2011/02/12

どうでもいい雑記

前回、Microsoftの悪口を書いたら、Nokiaとの戦略的提携が発表された。

わたしが触れたらなんか起こる、
というのではもちろんなく、それだけ業界が急速に再編されているということだろう。


Nokia側のメモは以前に流出していたので、
噂レベルでは伝え聞いていたが、いざ発表されると思うところがたくさんある。

現時点の発表が確定ということではないようだが、いちおうは、
これでAppleのiOS、GoogleのAndroid、Nokia+MicrosoftのWindows Phone、
という三つ巴の競争になっていくということだそうな。


ただ、一昔前なら特集記事付きの一面記事になってもおかしくないようなニュースが、
こんなにひっそりと発表されちゃうところに隔世の感がある。
二社とも、ずいぶん弱ってきてたものなあ。

Nokiaなんかは、去年発表したてのプロジェクトをほぼ終息させるらしく、
そうとうな焦りが見え隠れする。

Microsoftにしても、去年はWindows Phone 7を鳴り物入りで投入した
ところなのだが、市場の反応は芳しくなかったのではないだろうか。


シェアばかりとにらめっこしていると消費者の実態はわからなくなるが、
基本的には「指名買い」されなければ、「値踏み」されるしかない、ということだと思う。
Windows Phone 7のラインナップを見ていると、なんだか全部同じに見えちゃうなあ。

人間というのが動物とまったく違うのは、
ある目的となる像をもって(目的的に)、行動を起こす(労働する)ということだ。
「考え方」そのものが間違っていたら、「やること」も正しくなるはずがあるまい。

◆◆◆

さて、前回の記事について、
「批判」するということの説明を兼ねていちおうことわっておくけれど、
前回の記事ではMicrosoftのことがきらいで仕方がないと言ったのではなくて、
「MSのやることがきらい」、と言ったのだ。


日本にいると、「批判」という姿勢そのものが嫌がられることが多いよねえ。
少しでもダメ出しをしようものなら、全人格を否定しているように受け止められることが多い。
もっとも、たしかにいわゆる「批判のための批判」が好きな人もいるから、
慣れていない人には判別が難しいらしいのだけれど、簡単に見分けようと思ったら、
「ちゃんと相手に分かるようにどこがダメかを説明できているかどうか」
ってことを見ればよい。

というわけで、「批判」は、相手のためを思ってやること、
「批判のための批判」は、自分のためを思ってやること、
と考えてもらえたらいい。

わたしの研究は、
「とにかくダメだ」、「わけがわからん」、「難しすぎる」
と言われることがあるが、こういう場合には、こっちとしてはどうしようもないもの。

◆◆◆

話が逸れたけれど、
Microsoftも、研究段階ではけっこう良いシーズを持っているのだ。
(seedsというのは、商品の元になるアイデア、まだ芽の出ていない種、ということね)

下の動画を見てほしい。
Microsoftが開発していた"Courier"である。

これは2画面であることを活かしたダブレット型のコンピュータだけれど、
現在主流であるiPadを超えているところもたくさんある。

折りたたみで小さくできること、
それぞれの画面の役割を切り分けていることをはじめ、
画面のあいだのベゼルをうまく使ったインターフェイスなどは画期的とさえ言えるほどだ。






もちろん、これはコンセプト段階のビデオだから、
実際にリリースされたときにはまた違った使い勝手になるであろうが、
わたしとしては製品化が心待ちなプロダクトだったわけである。

「MSよ、ついに目覚めたか!」と思った。

◆◆◆

ところがどっこい、当のMicrosoft、
このCourierチームを、まるごと解散させてしまった。

一言でいえば、
「ほんとに商品化できるかどうかわからないコンセプトに金は出せない」
ということだろうが、なんとも残念な思いがしたものだ。


その代わりにやったことといえば、Windows 7を、ARM系CPUに対応させる、
(WindowsのOSを、スマートフォンなどでも使えるようにするってことね)
ということだった。


いったいそんなことをして、誰が得をするか。

「Windowsを手のひらに」がコンセプトだったWindows Mobileが、
ずいぶん前からスマートフォンを展開していたにもかかわらず、
あっという間にiPhoneやAndroidに市場を奪われたのを忘れたのか。

数年前からノート型のタブレットを売っていたのに、
まるで見向きもされず、iPadの成功を横目に見ているしかなかったのを忘れたのか。

消費者は明確に、「コレジャナイ」と言っているのである。

◆◆◆

まるでできないのなら口出しなんかしないんだけど、
できるのにやらないというのは、単なるビビリである。

ビビってリスクをとらないというのは、
リターンを諦めた、成長などしなくていい、ということである。

縮めて、「やることがきらい」。

◆◆◆

仮にも「ファン」を自認するなら、
相手が失敗しても見守ってあげることはいいにしろ、
その相手があからさまに手を抜いたりしたときには、
「それってどうかと思うよ」、「最近どうしちゃったの」
と、諭すことができて当然ではないだろうか。

ところが世の中にいるファンっていうのは、
一旦好きになったら、どんなモノが世に出ても、
傍目にはどう見ても失敗作だったとしても、
「だがそれがいい」などと言ったりするのが仕事らしい。


相手が会社であろうと、個人的な付き合いのある人間だろうが、
まっとうに批判ができなくて、なにがなにがファンか、なにが友人かと思う。
わたしは親しい友人にほど、批判的でありたい。

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