いきなりどうでもいい話なのですが、わたしの予定の立て方は原則論そのままなので、たとえば一ヶ月に6000単語覚えることにすると、一日に200単語覚えなければなりません。
一日お休みして今日のぶんを明日やることにすると、明日は400単語覚えなければならないことになりますが、そんな余裕のある予定は立てない(実力以上のことをやろうとしないと今の実力もわかりません(対立物の相互浸透)から)ので、休日にどこかに出かけるということは、そのまま積み残しが増えることを意味しています。
そういうわけで、積み残しをまんべんなく割り振って消化することを考えると、1ヶ月に研究と直接関係のないことをする日はどう頑張っても数日なのですが、11月の休日といえば秋らしくイベントだらけだったので、恐ろしいスケジュールでした。
約束した友人との約束なんかは、前もって準備しておけますが、やはり限度というものがありますからね。
ここのBlogの更新をお休みしたぶんで1日に90分ずつを使えたので、ずいぶん助かりました。
ともあれ、毎日の締めに、真剣な勉強の場として、と見に来てくださっているみなさんにはご迷惑をおかけしました。
わたしの本に囲まれた研究部屋の机には、自分にとってゆるがせにできない事柄の書かれた紙が貼ってあり、毎日目を通してから一日をはじめます。
そのうちの一枚は、「後進を裏切らない」というものです。
以前には対象化された観念としての意味を持たせて、命令形で「後進を裏切るな」と書いていたものを、数年間向き合い続けて、観念的にも実体的にも技として身についたことを繰り返し確認した上で、こう書き換えたのでした。
人間として道をつないでゆくことを少しでも考えるのであれば、若い頃には喉から手が出るほど希んで探し回っても、どうしても得られなかったその人物になってゆくことが真っ当だと思えばこそです。
後輩の頃にいわれのない理由で先輩からいじめられた経験のある人は、自分が先輩の立場になったときにも、同じことをするばかりしか道はないのでしょうか?わたしはそうは思いません。
◆◆◆
さて、休み明けにいきなりこれでは重苦しいでしょうか。
でも今回の記事は、タイトルの通りのものなので、構えてしまった読者の方は気を緩めてもらってもけっこうです。
わたしは前に、自分であたらしい道を切り開いてゆこうとする者は、結果を出してはじめてまともに評価されるのであって、その途上で諦めるのならば気狂いとして命を終えるのだ、といったふうなお話をしたような覚えがあります。
そのときは、本質的な事柄を追求する道を選ぶのなら、そのくらいの不理解は当然なのだから、少々のことではめげないでください、とお伝えしたかったのだと思うのですが、人生の途中には、たとえ道半ばにしても、自分の見ているものと同じ事柄を見つめており、成果が未だ成さざる時にも自分のことを評価してくださる人がいるものです。
わたしたちはそれに甘えているわけにはゆかないのですが、それはそうだとしても、それが得難い出逢いであることには何らの変わりも無いでしょう。
わたしは今回、わたしにとってのそういう人とものづくりをすることになり、自分にできることすべて発揮するために、これまでの経緯を改めて振り返ってみたのでした。
左から、フロントバッグG1, G2、サイドバッグ。 |
しかしわたしは以前にG2をつくるとき、こういうことを言いました。
(ふたつめにつくるバッグに「G2=第二世代」と名付けて)「世代」などというものものしいことばを使うのは、ひとつの革細工をするたびに、前の世代を作って、使ってわかった欠点をしっかりと克服して、あたらしい世代として作り上げてゆきたいと思っているからです。このことばが、自分でも大きな壁となって立ち現れました。
G1は、試作品という名目で、自分だけが使えればよいものができればそれでよかったし、それをたたき台として友人のために完成形であるG2を提供できたのはよかった。
しかし、この現時点での自分の実力に見合うものだけをこの先もずっと作り続けてゆくことが、自分の仕事なのだろうか?
そう思ったのです。
◆◆◆
G1は、そもそも「一般的なバッグを自転車に取り付けよう」と考えて作られたバッグであり、G2もその制約の中にありました。
しかし、一般的なバッグの形が、そもそも自転車用という特殊性にすべての意味で合致するか?と問われれば、そんなことはない、というのが正しい答えなのです。
わたしはこれまで封じられてきたその問いかけに、改めて向き合うことにしました。
原則に立ち返って、「そもそも〜とはなんなのか?」と問いかけることは、本質的な前進のためにはどんな事柄にとっても必要なことですからね。
ひとまず手持ちのG1を依頼された自転車に取り付けてみると、こんなふうになりました。
もしみなさんが、自転車に乗った状態でこのバッグから仕舞っておいたものを取り出すとしたら、はたして使い勝手がよいだろうか?と考えてみてください。
わたしが上の写真などから読み取った問題点は、以下のようでした。
・蓋の開閉時には、鞄の前まで手を伸ばして手探りでヒネリ(金具)を探す必要がある
・蓋を開くと、使い手の側にベロンと垂れ下がってくる
・今回の自転車の場合には、ベルトがライトの発する光と干渉する
このことはまた、バッグの作成時にも、「手探りで見つけることのできる場所、凹み過ぎない強度の確保できるところにヒネリを設置しなくてはならない」などという制約も産み出してしまいます。
◆◆◆
また、使い勝手の問題とは別に、「自転車の顔」というデザイン面での問題が、わたしをずっと悩ませてきました。
わたしはバッグを作るときに、コンチョなどからモチーフを決めて、そのバッグの顔になるフタを取り付けます。これは、サイドバッグでも同じです。
市販のバッグがただの丸みや面白みのない直線ですませてしまうところを、あえて個性的なデザインを凝らしてきました。
しかしここには、「どうせ自分たちで作るのだから、市販のバッグにはないものにしたい」という発想も含まれており、いわばこれは、世にあるものから逆算してきた独自性でしかないとも言えるわけです。
そうすると、独自のものを作ったといいながら、結局のところ、既存のものから逆算しただけの、悪く言えば「奇を衒った」ものなのではないか、ということすら言えなくもないことになるのです。
しかし本質的な問いかけは、あくまでも、世にあるものがどうであるということなのではなく、
「自転車用バッグとはどういうものか?」
という一点に帰せられるべきです。
(2につづく)
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