころに、「ただがむしゃらに頑張った」というのではなく、努力はもちろんのことながら、「やりかたそのものが本質的かどうか、最上のものかどうか、一流に通じる道なのかどうか」ということを、日々真剣に考えながら歩んできたからです。
こういう過程がなければひとつの道を歩き通すことはできないというのは、ひとつの歴史的な必然性であり、構成を整えるということの本質は、論理性を整えるということに他なりません。
文学の場合であれば、構成を整えて論じることをとおして、自らの認識を整え、整えた認識を技として持つことが最低限度必要であるということです。
やっと話が元に戻ってきましたが、ともかくわたしはあらゆる事柄を、やりかたそのものを歴史性をふまえて考えることのできる力が身につけば、それは一見遠回りのようでありながら、その力はどこでどんな問題にぶつかった時にも使えるほどの確かなものとなってゆくことを学問の世界を歩く中で学び、その力に突き動かされるようにしながら実際の問題を解きながら確かめてきたので、後進にもそのやり方を自然に踏まえてもらえるようにと考えているのです。
こう説明されると、今回例に挙げたところの、力をつけつつある論者も、当初はとにかく言われたとおりにやってきただけだった修練内容を振り返ってみて、そこにどのような内実が含まれていたのかを確認してもらえるのではないかと思います。
(3につづく)
2011/10/31
構成とはなにを意味するか:「文学考察: あしー新美南吉」を中心にして (1)
こちらで文学のコメントをするのは久しぶりですね。
最近は個別の修練や研究についてのコメントをこちらには載せていなかったために、あたらしい読者の方にはなじみがないかもしれませんので簡単に説明させてください。
このBlogはもともと、わたしのところに出入りしている学生さんにたいして、個別のメールや電話で指導していては手一杯になってしまうという事情があって、個別の質問を少し一般化することで行き詰まっている問題の解法の手がかりにしたいという目的で作られたのでした。
ひとりが行きあたった特殊な問題を一般化して論じておくということは、それぞれが専攻する特殊な分野を越えたところには、ある普遍性や一般性、原理や原則が隠されていることを暗示しています。
そしてそれは、ものごとには具体的な個別を貫くものが隠されているということをおさえ、原則をしっかりとふまえておけば、どんな特殊な問題をも正しいやり方で外堀を埋めて追い詰めてゆくことができる、という側面も持っていますから、みなさんにとっては、抽象的な論理を使ってそれぞれの具体的な問題を解くための手がかりを、自分のアタマで考えてゆくというひとつの実践過程をもってもらえることにもなるのです。
◆◆◆
そういう理由があって、あまり特殊な問題へと言及してしまっては、当初の目的がそもそも意味をなさなかったことにもなってしまいますから、個別の学問的な話題はできるだけ取り上げないようにしているのですが、文学作品については日常言語の範囲内で表現されていることから、たたき台としてここでも積極的に取り上げてきやすく、事実そうなってきたという経緯がありました。
論者が取り扱っている文学作品については、「青空文庫」というサービスを使っているので、他の読者のみなさんも無料で参照することができます。(URLは時間が惜しいので貼りません。参照される場合はGoogleで検索すればすぐに出てきます。)
iPhone、iPadには、それぞれi文庫S、i文庫HDにすべての作品が収録されています。アプリケーションについてはこの前の記事を見てください。
ここでは著作権の切れた文学作品については読み放題なので、とてもいい時代になりました。
大学の講義を録画した「iTunes U」などもあり、工夫をすれば、いつからでも、いつでもいくらでも勉強ができる時代ですから、うまく活用してゆきましょう。
では本題です。
今回の記事は、一般の読者のみなさんもすこし付き合ってほしいと思います。
まずは、論者が書いた評論についてざっと目を通してみてください。
◆◆◆
文学考察: あしー新美南吉
ここで着目してもらいたいのは、この評論の構成がどのようなものになっているか、ということです。
評論中の意味段落はそれぞれ、
1. あらすじ
2. 一般性
3. 論証
となっています。
その中身に目を向けると、
「1. あらすじ」では作品そのものの要点を捕まえながら全体の流れを捉え返し、
「2. 一般性」ではそれをさらに一言で要することで、
「3. 論証」での論者自身の読み解き方を読者へ伝えることへと繋げてゆく、
という形になっているのです。
◆◆◆
論者がこのような構成にしてくれているのは、わたしが数年に渡ってそのように指導してきたからですが、論者はこの修練を、多い時には週に6回という密度で取り組むことをとおして、アタマの中の認識のあり方が、その修練と量質転化的に浸透する形で整えられてきています。
(もっとも修練をサボると、質から量の転化へと落ち込んでゆきますが…。これに限らずこのblogで使われている学問用語については、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』で確認してください。)
なぜこのやり方を厳しく要求してきたのかということは、指導された側である当の論者本人にもその理由を明示したことはないと思いますが、それはこの構成が、学問の世界で培われてきたやりかたになぞらえられているからです。
実はこのことは、以前に書物との向き合い方を論じたときに、「雑書に向かうを止して」、一流の本と向き合うようにお願いしておいたことと通じており、これこそが三流と一流を分ける分水嶺なのです。
一流の本というのは、
1. それまでの歴史を総括して一身に捉え返した上で、
2. 専攻分野とこれから論じる事柄を概念規定(定義付けること)したうえで、
3. 自分独自の見解を展開してゆく、
という形になっています。
◆◆◆
さてここまで書いたときに、ではこの構成を厳しく守らされて表現することを、毎日のように数年間に渡って取り組むと、当の修練する者はどのようなアタマになってゆくと思いますか。
わたしたちは幼少の頃、夜中にはおねしょをしていたでしょう。
あれはいつかは解消してきて今に至っており、今では夜中でも一人で起きだして用を足せるばかりか、とくに尿意を催さない場合にも、友人に連れられて手洗いに行くと、不思議と尿意を催してくるほどにもなっているはずです。
どのような過程があって、そうなってくることになっていったのでしょうか。
次回までに考えてみてください。
(2につづく)
最近は個別の修練や研究についてのコメントをこちらには載せていなかったために、あたらしい読者の方にはなじみがないかもしれませんので簡単に説明させてください。
このBlogはもともと、わたしのところに出入りしている学生さんにたいして、個別のメールや電話で指導していては手一杯になってしまうという事情があって、個別の質問を少し一般化することで行き詰まっている問題の解法の手がかりにしたいという目的で作られたのでした。
ひとりが行きあたった特殊な問題を一般化して論じておくということは、それぞれが専攻する特殊な分野を越えたところには、ある普遍性や一般性、原理や原則が隠されていることを暗示しています。
そしてそれは、ものごとには具体的な個別を貫くものが隠されているということをおさえ、原則をしっかりとふまえておけば、どんな特殊な問題をも正しいやり方で外堀を埋めて追い詰めてゆくことができる、という側面も持っていますから、みなさんにとっては、抽象的な論理を使ってそれぞれの具体的な問題を解くための手がかりを、自分のアタマで考えてゆくというひとつの実践過程をもってもらえることにもなるのです。
◆◆◆
そういう理由があって、あまり特殊な問題へと言及してしまっては、当初の目的がそもそも意味をなさなかったことにもなってしまいますから、個別の学問的な話題はできるだけ取り上げないようにしているのですが、文学作品については日常言語の範囲内で表現されていることから、たたき台としてここでも積極的に取り上げてきやすく、事実そうなってきたという経緯がありました。
論者が取り扱っている文学作品については、「青空文庫」というサービスを使っているので、他の読者のみなさんも無料で参照することができます。(URLは時間が惜しいので貼りません。参照される場合はGoogleで検索すればすぐに出てきます。)
iPhone、iPadには、それぞれi文庫S、i文庫HDにすべての作品が収録されています。アプリケーションについてはこの前の記事を見てください。
ここでは著作権の切れた文学作品については読み放題なので、とてもいい時代になりました。
大学の講義を録画した「iTunes U」などもあり、工夫をすれば、いつからでも、いつでもいくらでも勉強ができる時代ですから、うまく活用してゆきましょう。
では本題です。
今回の記事は、一般の読者のみなさんもすこし付き合ってほしいと思います。
まずは、論者が書いた評論についてざっと目を通してみてください。
◆◆◆
文学考察: あしー新美南吉
ある二匹の馬が、窓の傍で昼寝をしていました。すると、涼しい風が吹いてきたため、一匹がくしゃみをして目を覚ましました。しかし、馬が立ち上がろうとすると、足が一本しびれて上手く立てません。ですが、これを勘違いした馬は「たいへんだ、あとあしをいっぽん、だれかにぬすまれてしまった。」と、勘違いしてしまいます。そして、この後、勘違いをしているこの馬は果たしてどうのような行動に出るのでしょうか。
さて、この作品の特徴は、〈子供の真っ白な感性ではじめての体験を瑞々しく描いている〉というところにあります。
まず、私たち大人にとって、「しびれる」という感覚はごく当たり前の身近なものです。ですが、何もしらない、経験すらしたことのない子供にとって、それは未知の感覚であり、不思議な出来事として受け取ることでしょう。この作品は、まさにそういった子供達の視点で描かれています。ですから、作中の馬はこの未知の体験にぶち当たり、自分なりに予測を立て、あれこれと実験をしているのです。そして、この初々しい馬の姿を大人の私たちが見た時、当たり前だった感覚が当たり前ではなくなり、馬(子供)のこの予測のつかない行動に目を見張り楽しむことができるのです。◆◆◆
ここで着目してもらいたいのは、この評論の構成がどのようなものになっているか、ということです。
評論中の意味段落はそれぞれ、
1. あらすじ
2. 一般性
3. 論証
となっています。
その中身に目を向けると、
「1. あらすじ」では作品そのものの要点を捕まえながら全体の流れを捉え返し、
「2. 一般性」ではそれをさらに一言で要することで、
「3. 論証」での論者自身の読み解き方を読者へ伝えることへと繋げてゆく、
という形になっているのです。
◆◆◆
論者がこのような構成にしてくれているのは、わたしが数年に渡ってそのように指導してきたからですが、論者はこの修練を、多い時には週に6回という密度で取り組むことをとおして、アタマの中の認識のあり方が、その修練と量質転化的に浸透する形で整えられてきています。
(もっとも修練をサボると、質から量の転化へと落ち込んでゆきますが…。これに限らずこのblogで使われている学問用語については、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』で確認してください。)
なぜこのやり方を厳しく要求してきたのかということは、指導された側である当の論者本人にもその理由を明示したことはないと思いますが、それはこの構成が、学問の世界で培われてきたやりかたになぞらえられているからです。
実はこのことは、以前に書物との向き合い方を論じたときに、「雑書に向かうを止して」、一流の本と向き合うようにお願いしておいたことと通じており、これこそが三流と一流を分ける分水嶺なのです。
一流の本というのは、
1. それまでの歴史を総括して一身に捉え返した上で、
2. 専攻分野とこれから論じる事柄を概念規定(定義付けること)したうえで、
3. 自分独自の見解を展開してゆく、
という形になっています。
◆◆◆
さてここまで書いたときに、ではこの構成を厳しく守らされて表現することを、毎日のように数年間に渡って取り組むと、当の修練する者はどのようなアタマになってゆくと思いますか。
わたしたちは幼少の頃、夜中にはおねしょをしていたでしょう。
あれはいつかは解消してきて今に至っており、今では夜中でも一人で起きだして用を足せるばかりか、とくに尿意を催さない場合にも、友人に連れられて手洗いに行くと、不思議と尿意を催してくるほどにもなっているはずです。
どのような過程があって、そうなってくることになっていったのでしょうか。
次回までに考えてみてください。
(2につづく)
2011/10/30
2011/10/29
どうでもいい雑記:iPadとiPhoneに何入れたらいいですか?(2)
(1のつづき)
◆iPad 03◆
※リンクはアフィリエイトです。(詳しくは前回の記事を参照のこと)
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| iPad 03 |

iPhone対応。科学好きにはお馴染みのNewtonだけど、けっこうな数がiPadアプリとしてリリースされている。たまにセールをやって、85円とかいうとんでもない値段になったりするので、そのときに買い占めるとよいかと。もっとも、安くなくても十分に価値はあると思う。
5. 展覧会ガイドPICK-UP 

iPhone対応。その月に、日本で行われている展覧会、美術館イベントなどのポスターを毎月配信してくれる。アート好きにはとても便利なアプリケーション。
星座アプリ。ジャイロセンサーと電子コンパスをうまく使って、たとえば日中に南を向けると太陽が中心の天体が表示される。言葉で言うとわかりにくいが、使ってみるとひとめで凄さがわかるたぐいのアプリケーション。わたしは小さい頃、星座をまる覚えするのがつまらなくて、理科の星座の時間は退屈でしかたなかった。「星一個でかみのけ座」とか、ふざけてるとしか思えなかったもの。船で海に出てみてはじめて、人間にとっての星座の必要性がわかった。今の子供たちは、こんなのがあるんだから羨ましい。
セオドア・グレイの同名著作のiPadアプリケーション版。ただ単に本をスキャンしたようなものではなくて、元素それぞれの説明のほか、その元素にまつわる物体の画像を回転させて眺めることができる、ちゃんとした意味での「電子書籍」。iPad版とiPhone版が分かれており、さらに英語版、日本語版などが別のアプリケーションとしてリリースされているので、購入の際には注意されたし。
iPhone対応。ムチャじゃなくてアール・ヌーヴォーの画家ミュシャです。上のスクリーンショットの最上段からここまでが、画集アプリケーション。歴史的な有名画家の名画が時代区分され、代表的なものが閲覧できる。このシリーズは印象派に偏りすぎているきらいはあるものの、セールで85円になったりするので買わない手はない。今年の4月にドイツの画集メーカー、タッシェンが日本を撤退してしまったのは、こういう電子画集が徐々に普及しつつあるからかもしれない。それにしたって、紙媒体で3000円以上するものが、iPadではジュースの半分位の値段なんだから、そりゃあ商売になるはずがない。
iPad専用。古今東西のプロダクトデザイン1000選。創作活動をするときのインスピレーションがほしいときには重宝する。
iPad専用。魚を特殊な方法でホルマリン漬けにした写真集。硬い骨が赤、軟骨が青く着色されているので、生物のデッサンを骨格から始めたいときにも使える。
◆iPad 06◆
12. Finger Piano+ 
ピアノの演奏アプリケーション。みんな冗談だと思っているようだけど、このアプリのおかげでピアノを弾けるようになりました。
◆◆◆
さいごに、iPhoneアプリケーション。
カメラアプリや電子辞書アプリは、こちらで紹介するのがふさわしいと考えたので、iPadのほうには載せなかった。iPad版のインターフェイスを搭載したものは、個別に記載した。
◆iPhone 01◆
◆iPhone 02◆
3. 大辞林 
iPad版インターフェイスも含まれる。説明不要の有名日本語辞書のアプリケーション版。図版も収録し、わからない漢字も手書きして調べられる。前回紹介したi文庫HD、i文庫Sなどからもジャンプして意味を調べられる。
4. ウィズダム英和・和英辞書
iPad版インターフェイスも含まれる。英和・和英辞書。こういうできの良い辞書アプリケーションを見ていると、もう電子辞書を買う時代ではなくなってしまったんだろうなと思わされる。
5. Camera+
純正のカメラアプリが機能的に物足りない場合はこれ。タイマーでも撮影できる。革でも段ボールでも、下のようなスタンドをひとつ作っておくとみんなで写りたいときに便利。
6. Kotoba ! 
無料の日本語辞書。外国語話者が、日本語を勉強するためのもののようだが、おそろしい多機能がまったくの無料で使える。漢字を表示すると、各国語への翻訳、例文訳はもちろん、構成部分や筆順までもアニメーションで表示される。いったいどれほどの手間暇をかけられたのか。できればいくらかお支払いしたいほど。
7. AutoStitch
撮った写真を自動的に認識して、つなぎあわせてパノラマ写真にしてくれる。写真機としては有り余ったコンピューティングパワーを使ったこういうソフトを見ていると、安価なコンパクトデジカメ市場が消滅するのもの時間の問題であることがよくわかる。
◆◆◆
これだけかいつまんで説明しただけにもかかわらず、iPhoneによって、その機能を取って代わられてしまったものは少なくない。
それは、カメラ、電子辞書、ナビ、PCの基本機能(メール、ウェブ)、ゲームなどである。
過激なタイトルを好む筆者なら、「iPhoneは何を殺したのか」とでもつけると思うが、あながち言い過ぎではないだろう。
その拡張性と、年々のCPU、GPUパワーの拡大を考慮すれば、それが侵略する領域はさらに広がってゆく。
来年には、音声認識コンシェルジュサービスのSiriが日本語に対応するから、そうなるとなおのこと凄まじいまでの便利さが待っていることになる。
なにしろ、「明日は傘が要るかな?」とiPhoneに話しかければ、「明日は雨は降らない模様です」と答えが返ってくるのだから。
これほどの便利さを兼ね備えた機器が突然現れるというのは、侵略される業界にしてみればたまったものではないが、そのことに無自覚であればあるほど、わたしたちの能力も、それと同じように代替されてゆく可能性があるということも覚えておきたいものである。
力のある道具は、それを使う者の実力を問うているわけである。
(了)
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| iPad 06 |

ピアノの演奏アプリケーション。みんな冗談だと思っているようだけど、このアプリのおかげでピアノを弾けるようになりました。
◆◆◆
さいごに、iPhoneアプリケーション。
カメラアプリや電子辞書アプリは、こちらで紹介するのがふさわしいと考えたので、iPadのほうには載せなかった。iPad版のインターフェイスを搭載したものは、個別に記載した。
◆iPhone 01◆
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| iPhone 01 |
1. 写真(内蔵アプリケーション)
写真投稿サイトFlickerでは、iPhone 4は一眼レフNikon D90を超えて、すべてのカメラの中で最も使われている「写真機」になった。それは、iPhoneで撮った写真がそれなりに綺麗なことと、GPS情報を自動的に登録してくれるから、また本体のみでそのままレタッチできるからだろう。
iOSがバージョン5になってから、さらにとんでもないキラーアプリケーションになった。その理由は、「フォトストリーム」機能につきる。くわしい説明は省くが、あなたが出先でiPhoneで撮った写真が、なにも操作しなくても、自宅に戻ったときには自宅のPCで表示されている。わたしはこの機能のおかげで、blogの更新やレポートの作成が飛躍的に楽になった。ただPCは、Mac OS X Lionか、Windows Vistaか7でないと使えないのが残念なところ。
2. マップ(内蔵アプリケーション)
こちらもキラーアプリケーション。もはや数年間で数万円ずつ更新料をとられるカーナビと違って、完全に無料。わたしは北海道をはじめとした旅行でいつもお世話になりまくっている。iPhoneは、この2つと音楽・メール・ブラウザ当たりですでに元が取れるほどの機械だと思う。
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| iPhone 02 |

iPad版インターフェイスも含まれる。説明不要の有名日本語辞書のアプリケーション版。図版も収録し、わからない漢字も手書きして調べられる。前回紹介したi文庫HD、i文庫Sなどからもジャンプして意味を調べられる。
4. ウィズダム英和・和英辞書

iPad版インターフェイスも含まれる。英和・和英辞書。こういうできの良い辞書アプリケーションを見ていると、もう電子辞書を買う時代ではなくなってしまったんだろうなと思わされる。
5. Camera+

純正のカメラアプリが機能的に物足りない場合はこれ。タイマーでも撮影できる。革でも段ボールでも、下のようなスタンドをひとつ作っておくとみんなで写りたいときに便利。

無料の日本語辞書。外国語話者が、日本語を勉強するためのもののようだが、おそろしい多機能がまったくの無料で使える。漢字を表示すると、各国語への翻訳、例文訳はもちろん、構成部分や筆順までもアニメーションで表示される。いったいどれほどの手間暇をかけられたのか。できればいくらかお支払いしたいほど。
7. AutoStitch

撮った写真を自動的に認識して、つなぎあわせてパノラマ写真にしてくれる。写真機としては有り余ったコンピューティングパワーを使ったこういうソフトを見ていると、安価なコンパクトデジカメ市場が消滅するのもの時間の問題であることがよくわかる。
◆◆◆
これだけかいつまんで説明しただけにもかかわらず、iPhoneによって、その機能を取って代わられてしまったものは少なくない。
それは、カメラ、電子辞書、ナビ、PCの基本機能(メール、ウェブ)、ゲームなどである。
過激なタイトルを好む筆者なら、「iPhoneは何を殺したのか」とでもつけると思うが、あながち言い過ぎではないだろう。
その拡張性と、年々のCPU、GPUパワーの拡大を考慮すれば、それが侵略する領域はさらに広がってゆく。
来年には、音声認識コンシェルジュサービスのSiriが日本語に対応するから、そうなるとなおのこと凄まじいまでの便利さが待っていることになる。
なにしろ、「明日は傘が要るかな?」とiPhoneに話しかければ、「明日は雨は降らない模様です」と答えが返ってくるのだから。
これほどの便利さを兼ね備えた機器が突然現れるというのは、侵略される業界にしてみればたまったものではないが、そのことに無自覚であればあるほど、わたしたちの能力も、それと同じように代替されてゆく可能性があるということも覚えておきたいものである。
力のある道具は、それを使う者の実力を問うているわけである。
(了)
2011/10/28
どうでもいい雑記:iPadとiPhoneに何入れたらいいですか?(1)
最近よく聞かれるのがこれ。
iPhoneユーザーがものすごい勢いで増えているから仕方がないとは思うけども、学問をやっていると、知識的なことを伝えたりするのが全然面白くなくなってくるから、実のところ答えるのがちょっと億劫なところもある。
論理的なものごとの見方がいかに面白いかということの裏返しなのだが、学問の力が技として身についてゆくと、日常生活の中で起こるあらゆる事柄が、その裏に眠る構造を現し始め、それらが体系性を持った重層構造として位置づけられてゆき、「なるほど」、「そうだったのか」という火花が頭の中でパッ、パッ、パッと散るのがわかるようになる。
刀を振り続けていると切っ先が急所に吸い込まれるような感覚が芽生えるように、
緊急的な非難の時に視野が狭まると同時に遥か先まで見通せるようになるように、
起伏のある道を薄闇の中走り続けると足を置くべきところが光って見えるように、である。
知り合いのレーサーや彫刻家も同じようなことを述べていたけども、ああいう経験を身をもって体験すると、受身の娯楽などというものは、とても満足させてくれるようなシロモノにはなりえない。
ドラッグなんかに走っちゃう人は、ほんとに楽しいことを知らないのではないだろうか。
◆◆◆
さてわたしとしてはそんなふうに、画面とにらめっこしてばかりではなく、アタマもカラダもしっかりと運動形態に置いたうえで日々を送ってほしいと思うのだけども、いまの電子機器は、びっくりするほど便利なので、付き合い方次第では有意義なのは確かである。
ただ同時にわきまえておいてほしいのは、あまりに便利な道具を使うことによって、「一体何をせずに済んでしまっているのか」ということである。
クルマを使えば足が弱るし、キーボードを使うと漢字を忘れるし、ナビを使うと方向感覚が失われる。量的な不足の積み重ねによって、質的な後退が起きてからでは遅い。
たとえば漫画家を目指すのであれば、日頃からデッサンを、デッサン用の鉛筆の削り方をちゃんとしたうえで取り組んでほしい。
物書きの場合であれば、清書はともかく、下書きはしっかり自分の指先で筆記用具を握って取り組んでほしい。
そうでなければ、たとえば前者の場合には、「この一本の線を引くのにいったいどれだけの研鑽があったのか」というレベルの目を養うことはできないから、一流というものを像として描くことすらかなわず、それはとりもなおさず夢として描く像が本質的にレベルの低いものになってしまうからである。
綺麗な直線を引くのに定規が手放せない、定規を当てながらでないと真っ直ぐに文章を書けない、などという現状を放ったらかしにしておくのは、三流でも別にいいやという姿勢でしかないわけである。
◆◆◆
さて、はじめはiPadから。
iTunes Storeでアプリケーションを探すときのコツは、「まずiPad専用版から探す」ということである。
iPadならばiPhone対応のアプリケーションでも拡大して使えるが、iPhoneではiPad専用のアプリケーションは使えないからだ。
なので、iPad専用版を探して、それが見つからない場合には、次善の策としてiPhone版を拡大して使う、ということになる。
iPhoneしかお持ちでない場合は、当然にiPhone版のアプリケーションを選ぶしかないわけであるが、同じ機能を持ったものが両対応版として存在していないかと探してみると、iPadを買い足したときにも無駄にならずに済む。
それにならって、まずはiPadから触れてゆこう。
あまり丁寧に解説している時間がないけれども、独学する力を養うためにも、手取り足取りガイドラインを教えてしまわないほうがよいとも思う。
それから、個別に紹介はしてないけども、スクリーンショットに載っているものはそれなりに使えるものではないかと。ゲームについては、みなさんのほうが詳しいだろうから紹介しない。
※紹介アプリケーション名の右側にあるボタンはアフィリエイトリンクです。アフィリエイトというのは、当blogを経由して商品の売買が成立したときに、売上金額の数%が紹介料としてメーカーからわたしのところに振り込まれるという仕組みで、当然ですが読者のみなさんが追加でいくらか払ったりする必要はありません。収益はすべて、東北の被災地への寄付に回します。
◆iPad 01◆
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| iPad 01 |

(iPhone版は、「i文庫S」
)青空文庫を閲覧するためのアプリケーションだが、PDFファイル、ZIPで結合した画像ファイルなども読めるビューアー。インターフェイス、軽快な動作などApple純正かと見まごうほどの品質で、電子書籍としてiPadを買ったらこれを入れないと始まらない。わたしは論文も学生の描いた漫画も絵画も、自分の研究で作ったPDFファイルも、全部これに入れておく。
)青空文庫を閲覧するためのアプリケーションだが、PDFファイル、ZIPで結合した画像ファイルなども読めるビューアー。インターフェイス、軽快な動作などApple純正かと見まごうほどの品質で、電子書籍としてiPadを買ったらこれを入れないと始まらない。わたしは論文も学生の描いた漫画も絵画も、自分の研究で作ったPDFファイルも、全部これに入れておく。| はじめて起動すると、ページめくりにすら感動できる。 |
| 青空文庫が読み放題。 |
iPhoneにも対応。登録したファイルを、クラウドに保存してくれるサービス。複数の端末間でファイルをやり取りするときに便利。たとえば、ゼミ発表で使うファイルを指定したフォルダに放り込んでおくと、出先にiPhoneからそのファイルを呼び出せる。
iPhoneにも対応。マインドマップをお使いの方なら、これがいちばん使いやすい。Mac版との連動も。
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