2011/09/10

自律と他律:「だれかのためになにかできること」は、半年のあいだ維持し得たか

東北での地震が起きてから、明日でもう半年になりますね。


時間の流れというのは早いものです。

あの日のことを思い返してみると、得体のしれない義務感に駆られてか、直接のボランティア活動に参じるのではないにしても人として自分の責務をきっちりと果たしていきたい、といったことばを、直接・間接に耳にしてきました。

さて、みなさんが秘めた思いというのは各人それぞれとして、今日までの半年間を、実際にはどう過ごしてきたでしょうか?

もしあのとき「自分にできるだけのことをしよう」と誓ってから、実際にそれをやってきた、と自信を持って言えるでしょうか。

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わたしたち人間は、多かれ少なかれ、何かを行動する前に、ああしたい、こうなりたい、という志や感情を込めて像を描き出し、それを目指して行動してゆきますね。

現在の自分とは別のところに、あるべき自分を「理想像」として目指してゆくことにしたときは、そこにひとつの矛盾が生まれたということです。
これは矛盾のうち相容れることのできない<非敵対的矛盾>ですから、どちらかがどちらかを凌駕し、片方が消滅するまでその関係はつづきます。

目標にしていた期日が到来したときに、明確に目標が達成できていたり、なりたい自分に近づいてゆけているのがはっきりしたのだとしたら、もはや自分というのはかつて目標であったところのそのものであり、目標を立てた時の自分は過ぎ去った過去のものとして思い浮かべられるにすぎない存在になっていわけです。

「前に進んだ」実感というものは、辛い、忙しいなどと言い訳の種を探してうろつきまわっている人のところにではなくて、毎日が楽しかろうがつらかろうが、それをそれとして正面に据えて向き合うことしかやりようもなかった人が、ふと過去を振り返ったときに、がむしゃらに歩いてきたそこに、たしかな長い道程があったことを見いだせたときの感想です。

これはどんなに忙しそうに振舞っていたり、我が生涯は苦難の連続だと見せたいがために、たいして痛くもない足をさすったりして時間を潰したのではなくて、頭痛をこらえて机に向かい、上がらない腕を左腕で支えてキャンバスに向かい、びっこを引きながらでも毎日の修練を自分の内面と向き合いながら過ごしてきた者にしかわからないことです。

なぜかといえば、実感などというものは、他人が自分のことをどう見ていようとも、そんなものでは補えないほどの深さをたたえているからです。
それでも、そう過ごしてきた人は、自分の過去を誇ってばかりもいられません。
眼前には、また明日から越えてゆかねばならない山々が聳え立っているからです。

そういうわけで現在の自分がどうであるかは、当人がいちばんよくご存知のはずですから、今回お伝えしていることもよけいなおせっかいだとは思ってはいるのですが、日頃実感としてあることを、震災から半年の今日であれば少し触れても良いのではないかと思いますので、叶うなら読者のみなさんにも考えてほしいのです。

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理想と現実、ということを学生のみなさんに伝えるときに、引き合いに出させてもらう友人がいます。

数年前になりますが、その人が学生時代の半ばを過ぎた頃、わたしのところを訪ねて来たことがありました。
1年ぶりくらいかな、ひさしぶりだねどうしたの、と話を聞けば、学生時代にもっと、なにか明確な達成感を感じられるようなことをやっておくべきではないか、という気持ちがくすぶっている、とのことでした。
なるほど学生らしい悩みだと思って、自分が学生時代にしてきた、仕事や旅や人との出会いや、そこからどんなことを学んできたかということを思い出しながら話したのでした。

その中で、その人がいちばん興味を引いたのは、わたしが北海道を自転車で旅行した時の話のようでした。
フェリーに乗り合わせた人たちと雑魚寝の部屋で別け隔てなく話し合った時間、泊まる所がなくて困っていたところに手を差し伸べてくれた人のこと、ものづくりについて深い示唆を与えてくれた人、山頂でどうにも動けなくなってふて寝しながら見た満面の星空など、わたしにとってはあの経験がなければ自分の人生もありえない、というほどの大きな事柄でしたが、それをうまく受け止めてくれたのでしょう。

その日の内に当時学生であったその人は、「じゃあ、自分も行ってきます」との返事をくれたのでした。
まさか、旅用の自転車にも乗ったことのない人が、もう1ヶ月も間がない夏休みに向けて準備できるとは思っていませんでしたから、わたしは半信半疑のままにでもその気持ちは尊重しようと、「それなら、目標をちゃんと立てておくと励みになると思うよ」と後押ししました。

ところが数日したら、「自転車を注文しました!」というのです。
「ええっ!?」とびっくりすると同時に、その人の思いが真剣そのものであることを思い知らされたのでした。
2週間をかけて北海道を一周したあと会って、そのときに始めて知ったのですが、そのときその人は、自転車ツアーについての3つのルールを設けていたそうです。

それは、「一日に10人の人と話し、一日に100キロを走り、上り坂でも決して歩いて押さない」というものだったそうです。

それを聞いたときに、なるほどたしかに、自分がいちばんの目標にしていた「明確な達成感」を得るために考えたのだなということが伝わってきましたし、「自分をなんとしても変えたい!」という熱意がにじみ出ていて、本当に素晴らしいことだなと感じ入りました。
なにしろ、わたしがやってきたことを熱心に聞いて、それを土台にしながらなお自分の達成したい理想の形を盛り込んで、さらにはそれを実際に達成してきたのですから!
自分が期待を込めて背中を押したことを、さらに高めて実現してみせてくれる。
自分がなにかを人に伝えたときに、当人がそれを噛み砕いた上で自分のものにして活かしてくれるというのは、人間にとっていちばんの喜びではないでしょうか。

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理想と現実の関係で言えば、この人は、現実の自分を真正面に見据えた上で、「これではいけない」という一念でもって、なんとしても現在の自分の弱さに甘えることのないように毎日毎瞬心がけて、理想を我がものとして帰ってきたわけです。

立てた目標を達成しなかった時も、達成した時も、目標のための期限が来たときには、矛盾は何らかの形で解消しているわけです。

ただ一番の問題は、それが、立てた目標のところに自分がたどり着いたか、それとも立てたはずの目標をそのときの自分のところにまで引き下げてしまったか、ということです。

人が大きな目標を立てるときには、何らかの事件やきっかけというものがある場合が多いですよね。

上で挙げた人のように、個人的な事情もとても大きなきっかけになりますが、直接の関係がなくとも大きな震災や有事も、そのきっかけになりえます。

もしわたしたちが、現地の人たち一人ひとりの感情をまともに想像して受け止めることができてしまうのなら、それは正しく発狂するであろうほどの思いの強さなのですから、その、おそらく想像の埒外であろう事実と、それを自分の身の丈で足りるくらいに小さくして理解することしかできないちっぽけな自分とのあいだに大きな隔たりがあることを直覚するのならば、惨めさが身に染みるというのも人間らしい感覚でしょう。

天災に遭って困っている人を見ているしかないのがあまりに情けなく、直接には何も手助けができずとも、自分の責務を全うすることで間接的にでも大衆に貢献しよう、という意欲が湧くことも、人としてとても真っ当なことだと思います。

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そう断った上で、考えてみて欲しいことがあるのです。

たしかに、そういった思いが自分をより良い方向へと変えるきっかけになることは望ましいのですが、しかしだからといって、どこかに天災が起きなければなにもやる気が起きないだとかいうのでは困ります。

さらに言えば、いざ有事が起こったときには気持ちが高まったものの実際にはなにもしなかったし自分のありかたも何も変えなかったというのでは、悪く言えば、災害をダシに使ってスポーツの観戦よろしく一体感を感じて騒ぎたかったということでしかなかったことになるのではありませんか。

あえて大雑把に整理して言ってしまえば、ある大きなきっかけというのは、あくまでも自分が自分のものとして受け止めたことでしか、正しくそうなりえないものなのです。
有事によって正義感がいくら鼓舞されても、それが自分のものとなっておらず、他律のままであるとしたら、半年という期間の日々の繰り返しは、そんなものを忘却の彼方に押しやってもおかしくないほどの重圧です。

震災から半年のとしつきが、自分の気持ちをどれだけ変えてしまったかを思い返してみて、反省すべきところがあるのならそれと謙虚に向き合ってほしいと思うのです。

わたしたちは、近くにないもののことを自覚して日々確かめておかない限り、たとえそれがどんなに強く思っていたものでも、徐々に色あせてくるものです。
そのおかげで昔の苦い思い出に生涯ふりまわされずに日々を過ごすこともできるわけですが、それでも、いちど決意したはずの自分の道や譲れないと言ったはずの事柄、大切にすると誓った人への思いまでも、時間の流れが押し流してゆくままにしていてよいものでしょうか。

こう言うと、お前にそんなことを言う資格があるのかと問い詰められそうですが、それでもあえて言いたいのは、「誰かのために何かをできる人間になる」、「一流の道を目指す」、「ある人を愛す」などと「言った」という事実は、そんなに生易しいものではない。そういうことです。

なにかを思っているだけならまだしも、人に向けて言ったり、自分にたいして誓ったりするということは、外ヅラを整えるためにしているのではないのですよ。
声にだそうが出すまいが、ドラマの決め台詞などと絶対に、絶対に比べてはいけないほどの、重みがあるものです。

何に対しての重みか?
それは、自分の価値そのもの、自分にたいする信頼そのものです。

人が一回きりの、カッコつきの、「『自分の人生』を生きよう」という時には、自分が動くきっかけになることが空から降ってくるのを待ったり、人から毎日のように頭をなでられて背中を押されて、手のひらの熱がまだ残っている間にしか頑張れないというような他律に頼り切ることを、自分の歩みでもって断ち切らねばなりません。


震災をすぎること半年のこの日をこそ、ほんとうの意味での「きっかけ」にするというのなら、是非とも噛み締めてほしい、一事です。

1 件のコメント:

  1. >立てたはずの目標をそのときの自分のところにまで
     引き下げてしまったか、ということです。

     「………」、反省。

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