この一連の記事は、次のようなことを考えるために書かれたものである、ということだった。
“「デザインする」という過程の中に、どのような合理性、論理性が含まれているのか?”
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今回は、その議論のたたき台として、自転車用のバッグを作る、ということを目指してゆくから、ここではアタマの中に描いたものを実際に手を動かして作る、という技術の面よりも、アタマの中に明確な像を描いて作成にとりかかるまでの過程をいっしょに追っていってもらいたい。
極度に単純化して一般化して言えば、ものづくりをはじめとした芸術の創作過程の大まかな構造は、以下のとおりである。(詳しくは、三浦つとむ『芸術とはどういうものか』を参照)
ここでは、これから創るものを思い浮かべて、物質的な資料を集めそれを参考にしながらアタマの中に明確な像として描いてゆくまでを追ってゆくから、この図式で言えば、「対象→認識」に焦点を当てていることになる。
もっといえば、最も重要なのは、対象から認識までの過程、つまり「→」そのものである。
わたしたちが、現実の世界にあったものをそのまま複製するのではなくて、それらの資料を組み合わせたり不要なものを取り除いて新しく自らが目指すものを思い描くというのは、そこで行われている活動が、「単なる模写」ではない、ということを示している。
◆◆◆
さて具体的なバッグのわたしが最終的なイメージとして目指したのは、下にある、
ずいぶん古い写真のバッグである。
ただしこれは、わたしにとって雰囲気が魅力的であるということに過ぎず、
機能面に目を向ければ欠点も少なくない。
・中のものを取り出すためには、バックルを外さなくてはならない。
・一本のストラップでしか固定されていないようだから、走行中に荷物が揺れてしまう。
・構造上、サドルに固定したままでフタを開けるとすると、バッグが傾いて荷物がこぼれ落ちてしまうだろうから、そえ手が必要になる。
これらのことは総じて、
・ストラップ一本で「サドルとの固定」、「蓋を閉める」をはじめとした複数の役割を担おうとするところに無理がある
という大まかな判断ができる。
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このことから、あるひとつの部品に複数の機能を持たせようとするには限界がある、というとりあえずの仮説が導き出せる。
機能とデザインの両立のためには、適切な妥協点を探さねばならない、ということである。
上の写真の場合で言えば、シンプルな形状の箱に一本だけのストラップが備え付けられているというデザインは、無駄がなく魅力的だといえるが、「無駄がなさすぎる」という逸脱によって、使い手に努力を強いる、という欠点も備え持っていることになる。
この欠点は、それぞれの機能を、複数の部品にわけて持たせることによって解消できそうである。
ところで、ここで機能とデザインにおける「適切な妥協点」と言ってはみたが、さて「適切な妥協点」とは、一般的に導くことのできるものであろうか?という疑問があるかもしれない。
これが人によって異なるのなら、デザインから論理を引き出すことなど不可能になるからである。
このBlogを、興味のないジャンルまでの読んでくれているような読者であれば、わたしの言わんとするところを読み取ってくれるかもしれないが、ともかくその「適切な妥協点」は、「実践の必要性」から導きだされるのである。
これは、いつか「飼い犬の生命を救うために家族の生命を危険に晒すべきか」(Buckets*Garage: このBlogはなにを伝えたいのか(1))とたとえを出しておいたことと、論理的に同一の問題である。
今回の場合であれば、わたしはこのバッグを使って数日間の自転車ツアーにゆかねばならない、という目的があるから、それが実践の必要性、ということである。
これがたとえば、近所のスーパーでの買出しに過不足がないバッグで良いのなら、必要な条件は変わってくるであろう。
(03につづく)
【余談】
一般の読者にとっては余談ではあるけれど、この一連の記事に出てくることばというものは、いちおうの整理をしているつもりではあるが、まだ明確な概念規定が行われているとは言いがたい。
たとえば「デザイン」、「機能」、「合理性」などといった重要な用語が、明確な区別と連関によって整理されていないままであり、その場所その場所で違ったニュアンスをふくんでいる。
ところが、これまでたんに「格好が良い」といった感性的な理解が大勢を占めているデザインという分野に、論理性のメスをいれて整理してゆくという試みをするときには、どうしても試行錯誤の中で、つまり論じてゆく中で概念を明確にする作業が欠かせない。
そういうわけで、読者にとっては読み返しながら理解してもらう努力が必要になるかと思うが、わたしとしてもそういった努力がなるべく少なくなるように工夫してゆこうと考えているので、お付き合いいただけると嬉しい限りである。
これまで「自称ハイセンス」な一部の思想家、評論家の手に委ねるしかなかったデザインという分野に論理の光を当てることを通して、それを万人の手に還すという作業は、これからの時代の人々の手によって為されてゆかねばならない作業だと考えている。
学問的には、三浦つとむの唯物論的芸術論を、実践を通して科学化してゆく過程にこそ、わたしの目指すところはある。
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