2011/07/09

どうでもいい雑記:火星人はなぜタコの形をしているか

昨日オカルトの話をしてしまったので、


ついでに、以前に近しい人たちと話し合ったことを載せておくことにする。
だって、こんな機会がなけりゃ、こんな話題の記事なんか永遠に載せないような気がするもの。

それから、中断中の連続記事があるのを忘れたわけではないのだけれど、ちゃんとした文章の続きを書くためのまとまった時間がなかなか確保できていないので、まだ読者にわかるように例示なりを工夫するところまで整理できていないのだ。
いちおう関連する記事を選んで載せてはいるものの、早く続きを、と楽しみにしている人には申し訳ない。忘れたわけではないのであしからず。

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さて、表題の件、「火星人はなぜタコ型か」というお題を考えてみる。

わたしが覚えている範囲でも、図鑑で「宇宙」のものを見ていると、火星人の絵が載っていた。
最近の図鑑をめくってみても、さすがに上に載せたような典型的な姿の火星人は見当たらず、いまの子供たちのこころにはそれほど深く刻まれてはいないのではないかと思う。

わたしの持っている古い図鑑には、「イギリスの作家H.G.ウェルズ」が考えたもので、「火星には空気が少なく、引力も小さいので、」という根拠によって、それがタコ型になったのだ、と説明書きがある。

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さてそうすると、わたしの立てた問いは、「ウェルズが考えたから」、これで答えが出たことになるのであろうか?

もし学問というものを、知識的に受け止める研究者ならば、ここでやるべきことは、図書館に行くか、インターネットで「H.G.ウェルズ」の項目を調べることである。
そうして彼が火星人について言及する箇所を見つけたことを使って、「火星人の起源は〜というものであり、〜と言われている」というレポートを作成する。

たしかに、ちゃんとした報告書を提出する場合には、こういった知識的な事柄も誤りのないように調べておかねばならないけれども、そういうことにもまして大事なことは、なぜ誰かが火星人をタコ型に描いたことが、「たしかに有り得そうだ、もっともらしい、と思われていたのか」、という大衆の認識についての問題である。

どんなことにも言えることだが、ある謎について本質的な解を与えるのは、「どこからか答えを調べてくる」ということなのではなく、「それを手がかりにして自分のアタマで考える」という行動によるものなのだ。

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そういうわけで、今回のお題をそういう向きに考えてみることにすると、エリア51の宇宙人やUFO、火を吐いて街を焼き尽くすドラゴンや、柳の下の幽霊といった、いわゆるオカルトが、どういう経緯で出てくることになったのか、ということをふまえなければならない。

ここで気をつけてほしいのは、なぜ宇宙人はタコ型や人型で、ドラゴンはトカゲ、幽霊は髪の長い女として「現れてこなければならないのか」ということだ。

幽霊は死んだ人間が化けてでたものであるという定義からしてもっともらしいけれど、たとえば宇宙人ならば、もっと得体のしれない形をしていてもよいのではないか、そう思ったことはないだろうか。

うねうねした粘性の、とらえどころのない生命体かもしれないし、人間には見えない存在かもしれないのに、なぜ「我々にわかる形をしているのか」、「我々にわかる形でなければならないのか」。そのことを、考えてみてほしい。

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答えを言ってしまえば、その理由は、
どんな空想の産物であっても、わたしたちが認識の像としてとらえているものは、もとを正せば物質的な対象が、感覚器官によって反映されてきたものだからである。

どれほど現実とはかけ離れた空想であっても、それは、現実に存在する事物を素材として作られたものなのだ。

このことは、誰かが認識の中で空想をつくりあげ、それを絵や文や立体物で表現する、という創作過程においてもそうである。
それは、空想をつくりあげて発表する作家が、それを見る者の鑑賞過程を逆向きに想像することによって、「よりもっともらしい」ものとして受け止めてもらえるように配慮する、という鑑賞過程とも浸透してゆくことになるのである。

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ここで説明したことを、ものづくりのヒントにしようという人は、どういうふうに「使う」か、と考えてみているはずである。

原則を押さえておけば、アイデアなどというものはいくらでも出てくるのだ、ということがよくわかるところだけれど、たとえばどれほどファンタジーもので創作活動をしてみたいとなったときにでも、結局のところ、その「素材」についての知識がなければ、良い創作活動はできないのだ、ということがわかる。
なぜなら、読者にとっての「もっともらしさ」を提供するのは、わたしたちの当たり前の現実を取り巻いている「素材」から提供されたものだから、である。

ここの理解が乏しければ、ファンタジーものを創作するとなったときに、もともと世にある、誰かの作った「ファンタジーもの」を参考にしてしまう、という落とし穴に嵌ることがある。

しかしこれは、極端に単純化した例で言えば、ペン習字の「お手本」眺めながら真似して書いてゆくときに、本当に倣うべきお手本ではなくて、自分の書いた習作をお手本にしてしまう、という誤り方に似ている。
これでは、素材としてのあるべき姿が、どんどんと劣ったものになっていってしまうのだ。

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現象的にしかものごとを見られない場合には、すでに市民権を得ている空想物ばかりが目に付くから、それに引きずられて、いきおい、ゾンビや宇宙人というカテゴリーがはじめにあって、そのなかでものづくりをしなければならないようにも思えるけれども、事実はそれと逆なのである。

過程を追ってみると、宇宙人のなかでもタコ型や人型やアメーバ型、ゾウ型などがあったところを、大衆の認識がもつ「もっともらしさ」という尺度に照らして選別されてきた、ということがわかる。

だから、20世紀の半ばを過ぎた頃から、火星には人間の考える生命体がいそうもない、ということに大衆が気付き始めたころになると、「宇宙人」というカテゴリの中から、「タコ型の火星人」という存在そのものに関心が示されなくなってきた、ということなのである。

この先に人々が、いまの時代の人間が考えている地球外生命体というものが、「月と太陽との交互作用によって育まれた地球における生命現象」のあり方を、太陽系の外にも「的外れに」押し付けた解釈でしかない、ということに気づき始めると、そこでの生命さがしも、また違った形となって現れることになってゆくだろう。

このように、いくら極端な空想の産物であっても、それが見る者を持った表現として成立するからには、やはり、そこで使われた素材についての理解が欠かせぬことになるというわけである。

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