北の国からのお客人を、迎えておりました。
このお客さんというのは、以前にわたしが北海道を自転車ツアーするときにフェリーで乗りあわせて以来の友人です。
わたしがン十万円する自転車で意気揚々と旅立とうという時に、この人物が札幌から青森に降り立ちそこから自走して京都までの道のりを、まさかのママチャリで走破したと聞いたときには、
わたしは道具を使っているつもりが、道具に使われているにすぎないのでは…
という少々マジな自省の念が芽生えたりもしたことが、懐かしく思い返されます。
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今回は残念ながらというべきか、ママチャリで来られたわけではなかったのですが、以前お世話になった人たちにもう一度会ってみたいということだったので、わたしも平日のど真ん中に休みをとって、人生についての議論がてらついていったのでした。
ところが問題は、この「お世話になった人」というのが、どこにいらっしゃるのかがよくわからないことにあります。
京都のどこかの喫茶店で、同志社から渡月橋までの道のりのどこかにあるはずだということでしたが、地図を見ればけっこう広い。
それでも行きたいのは、たまたま立ち寄ったこの店のご主人に、とても良くしてもらったそうで、思い出深いばしょであるとのこと。
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なんだかどこかのロールプレイングゲームのような話ですけれども、旅の中で巡りあった人というのは、普段の生活の中で会いたくとも会えないだけに思い出も色濃く、いつかは、いつかは、という思いだけがくすぶり続けるものであることを、旅好きの人ならば誰でも知るところでしょう。
学生の時には旅狂いと呼ばれた自分にとっても、その気持ちはとてもとても、身に染みて、わかるところです。
とはいえ、探さねばならない範囲は膨大であることに変わりはないので、とりあえずは以前に写真を撮った場所から記憶をたどるように、人探しの旅を始めることに。
京都は嵐山に降り立ち、「店の近くに、あたらしい電車の駅があったような気がする」という記憶を手がかりに、嵐山電鉄に乗ることになりました。
これとて確かな情報ではないので、一日かけていつかはたどり着くつもりで、一日フリーパスを選びます。
駅を外から見たときと、電車の内側から見た時では、その趣はまるで違っていますから、わたしとしては内心、「こんなやりかたで見つかるのだろうか…」という半信半疑の気持ちがあり、二股に分かれる路線図が、余計に不安を煽ったものです。
しかし、車内から落ち着きなく景観を見渡しながら数駅を進んだところで、そのときはやってきました。
「あっここ、ここで降ります!」
駅を降りるやいなや、思わず駆け出した友人の姿を見ていると、旅好きの人間にはぐっと来るものがありました。
◆◆◆
心に焼き付いた記憶というものは、具体的な道路や店の名前、出会った人の名前を思い返せないときにでも、それをみると必ず、「ああここだ、根拠は言えないけれどここに間違いない」という確信をもって蘇ってくるものです。
ここまで来ると、目的までは時間の問題だと思いましたが、果たしてそれはすぐでした。
あれほど会いたかったはずの人といざ会える段になると、どういうわけか少し照れくさく、自分の思い出ほどに相手のそれは強いものではなかったとしたら、記憶の内に留めておくことのほうが懸命なのでは、という不安が首をもたげてくることも経験上わかっていたことでしたから、尻込みする友人の背中を押して、店内に入りました。
ずいぶん話し込んで、長居させてもらったものです。
お店のオーナーさんは、誇りを持ってしっかりと生きようとされている人であることが、身なりや話しぶりからもよくわかる紳士で、友人がこれほど会いたがった理由も、よくわかるほどの素敵な人物でした。
それがお世辞ではないことは、後日どんなことをお話してきたかを書けばわかってもらえるでしょうから、今回は場所だけを。
駅から少し離れてはいますが、嵐山に観光の際には、ぜひ立ち寄ってみてください。
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