2011/11/28

G3についてのお礼状をいただきました

先週作った自転車フロントバッグG3について、


実はオーナーからお礼状をいただいていました。

このBlogに、作りかけ数点の写真と、完成したときの記事を公開してすぐに連絡をいただいたのですが、その内容に携帯電話を持つ手が震えたほどでした。
それは、あまりに見事にわたし(作り手)の意図を、深く、深く汲み取ってくださっていたからです。

個人的にいただいたお礼状を公開することについては逡巡もありましたが、ひとつの表現を味読する、という姿勢について、人の表現に触れることが欠かせないわたしたちにとって、学ぶものがとても多いと思いましたので、勝手ながらご紹介させていただく次第です。

◆◆◆
作り手さん 
 東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。読者に考える余地と猶予を残してくださり、感謝しています。先ずはその辺りからお礼を申し上げたく思います。
「造る物には人となりが表れる」とは言いますが、正にその通り!書物の行間に込められた著者の意図を正しく汲むが如く、作り手の想いを、今は離れた所にありはせよ、厳粛に受け止めているところです。
渾身の力作たる「G3」に比するモノは、私にとっては、今後も現れない。何故ならば、貴器の有り様は、これから私の手で、また自転車と共に時を刻み続けることで、如何様にも変貌していくからです。したがって現段階では、敢えて「完成」とは呼びません。
特殊な気候・風雪に耐えながら悠久ともいえる時を紡いできた屋久杉が、他に例のない程の密なる年輪を描くが如く、その時折々の良い表情を見せてくれるのでしょう。私も同様に、更に年齢を重ねていく過程で己の「顔(表情)」には「責任」を持たねばなりません。歳を重ねれば重ねるほど、その人の人間性や人格が露わになってくるはずですから…。
最も特筆すべき点は、やはりフロントバッグの「顔」とも呼べる前面。黄金比のコンポジションを重要視して構成原理を追求していく巧緻に陥らず、日本古来の柿渋染めの中でも特殊な技法を用いる妙。視野狭窄にならずに全体を見渡せる視点を持ち合わせていればこその芸当であろう。見事なまでに和洋の「調和」を表現して下さった。当に驚嘆の念を禁じ得ず。最大の感謝を述べたい。
貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!
「弁証法」の正しい体得者として、否や「体現者」としてモノ作りされる姿勢は、改めて学問そのものなんだと認識を新たにしました。
◆◆◆

この書面を引用させていただいたのは、なにも激賞をいただいたからではなくて、ある表現を読み解くための、正道そのものの姿勢がここに現れていることに感じ入ったからです。

わたしとしては、数十年に一度の得難い出会いだと言えるほどの人とのやり取りをこういった形で公開することは、読者のみなさんにとってなんだか内輪の自慢話、出来レースのようにも見えてもおかしくないことですから、そういった意味でも少しばかりの心配がありますが、上でも述べたように、わたしたちはオーナーさんのこの姿勢から学ぶことは少なくないと思うのです。

そう断った上で率直に言いたいのですが、わたしはこの文面を読み進むにつれて、携帯電話を握る手が震え、手のひらが汗ばみ、背筋にぞくぞくしたものが通るのを感じました。
そうして腑抜けのような体で集中して読みきった後、しばらくぼんやりしたあとやっとアタマが動き始めて、自分がこういう感想のあまりにそうなったのだとわかりました。

わたしはまだ、こういう深さで人と人とが繋がりうるということを、信じきれてはいなかったのだなあ…と。

◆◆◆

以前からの読者のみなさんには折に触れてお伝えしているとおり、弁証法的唯物論の観点からすれば、人間の精神とは人間が物質的・器質的に備えている脳のはたらきなのであり、精神が頭から抜けだして独り歩きしない以上、ひとつの表現も、そのなかに直接作り手の精神が含まれているものではない、と考えねばならないのでしたね。

そのことの論理的な帰結として、わたしたちがひとつの表現に向きあうときは、あくまでもその表現をあらゆる角度から眺めたあと、そこに込められている作り手の認識のあり方を、自分の頭の中に再現してみる形でなぞらえてゆかねばならないのでした。

G3のオーナーさんがそこを経験的にしっかりとふまえられたことが、冒頭の、「東北行き前に製作途上のデザイン2様が披露されて以来、細部に至るまで熟視して、まるで謎々や知恵の輪を解くかの如く、あーでもない、こーでもないと想像の羽根を羽ばたかせておりました。」という文面として現れています。

これは、わたしたちがひとつの建物についての数枚の写真をじっくりと眺めて、それらが全体の中でどのような位置づけになるのかと問いかける中で、最終的にはまるで鳥になったかのような視点を手に入れるとともに、各写真のあり方は形は崩されて内容を掬い取られ、その像がおおまかな絵地図として止揚されることと論理的に同一です。

おおまかな像が描けるということは裏返し、未だ明らかになっていない側面の詳細については、当然ながらおぼろげな像としてしか描けていないということですから、その事実は「ここはきっとこうなっているのだろうな、ああ、早く実物が見たい!」という強い目的意識を含んだ感情として呼び覚まされ、「読者に考える余地と猶予を残し」たことについての感謝のことばにつながっているのです。

◆◆◆

そうして芽生えた探究心というのは、作品とそこに込めたメッセージをなぞるだけでは飽きたらず、作り手の過去にあったはずの過程を自らの経験であったかのようになぞらえ、その思想性にまで歩みを進めておられるのです。

「貴殿の過去の製作記の流れを熟読して、はじめてオーナーと作り手の「議論」の必要性という、その真の意味について少し理解が進んだように思う。」

そうして、直接には手を動かして写真の向こうにあるバッグを作ったわけではないながら、その製作過程を自らのもののようにしてなぞらえることをとおして、「デザインするとはどういうことか」という一般論まで像として描いてみせておられるのです。

「「議論」の過程そのものがデザインであって、形ばかりのデザインが先ではないのだと!」

しばしの思案のあと、一気呵成に書かれたと思われるこの文面には、分析的に書かれた冷静な面と、ペンの勢いが自分の思いについてこないことがもどかしいというまでの感情に溢れた常体からなる情熱的な表現が一体となってあくまで自然に同居しており、わたしはこの文面も、全体の流れのなかでの結節点としての現在を捉えた、つまり歴史性を把握したところの、ひとつの作品だと感じ入ったものでした。

◆◆◆

わたしがG3をつくることになったきっかけというのは、オーナーとの出会いに感謝する気持ちを、この思いはとても文字などに起こせることではないと思ったのが出発点でした。それはその裏返し、頭でっかちになって、文字という手段ばかりに頼る今の自分についての反省にもつながっていたのです。

「なにも、表現は文字ばかりではないではないか」、というのがそれです。

わたしにはなにか強い想いがあると、ひたすら黙ってスケッチブックになんでも描きなぐったり、手を切り傷だらけにして石を削っていたいたころもあり、それが高じてデザインというものに手を出したことを思い出し、オーナーの人柄をそのままに映したようなものを作ってみたい、という思いに取り憑かれたのです。

そうして出来上がったものについて、こうした深い洞察をもった文面をいただけるというのは、作品を作品で返していただいたという、これは表現に携わる者としてたったひとつの、最良のお返しをいただいたことにほかならないのです。

わたしはデザインを仕事にしていたときに、面白い仕事ならタダでも構わないと言い切っていましたが、周囲からの疑念を実際に晴らすだけの仕事にはついぞめぐり合うことがありませんでした。

創造的な仕事をしている人なら誰でも、単なる格好つけなんかではなく本心から、このことには同意をしていただけるのではないでしょうか。
たしかに衣食住ができなくなれば人間はオシマイですが、そういう人間にとって、金銭というものは、「必要だが死なない以上には要らない」という意味だけなのであって、あればあるほどよいと信じきっている人から、線引きが曖昧だからそんな思想には意味がないといくら詰られても、たやすく解体してしまうような実感ではありません。

このオーナーさんも、ご自身でものづくりをされている方であり、理論的実践家・実践的理論家であることからのご発言であることは承知の上でも、読み返すたびにすごい、ありがたい、とても信じられない、という思いがこみ上げてきて、言葉に起こすのに1週間という時間をいただいてしまったものでした。

お詫びと共に、作品を通して作り手の内面までもあまさず理解し尽くそうとされ、そしてまた事実そうしてくださったことは驚き、感嘆の念を禁じえず、最大の感謝を表する次第です。

◆◆◆

この文面には続きがありますが、そちらは個人的なことがらなので公開していません。

実はわたしがG3にとりかかるのと入れ違いに、オーナーさんからデザイン案をいただいていたのですが、わたしの作り始めていたものがこれまでの流れとは異質であったことが理由で、そのデザインを後付けではうまく組み込めなかったことが気がかりだったものです。

ところがオーナーさんは、ご自身がご自身の手でデザイン案を提案してしまったことすら失敗だとおっしゃり、作り手を信じきれなかったことを悔いているとまでおっしゃられました。

わたしにとってはまさか、というほどの杞憂であると感じていますが、作り手であるわたしからはなかなかに切り出しにくいこういった話題にも、あえて率直な感想と、心底までに謙虚に臨まれ誤解を解くべく歩み寄られるというその姿勢は、まさに作り手と観念的に同一の立場からものごとを見ておられることを示していると言えましょう。

◆◆◆

以上、読者のみなさんが理論的に追い続けている認識論のうち、観念的二重化についてのよい実例となるのではと、論じてきたものです。

学問や芸術の世界で表現をしているひとりの人間として、鑑賞者は間接的なパートナーであり、そのうちオーナーは内実とものパートナーと言えます。

しかし仕事として表現をするときには、熱意に天と地ほどの差があるパートナーとの間にでも、ひとつの作品を練りあげてゆかなければならないこともありますし、最悪の場合には数年手塩にかけて温めてきたものを、一瞥して出来損ないだとゴミ箱に放り込まれることさえあるものです。

自分の分身、子どもとも言えるひとつの作品を、ことばは悪いですが変質者のような人格に委ねなければならない場面もあり得ることを考えれば、ひとりの表現者にとって、真に批判的に向き合っていただける鑑賞者の存在は、何者にも代えがたい自分自身の存在証明です。


繰り返しますが、これは決して、自分の作品を褒めてくれるから良い、というのではないのです。
なんとなくの一目惚れだと言われるよりも、これこれこういう理由で良くないのだ、とダメ出しをされることのほうが、遥かに嬉しいし、遥かに為になるものなのですから。

わたしたちも、本当の意味での批判者でありたいものです。

本日の革細工:iPhone 4S flipcase "SKIN"

いつもならこの時期には、


倒れて迷惑をかけちゃうことがあるのですが、今年はまだです。

毎日目的的に同じ過ごし方をしていると、体調が悪くなり始めたときにはすぐに気づくので、それなりの対処ができますから、質的に転化する前に対処することができます。
どうにもならないときもありますが、それでも、高熱がでる前の晩には、「こりゃ明日はひどいのが来るぞ」という感覚がはっきりとありますから、予定はさほど乱さずにすんでいると思います。

倒れたら倒れたで、テープで手のひらをぐるぐる巻きにして文字を書いたりびっこを引きながらランニングしたりしなくても気持ちの上で納得ができ、「休む」という一点に集中できるので、疲れをじりじり引きずるよりもずっと効率的だったりもします。
ついでに、高熱のときには目を閉じると普段ではお目にかかれない光景が脳裏に煌めいているので、それをスケッチできるというおまけ付きで、人さまに迷惑をかけること以外には、むしろ楽しんでもおります。

◆◆◆

そうはいっても、倒れていないのだから仕方がない。
今年度をしっかりと終えるために、あと1ヶ月こそ大事にしてゆかねばなりません。

読者のみなさんも、厳格に期限を決めて目標を達成しようとしている場合には、期限が迫る最後の数日、最後の数分で、飛躍的に作品の質が上がることを経験したことがあるのではないかと思います。

わたしがピアノをはじめたときなんかも、3ヶ月でホルスト「木星」に取り組もうと思い、最後の日は期限が迫る数分前に、はじめてミスせずに弾ききれたものです。自分なりにでもそういう達成の経験があると、どれだけ無理だと言われても、ダメならダメだという結果を見事に出してやろう、言い訳できないくらいに取り組んで、正しく失敗してやろう、という気になります。

わたしは年末年始だといっても、学生との約束以外はガヤガヤしたところには行きませんが、その代わりに、自分で決めた目標が達成できるかどうかという意味では、ひとつの節目になっているわけです。

今年はすべて失ったと思ったら、その代わりに、というよりも失ったからこそ、大きなものを得ることができたというような、不思議な年です。
といっても、まだ終わっていませんから、読者のみなさんとも切磋琢磨、さいごまで走りきりましょう。

◆◆◆

ご報告したいことが山積みですが、とりあえずわかりやすいものから。

今回取り組んだのは、iPhone 4Sのケースです。
あたらしくスマートフォンユーザーになった学生たちと大量生産したスリーブ型と違って、フリップ型のもの。

左がそれ。写真の右は、手持ちのシンプルレザージャケット(パワーサポート販売、おそらくRethink製。トップページからは容易に飛べないところに掲載されているので、存在を知らなければ見つけられないと思います)
 すでに先達がいるので、友人から頼まれてすぐにイメージは湧きました。

高度な革漉き技術は道具も含めてないので、革の表を貼り合わせることはできない代わりに、革の裏地をストッキングで光沢が出るまで磨いてあります。

◆◆◆

縫い目も無いので、切り出した革を丁寧に処理すればできあがり。

といっても、裏地を放ったらかしにできないので、作業時間はむしろ伸びていますね。


裏面に粘着シートが貼ってありますが、オーナーに渡すまで糊付けはできないので、まだ丸みを帯びています。


革の素性が良いので、シンプルな構成もなかなかいいですね。
クリームを挟んだクッキーのようで、かわいいのではないでしょうか。

これまで着けたまま使うタイプのケースを作ってこなかったのは、どう工夫してもカメラが使いにくくなってしまうという欠点があると思っていたからですが、構えてみた感じでは、指が届けばむしろホールドしやすくなるかもしれない、という印象でした。

そのことや、糊がちゃんと付くのか、などの気になる点はオーナーに実験してもらわねばなりませんが、うまくいけば次にも続いてゆきそうです。

2011/11/21

自転車フロントバッグG3 (3)

(2のつづき)


前回の最後で、モチーフを「禅」、「静謐なもの」などと決めて、数点の資料を見てもらった上で、みなさんならどういうものにしてゆくか考えてみてください、と言ったのでしたね。

わたしがつくったのは、こんなふうなものでした。


えらく直線的な顔になったなあと思われるかもしれません。
ところが、今回はこちらは正面ではなく、背面側です。

わたしははじめに、オーナーが乗車中に仕舞ったものを取り出すときに、手前に開かなければならないことを問題視していました。
なぜならハンドルバーには、ライトや、最近ではGPSとしてスマートフォンを取り付けることが多いですから、フタが手前開きだとそれらに干渉してしまうのです。

◆◆◆

わたしは今回のバッグは、自転車はもちろん、乗り手にも寄り添って、乗り手が真っ白なキャンパスを自分の色に染め上げることができるようなものにしたいと思いました。

そういう理由で、正面はこうなりました。


これまでの流れとはずいぶん違っているので、はじめはぎょっとされるだろうな、と思っています。
そのために、作品をして語らしめるという原則を踏み外していさかか饒舌にすぎるとは思いつつ、ご説明を加える次第です。(モノそのものと自分で向き合いたい場合には、読まれなくてもけっこうです。解釈は押し付けるものではありませんから)

オーナーがモチーフとして選んだコンチョの色合いに、バッグ全体を染め上げようとしたときには、この構成が最も良いと思ったのです。
中央よりもやや上に配置されたコンチョ用の穴は、上部と下部を黄金比で分ける地点(1:1.618)に位置しています。
位置を決める際には、あらゆる地点にコンチョを配置したあと、良い配分だと感じられたところにポイントを置いてみて、それが黄金比とどのような違いがあるのかを洗い出した上で決めました。
しかしその上でも最終的に、自転車全体の調和を考えたときにもこの位置がやはりベストだと判断しました。

また、正面の配分だけでは顔としてはシンプルにすぎるところがあるであろうことは、製作段階から意識しており、そこに、無地でありながら全体を整えるという矛盾を統一するための色むらを加えています。
色むらは、革全体に柿渋染めを施したあと、小さい筆で一本一本線を引き、乾かしたあとまた重ねて引くという工程で少しずつつけて、齢を重ねるたびに増してゆく積層がその人そのものであることを表現しようとしました。
漫画家の弟子と、定規なしで鉛筆で一の字を書く修練をしたことが使えました。

ちなみに、柿渋染めには独特の匂いがあり、銀杏の実のにおい、といえばみなさんにも想像してもらえるでしょうか。
作業している本人は慣れていますが、そのおかげで作業場のドアを開けるとすごいことになっているらしいです(って、わたしの書斎じゃん!)。
引渡しは臭いがとれたときがよいでしょうか。

◆◆◆

右側面から見ると、オーナーにご指定いただいていたとおりのサイズの、真四角の右肩に、丸い棒がとおしてあるのが見えると思います。

蓋の開閉時の強度を保つとともに、全体としてはすべての角で棒のアールを維持しながら、ひとつの角を削ったことで「完全-1」というモチーフを盛り込むようになっています。



◆◆◆

さきほどの写真で、下側にも棒があることに気づかれた方がおられるかと思いますが、あれは自転車のキャリアとの固定のために使われています。

自転車のキャリアを見て、どう使うかわかるでしょうか。



◆◆◆

真ん中の穴に棒をとおして、




固定します。

はじめは、蓋のところに通した棒と同じ直径10mmのものを使えればいいなと思っていたのですが、キャリアのワッシャー部分と干渉してキツキツだったので少しずつ削っていたら、菜箸みたいな形になりました。
万が一旅先で折れてしまったときにでも、現地でなんとかできるのが自転車用の部品としてはふさわしいですからそのように設計してあり、6~8mmくらいの棒状のものであればなんでも使えると思います。

◆◆◆

いちおう、背面の月カン(金具)にベルトも通せますが、



下の写真のように、実際には必要ありません。


自転車をお借りして、数十キロ走ってみましたが、ベルト無しで問題ありませんでした。
おそらく、ライトなんかの他のパーツが外れて飛んでいったとしても、バッグだけは自転車にしがみついたままなのではないかしら、というような強度です。

支点なしで宙に浮いているようなものにしたかったので、「どうやって留まっているんだろう?」と思ってもらえれば成功でしょうか。

◆◆◆

今回背面に使った月カンは、あまり見ることのできない種類の金具です。
いつものDカンと機能的に違うのは、今回の場合で言えば、金具付きのベルトと、フタ側のベルトを2本通すことができる、ということにつきます。


上の写真のように、∞ループにすると、リアキャリアとしてBrooksなんかのサドルの金具にも留めることができます。

◆◆◆

背面のデザインを少し上から(オーナーの視点から)見ると、少しずつ間隔を広げつつ下へと折り重なってゆく層を見ることができます。
これは、「フィボナッチ数列」および「黄金比」の数字を使っていますが、わたしとしてはむしろ、日本庭園に置かれている積み石(前回の記事でご紹介した画像にもあったような)をイメージしました。

層が重なりあうことで土台が確からしいものとして馴染んでゆくことを表現するために、いちばん下の層は、それぞれの経験が土台そのものとなって溶け込んでゆくことを意識し、あえて明確なステッチをつけずに、見えない線を見る人の頭の中にだけ持ってもらうことを願ったものです。


◆◆◆

2つのマグネットで留められた、かっちりした形のフタを開けると、オーナーにだけ見えるところにゆるやかな丸みを持った下の顔が現れます。

激しい青年時代を送った人ほど齢を重ねると…ということですね。


◆◆◆

丸みをもったデザインは、荷物が増えたときに容量を増やすためのフラップという機能と統一させて存在しています。

いちばん容量を増やしたときにはこんな顔です。
ロックの役目を果たしている金具は、ギボシといい、今回はじめて使いましたが、3mmの革に通すと思いの外、というかめちゃくちゃ丈夫でした。
普段の状態では、ここを外し忘れていると、どう蓋を引っ張ってもテコでも開かないほどです。


◆◆◆

さいご、ためしに手持ちの別のコンチョをつけてみたところです。(チェコ共和国の硬貨)

オーナーが選んだコンチョによって、表情がとても大きく変わるのではないかなと思います。これまでのG1とG2は、コンチョをモチーフとして全体の構成を決めていたので、いったん決めたコンチョはどうしても動かすことができませんでした。
当初指定されていたコンチョは40mmほどの、コンチョとしては異例に大きなものでしたから、オーナーの手でどう変わってゆくかが楽しみです。


◆◆◆

以上、普段はここまで突っ込んで説明することはありませんが、ものづくりの過程を見てもらうのは読者のみなさんにとっても少しは刺激になるかなと思い、恥を忍んで書き連ねてきた次第です。

余談ですが、あえて蓋に表情を付けなかったことによって、かえってG1やG2のような表情をもった革を追加で付け加えることも容易になりました。(回り道がかえって近道、否定の否定。進化の本質、すなわち相対的な独立。)

さらにいえば、G1やG2と違って、固定された世界観がないことで、アンティークショップで見つけることの出来るような取っ手などを付けることもできるようになりました。

真鍮製取手リスト(ArtCrewさんのショップから)
ご自分でものの使い方や向き合い方を突き詰めてゆくことができる人の場合には、作り手が世界観を提示するよりも、そういった楽しみ方をされるのではないかなと思いますから、いわばわたしがこれを渡させていただいたときからが、オーナーさんにとってはほんとうの始まりだと言えるのではないでしょうか。


わたしにとっては今のところ、これ以上のものは影も形も思いつきません。
研究にしろ趣味にしろ自分が昨日作ったものを今日はぶっ潰して乗り越える、くらいの気持ちでいつもいます(裏を返せば過程にこそ本質がある、ということです)が、今回はなんだかすべてを出し切ったような気しかしません。
これでも、ほんとうにまだ先があるのでしょうか。

オーナーをはじめ、読者のみなさんの批判を仰ぎたいところです。


(了)

自転車フロントバッグG3 (2)

(1のつづき)


さてそうして、そもそも、「自転車用バッグとはどういうものなのか?」と問いかけることにすると、一般的なバッグのあり方を無批判にそのまま自転車用としても押し付けようとする姿勢を改めてゆかねばなりません。

その自覚は、G2を作り終えた直後からおぼろげながら持っていたのですが、徹底的に自転車に、そしてまたその乗り手に寄り添うかたちを模索しようとしても、G1とG2の影がちらついて、なかなかに発想を切り替えることができないでいました。

それが今回の自転車のオーナーと議論していく中で、明確な像として描けるようになっていったのでした。

その方が含めてほしいモチーフとしておっしゃったのは、以下のようなキーワードであったと思います。
・禅(ミニマリズム)
・完全-1(完全からひとつ少ない形)
・和と洋
・黄金比と白銀比
・フィボナッチ数列(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21…)

またサイズは、幅260*高さ160*奥行き160(mm)と指定があり、幅と高さ及び奥行きも黄金比をとりたいからであるとのことでした。

さらには、黄金比と対応するものとしてオウムガイの殻まで持参していただいたことは、黄金比というのはあくまでも人類がその歴史の中で自然との対話の中から見出してきた法則なのであって、「黄金比がはじめにありきなのではない」ということを、改めて確認させていただいたものでした。

◆◆◆

わたしはそれを聞いて、見て、とても嬉しくなりました。

この方が、ものづくりというものをよくお分かりになっていることがよくわかったからです。
というのも、ものづくりをするにあたっては、そのオーナーの想いこそが最終的な作品として現れるのであって、オーナーが「適当に頼む」と丸投げしたものをわたしがつくることほどつまらないことはないのです。
いわば、ものづくりの出発点とは、あくまでもオーナーと作り手との共同作業こそを指していたのであって、現代の大量生産のあり方をいきなりその本質に押し付けてはいけません。
前回のオーナーとの議論もそうでしたが、こういった人たちがあってこそのものづくりなのだな、と改めて感謝の念を深めました。

さて、わたしが上のお話を聞いたときに、それまでのものづくりのなかで脳裏に浮かんでいたおぼろげな像が、ある形を取り始めているのを意識していました。
このBlogでたまに言う、「パッパッパッと脳みそに電気が走る」という感覚(おかしいでしょうか?でもほかに表現しようがないんだよねえ…)、あれです。

それが先週の土曜日で、わたしはその方を駅まで見送ったあと、自宅に帰るとすぐに図面を書き始めました。
しかし出来上がったものは、それまでにやったことのない技術が数件含まれていて、失敗すると260*1000mmほどの大きな革が無駄になってしまうという案でした。

果たしてやれるのか?と湯船に顔をつけながら思ったのですが、ダメならダメだということがわかるのが前進である、との一念ではじめることになりました。
根が楽観主義なのは、人生にとって大きな資産なのかもしれません。
昨日と今日が東北行きでしたから、それまでに完成させたかったことも背中を後押ししていました。

◆◆◆

実際の作業工程については、本年度の総決算にふさわしいと思える内実がありましたが、ものづくりをしない方にとっては退屈そのものでしょうから、結論だけを書くことにしますと、いわゆる「職人芸」の持っている構造が以前よりもはっきりと浮かび上がってきたことは収穫でした。

革細工・革工作をするときには、まず大まかな型紙をつくり、それに基づいてサイズ感を確かめたあと、革を切り出す作業に入ります。
そこから観念的に持った目的像を目指すようにして手を動かして、細部を煮詰めてゆきますが、それとともに型紙にも細かな線や注釈を付け加えてゆきますから、作業の進展と浸透する形で型紙のあり方もより詳細で明確なものになってゆくのです。
そうして、作品が出来上がったことと直接に完成した型紙こそが、いわば理論となって、次の作業工程を照らす導きの石となるわけです。

これまでが、設計図と素材から完成までの工程との一般的な構造ですが、なおのこと重要なことに、型紙が理論であっても、それが人譲りのものであるか、自分で構築したものであるかには、大きな違いがあるということなのです。
どこに違いがあるのかといえば、後者には結論的な型紙を導いたもろもろの経験が過程として止揚されているということであり、それはつまり、ものづくりの重要さとは、理論にあること以上に、理論そのものの導き方にある、ということを示唆してもいるのです。

たとえば、直径10mmの棒に3mmの厚みのある革を巻きつけたときに、それは合計でどれくらいの厚みになるのか?一般的に考えれば16mmでよさそうに思えるが、革の質によって違いが出ることはないのか?濡らすとどうなるか?そのあと乾かすとどうなるか?縫いつけたあと濡らすほうがよいのか?…
そういったふうに、いまの自分の作業を取り巻く制限を鮮やかに意識し、理論的に確からしいところにまで追い詰めたあとで実際に作業を進め、「正しく失敗する」という経験を通して自らの認識のあり方そのものを深化させてゆく、その、理論そのものの導き方に職人芸と呼ばれる技の妙があります。

これまで闇に閉ざされていたそういった技術を、認識論と論理学(弁証法)を武器にして理論化し万人の資産としてゆくことは、なかなかにエキサイティングです。

◆◆◆

そういうわけで、ものづくりに片足を突っ込んでいる読者のみなさんは、今度わたしと食事に行ったときに両手を振り回して喚き立てるのをうっとおしいと思うかもしれませんが、大目に見てやってください。

さて構造、構造と言うのも聞きあきたと思うので、次回ではそろそろ実際にできたものを公開して批判を仰ごうと思うのですが、その前に、わたしが適当に拾ってきた資料の中で印象的だったものを見て、自分だったらどんなものにするだろうかと考えてみてください。





わたしは、この前のお休み言い訳記事で書いておいたように、「静謐なもの」にしたいと思いました。
それは、とりもなおさずわたしが感じているオーナーの人柄に由来するところが多分にありますが、静謐で、どこにおいても場を乱さないものであるとともに、すっと立てた軸に柔らかな衣装をまとっていて、くっきりとした輪郭ながらどこかに丸みをおびているようなもの、といったようなイメージであると言えば、わかったようなわからないような、というくらいには像を描いてもらえるでしょうか。

激しい生き方をしてきた人ほど、齢を重ねるごとに同じだけのやさしさをみにつけてゆくことを、みなさんも生きた実例として何人かはお会いになったことがあるのではないでしょうか。

わたしは今回の作品で、もしそういうものができれば、これまで創り上げてきたものを過去に葬り去り、一から積み上げ直してゆくためのあたらしい土台ができるのではないか、と感じたのです。

弁証法で言う、第一の否定、ですね。


(2につづく)

2011/11/20

自転車フロントバッグG3 (1)

帰ってきました。


いきなりどうでもいい話なのですが、わたしの予定の立て方は原則論そのままなので、たとえば一ヶ月に6000単語覚えることにすると、一日に200単語覚えなければなりません。
一日お休みして今日のぶんを明日やることにすると、明日は400単語覚えなければならないことになりますが、そんな余裕のある予定は立てない(実力以上のことをやろうとしないと今の実力もわかりません(対立物の相互浸透)から)ので、休日にどこかに出かけるということは、そのまま積み残しが増えることを意味しています。

そういうわけで、積み残しをまんべんなく割り振って消化することを考えると、1ヶ月に研究と直接関係のないことをする日はどう頑張っても数日なのですが、11月の休日といえば秋らしくイベントだらけだったので、恐ろしいスケジュールでした。
約束した友人との約束なんかは、前もって準備しておけますが、やはり限度というものがありますからね。

ここのBlogの更新をお休みしたぶんで1日に90分ずつを使えたので、ずいぶん助かりました。
ともあれ、毎日の締めに、真剣な勉強の場として、と見に来てくださっているみなさんにはご迷惑をおかけしました。

わたしの本に囲まれた研究部屋の机には、自分にとってゆるがせにできない事柄の書かれた紙が貼ってあり、毎日目を通してから一日をはじめます。
そのうちの一枚は、「後進を裏切らない」というものです。
以前には対象化された観念としての意味を持たせて、命令形で「後進を裏切るな」と書いていたものを、数年間向き合い続けて、観念的にも実体的にも技として身についたことを繰り返し確認した上で、こう書き換えたのでした。

人間として道をつないでゆくことを少しでも考えるのであれば、若い頃には喉から手が出るほど希んで探し回っても、どうしても得られなかったその人物になってゆくことが真っ当だと思えばこそです。

後輩の頃にいわれのない理由で先輩からいじめられた経験のある人は、自分が先輩の立場になったときにも、同じことをするばかりしか道はないのでしょうか?わたしはそうは思いません。

◆◆◆

さて、休み明けにいきなりこれでは重苦しいでしょうか。

でも今回の記事は、タイトルの通りのものなので、構えてしまった読者の方は気を緩めてもらってもけっこうです。

わたしは前に、自分であたらしい道を切り開いてゆこうとする者は、結果を出してはじめてまともに評価されるのであって、その途上で諦めるのならば気狂いとして命を終えるのだ、といったふうなお話をしたような覚えがあります。
そのときは、本質的な事柄を追求する道を選ぶのなら、そのくらいの不理解は当然なのだから、少々のことではめげないでください、とお伝えしたかったのだと思うのですが、人生の途中には、たとえ道半ばにしても、自分の見ているものと同じ事柄を見つめており、成果が未だ成さざる時にも自分のことを評価してくださる人がいるものです。
わたしたちはそれに甘えているわけにはゆかないのですが、それはそうだとしても、それが得難い出逢いであることには何らの変わりも無いでしょう。

わたしは今回、わたしにとってのそういう人とものづくりをすることになり、自分にできることすべて発揮するために、これまでの経緯を改めて振り返ってみたのでした。

左から、フロントバッグG1, G2、サイドバッグ。
今回つくるのは、革製のフロントバッグなので、以前に作ったG1とG2につづく、「G3」とでも呼ぶべきものを考えてゆけばよかったのです。

しかしわたしは以前にG2をつくるとき、こういうことを言いました。
(ふたつめにつくるバッグに「G2=第二世代」と名付けて)「世代」などというものものしいことばを使うのは、ひとつの革細工をするたびに、前の世代を作って、使ってわかった欠点をしっかりと克服して、あたらしい世代として作り上げてゆきたいと思っているからです。
このことばが、自分でも大きな壁となって立ち現れました。

G1は、試作品という名目で、自分だけが使えればよいものができればそれでよかったし、それをたたき台として友人のために完成形であるG2を提供できたのはよかった。
しかし、この現時点での自分の実力に見合うものだけをこの先もずっと作り続けてゆくことが、自分の仕事なのだろうか?

そう思ったのです。

◆◆◆

G1は、そもそも「一般的なバッグを自転車に取り付けよう」と考えて作られたバッグであり、G2もその制約の中にありました。

しかし、一般的なバッグの形が、そもそも自転車用という特殊性にすべての意味で合致するか?と問われれば、そんなことはない、というのが正しい答えなのです。
わたしはこれまで封じられてきたその問いかけに、改めて向き合うことにしました。
原則に立ち返って、「そもそも〜とはなんなのか?」と問いかけることは、本質的な前進のためにはどんな事柄にとっても必要なことですからね。

ひとまず手持ちのG1を依頼された自転車に取り付けてみると、こんなふうになりました。




もしみなさんが、自転車に乗った状態でこのバッグから仕舞っておいたものを取り出すとしたら、はたして使い勝手がよいだろうか?と考えてみてください。

わたしが上の写真などから読み取った問題点は、以下のようでした。
・蓋の開閉時には、鞄の前まで手を伸ばして手探りでヒネリ(金具)を探す必要がある
・蓋を開くと、使い手の側にベロンと垂れ下がってくる
・今回の自転車の場合には、ベルトがライトの発する光と干渉する

このことはまた、バッグの作成時にも、「手探りで見つけることのできる場所、凹み過ぎない強度の確保できるところにヒネリを設置しなくてはならない」などという制約も産み出してしまいます。

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また、使い勝手の問題とは別に、「自転車の顔」というデザイン面での問題が、わたしをずっと悩ませてきました。

わたしはバッグを作るときに、コンチョなどからモチーフを決めて、そのバッグの顔になるフタを取り付けます。これは、サイドバッグでも同じです。
市販のバッグがただの丸みや面白みのない直線ですませてしまうところを、あえて個性的なデザインを凝らしてきました。

しかしここには、「どうせ自分たちで作るのだから、市販のバッグにはないものにしたい」という発想も含まれており、いわばこれは、世にあるものから逆算してきた独自性でしかないとも言えるわけです。

そうすると、独自のものを作ったといいながら、結局のところ、既存のものから逆算しただけの、悪く言えば「奇を衒った」ものなのではないか、ということすら言えなくもないことになるのです。

しかし本質的な問いかけは、あくまでも、世にあるものがどうであるということなのではなく、
「自転車用バッグとはどういうものか?」
という一点に帰せられるべきです。


(2につづく)