前回まで4回に分けた記事の中で、
とあるヘリクツがほんとうに正しいと言えるのか、と考えてきた。
その命題というのは、「もともと空気中には水分が含まれているから、晴れの日も雨の日も同じだよ。」というもので、アタマの中だけで考えてきた結論と、経験的な事実における矛盾が形而上学的な考え方では乗り越えられないことを確認し、その裏返しとして弁証法の有用性を見てきたのである。
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ところでこのヘリクツは、実はわたしが自転車ツアーのときに雨が降って尻込みする友人たちを笑わせてやろうと、どこぞで見た誤り方の論理性を取り出してその場で考えたものだ。
残念なことに学問の世界でも、形而上学的な考え方から脱却できずに、これと論理的に同一の誤りを平気で述べている者がいる。
そうしてそれが一般の常識とはかけ離れているところに衆目が惹きつけられているにすぎないことを論理的に反省できないと、読者に飽きられるまで浮き上がった思想のまま宙を漂うという茶番を披露する仕儀となる。
ところがそれを舞い上げているのは、内実の正しさにたいしてではなくて奇を衒った新奇性への黄色い声援なのであるから、いつかは必ず飽きられるものであり、そうなるとどうなるかは読者の想像されるとおりである。
わたしは幸いにも友人たちに恵まれているから、彼女や彼らにあっては、仮にも学者を名乗る人間がこんなナンセンスを言うなんて、という正しい理解といっしょに、わたしの思惑を読み取って、機嫌よく笑い飛ばしてくれるものである。
ほかにも、上り坂で音を上げそうになっている自転車仲間に対しての、「平地でもでこぼこがあるのだから、上りも平地のようなものである」だとか、「坂道も逆から見たら下りであるから、上りと思うでない」だとか、いろいろな冗談が作られることになった。
前者は<量質転化>の意図的な踏み外し、後者は自転車と坂のありかたの関係性が上りであるという<相互浸透>を意図的に踏み外したところの冗談である。
そんな中から、「いま必死に上っているのは、いつか風を切って気持ちよく下り降りるためである」との<相互浸透>をふまえたまっとうな意見も出てくるから面白い。
これはこれで、冗談を言おうと思っていたのにまともなことを言ってしまった、という裏返しの面白さがあるのである。
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ともあれ、こういった場を和ませる冗談のたぐいが、合理性によって説明できるというのは、現実に存在するものは、それがどのように見える場合にもそれなりの合理性を持っているのだ、という根本的な規定によるものである。
ジョークやギャグや漫才といったものも、どれだけナンセンスに見えたとしても、それなりに笑えるものの中には合理性が含まれている。
より正確に言えば、合理性がふまえられていないものにたいして、わたしたちはどうしても笑えない、ということである。
このことは単純なようでいて、なかなかにうまくふまえられていないことが多いので、すこし考えてみよう。
たとえば漫才が、わたしたち観客に娯楽として受け止められるのはなぜだろうか。
それは受け取り手のアタマの中に、冗談を聞き取る過程で「こうなればこうなるだろう」という合理的な予想が生まれたことに対して、漫才を終える頃には漫才師が観客のそういった予想をすこしばかり裏切ったところの非合理を与えるところに、「こうなると思っていたのにああなった!」という意外性があるからである。
ここでの非合理性は、あくまでも観客が想像したところの合理性に基づいた非合理性でなければならないから、「とにかく非合理であればなんでもよい」といった傾向や、それとは逆に「合理的すぎて何らの意外性もなかった」という両極端がつづく場合には、その漫才は成立根拠そのものを問われることになるから、自然と下火になってゆく。
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現代におけるテレビ業界は、娯楽の多様化の波に押されてその立場が危うくなってきたと指摘されているけれども、それはなにも、デジタル化で経費がかかったとか、テレビ以外のメディアが魅力を増して拡大しているという外的な事情だけによるものではなくて、テレビ番組を作る際の考え方そのものという内的な事情にも、それなりの原因があるといわねばならない。
たしかに観客が娯楽を眺める場合には、そこから多かれ少なかれ刺激を受け取ることを期待しているし、その刺激の中に意外性というものが位置づけられているのだが、当の意外性がどこから来るものなのかということは、人によって異なるのである。
たとえばわたしの場合は、目的意識なしにテレビをつける習慣がないから、毎朝、新聞を読みながらめぼしい番組がある場合には、その時間に目覚まし時計をかけておくことにしている。
その時間に帰宅できていれば料理を作りながらでもちらちらと目をやるが、時間がなければそのままお流れになる。
レコーダーなどというものは持っていないから、わたしにとってテレビは、そんなゆるい付き合いである。
そういったテレビの番組事情そのものに疎い人間の場合には、「意外性」というものは、たとえば科学観に照らした、ある科学的な知識についての新事実や、異国の事情や歴史についてのなるほどそうだったのか、という知的な満足を伴う意外性がほとんどであり、テレビ観に照らした「変わった番組が始まったな」などという観点からは意外性を感じない、ということになる。
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わたしの場合は極端にすぎる視聴スタイルのようだけど、暇さえあればアルバイト、空き時間には携帯電話でのコミュニケーションやらスマートフォンでのゲームに興じる学生さんたちを見ていても、とても毎週決まった時間に見なければならないテレビドラマに縛られた生活を送っているようには見えない。
そうするとどうしても、彼女や彼らのアタマの中に、「テレビ観」という表象が明確に描かれることは難しいのである。
暇があればテレビのながら見に時間が使われていた時代には、『水戸黄門』や『サザエさん』が、毎回飽きずに同じような構成を用いていても、視聴者がながら見のなかで表象を作り出し、そしてまたその表象に基づいて番組を見ることで、「今回もこうなった、思ったとおり」との安心感を得るという相互浸透によって、長寿番組が作られていった。
ところが視聴者がこのような生活スタイルをとっている時代には、視聴者側の条件が移り変わり、そのことに期待ができなくなる。
とくにテレビを見るということが「習慣」として定着していない場合には致命的で、視聴者はパッとテレビを付けてみてそれがつまらないということになれば、遠慮なしに他の娯楽に移っていってしまうからである。
見たところ、テレビ側の認識は、テレビの番組が、作り手の創意工夫によるものであるという観念がいまだに根強く残っており、「とにかくいい番組を作れば評価される」との一心で、視聴者側の事情をうまくふまえられていないように思われる。
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テレビ番組に限らず芸術一般は、それが「鑑賞に耐えうるものであるか否かに価値がある」のだから、作り手側がいくら努力をしても、その努力が視聴者側の条件をうまくふまえたものでなければ、どうしても空回りしてしまう運命におかれている。
視聴者の頭の中に、テレビに登場する芸能人それぞれについての表象が満足に作られていないところに、「あの芸能人がこんなことをするなんて」という企画で視聴者側の意外性を引き出し笑いをとろうというのはそもそも無理なのであるが、番組の制作側は、そのことを十分に理解しているであろうか。
わたしのところにいた学生さんも、それなりの数がテレビ業界に進んでいったけれども、その経験からしても、テレビ業界に採用される人というのは、幼少の頃からのテレビっ子、根っからのテレビ好きであることはほとんど間違いない。
仮に給与を目当てにしてテレビ業界を志望する人間がいたとしても、あちらから断られるからである。
ところが、子供の頃からの習慣で、とりあえず家に帰ったらテレビをつけることが当たり前であるという人たちは、「新しくテレビを好きになってくれるかもしれない人たち」が、今現在どんなふうな生活スタイルを送っているかということは、気にもとめないし、想像してみること自体がとても難しいのである。
そういうときには、現在テレビを見ている人がどの番組を見ているのかよりも、「人気のあるはずの番組を見なかった」人が、「なぜ見なかったのか」、「なぜ面白くないと思われているのか」と、その内実につっこんで調べてみなければならない。
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以前には、たとえば、お笑い芸人になるにも頭が良くなくてはならない、などといった理解がそれなりにあったように思う。
もし番組の作り方に、そういった理解がある場合なら、「あの芸人がこんなことをするなんて」式の、視聴者の努力に頼る形式ではなくて、「こうなるかと思っていたのにそうきたか!」式の、どんな視聴者でも見てすぐにわかり、また見ようと思える面白さの追究へと焦点が移り変わっていってもおかしくないはずである。
非合理性によって笑いを取るというやり方は間違っていないけれども、それは合理性を基礎とした非合理でなければならないし、その肝心の合理性というものは、視聴者が当たり前に表象として獲得してきたところの合理性でなければならない。
非合理であればなんでもよいとか、そういった矛盾のあり方そのものにまったく気を留めないから、新しい視聴者から見れば「スベって」しまっていることに、作り手側が気づかないままになっていることが、新規の顧客の取り込みを忘れた先細りを作り上げてしまっているのではないだろうか。
ってわけで、テレビ業界のひとたちは、テレビっ子なんかよりもむしろ、テレビが嫌いで嫌いでたらまらないというような学生さんをちょっとは採用しておいたほうが、将来的にはずっと有意義なのではないかしら。
もっとも、どんな業界にとってもそうなんだけどね。
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