例のごとく長々と書いてしまったので別記事にしました。
というわけで、前回の続きとして読んでください。
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どうでもいいけれど、今回をはじめとする一連の、デザインに関する記事は、美的なものに関心がない読者にも少しでもわかってもらおうと敬語調に書いたのだが、なんだかやっぱりはっきりとモノを言うためには常体のほうがいいなあ。
ってわけで、いまさらながらいつもの調子でいちばんさいご(※前回の記事のさいご、ということ)に言いたいことを言ってしまうと、自分の実績がどんなものであろうが、そこに胡座をかいているようなものは、会社でも人間でもやっぱり話にならないな、とおもう次第。
ってわけで、いまさらながらいつもの調子でいちばんさいご(※前回の記事のさいご、ということ)に言いたいことを言ってしまうと、自分の実績がどんなものであろうが、そこに胡座をかいているようなものは、会社でも人間でもやっぱり話にならないな、とおもう次第。
いまは戦争というものの本質が、資本主義の中に巧妙に包み隠されている時代だから、どんな作品も、そのほとんどが商品としての形態をとって世の中に現れてくる。
そこには、「商品としての商品」と、「商品の皮を被った作品」が混在しているから、作り手の認識を手繰り寄せながら、両者をあるていど区別することのできる鑑識眼が求められている。
これはもちろん、作品の商品としての性格を否定するものでもないし、逆に作品としての質が高ければそれを受け入れない消費者がおかしいなどといいたいわけではない。
しかし、同じ市場でシェアを競っているように「見える」ことに引きずられて、ある組織がどのような意図をもってその商品を生み出しているのかを見ずに、「勝ったか負けたか」という現象でしか物事を語れない人間がほとんどであることを見ていると、(見た目には)同じ人間としてなんとも悲しくなる。
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デザインにしろ芸術にしろ、もし少しでも見る目を付けたり、自分のことを目利きだと言いたいのならば、ひとつにはその作品の作り手が、「どのレベルまでそのものを突き詰めているか」ということくらいは見ておいてほしいと思う。
以前に、ものづくりにおいては、95%まではそれなりの人なら誰でもやってくるけれど、残りの5%をどれだけ血の滲むような思いをして突き詰められるかで、作品の寿命は2倍にも3倍にもなる、だから「神は細部に宿る」というのだ、というようなことを述べたことがある。
どんな例をとってみてもよいが、たとえば同じコンピュータのOSだと思われているMacとWindowsであるが、ひとつウィンドウをとってみても、前者は常に"OK"がウィンドウの右下にあるのに対し、後者は同じ位置には"キャンセル"が占めており、"OK"はばらばらである。
もしMacが使い勝手に定評があると知っていたり、また使い勝手になにか違いがあるなと感じたときには、「そこに何があるのか」、言い換えれば「そこには作り手のどのような工夫があるのか、ないのか」と問いかけてみてほしい。
このたとえの答えは、Mac OSの作り手は、人間の認知のありかたを研究した上で、人間はまず大枠を認識したあと、そこから目立つものをさがすように絞り込む、という性質を特定した上で、作業中のウィンドウにおいてもっとも使用頻度の高いボタンを、「常に」右下に持ってくるようにしているのである。
ではWindowsの作り手はどうかといえば、これはただMacのインターフェイスを模倣した上で、訴訟なんかで面倒がないように「単に逆にした」だけ(!)である。
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ここをオタク連中は、「慣れればどっちでも同じ」などと短絡してしまうが、同じなわけがなかろう。
一般人は、オタクではないのである。
もしはじめて訪れたビルの玄関に丸ノブがついているときに、押しても引いてもドアが開かないものだから鍵が閉まっているのだと諦めたとしよう。
待ち合わせに遅れているがどうしたものかと待っていたら、おもむろにドアが開き、中から取引先が厳しい顔を出した。
「いったいどれだけ人を待たせるのか!?」
しかしあなたはそのとき、ひとつのことに気がついた。
実のところそのドアは、引き戸だったのである。
これでも、「慣れればどっちでも同じ」と言えるだろうか?
デザインというものは、そういうものである。
ユーザーインターフェイスの第一人者とされるドン・ノーマンの著作に、『誰のためのデザイン?』というものがあるが、慣れれば云々などと短絡してしまう連中は、「誰のため」という以前に、デザインが「人間のためにあるし、そうでしかない」ということすら失念してしまっているという情け無さを自ら露呈しているのである。
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ユーザーインターフェイスの第一人者とされるドン・ノーマンの著作に、『誰のためのデザイン?』というものがあるが、慣れれば云々などと短絡してしまう連中は、「誰のため」という以前に、デザインが「人間のためにあるし、そうでしかない」ということすら失念してしまっているという情け無さを自ら露呈しているのである。
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わたしは、優れているものをどんどん取り入れてゆくべきだと思っているし、もし学者などでなくても、あたらしい物事をはじめるときには、まずは目指すジャンルのことをおおまかにでも網羅的に調べた上で、大きな絵地図を描いておくべきだと考えている。
それが「学ぶ」ということである。
その姿勢なくして、自分は能力があるからだとか天才だからとかのたまって、その姿の中に謙虚さが微塵も感じられない人間というのは、これは接するに値しない。
もし能力があるというのなら、その能力で以て、己の「才」というものがいかにして生成されてきたのか、というくらいは問うてみて明確な答えを提示してほしいものである。
もっとももし仮にそれができるのならば、そんな姿勢などとれるはずもないのであるが。
褒められるために動くというのは、物心つくまでで卒業としたいものである。
ともあれ、売れていたり、優れていると言われるデザインを単に形だけを真似るのではなくて、そこに「作り手のどのような意図が働いているのか?」と問いかけて、彼女や彼らが、「使い手のためにどのような工夫を凝らしたか?」を認めなければ、真の模倣というものは絶対にありえない。
ここは、観念と物質をまるで関わり合わない別個のものとしか理解出来ないアタマの堅い連中には詭弁としか映らないことのようだけれど、わたしたちが抽象画を観たり、新しいジャンルの音楽を聴き始める時には、「はじめはわからなかったものがだんだんわかってくる」という事実を誰しも経験するものである。
そうすると、わたしのいつも大事だと強調する認識の在り方というものは、実のところ、対象との関わり合いにおいて、量質転化的に感覚へと相互浸透してゆくものなのである。
ここをどれだけ大雑把に見ても、観念が物質へ、物質が観念へと影響を与え合ってゆくさまくらいは見て取ることができよう。
極意論的に述べるとするなら、仮にもまっとうな人間たろうとするなら、作品の理解はその作り手の思いを読み取ったればこそである。
であるから、世の中に溢れているくだらない製品のために、貴重な資源を浪費しまくっている会社にこう言いたい。
「パクるなら、ちゃんとパクれ」、と。
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