2011/09/05

どうでもいい雑記:台風のあと

台風でしたね。



外の様子がどんなふうなのか気になったので、研究に行く前にちょっと寄り道をして、雨の中を自転車で走ってきました。

横ぶりの雨と風に打ち付けられて転びそうになったので、途中から押して歩きました。

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上の写真は、iPhoneのアプリケーション"Autostich"で、タテに7枚写した写真をつなぎあわせたものです。
同じ場所に立って撮ったものをつないでいるので、平行線がぐにゃりと曲がっていますけれども、最近はなんとも便利なものがあるものです。

コンピューターの中にも、人間の持つ「認識」の働きを模倣した機能が搭載されているのを見ると、ワクワクしてきます。
もっとも、実装された機能がもたらした作業結果と、人間の表現が同等のものに見えたとしても、本質的なところまでも再現できたと考えてはいけないのですが。

人工知能が自ら発展するところまで進んでゆくには、細かな人間の表現ではなくて、その土台となっている過程、つまり認識の構造を大まかにでも抑えておくことが不可欠です。


さて、この場所はといえば、行きつけの川の河川敷ですが、ふだん渡れるはずの足場が、水の流れにどっぷり浸かってしまっています。

このおかげで、寄り道がちょっとどころではなくなってしまいました。

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それにしても台風のあとの空気は、すっきりしていて気持ち良いですね。

わたしはこういう自然の大きな力を身近で見たり感じたりすると、自分が大きなところのなかの、ちっぽけな一粒の泡のようなものだということをしみじみと感じ入らされて、なんだか遥かな心持ちになります。

人はこういうところを異様に感じるようで、わたしのことをハメツ主義者だとか言ったりもします(もちろん半分は冗談ですよ、半分は)が、夏にはクーラーを、冬には暖房をガンガンに効かせているような屋内で毎日を過ごしているような人間に、自然のあり方の本質がうまく捕まえられるとは、とても思えません。

生物の代謝というものを人間を中心において考えたときには、摂取と排泄がありますけれども、どちらが欠けてもいけないのです。

外部から自分でないものを取り入れ、外部へと自分でなくなったものを出すという環境との相互作用によって、人間は生かし、生かされています。

これはいうなれば、環境と自分とのせめぎあいの中で、自らのありうる位置と境界を確保し続けるという不断の活動の中に、生きるということの本質があるということでしょう。

だからわたしにとっては、冬の寒い中でも、袖をまくってちゃんと寒さを感じていなければ、かえって落ち着きません。

夏は暑いもので、冬には厳しい寒さがあるものです。
ずっと屋内に居る人は、それをことばの上でしか、知ることができなくなっているのではないでしょうか。

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形而上学的に、「生とは何か」と考えてみても、現実を正しく理解することができないのは、完全な生などというものは、考えれば考えるほどに死そのものであることが知れてゆくからであって、考え方そのものが間違っているのならば、正しい結論にたどり着くことがどだい無理なのです。

横ぶりの雨に打たれたり、大風で傘を飛ばされたりしてみれば、自然とそんな考え方が間違いであることに、身をもって気付かされます。

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