2012/10/23

「してはいけないからする」はあり得るか:文学考察: 黒猫ーエドガー・アラン・ポーを中心にして


またもや連載の途中ですみません。


前に会ったときに、論者が実に嬉しそうに自身の新しい発見について語ってくれていたので、我意気に感ず、というわけで、少しでも早くお返事をしたかったのです。

今回扱っている問題は少し難しいですが、人間の認識を本質的に理解したい、という場合いは、避けて通れないはずの問題に言及していますので、文学作品ともに読んでおいてほしいと思います。


◆文学作品◆
エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳 黒猫 THE BLACK CAT

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 黒猫ーエドガー・アラン・ポー
 「私」はもともと大人しく情け深い性質で、動物が大変好きでした。その為、鳥類や金魚や兎や「黒い猫」等を飼っていました。特に最後に挙げた獣は非常に大きく美しく利口であり、「私」の一番のお気に入りでした。ですが彼はいつしか、酒乱の為に自分の奥さんはおろか、可愛がっていた動物、そして自身のお気に入りだったはずの「黒い猫」にまで手を出すようになっていってしまいます。
 そしてある時、とうとう彼はあるひょんな事をきっかけに憤怒(ふんぬ)し、「黒猫」の目玉をくり抜いてしまいます。しかしその時の興奮がおさまり我にかえった彼は、自分のしたことに対して後悔を感じはじめました。ところがやがてその後悔は消え去り、彼は再び暴力をふるいはじめ、遂には「黒猫」を殺してしまいます。
 こうして「黒猫」を殺した後、彼は再び後悔の念に襲われる事になります。そして次第にその感情の強さ故に、自然と同じような猫を探し求めるようになっていきました。そんなある時、彼は酒場で自身が嘗て殺した猫と瓜二つのものに遭遇します。その猫と出会った瞬間、彼は迷わず持ち帰り、家で飼うことにしました。ですが、やはり彼の動物への虐待の習慣は抜けきっっておらず、嘗て「黒猫」を殺した時と同じ感情をこの猫に感じはじめていきます。しかし猫を殺した時の後悔がその時は強かった為、彼は猫に手をあげる事を我慢することにしました。
 ですが、次第にそうした感情は強くなっていくにつれて、彼は猫に対してどういうわけか恐怖をも感じはじめ、とうとう猫を庇った奥さんと猫自身を殺して家の壁に塗りこんでしまうのでした。
 そしてある時、彼の家に警官が来て、家宅捜索が行われました。ですが怪しいものは一切出て来ません。これに気を良くした彼は、警官たちの前で、「この壁はがんじょうにこしらえてありますよ。」と言ってわざと壁を叩いて見せました。すると、彼はどこからともなくあの忌々しい「黒猫」の声を聞き、慄いてしまいます。その様子を見ていた警官たちはすぐに壁を崩し、死体を発見したのでした。
 
 この作品では、〈後悔の念が強いあまり、かえってそれ以上の失敗をしなければならなかった、ある男〉が描かれています。 
 この作品を一読した後、多くの読者は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。その理由を考えるにあたって、私は彼の感情の揺れ動きに着眼しました。というのも、彼は猫と関わっている時、いない時に拘わらず、恐らく酒乱し猫を傷つけた時点から、彼の精神は極めて不安定になっていき、そこが螺旋階段を転げ落ちるように、転落しなければならなかった要因になっているのではないかと考えたからです。
 そこでここでは順を追って、彼の行動と感情を軸に、何故彼が猫を殺さなければならなかったのかを見ていきましょう。そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するようになっていきました。ですが、この時はまだ猫の中には彼の怒りをかう要素は全くなく、単なるとばっちりに過ぎなかった、と言って良いでしょう。そして次第に虐待はエスカレートしていき、遂には「黒猫」の目玉をペンナイフでくり抜いしてしまいます。そこから彼は「黒猫」に対して、後悔の念を感じはじめます。ところがそうして後悔を感じていくにつれて、その後悔はやがて怒りへと転化していきます。これはちょうど、私達が昔の失敗を友人達に掘り返される心情に似ているところがあります。幾ら、その事を後悔しているとは言え、その友人が第3者か当人であったかに拘わらず、数度、数十度と言われれば、怒りがわいてくるものです。この作品の主人公もそれと同じで、直接的に掘り返されずとも、「黒猫」を見る度に、嘗ての恐ろしい自分を思い出し、いつしかしつこく責めたてられているような心情になっていったのです。やがて、ある時点で彼のその怒りは頂点に達し、「黒猫」を殺してしまったのです。
 ですが、再び同じ失敗をしてしまった彼は、再び後悔の念にとらわれていったのです。感の鋭い方はもうお分かりでしょう。彼はこうして、自身の心の中で後悔と怒りとを交互に感じていき、しどろもどろになっていったのです。ですが、ただ同じ繰り返しを心の中でしていたわけではありません。1度目の失敗と2度目の失敗とでは、後者の方が罪がより大きくなっているわけですから、後悔の念もより大きくなっており、それだけ猫を見た時に感じる気持ち(自分で自分を責める気持ち)も大きくなっていったのです。すると、今度はその後悔の念が大きすぎるあまり、その怒りに加えて、恐怖を感じていくようになっていきました。こうして「黒猫」は彼の心の中で、彼の存在を脅かす、まさに魔物と化していったのです。だからこそ、彼は是が非でもその魔物を再び退治して、自分の身を守る必要があったのでした。そしてそうした念の強さあまって、彼はなんの関係もない奥さんまで殺してしまったのです。ですが、いよいよ後悔と恐怖の念が強くなっていった彼は、壁を叩いた瞬間、つい自分がしてしまった事の恐ろしさを改めて感じてしまったのでしょう。その時、彼は自分の心の中の猫の像から、「黒猫」の声を聞いてしまい、つい慄いてしまい、つかまってしまったのです。
 このようにして彼は、後悔と怒りと恐怖を複雑に感じていくにつれて、殺人という大罪を犯してしまったのです。
 
※余談
 またこの作品の不気味さというものは、こうした彼自身の心情の変化の他に、著者自身の描写力からきています。というのも、この作品は主人公である「私」の一人称視点から物語られています。そして主人公は自分が殺人を犯し他人に見つかるまでの過程の中で、2匹目の「黒猫」に対して、1匹目の「黒猫」に自分がつけた痕が日に日に浮かび上がってくる、壁に埋めたはずの猫声を聞く、等の奇怪な現象に遭遇します。その描写はどれもリアリティがあり、恐ろしいながらも、つい目を休めてしまうことを忘れていくことでしょう。ですがもし一般の作家が同じ場面を書いたならば、「あたかも」、「まるで」など、それは主人公だけにしか見えていなかったのだ、という含みの言葉を用いて、作品自体のリアリティを削いでしまうことはないでしょうか。そして、もしそういった言葉を使わなかったとしても、ここまでリアリティある言い回しになっていたのでしょうか。
 そう、こうした場面は作品の世界では起こっていないが、主人公の頭と「読者には」そう見えていなければならない。また、後に「あれは主人公の頭の中でしか起こっていないのだ」ということを「読者にだけは」理解させなければならないという、複雑な場面なのです。
 こうした場面を描ききってしまい、私達にリアリティがあるけど、作品の中でこの描写が起こっているのではなく、主人公の頭の中で起こっているのだ、と理解できるのは、この著者の手腕がそれだけ確かな事への証明にもなっているのです。

◆わたしのコメント◆

物語は、明日絞首刑となる「私」が、彼がなぜそうなる運命となったのか、ということについての省察が、遺書として書かれることで展開してゆきます。

子供の頃にはおとなしくて情けぶかく動物好きだった彼でしたが、成人してから一匹の猫と親しみを深めた頃に転機が訪れます。彼はその頃、酒癖のために気むずかしく癇癪もちになり、彼の手荒さに驚いた猫がその手を噛んだことに怒り、その眼窩から片眼をえぐり取ってしまうのでした。次の日の朝、冷静になった彼は恐怖と悔恨の入り混じった感情を持ちますが、それも長くは続きません。結局、そのうちにいくらか回復してきた猫を見たとき、彼は、猫を木の枝に吊るして殺してしまうのでした。それはなぜかを刑の執行を明日に控えた彼が見るところによれば、その時の彼には天邪鬼の心持がやってきたのであり、それは、悪のためにのみ悪をしようとするという不可解な切望、であるというのです。

その晩、原因不明の火事で彼の自宅は焼けてしまうのですが、焼け残った壁には、なんと巨大な猫の姿が現れているではありませんか。そのことはさらに、彼を恐怖させ、追い詰めてゆくことになります。しかしその間にも彼の心の中には、悔恨に似た感情が戻ってきており、酒場で一匹の黒猫を見出します。ところが彼は、その猫を連れて帰ったとき、それが片眼であることを知ると、自分自身のかつての罪悪を思い出し、それを恐怖するようになるのです。その感情は、猫の首の模様が絞首台の形に見えたことで憎しみへと変わり、ついには黒猫をかばった妻を殺してしまうのでした。

彼は妻を、半乾きのしっくいの壁に塗り込めひた隠しにしていましたが、警官が自宅を訪れた際に聞こえた金切り声によって、その凶行が明るみに出ることになったのです。彼はいま、獄中で述懐します。黒猫の奸策(かんさく)が私をおびきこんで人殺しをさせ、そのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ、と。

◆◆◆

評論へのコメントを始める前におことわりしておきたいのですが、この文学作品の筆者であるエドガー・アラン・ポーという作家は、わたしたちが私淑し学んでいる三浦つとむという科学者が、その論理性を認めて再三引用している人物です。

直接作品に向きあってみても、そこからは、この筆者、なるほどたしかに理性の人、という緻密な構成が見て取れることから、文学作品をもその論理性を読み取ろうとするわたしたちにとっては、「避けては通れない作家」であるのです。

今回の作品は、表面上は探偵モノではないだけに、真犯人が明らかになるという直接的な記述はありませんが、それでもわたしたちに、この謎を解明してみせよ、と告げているかのような箇所が出てきます。

この作品の書き出しの一節には、以下のようにあります。
(私がこれから書こうとしていることはきわめて奇怪なもののように映るであろうが、)誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖(いふ)をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
ここでは、この物語の主人公は、自分自身の凶行が、単に狂人の発作的な、非連続的で非合理的なものであるというのではなくて、そこに何らかの理由があり、原因があり、そしてそれらを合理的な連続性として見出すようになるであろう、と述べているわけです。
この箇所は、その凶行の結果、絞首刑になろうとしている主人公が、冷静に過去の自分の暴力を振り返って述懐しているので、理性的な傾向が強いものとなっています。

しかし同時にこの箇所は、作家自身が主人公の口で、この物語の読み方というものを示しているとも受け止められますから、わたしたちもそのとおりに、この作品を、単に恐ろしい物語、単なるホラー小説としてだけ受け止めるのではなく、あくまでもそこに、理性の光を照らしながら解いてゆかねばなりません。

◆◆◆

さてその問題意識は論者も共有するところであり、彼は「何故主人公はあれ程までに猫を殺した事を後悔していたにも拘わらず、それ以上の失敗をしなければならなかったのか」と問いかけ、その問題を解く鍵を、主人公の感情の揺れ動きに見出そうとしています。
そうして論者は、「後悔」が「怒り」へと転化し、その結果の凶行がさらなる「後悔」の念として主人公の脳裏に刻み込まれていったことにより、最悪の結果を招いたのだ、という過程的な構造を、その転化に力点を置きながら論じています。

特にその傾向は、人間というものは一般的に言って、過去の失敗をいくら「後悔」してはいても、第三者から何度も何度も指摘されることになると「怒り」にも転化するように、この物語の主人公も片眼の猫を見るたびに良心の呵責に苛まれたために、最終的にはその悩みの元を断とうとしたのである、という論証部に顕れています。

ただこの類推は、精確に言えば注意を要します。
というのも、過去の失敗を詰られて湧くところの怒り、というのは、第三者からの再三の指摘に対して向けられたものなのであって、過去の失敗そのものに対してではない、からです。

それに対して、この物語の場合で描かれているのはこういうことです。
私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。
他でもなく自分が眼をえぐった黒猫を見るたびに沸き起こる自責の念が、やがては自らをあまりに苛むようになっていったために、自分自身で受け止められなくなり、それは癇癪に変わっていき、最終的には悩みの種である黒猫の存在そのものを消そうとした、ということが書かれています。

整理して言えば、前者における筆者の類推は、過去の体験像そのものは第三者からの指摘を受けてもさほどの変化がないのに対して、後者の物語中の転化の構造は、主人公の持つ黒猫像そのものの転化である、ということになるわけです。
これらは、その構造面からいえば、残念ながら、まったく一致するとは言えないものになっています。

◆◆◆

さて類推の成否はいちおう棚上げするとしても、論者は評論全体を通して、主人公の内面における後悔から怒りへの転化、またそれに類する感情の転化を中心に論じており、感情の転化を扱おうという姿勢と、弁証法を使って過程的な構造をたぐろうとする努力が見られることは一定の評価に値するものです。
しかしそれだけでは、この物語の理解は片手落ちになってしまうのです。

その理由はなにか?と尋ねられれば、わたしが答えずとも、上記した引用部の続きが語ってくれています。
長文になりますが、物語の本質を理解するためには避けて通ることができないゆえに、問題となる箇所をすべて引用しておきましょう。
それから、まるで私を最後の取りかえしのつかない破滅に陥らせるためのように、[天邪鬼]の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけないという、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟を、単にそれが[掟]であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の[自らを苦しめようとする]――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索(わなわ)をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていれば[こそ]、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていれば[こそ]、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていれば[こそ]、つるしたのだった。
(引用者註:文中太字は[ ]に置き換えた)
彼によれば、彼自身を最後の破滅に導いたものは、「天邪鬼の心持」、であるというのです。
最後の破滅に導いた、と言うからには、この物語を理解するためには、ここを避けては通れない、と受け止めるべきでしょう。

この人間の心に巣くうその原始的な衝動は、人間の一般的な感情のあり方とその行動が、「すべきであるからする」、「したいからする」という繋がり方を持っていることに反して、「してはいけないからする」ことを要求するのだ、というのです。

この「天邪鬼の心持」なるものを持ったればこそ、彼においては、「猫が自分を慕っていたからつるした」、「猫が自分を怒らせるようなことをしなかったからつるした」、「自分の魂を神の無限の慈悲さえ届かなくするためつるした」、と、一般にはまったくの逆説ともとれることが言える、というわけです。

◆◆◆

この物語の主人公は、表向きでは、飼い猫の眼をえぐり首を吊り、最後には妻を手に掛けるという凶行をしていながら、その時々では極めて冷静に、自分自身の行いを理性的に見ることができていることが、ここから読み取れます。

眼の前で凶行をふるう自分と、それをあたかも背後から冷静に客観視し、後には理性的に分析するという、いわば引き裂かれた(ように思われている)内面を持つ主人公であったればこそ、事に及ぶ際にも「眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。」といった状態とならざるをえなかったことがわかります。

彼が、天邪鬼の心持というものを哲学は少しも認めてはいない、と言うのは、大まかに言って、哲学者や心理学者などといった学者は、「すべきであるからする」といった合理的な行動の原理はそれなりに解き明かすことができても、実際の人間には「すべきでないからする」といった非合理的な側面も含まれているということを認めたがらない、と言っているわけです。

筆者であるポーは、人間存在についての本質を作家としての感受性でつかまえた上で、主人公の口にこう述べさせているので、たとえこの物語が現実には実在しないものであるとはいえ、それでもこの作品が読者に少なからぬ恐怖をもたらして、なおかつそうして世に残っていることを考えれば、この物語で描かれている人間の感情のあり方も、ひとつの合理性を持ったものとして正面に据え検討しなければなりません。

ここを「所詮フィクションだから」と言って、人間感情は永久に不可解であるということを前提として認めてしまったり、その問題を問題として認めずに逃げてしまっては、人間の認識が持っている構造は、永遠に闇に閉ざされたままとなってしまいます。

ひとつの文学作品がフィクションという体裁をとっている限り、その世界は事実のそのままの忠実なかたちをとってはいませんが、それでも、現実的であるのでなければ、ひとつの作品足りえるはずがないのです。
フィクションの世界でも、人間は大気を吸い込み食事をし、他人と関わりながら生活を送るなかで時には恋をし裏切られ友情を育み感情を揺さぶられる存在なのであって、その他の自然・社会・精神のありかたも、作者の認識にすくい上げられた法則性がその世界に持ち込まれているからこそ、現実的なものとなり、実際に現実を生きながらそれを読むわたしたちの糧となるものなのです。

ですからここでの問題は、現在の認識論は、この問題を解きえないのだろうか?ということになります。

◆◆◆

そういう姿勢でこの問題を解くにあたって、まず一つ目の落とし穴は、「人間存在の行動原理において、「すべきでないからする」という非合理はあり得るであろうか?」といったふうに考えてしまうことです。

この考え方のなにがいけないかといえば、すでにここまで抽象化してしまった概念を、いくらこねくり回したとしても、結局のところ「非合理」という概念とアタマのなかだけで格闘してしまうことに始終し、いくら考えても形而上学的な結論しか出てこないから、なのです。

アタマのなかで創り上げた図式を現実に当てはめて、お前の抱いている感情は理屈に合わないから異常である、などと分類して病名をつけるのが心理学や認識論の仕事であると言いたいのならもはや止めはしませんが、自分自身の人格にかけて人間の認識を科学的に見てゆこうとするのなら、どんなに難しくても、どんなに原因が究明できずに苦しくても、あくまで、眼の前の現実にそのままのかたちで向きあって、そこから論理を引き出す、ということでなければなりません。

◆◆◆

そう断った上で、この問題を考えてゆく前に、まずわたしたち人間の認識が持っている一般的な性質を押さえておきましょう。
一般的な性質といっても、この理解が土台となって続く理解を下支えするのですから、「当たり前すぎてつまらない」などと言って軽視しないようにお願いしておきます。

さて、わたしたちがたとえば澄み切った海を見たときのことを考えてみてください。
ある人は、こんなところで泳げたらさぞかし気持ちがいいだろうなあ、と思うのに対し、昔溺れた経験のある別の人は、足を踏み外したら死んでしまう!という恐怖の念を呼び起こしながらそれを見るでしょう。

ほかにも、同じ犬を見るときにでも、愛犬家が見るそれと、昔犬に噛まれたことのある人間が見るそれとでは、その認識が描き出す像に、質的な大きな開きが出てきます。

ここから読み取らねばならないひとつの論理は、わたしたちがアタマの中に描き出す像というものは、それがいわゆる五つの感覚器官を通して、ひとつの像として合成されることを繰り返して発展させられてゆくという性質を持っている以上、そこには感情というものが少なからぬ影響を与えているということです。(ここでは、感情の生成・発展についてはひとまず棚上げしておくことにしましょう)

昔犬に噛まれた経験のある人が、犬を見るたびに「ああ怖い」、「噛まれたらどうしよう」、「狂犬病の致死率は100%だと聞いたしなおのこと恐ろしい」などなど、「怖い!」という感情をそこに感じ続けながら像を繰り返し繰り返し受け止め発展させてゆくとなったときには、彼女や彼にとっての「犬」の像は、不快なイメージを多分に伴ったものとして出来上がってゆきます。

このことは、さして実害のないはずの昆虫に異常な拒否反応を示す人たちの存在や、食わず嫌いというもの、また四六時中手を洗っていなければ気が済まない、といった潔癖症などといった実例からもわかってもらえることだと思います。(ちなみにいえば、こういう感触を「生理的に嫌い」という事実は、精神的なあり方が生理面にも浸透していることを暗に陽に把握してのものです)

ですから、この物語の主人公という人は、かつては愛していたはずの黒猫「プルートォ」に、酒の勢いで片眼をえぐるという凶行に及んだあと冷静になり、その猫を見るたびに、そこに恐怖、悔恨、悲しさといった感情を重ねて「プルートォ」像を創りあげていった、というわけです。

◆◆◆

本文での描写を見てみましょう。
 朝になって理性が戻ってきたとき――一晩眠って前夜の乱行の毒気が消えてしまったとき――自分の犯した罪にたいしてなかば恐怖の、なかば悔恨の情を感じた。が、それもせいぜい弱い曖昧な感情で、心まで動かされはしなかった。私はふたたび無節制になって、間もなくその行為のすべての記憶を酒にまぎらしてしまった。
この「プルートォ」像がマイナスイメージを持ったものとして固定化されることが自覚されるようになるとともに、彼は再び、その像と正面から向き合うことから逃げるようにして、さらに酒をあおることになってゆきました。

この感情の転化の過程に着目すると、彼は、人間としての真っ当なあり方を知らないわけではなく、むしろ酒が抜けて冷静になった時には、かつての愛情深かった自分や、その自分に懐いていたプルートォの姿をありありと思い浮かべることができるからこそ、その葛藤に悩まされていたことがわかります。

言い換えれば、ここでの彼の中には、人間として、飼い主として「するべきこと」は、なんらかのかたちで自覚されている、というわけです。

しかし行動をみれば、彼は「するべきこと」ではなく、実際には「するべきでないこと」を「やって」しまったのであり、こここそが問題の焦点となっているのでした。

このような、「するべきこと」と「するべきでないこと」の相克がひとつの精神の中に現れているとき、その構造はどのようになっているのでしょうか。それを、考えてゆかねばならなくなります。

◆◆◆

この問題を考える時、わたしたち人間が、今のままの状態を続ければ、「このままでは自分がだめになってしまうだろう」という見通しが立つ場合のことを考えてみてください。

たとえば、期限が迫る資格試験を前にして友人と遊んでばかりいて不合格が確実になりそうなときや、1日に一箱もの煙草を吸っておりこのままでは健康を害する危険性が高まりすぎている場合がそれに当たります。

こういう場合、わたしたちのアタマの中には、それまでの習慣が転化したところの実感としての「やめたくない」という思いがあることに対して、内面からの「しかしどこかで生活の過ごし方を変えなければ…」という思いもが存在することになります。
これらをそれぞれ認識論では、<自由意志>と<対象化された観念>と呼びます。

ここで特に注意を要するのは後者でしょう。
この<対象化された観念>というのは、自分を客観視してみたときに、「このままではいけない」と思われる場合には、自分が自分自身の力で、惰性的な運動を続けようとする自由意志に反して、それとは別個のものとして創りあげる場合もありますし、主治医の、「このままでは肺癌のリスクが相当に高くなりますよ」というアドバイスが、自分のものとして受け止められることによって創られる場合もあるということを指します。
ここでは一つの固定化された観念として、自由意志に「〜すべきである」や「〜するべきではない」といったかたちで働きかけることから、観念の対象化されたもの、つまり<対象化された観念>と呼ばれているわけです。

これらの場合には、自由意志と対象化された観念は、あくまでもひとつの頭脳を実体とする精神の働きの中に、敵対的な関係として両立することになりますから、この対立は、どちらかがどちらかによって消滅させられるまで続くことになるのです。

資格試験に合格したいという目的意識が強ければ、対象化された観念が自由意志へと浸透しそれを作り替え、最終的には友人との付き合いを試験日以降にまで先延ばしするという行動を導くことになりますし、健康でいたいという目的意識が強ければ、異常化した生理面を整えるのが困難な場合には治療が必要であるとはいえ、やはり構造としては同じような過程をたどります。

この過程を結論からいきなり見てしまうと、「やりたくない」という意志と「やった」という行動が直接的に地続きに繋がっているように見えるために、あたかも「やりたくないからやった」という非合理的な因果関係が現象しているように見えるのです。

ですからそこに、まるで悪魔が地の底からはい出てきて乗り移った、などといった解釈の余地が入り込んできてしまうのですが、このことは作中の表現からも読み取れるところです。

実はこれが、今回の問題で扱った、非合理的な精神現象、「天邪鬼の心持」というものの正体なのです。

◆◆◆

この過程を正しく整理すると、遊びたい、煙草を吸いたい、つまり「やりたい」という自由意志は、ひとつの目的意識を契機として、「〜するべきである」や「〜べきでない」といった対象化された観念を一時的に創り上げ、その対象化された観念との矛盾が、双方のうちどちらかが消滅したり中和することによって解消されることによって、最終的な行動に繋がってゆく、ということになります。

この、内面における葛藤というものが持つ過程において注目しなければならないのは、自由意志がいきなり行動に移されるのではなく、(どの程度浸透するのかということはさておき)対象化された観念が媒介として働いている、ということです。

作中で触れられている「天邪鬼」という精神現象も、この自由意志と対象化された観念という、精神における二重構造をその浸透過程から見てゆくことができれば、「「してはいけない」ということが他方ではわかっていつつも自由意志がその浸透を阻むほどに異常化している」ことによる現象だと理解できるのです。

この物語の主人公は、行動としては凶行を働いておきながら、もう他方ではそれを、あるべき人間観に照らして涙を流しながら行ったり、また客観視してその原理を観察したり分析したりといったふるまいを見せることから、読者にとってはさらなる不気味さを喚起しているという効果を生んでいますが、実のところこの二面性は、質的に異常化した自由意志のほうが対象化された観念の浸透を拒み続けている、という精神のあり方がそのように現象しているものなのだ、ということになります。
(自由意志の異常化が何なのか、については、作中での主人公がどういう生活を送っていたかでわかってもらえると思います)

◆◆◆

この作品の筆者であるポーは、主人公に「私は事実のつながりを詳しく述べているのであって、――一つの鐶(かん)でも不完全にしておきたくない」と言わせ、彼の異常な行動と理性という二面的な性格を浮き彫りにさせていますが、ここで働いている理性というのは、他でもなく著者自身のものであるようにも読み取れます。

筆者は、他の作品でも「天邪鬼」という精神作用についての論考を盛り込んだ作品を書いており、そのさまは、人間の精神を探究する過程で得た知見を、個々の小説というかたちを借りて披露しているようにさえ思えるほどです。
(事実、そのものズバリの『天邪鬼』と題された作品では、精神についての論考が作品の文量の半分以上を占めるまでになっています。岩波文庫『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』に所収)

この理性の人にあっては、やはり個々の作品は、異常・正常のどちらを扱うにせよ、精神についての探究を下敷きにして描かれているために、それなりの認識論の能力がなければ、表面的な見方にとどまってしまうものです。

先にも引用した通り、筆者が、主人公の口を使って言わしめた「誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖(いふ)をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。」ということばは、まるで、「できることならこの謎を解いてみてほしい」と言っているかのように聞こえます。

この小説にも、筆者が、その感受性でつかまえた「天邪鬼」という精神現象の不思議が、ある程度までの探究とともに記されてはいますが、それでも、それはとても「ごく自然な原因結果の普通の連続」とはとても思えない、という実感があったように、筆者自身にとっても解ききれない謎として残った、ということだったのでしょう。

筆者の理解がそのような段階でとどまっていればこそ、この物語で描かれている心理描写を本質的に理解しようとする時には、作中の説明をそのまま横滑りしてしまっても、解きえない問題が残ったままになってしまうのです。

ですからその、経験的にはいかにもありそうでありながら、しかし論理的には説明のできない現象、つまり「天邪鬼の心持」を、現代の認識論の段階で読み解いた上で、筆者の言わんとしたが明確には把握しきれなかったところまでを、一般性として明確に提示することこそ、筆者の達成した文化をまともに受け継ぐことであると言えるでしょう。

◆◆◆

この先は、なかなかに難しいとは思いますが、それでも論者に考えてもらいたいために、一般性まで論じることは現時点ではやめておきます。

ただヒントとしては、以上で見てきた「天邪鬼の心持」が何であるか、ということの理解と、「黒猫」がそこにどう関わってくるのか、という問題は避けて通れない、ということは述べておきたいと思います。
先ほど上げておいた長文の引用部分以降は、実はホラー小説の体裁を保つために必要であった部分、という位置づけでしかありません。

そもそもを言えば、アメリカのホラー小説、ホラー映画をみれば了解される通り、そこでの精神現象の描かれ方、特に精神異常の描かれ方というものはまったく過程的でなく、一言でいえば突発的な、「悪魔が乗り移る」といったものがほとんどです。

これは、宗教的な影響や、アメリカの持つ学界的な風潮、特に心理学会の持つそれが客観主義一辺倒であることと、個別研究を重視しすぎるあまりに構造的な把握の段階にまで進んで行かないことなどで醸成されている世界観なのです。

例えばスティーブン・キング原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『シャイニング』はごく普通の夫が殺人鬼に豹変し妻子を襲うといった映画ですが、最期まで観ても、「なぜ豹変したのか?」は結局まったく描かれないままです。
視聴者の中にはこういう作品を見て、「なぜだかわからないが怖かった」と満足できる人もいるようですが、一部の人は、「怖いのは怖いが、あの人はなぜああなったの?」と、その根本的な理由を知りたがるはずです。

そこを、アメリカのほとんどの作家や演出家は、「悪魔が乗り移ったから」として済ませてしまうわけですが、文化的な背景の違うわたしたちは、その説明では到底納得がゆきません。

しかしこの著者であるポーはさすがで、そこを彼なりの「天邪鬼の心持」の理解を土台としながら、ホラー小説として表現する、というやり方をとりました。
彼がこの作品をホラー小説たるために工夫した表現には、以下のようなものがあります。
(括弧内は原文。参照:“The Works of Edgar Allen Poe, Volume 2”内、“The Black Cat”。iPadのiBooksアプリでも無料で読めます。)

・プルートォ(Pluto; 冥界の神)
・魔女(black cats as witches)
・酒癖という悪鬼(the instrumentality of the Fiend Intemperance)
・悪魔のような憤怒(The fury of a demon)
・悪鬼以上の憎悪(a more than fiendish malevolence)
・天邪鬼の心持(the spirit of PERVERSENESS)
・この妖怪(this apparition)

ところが、国民的な風土に合わせたこの工夫の中にはどうしても、「悪魔憑き」的な発想が出てきてしまうために、その表現に引きずられて、彼の「天邪鬼の心持」についての理解は、自分自身の魂があたかも他所から来た邪悪な魂に取って代わられたかのような、現象論的な制限を受けざるをえないことになってしまったのです。

ちなみにいえば、「天邪鬼」という訳語だけを見ると、わたしたちは日本語で、「ひねくれた」といった意味のことばとして受け止めることになります。
しかし原文を見ると、これは“PERVERSENESS”であり、これが“per(完全に)+verse(回す)”という成り立ちをしていることからもわかるとおり、「逆さにひっくり返した」、という意味で使われていることもわかるのです。
(英語はじめ外国語が苦手な人は、まずは語幹に“verse”を持つ単語を逆引きで調べてみてください。外国語の単語も、実は漢字の熟語と同じような仕組みを持っていますので、接頭語と語幹の意味を押さえれば、知らない単語にぶつかっても意味を類推できるのです。)

この作品を日本語に翻訳した訳者は、全文をしっかりとしらべて“PERVERSENESS”を「天邪鬼」と訳したので、これは実にぴったりの訳語であると言ってよいのですが、しかし先ほどその構造に立ち入って調べてきたように、実はこの言葉は、「すべきだからする」のではなしに「すべきでないからする」という非合理的な行動原理を一言に要したものである、ということは、物語の本質的な把握のためにもしっかりとふまえておきたいものです。


※正誤
・虐待の習慣は抜けきっっておらず、
・そもそも彼は酒乱の為に、猫自身に虐待するように→猫自身を虐待するように
・リアリティがあるけど、→リアリティがあるけれども、(「けど」は口語表現)

2012/10/19

どうでもいい雑記:「iPhone 5ってどうだったの?」

ちょっと前から聞かれていたんですが、


研究やらケース作りのほうに関心が削がれていたのでほったらかしになっていました。

どんな機械のメカニズムよりも、森羅万象の構造のほうがはるかに面白いですしね。
先日の記事での問いかけをもう少し考えてもらいたいこともあって、こちらのお題を先に片付けてしまうことにします。

で、どうなのか?

結論から言うと、これに尽きます。
「マップが最低。」

なにが悪いのかといえば、iPhone 5に搭載されているオペレーティングシステムのiOS 6にくっついてくるマップのアプリケーションがどうにも使い物にならない、ということです。

しかしそれまではiPhoneのマップといえば、「就活生には必須」と呼ばれているほどの信頼性がありました。
たとえばキャンセル待ち狙いで説明会の会場に駆け込みたい、という学生が2名いたとき、iPhoneを持っているか従来型の携帯電話(いわゆるガラケー)を使っているかで、席をとれるかどうかが決まる、というくらいのものです。

最寄り駅に着いたら、住所か会場の名前を入れてポン、で、現在地からの経路が地図上に表示されるのですから、迷わないはずがありません。
それにたいしてガラケーでは、アプリケーションを立ち上げるのにモタモタ、表示速度がモタモタ、現在地を特定するのにモタモタ、ちょっと先を見ようとすると利用料を払え…とくるのですから、はっきりいって、売店のおばちゃんに道を聞くほうがよっぽどわかりやすくて早い、というところです。

◆◆◆

ここが普通のPCなら、新マップだめじゃん、旧マップのほうがいいや、となったら、入れ替えればよいだけの話なのですが、iPhoneという端末は、Appleの方針でユーザーが好きにいじれるところがあまりないのです。

ただこれまでは、このクローズドな方針のお陰で、ひととおりのサービスが使い勝手良く提示されているので、一般ユーザー、とくに機械オンチぎみの人全般、おじいちゃんやおばあちゃんにまで、唯一無二の端末として歓迎されていたのでした。
ところが今回は、そのいわばお仕着せの環境のうち、一、二を争うほどに重要なはずのマップアプリケーションが、Apple製のダメなマップに変わってしまったからさあ大変、ということなのです。

これには少し経緯があり、数年前には蜜月関係にあったAppleとGoogleという会社は、GoogleがΑndroid OSを買収して、iPhoneに対抗する端末を作り始めたところから一気に関係が悪化し、AppleがAndroidを搭載したスマートフォンを販売するメーカーを訴えるという代理戦争にまでなっていたのでした。

そこで、というわけで、Appleは自社の製品から、なんとしてもGoogleのサービスを締め出そうとしたために、Googleの情報を利用していたマップ、加えてYoutubeのアプリケーションを削除し、前者についてはApple自身が新規で作成するということになったのです。

こんな政治的ないざこざにユーザーを巻き込むとは、子供じゃあるまいし…と思うのですが、そこをやってしまうのが良かれ悪しかれAppleの流儀。
ただそういう体質は、古いしがらみを断ち切って新しい流れをつくり出すぶんにはよく、Appleがいなければまるで普及していなかったであろう考え方も多いものです。
たとえば小型フロッピーディスク、CD、USBあたりの規格をはじめ、設計思想や広告など多岐に渡ります。

◆◆◆

そのドラスティックでリスキーな方針を知る昔からのAppleユーザーは、今回の騒動も「またか」と受け止めて事の成り行きを見守る、という温和な人たちが多いようです。

しかし、主力商品のMacがシェアわずか5%以下といった普及率だった頃は、ベテランユーザーが自己解決したり、コミュニティを作って初心者をサポートできたのでよかったのですが、現在のiPhoneをはじめとしたiOS機器は、世界で1億台以上が普及している端末なだけに、今回の件は、あまりにも自分の立ち位置を自覚していなさすぎる、と言わざるを得ません。

事態の収拾のために、CEOがマップアプリの不出来を謝罪し他社アプリを使うよう促す声明を出す始末ですが、はっきりいって、ユーザーが望んでいるのはそんなことじゃありません。

「前のマップ返して」、これ。

ただ根こそぎダメかというと、技術的には先進的な部分も多いのですが、なにしろ実際に使うユーザーの立場からすると、情報量が少なすぎます。

たとえば、旧マップ(iOS 5に搭載。Google製のマップ情報を利用)と、新マップ(iOS 6に搭載。Apple製)で、それぞれ同じ駅名を調べてみましょう。

すると、こうなります。



ね、誰がどう見てもダメでしょ。

右側は寄り過ぎだからでは…?と思われるかもしれませんが、視点を引くとほとんど何も表示されなくなるので、ここまで寄らざるを得なかったのです。
ちなみに、新マップは海上(海中?)にも駅があるようですね…。

これが地方都市だけじゃなく都心部でも多かれ少なかれこんなふうなのですが、地図というのはそもそも、環境が変わり続ける以上信頼度が100%になることは不可能だとしても、最低でも10個調べたら1つ間違っていた、くらいの信頼は置けなければ、かえって無駄足になってしまうものです。

そういう観点からすると、今回の新マップは「かえって無いほうがマシ」と言っても良いレベルです。
実際に、この前自転車ツアーに参加したとき、新マップでコンビニがちゃんと正しい位置に表示された時は、周囲から「おおー!」という歓声が上がるほどでした。
いったいどれだけ信用されていないのかがおわかりになるでしょう。

◆◆◆

今回のマップがダメなのは、一般に言われているような、Appleが提携している日本の地図会社が仕事をしていないとか、マップのフォーマットがダメだとかではなく、純粋にエンジニアリングレベルの問題、つまりAppleの情報の扱い方にそもそもの問題がある、ということのようです。
(参照:iOS6地図は元データや文化の差異ではなく、ずさんなエンジニアリングが原因 - 横浜スローライフ -- My slow life in Yokohama)

まあそんな理由は、いくら論じようが一般のユーザーには関係がありません。
使ってダメなものはダメ、出てきたものがすべて、ですから、Appleが意地を張り続ける以上、わたしたちが賢く回らねばなりません。

わたしなんかはさっさとiPhone 5を脱獄(気になる人は検索してみましょう)してしまって、旧マップを入れなおしたいところなのですが、未だ安定的な方法が確立されていないようなので、世にあるマップをほとんどすべて試してみました。

上記の謝罪の際に、Appleもいくつかマップアプリを薦めているのですが、どれも一長一短なので、結局、「やっぱり旧マップ返して」と言いたくなります。
そういうわけで、旧マップにいちばん近いものはどれか、という観点から調べると、これがいちばん良いアプリだということになりました。

Maps+

ダウンロードするだけなら無料なので、誰でも試せます。
一定以上の機能を解除するにはアプリ内課金で利用料を払う必要がありますが、数百円なので買う価値はあると思います。

このアプリでさっきの場所を表示するとどうなるか。


旧マップが帰ってきた!

という印象ではないでしょうか。

実際に使い込んでみると、国内の周辺施設の検索ができない(たとえば、「現在地の近くのマクドナルドを検索したい」など)、という問題があるのですが、こればっかりはどうにもならないので、GoogleのマップをSafariなどのウェブブラウザから呼び出して調べるほかありません。
(この方法を使うととても便利です。
参照:iOS6でGoogleMapsをフルスクリーン表示にしてみました - W&R : Jazzと読書の日々)

ただこの場合も、住所さえわかっているのなら問題にはなりませんから、目的地がはっきりしている場合には前もってアドレス帳にメモしておけば出先での手間を省けます。

また、旧マップにはなかった機能として、「GPSロガー(トラッキング)」というものがあり、これを起動していると、ウロウロした行程を地図上の線として記録しておいてくれます。(メニューの"Track"を選ぶ)

旅が好きな人はきっと気に入りますが、長距離のトラッキングにはアプリ内課金で制限解除をする必要があることも付け加えておきます(ちなみに買い切りなので、一度買ったらそれ以上、月額料金などの利用料を払う必要はありません。iPhoneで課金すれば同じアカウントのiPadでも制限解除されます)。

◆◆◆

ああそういえば、マップの問題があまりに大きすぎて言及できませんでしたが、iPhone 5のデザインは、iPhone 4、4Sの系列と並べて考えれば、とても合理的に、必然性をもって行き着いたものであることがわかります。

簡単に言えば、「それまで複数の機能をもたせていた複数の実体を統一する」ということで、Appleのデザインはやはり、簡単であっても(ただし実践するのは難しいのですが)弁証法的な性格を持っているなあと思わされます。

デザインする、という感性一辺倒に見える行動も、見る人間からすれば、論理性をもって見えてくる、ということでもあります。

2012/10/18

文学考察: 登つていつた少年ー新美南吉


連載の途中ですが、


答えをすぐに言ってしまっては考えてもらえませんので、少し間をあけさせてください。
指導の際にむずかしいのは、答えを「あえて」言わないこと、そのことを通して指導する当人に実際に考えてもらうこと、でもあります。

もっとも、昨日の記事で、答えはほとんど言ってしまったようなもの、なのですけども。


◆文学作品◆
新美南吉 登つていつた少年

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 登つていつた少年ー新美南吉
 一年に一回の学芸会が近づいてきた頃、ある小さい村の学校の先生は、そこで行う予定の対話劇の主役を誰にするかで悩んでいました。一方の子供達の間では、頭の中で2つの名前を思い浮かべでいました。一人は貧しい家の生まれでありながら才能と自信に溢れている杏平、そしてもう一人は、裕福な家庭に育ち先生からの信頼を得ていた全次郎。
 ですが杏平本人は自分が主役に選ばれる事を強く信じており、決して自分からは立候補しません。果たして彼の自信とはどこからきているのでしょうか。
 この作品では、〈他者よりも秀でた実力を持つが故に、他者よりも強い自信を持つことができた、また他者よりも強い自信も持つが故に、他者よりも秀でた実力を持つことができた、ある少年〉が描かれています。
 この作品は、学芸会の主役を先生が選考しており、それを杏平が自信をもって沈黙している場面と、子供達と木のぼりをして杏平が他者よりも高い場所まで登っていく場面の2つで構成されています。そして前者では彼の強い自信から沈黙を守っている事から、彼の自信の面が強くその場面にあらわれていることが理解でき、後者では実際に他の子供達よりも高い位置に登り、自身の実力を見せつけている事から、彼の実力があらわれていることが理解できます。
 こうして整理してみると、この2つの場面はそれぞれ独立しており、彼の大きな2つの性質を描いているに過ぎないと考えてしまうかもしれません。ですが、下記に注目してくだい。下記はそれぞれ、沈黙を守りきった後と木のぼりをしている最中の一文を抜粋しています。
校門を出てからも杏平の自信はくづれなかつた。杏平には自分の期待が裏切られるやうな経験はかつて殆どなかつたので、さういふことを想像することが不可能だつた。
杏平は恐怖を感じなかつたわけではない。しかし杏平の中にある不思議な力がどんどん彼をひきあげてゆくのである。
 はじめに第一文は、杏平はこれまでの事を想起して、改めて自分の実力を確認して今度も主役に選ばれるであろうという自信をつけています。ここから彼ははじめの場面において、自身の実力が彼の自信を裏付けているということが言えるのです。
 そして第2文では、杏平は地面から離れていくことに恐怖を感じながらも、何らかの力(自信)が彼を支えて他の子供達との実力の差を見せつける事に成功出来たと言えるのでしょう。
 ここまで話を進めると2つの場面の見方も変わってくる事でしょう。この2つの場面はそれぞれで杏平の自信と実力を積極面として描きながらも、その裏ではそれぞれがそれぞれを支えています。2つの性質は独立してそれぞれ存在しているのではなく、それぞれが支えあっているからこそ、杏平の性質として成立しているのです。

◆わたしのコメント◆

一年に一回の学芸会の季節を前に、ある学級の少年少女たちは注意深く先生の一挙一動を見守るようになります。というのも、彼らや彼女らにとって、対話劇の配役が誰に決まるかというのは、何よりも大きな問題だったからです。その配役の候補として有力だったのは、女の子では才色兼備の「ツル」であるというのが衆目の一致するところでしたが、男の子のほうは先生次第、という状況でした。この物語の主人公である「杏平」その人は、その候補のうちの一人であったのです。

この物語の本質を考えるときに、論者はそれを、主人公である少年の主体にありとし、実力があるからこそ自信を持つことができ、自信によってその実力はさらに高まっていったのだ、とそれらの相互作用を論じています。

たしかに、もう一人の候補者である「全次郎」とは違って、杏平は家柄が良いわけではなく、先生からその意味で目をかけられているわけではありません。
そのため、杏平は「か細い肉体と鋭い感受性」とを、つまり身一つの素性を頼りに強い誇りを持ち続けるほかなかったのです。

そんな彼のこれまでの生い立ちを考えれば、論者の言うこともわからなくはありません。
しかしこの物語で論じるべきなのは、主人公の主体だけに限られるのでしょうか。
そのことを、少し掘り下げて見てゆくことにしましょう。

◆◆◆

先生が対話劇の配役の決定を明日へ先延ばしにすることを告げたその後、論者の指摘している通り杏平は、「自分の期待が裏切られるやうな経験はかつて殆どなかつた」のです。

しかしそれでも、彼はそわそわした風でその日の放課後を過ごしています。
梅の実を見つけた彼は、その実を食べたり種を割って中身を覗いてみたりと、特段なにをしたいというのでもないものの、身体を動かしていないとどうにも落ち着かない、といった様子を見せているのです。
その箇所を確認してみましょう。
 かくんと梅の実は二つに割れた。ふつくらふくれた小さい、柿のたねに似たもの、少年達が天神さまと称んでゐるものが出て来た。杏平はそれを手にとつて見た。泣きたいやうな快感が彼の四肢をかけめぐつた。杏平はツルの名を連呼した。彼はそれを小川の中に投げこんでおいて、狂暴な犬のやうに、力一ぱい走り出した。何かに体をぶつけたい衝動が彼の肉体をうづうづさせてゐた。 
 杏平はその日一日、何がなくほのぼのとしてゐた。心ゆくまで湯につかつたあとのやうに快い亢奮の余蘊(ようん。引用者註:漢字部は本文が文字化けしているので補った)が彼の心のすみずみまでゆきわたつてゐた。杏平は何がその原因なのか考へもしなかつたけれど。
ここで問題なのは、「何かに体をぶつけたい衝動」が沸き起こったかと思えば、「心ゆくまで湯につかつたあとのやうに快い亢奮の余蘊」に浸っていたりという、彼の情緒の不安定さというものがどこから来ているのか、というところにあるのです。

杏平にあっては、「何がその原因なのか考へもしなかつた」のですが、我々はそここそを正面に据えて、考えてみなければなりません。

◆◆◆

ここで手がかりになるのは、これまで自信に満ち溢れていた杏平の内面に、何らかの変化の兆しがある、ということです。

彼が先ほど、手持ち無沙汰に柿の種をもてあそんでいたところでも、それははっきりと描かれています。
 種子だけが口の中に残つた時、杏平は彼等少年の仲間でいひならはされてゐる梅の種子についての卑猥な言葉を思ひ出した。杏平はそれまでしばしば他の少年達と一しよにその言葉を口にし、しばしば梅の種子を石で割つた。しかし今その言葉を思ひ出した時、杏平は殆んど眩暈を感じた。口から手の上に吐き出して種子をしみじみ見た。その種子を割ると中から出て来るもの。杏平はそれを今までしばしば見てゐるに拘らず、烈しい好奇心にかられた。彼は手頃の石を拾つた。そして石橋の上に来た時、猫のやうに息をひそめて前後を見た。人はゐなかつた。
どうですか、なにか掴めたものがありましたか。
答え合わせをする前に、この引用箇所をじっくりと読んで考えてみてください。

たしかに彼は見かけの上では、いつもと同じことをしています。
しかしその内面の感じ方というものは、いつもと違っている、より正確に言えば、変わり始めている、ということがわかったのではないでしょうか。

この変化の兆しというものは、実はこの物語全体に登場する少年少女を貫いているあるひとつの、明確な傾向なのです。
ここまで言えば、もう答えを言ったも同然なのですが、答えそのものは論者をはじめ読者のみなさんに考えて欲しいところなので、以下の引用文をヒントとして書き置くに留めておくことにしましょう。
「学芸会には何をしようか」と先生は嬉しさに輝き始めた少年と少女達の顔を見下してくすぐつたさうに言つた。「対話劇か唱歌か。」
 少年達はたつた一つの意見しか持つてゐなかつた。対話劇である。少年達は唱歌などめめしいものだと考へてゐた。しかし少女達は容易に彼女らの意見をのべなかつた。先づ彼女らは教室の隅に一つの秘密をでも守るやうにかたまつて、そこでひそひそと囁きあつたり、友達の肩を叩いたり、「いやあ」と叫んだりした。それが先生にも少年達にも、彼女らが急に「女」になつたことを感じさせた。少年達は腹立たしかつたが、仕様のないものと思つた。

※正誤
・下記に注目してくだい。

2012/10/17

どうでもよくない雑記:いま出している問題の解き方について

一連の記事の途中ですみません。


前回の記事のさいごに出しておいた問題について、いくつか答えらしきものをもらったのですが、問題を解く以前のところで躓いてしまっている人がいるようですので、答えの公開を明日あたりに延ばして、ヒントらしきものを書いておくことにします。

「問題を解く以前」で躓いているというのは、おおまかに言って、出されている問題のことば、学問的に言えば概念、というものについての把握が、日常言語のレベルでしかないままに問題を解こうとしてしまっている、ということです。

たとえば、幼稚園児が大人から聞いて意味もよくわからないままに誰かを「愛している」ということばを使う時と、身分の違いを押して駆落ちをした二人が、老年になって相手のことを想って「愛している」ということばを使う時とでは、そこに込められている意味がまったく違っていることはわかってもらえるでしょう。

これを認識論の世界では、「像の厚みが違う」といって、表現は同じであってもその内容が質的に異なるものとして扱います。(認識と表現の相対的な独立)

◆◆◆

日常でよく使われることばでさえ、こういった違いがあるときに、同じことばが日常で用いられるときと、学問的に用いられるときとでは、よりいっそう意味が異なっていて当然であるということも、わかってもらえるのではないでしょうか。

しかしだからといって、いきなり学問的な規定を身につけようとしても近道というものは絶対にない(ここを受験秀才は、辞書的な定義をまる覚えすることで、その概念習得の長い道のりを「暗記」で済ましてしまおうとする傾向が強いのです)のですから、出発点としては、日常言語レベルの像として把握しておいてもよいのです。

その日常言語レベルの像から出発して、学問的な構造を含めたことばが概念として一語に要されている書籍や文章にぶつかりながら、学問的な世界ではこれだけの意味を込めてこの言葉を使うのだ、という説明を繰り返し繰り返し聞くことを続け、「ああ、私はことばの概念というものをあまりにも低く見すぎていたのだな」という反省を日々繰り返すことを通して、学問の道を歩んでゆくことになるのです。

ところがそれでも、せっかくこんな文字ばっかりのBlogを、貴重な時間を費やして読んでいるにもかかわらず――つまりこのことは、自分の生涯というものを、自分の仕事を趣味を、外に出しても恥ずかしくない文化のレベルでやっていきたい、本質的に歩んでいきたいという志が多かれ少なかれあるはずだと信じるのですが――像の捉え方についての反省が、あまりにも感じられない回答の仕方は、さすがにもったいなさすぎる、と思ってしまうのです。

しかしこうは言っても、先ほども確認しておいた通り、「像の捉え方が浅い」ということは、初心においては避けられないことですから、そのことを詰っているわけではありません。

わたしがここで述べたいのは、
「自分で使っていることば、言葉、コトバに、(自分なりにではあっても)しっかりと「過程」というものをふまえようとしていますか?」
ということなのです。

◆◆◆

いきなり学問の概念を扱うときの姿勢を身に付けることはできませんから、「ことばの持っている像の厚みがどういうものであるか」という視点を、まずは、日常生活においてでも常に確認し続ける習慣をつけてください。

たとえば「私たちってずっと友達だよね」ということばを使ったり使われたりするときに、部活動で部長・副部長の関係として、喧嘩しながらも互いの全力を出しきって支えあいながらの6年間を続けてきたという過程を脳裏に捉え返しながら発せられたことばなのか、今日うっかり忘れてきた絵の具を借りたいがために発せられたことばなのかでは、ことばの持っている重みや込められた感情、つまり過程というものが、大きく違っていますね。

自分の使う言葉、自分に使われている言葉を、常に、こうやって確認し続けるのです。
これは何の修練になるのかといえば、ことばの持っている像の厚みを、そのレベルに分けながらとらえ、また駆使するという力、大きく言えば認識の力を磨くためのものです。
最終的にはこのことが、確かな人格の形成につながるものとして、自分の人生に直接関わる重大事として取り組んでください。

以前に、「弁証法は世界の運動法則である」と言ったときに、「なるほど、だからあなたはいつも刀を振り回したり山を走り回ったりしているのですか」と合点した研究者がいました。

これはあまりにも…な例ですが、言わんとしていることはわかるでしょう。

この人は、<運動>という学問レベルの非常に高度な概念を、自分が日常生活の経験から身につけた「運動」、つまり「からだをうごかすこと」であるとしてわかってしまった、そういうレベルにまで引きずり下ろしてしまったことを全く自覚できないままにわかったつもりになってしまった、のです。

しかし学問の道を歩む者なら誰しもが、振り返ってみたときには多かれ少なかれこういう恥をかきながら前に進むことになるのですが、それでも同じ所で足踏みをし続けてしまわないためには、「今自分が使っている言葉が、どのような像の厚みを持ったものであるか、どのような過程性をふまえているものなのであるか」という観点は、絶対にわすれてはいけません。

◆◆◆

以下は、「あなたは過程性をふまえてことばを使うことができていますか?もう一度考えてみてください」という意図で、わたしが数人の学生さんに返信した内容です。


タイトルに、「〜は本当か」とあるということは、そういう一般常識があるけれども、事実ではない、ということを本文で述べようとしているわけだね。 
さて大きなつかみとしてそのような流れがあるとき、今回批判している考え方というのは、「やる気があればなんでもできる」、つまり根性論とか、良くて精神論、のたぐいである。 
こういう、精神があれば身体は勝手についてくる、という考え方をする人は、精神の力を極端に誇張して捉えるために、「やる気があればなんでもできる」と言うが、このことは裏を返せば、「やる気がなければなんにもできない」ということでもあるわけだ。
これが単なる藪睨みではないということは、気持ちを病んだらとにかく休ませるしかない、身体を動かすのはもってのほかである、引き篭もってもやる気が出るまでそのままにしておかねばならない、といった方針からも事実的に窺い知れることである。 
たしかに、やる気があれば、物ごとがうまく進むという事は事実である。
人間はアタマの中に目的意識を持って、その像を目指して行動するのだから、本質的な規定としても大まかには当然ということになろう。 
しかし他面で、このやる気というものは天から降りてくるようなものではなく、我々の頭脳という実体が作り上げているものに他ならないのである。 
以上のことを受けて、「やる気」を始めとする認識が、頭脳という実体のはたらきであるということは、それはどのような土台を持っているであろうか?、というのが今回のお題であった。そこをもう一度ふまえてほしいと思う。
あなたの答えを見ると、やる気が何らの前提も無しにいきなり存在しているかのような捉え方をしてしまっているけれども、そこはあくまでも、「過程」というものに着目しながら考えを進めなければいけない。 
学問レベルで実践に取り組みたい、組織に頼らず一人で仕事をする能力、簡単には手に職をつけたい、という理由で、わたしのところで修練を積むことにするとなると、弁証法を使って、その「過程」をこそ、相当に厳しく問うてゆくことになる。少しでもやるつもりがあるのであれば、そういう考え方に今のうちから慣れておいたほうがよい。

ここには、「あなたの実力ならばもっとよい答え方ができるはずなのに…」という思いも込められているのですが、読み取ってもらえているでしょうか。

2012/10/16

日常生活での「相互」の浸透のあり方:「やる気があったらなんでもできる」は本当か (3)


(2のつづき)


前々回と前回では、ひとつの、弁証法を実践への適用の問題としてどう考えるべきか、ということをおさらいしつつ述べてきました。

そこでは、弁証法という法則性は、たしかに人間の身体と精神に働いているものではあっても、わたしたちが人間である以上、あくまでもその法則性を認識の上に捉え返して、さらに目的意識を持ってそれを現実へと適用してゆくことを繰り返すなかで、しだいしだいに技化してゆく、という過程がどうしても必要なのだ、ということを言いました。

◆◆◆

ところで、ここまでを結論的に無理矢理整理してみることにすると、「人間には弁証法性が働いており、弁証法を実践に活かすにはそれを認識し続けることが重要である」ということにもなりかねません。
弁証法を使った文章や論文を読んだとき、全文を読んでも、そこで描き出されている<構造>を見るだけの力がないと、当たり前のことから話し始めて、当たり前の結論で終わる、というようにしか感じられません。
そのため読後感としては、「それはそうだろうが、だからどうしたの?」といった感想になるでしょう。

実は今回の質問をくれた人が自身の友人に、ここのBlogで書かれている文章を読んでもらったところ、「当たり前のことしか書いてなくてつまらん」との感想をこぼしたと聞き、それはそうでしょうねと二人で笑いあったものでした。まったく無茶をしたものです。

それに対してこの質問者が、質問への回答をなるほど、と聞くことができるのは、そこに実践への強い関心があるからです。
自分自身が自分自身の役割や責任を果たすために、どうしても解かなければならない問題にぶつかったときには、行動のための指針というものがどうしても欲しい、となるのは当然のことです。
しかもこの行動のための指針というものは、「こうしたら」→「こうなった」を直線的な矢印でつないだ単なる経験則ではなくて、その根底に働いている、対象の持つ構造を描き出すものでなければ、どんな場合にでも通用する指針にはなりえないものなのです。

読者のみなさんが駅の本屋に行けば、恋愛やビジネス、金儲けについてのハウツー本が、店頭にうず高く山積みになっています。
そこには、「私はこうして年収1000万円になった」だとか、「私はこうして運命の人と出会った」などとあります。
しかしそれを手に取る人は、その筆者の経験談をそっくりそのまま聞きたいというのでは、実はなくて、実際には、その経験談から自分の実践の指針となる手がかりを得たいはずなのです。
しかしああいったたぐいの本をいくら読みあさっても、実際にそれを実践に移そうとしてみた途端、現実は冷たくもそのハウツーなるものを拒絶します。

この理由はといえば、それが個別の経験則の域を出ないものでしかないだけに、その他の場所や時間、それとは違った対象に向き合う時の指針には、どうしても使えないものだからです。
著者ご本人が、ビジネス思想や恋愛哲学などといかなる大仰な言葉で自説(?)を呼んでみても、実のところ、個別の現象から「論理」を引き出せていない、論理と呼べるレベルにはとても達していない、ということなのです。

ここで大事なのは、どのような経験をしたのかという個別の経験よりも、そこからどのようなことを学んだか、どのような論理を学んで、次の実践に活かす指針にし得たか、という論理の問題なのです。

ああいった個別の経験をいくら集めても、論理というものは絶対に出てこないので、眼の前の問題に根拠を持って取り組みたい実践家は、著者たちの口吻を真に受けるかたちで、「所詮“論理”などというものは実践とは無縁のものなのだ…」と溜息をつき、彼らの人生は、「論理」と名のつく言葉から絶縁することになってしまいます。

しかし実際には、高度の実践を確かに導くものは、高度な論理とその体系である理論、という他にはあり得ないのです。
そこでは個別の現象は捨象されて止揚されていますから、個別の社名や個人名は直接は出てきませんが、人間の経済活動や人間の認識のあり方が、その構造に立ち入るかたちで論じられているために、新しい問題にぶつかるときにでも、それを解くための導きの石になるものなのです。

繰り返しになりますが、この質問者が実に熱心に回答を聞きうるのは、その問題意識の高さによるものなのであって、しかもそれが、あくまでも実践に照らした問題意識であるから、なのです。
こういう、実践のために論理を学びたいという人にとって、「当たり前のところから論じ始めて当たり前のところにたどり着いた」という結論というものはさほど意味を成さないのであって、より重要なことは、そこにどのような過程的な構造が明らかにされているか、ということになるわけです。

対象がどのようなものであっても、それに向き合う当人が、個別の現象を一般化して、論理を引き出す習慣がなければ、たとえば構造面に触れている文章であっても「当たり前のことしか書いてなくてつまらん」となったり、「論理を振りかざす人間は現実を知らないだけだ」といった感想となってしまいます。

◆◆◆

それでも、なかなかに、「実践」と「論理」というもののあいだに、水と油のように絶対的に相容れ難い区分を設けてしまう人が跡を絶ちません。
ビジネス書はともかく、研究書と呼ばれるものであっても、ほんとうの意味での論理が提示されてこなかったという研究者側の責任もあって、実践と論理というものは、一般の人たちの常識としては、実に中の悪いものになってしまいました。

そのせいで、人の命を預かる立場にいるのに理論の助けを借りることができなかったり、低いレベルの論理を現実に押し付けようとして専門馬鹿と呼ばれ軽蔑される人たちが出てきてしまいます。

そこで、というわけで、実践から論理を引き出す必要のある人たちに、簡単な文章をたくさん読んでもらい、そこから論理を実際に引き出してみる、ということを繰り返し繰り返し、やってもらうのです。

質問者に見てもらったのは、以下の文章でした。
この引用では、マラソンランナーである浅井えり子さんが、ご本人を直接指導した監督の指導を受け入れるまでの事情が、自分自身の率直な感情を交えて書かれています。

ここには、タイトルの副題に挙げた問題、「やる気があったらなんでもできる」は本当か、を解く鍵が隠されているのですが、読者のみなさんにはそれを以下の文章から取り出すことができるでしょうか。次回までに考えてみてください。

「LSDをやり始めたばかりのころのことです。佐々木監督から、2時間、ゆっくりと走るように指示されたのですが、時間がたつにつれて苦痛になり、ギクシャクした走りになってしまうのです。2時間という時間がとても長く感じられ、連日のLSDは苦痛にさえ思え、仕方なく走っているような状態でした。そんな私に佐々木監督は何も言いません。次の練習のときも同じように走っても、それでも佐々木監督は怒りません。そんな練習を続けていくうちに気づいたのです。どんなに遅くても構わないのだと。どんなに遅くてもいいのなら、無理しなくていい。そんなふうに思えるようになってから、なるべく2時間を楽に過ごそう、という気持ちで走るようになったのです。楽に、という気持ちがフォームにもよい影響を与えたのでしょう。肩の力が抜けて無駄な動きがなくなり、ゆっくりの中にもリズムが生まれて、リラックスした無駄のないフォームに変わってきて、2時間という時間が苦にならなくなっていったのです。 
 このように、ゆっくり長く走ることが、苦痛から楽しく感じられるようになるには、数ヵ月の時間がかかりました。さぼりの精神から、ゆっくり走れるようになっただけですから、LSDをきちっと理解できたわけではありません。でも、頭では理解できなくても、身体は自然と覚えてくれます。考えすぎてしまう人が多いのですが、わたしの経験から、考えるより身体で覚えていくことが大切だと思うのです。」(浅井えり子『新版 ゆっくり走れば速くなる』p.29)

(3につづく)

2012/10/15

日常生活での「相互」の浸透のあり方:「やる気があったらなんでもできる」は本当か (2)


(1のつづき)


前回では、ご質問を受けて、人間の身体と精神が弁証法的な性質を持っている、ということについておさらいしたのでした。

一連の記事全体としての位置づけから言えば、今回の記事もおさらいなのですが、そのことを受けて土台とした上で、次回ではタイトルにある問題を考えてゆくことなります。

弁証法的にものごとを考えるためには、何回も何回も、耳にたこができるほど、ものごとの生成からその歴史性をたどって現在の形態へと至った筋道を論じなおさなくてはならないので、読者のみなさんにもある程度の努力を要求してしまうことは否定できませんが、意図して述べる繰り返しを倦まずに、ついてきてもらえれば嬉しく思います。

では、本文です。

◆◆◆

前回の一文め「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。」を受けて、質問内容にあった二文めはこうだった。
「しかしながらそれを認識しながら(出来るかどうかより意思を持って)生きるか、物事・現象と向き合うか否かが重要である点が極意論の所以である」
ここで、文章の展開を一時停止して、読者のみなさんに問いたい。

質問者はここで、「人間には弁証法性が働いている」、「それを認識し続けることが重要である」という自分の把握が正しいかと問うているわけだが、ここに来て間もない読者のみなさんの中には、「だからなんだというのか?人間存在の根底に弁証法性が働いているなら、我々が人間である以上ほうっておいても弁証法的になってゆくのでなければおかしいのではないか。何を確認しているのかまったくわからないが…」といった向きがあるかもしれない。

結論から言って、こういう考え方こそが、「非弁証法的」、つまり「形而上学的」なものであると言わねばならない。
この考え方のなにがいけないかといえば、実体やその機能と、技術というものをごっちゃにしてしまっている(直接的に同一のものとして誤って捉えている)、ということなのである。

これは例えて言うならば、わたしたち人間のうちには、ピアニストという職種の人たちがいる。
そうである以上、わたしたち人間という存在には、そのような仕事ができうる可能性が含まれている、と言うことはできるであろう。
しかしここで問題なのは、わたしたち人間がピアニストになりうるだけの運指や暗譜、作曲家との二重化の能力を持っているはずだからといって、寝転んでいれば誰でもそれを身につけうるか、といえば、そうではないはずである。

このことからわかるとおり、いくら実体のなかに可能性が含まれているからといって、それを自らの能力として身に付けるためには、数限りない修練が必要なのであって、しかもそれは、箸すら満足に持つことができないという指の働きのレベルから、できないなりにも繰り返し繰り返しの習練のなかで、数十年という年月をかけてしだいしだいに身に着けてゆく、という能力なのである。

さらにこの前提として、「自分がピアニストになりうる」という発想や、それを自覚して自らの確固な自由意志として堅持しうるレベルへの転化、つまり夢や志といった観念が必要であることもわかってもらえるであろう。

可能性が実体に潜んでいるのなら寝転んでいてもそれは発現しうる、などといった発想は、いくら形式論理学の教科書に例示されてあろうとも、実践に耐えうるような現実の構造の理解では決してないわけである。


ここまで見てくればわかる通り、質問者の問題意識というものが、あくまで「実践」に焦点が当てられていることがわかってもらえると思う。
これはおそらく、実践でぶつかった問題を解くために、なにか良い方法はないだろうか…と探していたところ、弁証法というものに突き当たった、ということなのではなかろうか。


◆◆◆

質問への回答に戻ろう。

質問を整理して言えば、一文めで、「弁証法という法則性が森羅万象にあまねく働いている以上、人間の心身にも働いていると考えてよいはずだ」との旨を述べてあり、二文めでは、「しかしそういう客観的な性質があるからといって、誰にとってもその客観的な法則性を意識したうえで、目的的な技として使いうるとは限らないはずだ」、という内容のようである。

さて文面中、あなたが「出来るかどうかより…」とことわったのは、「現時点において、ものごとを実現する能力が自らに備わっているかどうかはいちおう棚上げして目的意識をしっかり持たねばならない」ということを言いたかったのであろうか。
そうならば、そのとおり、である。

実践的に考えるときには、わたしたちはその時点での自らの論理・論理の不足を押してでも、少なくともかたちの上では、対象に弁証法的に取り組まねばならない。

なにしろどんなピアニストも、「ピアノが弾け「無い」」から、「ピアノが弾ける自分で「在る」」へと量質転化してゆくのであるから、その過程は極めて弁証法的だからである。

今の条件がいかに整っていなくても、自らが置いた夢、大志、といった目的意識の高みに照らして人格は創出されてゆくものであるから、現時点での力不足を固定化して、「ないものはないままである」などと物怖じしたり、「今わからないから真理は永遠にわからない」などと相対主義に落ち込んでしまえば、出発当初から形而上学に転落しているわけである。

そういうわけで、繰り返しになるが、たとえば人を教える、ということをひとつとっても、「まだまだ勉強が足りないから…」などといって、いつまでもいつまでも爪を隠しつづける(?)というのでは、実力をいくらつけたくてもなにも始まらない、ということになってしまう。

教育についても、あくまでも実践の中でそのやり方を高めてゆくわけであるが、実践的に言えば、その時に絶対的に不可欠であるのは、「この者を一流にせねば気が済まぬ、人生の恥であると思う」という、後進の人生に影響を与えることについての、自らの全存在をかけた責任感、というものである。

その志をしっかりと、まともに持っているのならば、行きあたりばったりで「あれをやったりこっちに手を出したり…」というかたちで指導方針が右往左往してしまうことは己が恥、となるわけであるから、「弟子とともに頂上にまで上り詰めることのできる道はどれであるか(世界観の選定)、その歩み方はどういうものであるか(論理の選定)」という目的意識が、あらゆる対象と向き合う際にも発揮されないわけがない。

大志と論理性、というと、理性と感情のような水と油をごっちゃにするとは語るに落ちた、のような反応を示す人間がいるが、彼等というのはやはり、まともな責任感を持って教育という実践に携わったことがないのであろう。
大志と論理性は、実践的な側面に照らせば、極めて強い関連性を持っていることがわかってくるものであるが。

◆◆◆

ともかく、ご質問をおおまかにつかまえるならば、あくまで論理というものは、自らの専攻と定めた対象を、正面から向き合うことをとおして次第に次第に引き出されてくるものなのである。

そうであるからには、まずは出発点として、三浦・エンゲルス的な弁証法の三法則をアタマの中にいつもいつも強く持って、それに照らしながら対象とじっくりと向き合い、それらがひとつの像となって自らの認識そのものとなってゆくよう自らの人生を、目的的に生きてゆかねばならない。

わたしたちが「こうなりたい」「こうでありたい」とアタマの中に描く理想像というものは、当然ながら、未だ現実に実在するものではない。
しかし、素材となる生活経験を出発点として、それとは相対的に独立に、時には絶対的に独立なものとして、自らの作品の構想、夢、大志、というものおぼろげながらでもアタマに描くことのできる実力というものは、人間にしかない、他のものには代えられぬ、特殊的な能力なのである。
わたしたちはそのアタマの中の像を正面に据えてそれに向かうようにして、それと現時点での自分の立ち位置とを比較しながら、理想像を現実化しようとして日々を生きるものである。

わたしたち人間個々人が弁証法的な存在であるということは、わたしたちの身体と精神が、自然・社会の構造を土台として持っているという事実からすればそのとおりであると言えなくもないが、だからといって、ただ漫然としていれば弁証法的に高まってゆくかといえば、絶対にそんなことはないのである。
人類が持ち得た最高の認識の体系を学問といい、弁証法はその上に置かれた冠石である以上、わたしたち一人ひとりが自らの努力でもって、その認識をこそ、弁証法的に技化してゆかねばならない。

まわりのものごとを見るときに、弁証法的に見れる者から見れば弁証法的であり、形而上学的にしか見れない者から見れば形而上学でしかないのであるから、ものごとの弁証法性を引き出しうるかどうかということは、その意味で、それを観る者にかかっているわけである。

三浦つとむがその本の中で、「人々は議論を闘わせる中で弁証法を「意識」するようになり…」といった言い回しをしていたのは、古代ギリシャにおいて、議論の中で「こうすれば正解に近づいてゆく」というおぼろげな像が、明確なかたちをとりつつあるようになったときにそれに名前が付けられ、弁証法という名が与えられてからはそれを「意識」的に使えるようになっていった…という過程を述べての一言であるわけである。

わたしたちがやるべきなのは、古代ギリシャから現代に至るまでの、この壮大な論理の生成と発展を、なんらの弁証法性もないところからそれを自覚し、意識的に習練・修練し、発展させてゆく、ということなのである。

現実にはまだない目標・夢をいだいてそれを実現しようとする、これらのことがらを要して、「人間は認識的な実在である」と言うのであるが、これまた極意論である。
大事なのは、その概念規定を過程性を含めて捉え返した上で、さらにそれを自分の人生に直接的に関係のあるものとして、実際に自らの人生を歩んでみることが出来るかどうか、という一点にかかっている。


(3につづく)

2012/10/14

日常生活での「相互」の浸透のあり方:「やる気があったらなんでもできる」は本当か (1)


夜風が涼しくなってきましたね。


今年の夏は、後進たちだけでなく周りの人たちにも走ることを勧めたので、生真面目に取り組んでくれている人は、この数カ月でずいぶんと実力がついたことがわかってきたのではないかと思います。
事実、新しいことに向きあいはじめた数ヶ月というものは、自分の心身に眠っていた可能性の開花が自分でもよく感じられるために、その実感だけで意欲を維持できるものです。

自分でスケジュールを組み身体を動かすことで実力がつくという量質転化、身体を動かすことで精神面が整ってゆくという相互浸透の過程は、実践のなかで実感として掴んでいってもらうのがよいので、数ヶ月と言わず、ずっと継続していってもらえればと思います。
(残る法則性である「否定の否定」は?という質問がありそうですが、たとえばものごとの上達における「故障」がどういう位置づけのものであるかを、まずは考えてみて、その考えを聞かせてください。)

ただそのとき、わたしたちの、そうした目的意識を持つ人間としての特殊性の土台には、やはり生命体としての一般性があるので、環境との相互浸透というものもふまえておく必要があります。
ランニングに関して言うならば、暑い季節が全体としては寒くなりつつありながらも個々としては寒くなったり暑くなりなおしたりを繰り返すという今の時期には、それ相応の心身ともへの影響が避けては通れない、ということになります。

わたしがここで、秋、という一言で済むはずの季節を迂遠に見える表現で述べたことは、とりもなおさず秋とはどういう季節かを、弁証法的に(=ここでは、重層的な過程と、対立物の統一の構造を踏まえながら)考えてほしいからなのですが、それはともかく、結論から言うならば、この時期には、心身が環境の変化に浸透しきれず疲れやすかったり、また寒さによって故障を察知する機能もが低下してしまったりといったような落とし穴がある、ということなのです。

「最近、なんだか走りこんでも疲れなくなってきたな」という実感による嬉しさのあまり、かえってバランスを崩したり故障として転化してしまうことのないよう、心身のあり方をしっかりと見ていてくださるようにお願いします。

念のため整理しておけば、「疲れなくなった」という現象が自らの実感としてあるとき、その原因を「あれだけ走ったから」という主体的な原因「だけ」に帰することなく、それを環境の変化を考慮に入れて、実体と環境との浸透においてあらわれた現象であると考えてください、ということです。
なぜにここまで当たり前の現象についても、その構造を述べているかといえば、たとえば生物の進化を考えるときにでも、<「相互」浸透>だけでも意識できているのならずっとよい研究になるのに…というものが目に付くから、ということがあります。

さて、この数行の前書きからしても、ずいぶん難しくなってしまっていることもあり、今回は寄せられた質問に答えたものを例に引きながら、これまでの簡単なおさらいと、実践から掴みとった実感をいかに論理的に見てゆくか、ということについて考えてゆくことにしましょう。
今回はそのなかでも、実践の中から「相互浸透」見つけるとき、それがしっかりと「「相互」の浸透」として捉えられているか、という問題意識で読んでくださると嬉しく思います。今回のタイトルは、そのような思いを込めて、「相互」の、と、括弧書きをしたものです。

実際のやりとりの流れを損ねないように表現を修正し、回答については加筆しました。
メールでの回答の際、文体を引き締めたいと考え、敬体ではなく常体(である調)を採用したため、以下の文章はその表現に変わります。

◆◆◆

いただいた質問は以下のものであった。
以前送っていただいたメールについてですが、私があなたから得た情報に照らし合わせて考えて出た結論は、 
「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。しかしながらそれを認識しながら(出来るかどうかより意思を持って)生きるか、物事・現象と向き合うか否かが重要である点が極意論の所以である」です。 
あなたの認識と比較してどのような差異(未熟さ、誤りを含む)が有りますか?
概念についてやや誤解があるようなのではじめに断っておきたいのだが、わたしがよく言う「極意論」というのは、こういうことである。

ひとつの対象と取っ組み合って、その過程における構造を引き出した結果、最終的にひとつの結論に達することがある。
たとえば、「人間とは認識的な実在である」や、「弁証法とは自然・社会・精神における一般法則である」など。

しかしこれらの文言、学問的に言えば概念規定というものは、それ自体を丸暗記して他の学説と組み合わせたとしてもなんらの意味もなく、これを「習得する」という場合には、必ずその概念がいかなる成立根拠を持っているか、つまりいかなる過程的な構造がその一言として要されているか(止揚されているか)、という<過程性>をこそ、自らの脳裏にたどってみることでなければならない、ということである。

そういうわけで、目の前にある概念に含まれている過程をたどり、<過程性>を自らの脳裏に捉え返すことを促す意図を込めて、この論理は「極意論」である、と述べるわけである。
逆にいえば、「これは単なる結論、単なる極意でしかないのであるから、これだけをまる覚えしたり、金科玉条のごとく崇め奉るだけでは何の意味もありませんよ」ということなのである。

◆

そう断った上で、あなたからもらった把握を検討しよう。

まず一文目。
「弁証法や個人と万物のつながりは人生の一般性(普遍性)としてどの人間の根底にも存在する。」
おおまかに言って今回のご質問は、「目的意識が人生に与える影響や如何に」というものであると理解した。
つまり弁証法性は、意識せずともわれわれの物質的なあり方、つまり身体の実体と機能と、精神的なあり方、つまり認識のあり方に宿っているが、それをなんとなく捉えておくか、またはそれを強く自覚して、目的的な技として高めようとしながら生きるかで、どのような差異が出るか、ということであろうか。

以下は質問をそのように理解して答えてゆくことになるが、これは結論から言えば、最終的にはサルと人間くらいの違いが出る、と思ってもらってよいと思う。

まず本題に入る前に、「弁証法は森羅万象における一般法則である」という論理について、今一度確認しておこう。

森羅万象はおおまかにわけて、自然・社会・精神という順番で発展してきた過程的な構造を含むものであった。

ここでは、そもそもの「自然」から生まれた生命現象が、単細胞生物として実体を得た後、地球との相互浸透によってカイメン、クラゲ、魚類、両生類、サル、ヒト…と発展してゆくにつれて、「社会」と呼ばれる集団生活を営むようになっていった。そのなかでヒトは、互いに関わりあうことをとおして、その社会生活のなかで人間たる「精神」を育んできた、ということである。

ここでしっかり把握しておかねばならないのは、自然・社会・精神という順序を誤ってはいけないことと、それらをいま目の前にあるものだけを捉えてイメージしてしまってはいけない、ということである。一言で言えば、<過程性>に着目しなければならない。

たとえば、太陽から振り飛ばされた地球は、同じく太陽を起源とする月によって太陽のエネルギーを媒介的に受け止められることをもって、物体は必ず冷える、という物理現象に抗うかたちで、冷えてゆかない、という化学現象を引き起こすことになった。

全体としては冷えてゆく、という物理的な一般性がありながら、その土台の上に、冷えるかと思えば冷えない、冷えないかと思えば冷える、という運動が、特殊性として起こり始めた、ということである。

この大きな対立物の統一の構造のうち、後者のなかにも見られるまたもやの対立物の統一の構造である、「冷えると共に冷えない」という現象こそが、波をはじめとする運動の形態となったのであり、それはわたしたち人間の身体の性質にも受け継がれている、ということは以前にお伝えしたとおりである。

◆

だから、「弁証法は〜」という概念規定で意味されているのは、いまここに立っているわたしのなかに精神があり、社会があり、見果てぬ宇宙をはじめとした自然がある…などといった場所の拡がりなのではなくて、自然・社会・精神が、どのように生成され、そして発展してきたのか、という歴史的な過程のことなのである。

弁証法では、すべての森羅万象をこのように、その生成段階にまで遡って原理的・本質的に理解することを要請するのであるが、ここでもやはり<過程性>を重視して、自然という構造の上に社会の構造があり、その上に精神の構造がある、というふうに理解しなければならない。
繰り返すが、ここを、森羅万象のなかには自然と社会と精神があり…と、あたかも並列的な三要素として受験勉強的にまる覚えしてしまうと、いともたやすく形而上学(=非弁証法的な論理)に陥ってしまうことを覚えておいてほしい。

こう断った上で、人間の身体の生理構造と精神の認識構造というものの根底にも、自然と社会の構造が一般的に土台として存在するのか、といえば、それはそのとおり、である。


(2につづく)