ガックリくる、という言葉がある。
みなさんは、この感想を、どういう場面で味わうものなのだろうか。
「絶望する」、「失望する」ほどまでは酷いものではないけれど、
「信じたかったけど、やっぱりダメだったか」といった意味合いのことばだろうか。
以前からあるていどの関心を持っていた事柄について、いざ実際に見たり聞いたりしたときに、
悪い予想が当たって「あ〜あ」と思って肩を落とし、溜息をつきたくなるような、やるせない感情である。
わたしがこの感想を持つときは、ある人のつくる作品や振る舞いなど、表現そのものではなくて、
ズルさや不誠実、やる気の無さといったような思想性、簡単にいえば「姿勢」にたいしてがほとんどだ。
姿勢について問題を抱えている人の中には、
上司が自分の言ったことを、同じ意味の深さを持って受け止めてくれないだとか、
逆に、恋人に振られたあとで、物事の受け止め方が薄かったことに気付かされた、などという人がいるだろう。
姿勢、と一口に言っても、相手に悪意がある場合はまだしも、
認識における像の受け止め方に問題がある場合は、
互いに「このわからずや」と喧嘩別れしてしまう可能性が高いだけに、
より根本的な問題である。
言い換えるなら、同じ言葉を使って話をしており、さらに合意が取れているつもりなのに、
発した側の意図するところと、受け取り手の意図するところが違っている場合がそれである。
はじめにおさえておいてほしいのは、わたしがここの記事でたまに書くように、
人間がもつ認識というものは、「像」として成立している、ということだ。
認識の中の「像」は、経験をとおして折り重なることでその厚みを増してゆき、確かなものとなってゆく。
ここに、反復練習の効用があるのであって、基礎というものの大事性、
飛び級をしては大成しないという必然性があるのであるが、
今回お話しするのは、その大元の、像を厚く受け止めるか薄くで済ませてしまうかという、
認識の中の「像の受け取り方の能力」というものである。
◆◆◆
わたしたちは日常生活の上で、ほぼすべてのコミュニケーションを「ことば」に頼っている。
これが座学ならまだしも、高度な知的経験を継承する場合や、
身体運用を指導するときなどには、難しい問題となって現象する。
「もっと足を前に出せ!」や、「目付をしっかりしろ!」などはまだいいが、
「もっと頑張れ!」や、「論理的に考えろ!」などに至るに付け、これは大問題となる。
これらが問題となる理由には二義があり、
一つに、指し示したい事柄の言語化が難しい場合。
二つに、「頑張れ」や「論理的に」という概念のあいまいさの問題である。
前者は、おもにアドバイスする側の論理能力や表現能力に問題があるわけだから、
指導者の努力次第では、解消の見込みもあるものである。
しかし後者については、いかんともしがたい問題がつきまとう。
それが、「像の厚み」の問題である。
◆◆◆
誰かに「頑張れ」と言われたときに、その受け取り手がとても真面目な人間であるとすると、
彼は彼の思う「頑張る」像に従って、「頑張る」という行動を起こすわけである。
それが、アドバイス側の「頑張る」像に見合うものである場合はいいのだが、
そうでない場合には、「なぜあいつは頑張らないのだ、言うことを聞かないのだ」ということになり、
なおさら「頑張れ」と言うことになる。
そしてまた、そのコミュニケーション不全が続くと、受け取り手も「頑張っているのに、なぜダメなのです」
という不満が募りに募ったのち、離反することにもなりかねない。
ここでの問題を受け取り手側に限定すると、
彼が「とても真面目」であるという、得難い性格を持っていることは相当に良い条件であったにも関わらず、
彼はどうしても、自分の認識出来る範囲内で、物事を考えようとしてしまう癖があることに思い致さないために、
かえって逆の効果を産み出してしまったわけである。
「受け取り手側に限定すると」とことわったのは、
実際には、アドバイス側の説明が十分でない場合も多く、
コミュニケーションというものは、双方の間の関係性として成り立っているのだから、
どちらが悪いか、と明確に責任の所在を特定できることは稀である、ということを言っておきたいからである。
念のため指導側に向けて要すると、「自分の指導力を棚にあげて、受け取り手側のせいだけにするな」、ということである。
さて話を戻すと、この「自分の想像の範囲内で物事を考えようとする」という抑えがたい性質は、
人間ならば誰にでも多かれ少なかれ備わっているものだ。
なぜなら、人間の認識というものが、それまでの環境との関わり合いの中から生み出されてきたものであるから、
その土台となっている認識をもとに新しい物事を判断しようとするのは、当然の成り行きというものである。
ここには、悪気があるとかないとかいう問題はあまり入ってこないと言ってよい。
自分の認識不足が後に重苦しい反省と共に自覚される場合があるとすれば、おぼろげながら自分自身でもそのことに気づいていたが、
見ないふりをしていた、といった場合であろう。
◆◆◆
人間の認識を受け止めるところの、いわゆる視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、
つまり五感覚というものは、それぞれの人生において、
人間の枠内で自然成長的に生育されてきたものだから、各自各々の癖を持っているわけである。
今回論じている「像の厚み」の問題も、ここに由来するのであって、
たとえば、「クジラ」という概念を受け取ったとしてみよう。
ある受け取り手は、アニメ的なクジラを像として描く。
どんと大きいアタマに見合わぬ小さな尻尾、つぶらな瞳の巨体が、ぴゅーっと潮を吹くイメージであろうか。
吹き上げられた潮にのって、カモメさんとおしゃべりをするような光景である。
他方、こんな像を描く人もいる。
小さな小舟で大海に乗り出し、意気揚々とオールを漕いで旅に出た道中、遠くで拭き上げられた潮を手がかりに進んでみたら、
ざばんと波を揺らしながら近づいてくる巨体がある。
感動と共にもっと近くで、と思ってはみるが、相手の巨体の起こす大波ゆえに船が転覆の憂き目に合う。
あわやという思いで必死に船体にしがみつきながら、これが最後の光景かとその姿をこの目に焼き付けようとすれば、
どうも非常に好奇心旺盛な生き物であることが知れてくる。
しかしその愛らしい好奇心がまた、船を転覆せしめ、自分を死に追いやるかも知れないのである。
図鑑で見た姿や前もって伝え聞いた話とはまったく違う、ことばでは語り尽くせないその姿に、畏怖の念を覚える――そんなイメージだ。
ここではかなり誇張して書いているが、こういった「像の受け止め方」の差は、実のところ、歴然たる違いがあるものである。
もちろん、どちらが悪いなどということを論じようとしているのではない。
◆◆◆
ここを、自分の脚で旅に出て、実際に見たり聞いたり臭ったり、ときには心身ともに傷ついたりして体感した経験を元に、
間近でそれを見るかのごとく臨場感を持って想起できる場合もあるし、
はたまた普段見慣れているアニメの延長線上にイメージする場合もある。
このたとえでわかることは、同じ概念を受け止めたときにも、
その概念が認識の中に描く像というものは、各々自分勝手なものなのだから、
ここでわたしたちは、「認識の厚み」というものを考えなければならないことになる、ということだ。
五感器官をとおした認識のありかたは、それぞれの人生を通して個性的なものとして結実されているから、
これがいわゆる各人の「個性」として現象しているものの正体である。
ある人は、「頑張れ」と言われたときに、人にほめられるために、
つまり人の見ているときにだけ頑張ろうとするかもしれないし、
また他方、自分の努力不足を指摘されたと受け止めた人物であれば、
「何かもっとできることがあるはずだ」と思ったり、逆に「頑張っているのにどうして!」と思ったりするのである。
たとえば「打ち込みをやっておけ」と言われたときに、
「先生は回数を指定していなかったから、適当にやってさっさと帰ろう」と思う人間もいるし、
「先生は私の欠点を見抜いた上で指摘してくださっているのだ、やめろと言われるまではやめまいぞ」と思う人間もいるということになる。
(つづく)
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