今年もお世話になりました。
先ほど、共に研究している学生さんたちに、年賀状代わりの研究成果の郵送をすませてきて、ようやくひと安心しているところです。
やるべきことを済ませて寒空の下両腕をおもいっきり伸ばして深呼吸すると、心身ともにぎゅっと引き締まる思いがします。
振り返ってみると、これはひとつの道を歩もうと志す人間にとっては言うまでもないところだと言われるでしょうが、今年はただひたすらに努力、努力、努力の日々でした。
年のはじめ、その節々にぎりぎりの目標を立てて、それを危うい綱渡りもありながらなんとかこなすことができましたが、いざ終わってみれば、やはりその過程にはたくさんの回り道があったものだなあ、というのが正直なところです。
回り道のなかには、本質的でないただただ無駄なもの、つまり<否定の否定>の過程性を持ち得ないものもあったことは、大いに反省すべきことだと考えています。
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人類の持ちうる最高の認識の形態、つまり学問的な段階のものごとの進め方をするということは、目標の設定をそのレベルで規定して歩むだけでなく、その過程についても学問的に進めてゆき、その進め方そのものの方法論を本質的に前進させてゆくことでなければなりません。
いちばんうまく歩くことができるということは、それ自体に着目するだけではそれだけのことでしかありませんが、「いちばんうまく歩くことができるようになるにはどうすればよいか」という、その上達過程に目を向けて、歩くということが秘めている過程的構造を浮き彫りにすることができるならば、いちばんうまく走るためには、またいちばんうまく泳ぐためには、ひいては、いちばんうまく書く、描く、踊る、歌う、といった方法でさえも、一般的なところまでは押さえることができるようになってゆくものです。
その土台となるものは、言うまでもないことながら弁証法という論理、法則性の把握と目的的な適用です。
しかし今年の過ごし方を振り返ると、たしかに言い訳もし得ないほどに自分にできうるかぎりの努力をしたつもりではあっても、その努力を注ぐ対象や、その注ぎ方という方法論が、本質的に無上のあり方で向上していったか?と問う段になると、結果から見れば、不備や甘えが残されていたと思うのです。
ただがむしゃらにやるということが尊いわけではないということは、恐ろしくも思い知らされる事実です。
まだまだ、未熟、未熟の感しきり、です。
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しかしそうは言っても、何度も反省を重ねているわけにもゆきませんから、今年の泣き言はこれまでとし、転んですりむいたり谷底に落ち込んだとしても、次の瞬間には頭を振って気持ちを入れ替え、起き上がってよじ登ってまっすぐ前を見つめて歩みを進めるのみ、です。
今年は新しい出会いや、志に目覚めた人たちとの関わりが少しずつ明確なかたちを取り始めたという感慨深い年であり、この僥倖を無駄にせず、切磋琢磨しともに一歩一歩進んでゆくことを誓います。
去年の今頃もご紹介しましたが、わたしの恩師に授かった一句を記し、年納めのごあいさつに代えさせていただきたいと存じます。
体当たりに 必ず骨を立つべしと
家伝一系 野武士剣法詠人不知
本年も誠にお世話になりました。感謝を込めて。
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