2010/12/04

感受性というものの周辺 01:その困難

ある人と話していたら、ふとした拍子に、こんな話になった。


「ひとりで考え事をしていると、あるときに、元の立場と比べて、
おお〜けっこう考えられたな、と思えるようなところまで出てくることがあるでしょう。
でも、いやまてよと思って、もう一度考えを深めてみると、
結局元の立場と同じところに戻ってくることってありませんか。」

思い当たる節があったので、「そうですね、わたしも経験がありますよ。」
とお答えしたら破顔一笑。

「そうですか!ワタシだけヘンなのかと思ってました。」

どうやら、同じ話を他の人にしたときには、
よくて「ええ〜、まあ言われてみたらそうかな?」
といった反応しか返ってこなかったらしい。

無理もないことだろうと思う。

そのあと、0と1という概念のあいだの隔絶についてや、
幼少の頃に読んだ物語が自分の生き方を如何に支えてくれたか、
そしてまた、自分の運動を振り返ったときにあらわれる矛盾などについて、
時間を忘れて話すことになった。

せっかくの料理はすっかり冷めてしまったのだが、楽しい時間であった。

しかしそのどれもが、「考えたことのある人にしかわからない」といったもので、
この「分かってもらえなさ」は、さぞかし堪えただろうなと感じ入ったものである。

こういう、感受性のある人とそうでない人との差は、
持っていない者からすれば理解の埒外だが、
それを持ってしまった側から見れば、決定的に明確である。


そういうわけで、
今回は、「感受性」というものについてお話することにしましょう。

◆◆◆

彼女は、一般的な日本人の観点からすると、やや独特の環境で育った人である。
今回の話と関係のある条件を取り上げると、
「小さい頃からひとりでいる時間が長かった」ということだ。


ここには、他人からその内面を理解されにくくしている一つの要素がある。


いわゆる「感受性」というものは、
幼少の、それこそ常識的な大人の判断からは想像もつかないほどの幼少の頃から、
正確にいえばおぎゃあとこの世に人間としての生を授かった瞬間からの、
認識の深い蓄積に理由がある。

そうだから、わたしたちにはその人が量質転化しきった土台で物事を感じ取る姿しか、
見て取ることができない。
そうであればこそ、それは勘違いして捉えられがちである。

端的にいえば、「感受性」は、後天的ではなく先天的なものとして見られがちなのだ。
しかしこれは誤りで、感受性というものほど、後天的なものはない。
あくまで、環境の中で育まれたものである。(海保静子『育児の認識学』)

その証拠と言っては何だが、何百人も学生と関わっていると、
その人の性格や振る舞いを見ていれば、どういった家庭で育ったかはわりと検討がつく。
もちろんそんなことはおくびに出すわけにもいかないので黙っているわけであるが、
5年ほどでも目的的に観察していれば、大体の場合はまともな観察眼がつくのである。
「そんなバカな」と思われる方は、申し訳ないが問題意識が低いのだ。

(もちろんわたしの居る環境は、接する人間といえば学生たちがほとんどなので、
把握の仕方が、その特殊性に規定されている部分は少なくないのだが。
しかしそれでも、完成しつつある人格を間近で見られることはたしかである。)


これが、「感受性」にまつわる困難、
それを捉えにくくしている原因の一つである。

要すると、「感受性というものは先天的だから、わかりようがない」という、
感受性そのものにたいする思い込み、である。

◆◆◆

わたし自身も、どちらかと言わずともそういうものを持ってしまった側の人間であったから、
いわゆる感受性の乏しい人の振る舞いを見ていると、
人間の本性というものに、極めて懐疑的になったものだ。

「なぜこの人たちは、相手の気持が分からないのだろう。
相手の立場に立ったことがあるのだろうか…」

そう思ったことは、一度や二度ではない。


それだから、尊敬できる大人というものも、ものすごく限られた人数で、
しかも限られた種類の人間ばかりであった。

いわゆる芸術家肌の人間というのが、それである。
いまでも、典型的な体育会系商社マンのような(あくまでイメージである)、
よくも悪くもツルッとした質の人とは、どうもわからない話があるという感触がある。

そんな中にあって一流の経営者というものは、
彼らとは一線を画しているのだから、さぞかし大変だろうなと思う。

◆◆◆

ではそうすると、感受性というものは、それを持ち得なかった人間にとっては、
未来永劫理解できない種類のものなのだろうか。

これが二つ目の困難、「感受性をどう教育するか」が解かれてこなかった

感受性は教育しうるか。
答えから言っておくと、できる。
できるが、いくつかの条件がある。
20代であること、それにまともな論理性のある教育を受け自身も努力すること、である。

「まともな論理性のある」とことわったのは、感受性を育むと言っておきながら、
「感受性を持つよう心がけろ」とか、「人の気持ちになって考えろ」とかいう、
単なる注意を与えることは、決して教育などではないからである。

それがわからないから教育を受けに来ているのに、
肝心の答えをはぐらかされては何の意味もない。
大事なのは、過程についての理解なのだ。


これからそれを論じる前に、まずは考えてみてほしい。
「小さい頃から一人でいることが多かった」人が、
どういう過程を経て「強い感受性」を個性として持つことになっていくのか。
(モンゴメリ『赤毛のアン』)

◆◆◆

しかしともあれ、感受性を持ってしまった人間にとっては、
持ってしまったからには、それを抱えて生きてゆくほかない。
一旦わかってしまったものを、忘れてしまうことはできないからである。
(自分の性質に馴染んで慣れてゆく、という仕方はもちろんある。)

彼ら・彼女らは、偶然の出会いというもの以外に、
どうしたらその内面を理解してもらえるだろうか。
理解されるには言わずもながら相手となる人間が必要なのだが、
今の世の中のどこに、その相手になるはずの人間を育ててくれる場、
言い換えれば「感受性」を訓練してくれる場があるだろうか。


看護学などはさすがで、この問題に真正面から取り組み、
この訓練を怠ってはいないから、
学問的に見てもこれ以上ないほどの教育がなされているものだ。
看護に携わる先生方の、学生を見る目というものには、いつも深く感心させられる。


わたしの知り合いが看護学校に通っていたときの経験だが、
朝礼が終わったあとすぐに、教員室に来るように呼ばれたという。
彼女はそこで胸の内を言い当てられ、まさかとの思いと共に、
理解者がいてくれたことの安心感で涙が止まらなかったという。
実は、彼女の周辺で、ある不幸があったのだ。

彼女はそのときのことを思い返して、
自分の顔を一目見ただけで、彼女がどういう精神状態にあるか、
そして、周辺の事情から、その理由を結びつけてわかっておられたのだろう、
と言っていた。

さらに驚くべきは、彼女の気丈な人柄のためか、
当時にはそのことそのものが、彼女にすら自覚されていなかったことである。
「他の友人とは違って、わたしだけは気にしていない」と思っていたそうなのだ。
友人の不幸のなか、「わたしだけはしっかりしていなければ」という態度で
いつものように振舞っていた彼女の心中を、ひと目で理解したわけである。

当人が無自覚の事象すら読み取ってしまうという凄まじい認識と論理の力こそ、
専門家が専門家たるゆえんである。

◆◆◆

ところが、いざ一般の社会に目を向ければ、
こういった教師が、自身の行動を持って後進を育てるという
まともな教育は、どこを見渡しても望むべくもないことであろう。

看護をする立場に立てばわかるように、自分が経験したこともないような
人生を送ってきた患者の立場に立つことこそが、仕事そのものなのである。
しかも、自分の何倍もの齢を重ねてきた人間が相手ともなれば、
その困難さはわかってくるであろう。

相手は、赤の他人で、しかも歳上である。
それでも、ふつうならば想像しがたいそういったあらゆる困難を乗り越えて、
相手の人生を「我が一身に繰り返す」ことができなければならないのである。


しかも、事はそれだけではない。
まず観念的に、相手の認識というものを自分のアタマの中に持っておかねばならないし、
その上に、そこから自分の認識の方へ、もどってこなければならない。
(薄井坦子『科学的看護論』)

つまり、感受性だけを武器にして、相手の立場にたって、
彼や彼女の経験に同調するあまり、共に泣き果てていてはいけないのである。
まず彼らの主観にもぐってゆき、そこからさらに客観の世界に戻ってこなければ、
疲れすぎてやっていけないし、診断や治療などできるわけがない。

要すると、感受性と共に、いわゆる「精神力」というものが、どうしても必要になる
これが、感受性にまつわる困難の3つめの要素である。

◆◆◆

なるほど、と頷いておられる読者の方に、念の為に釘を差しておきたいのだが、
わたしたちの生きている現代日本は、よくも悪くも経済観念が前に出てきてしまうから、
これを、日々の多くの時間を過ごす「社会人」としての観点から理解することはできないことを、まずは知っておいてほしい。


ビジネスの観点から見る人間というものは、いいところ統計的な人間像か、
または購買活動をするときの人間像として特殊的に偏っているのであり、
組織人として活動しているときに見るそれは、全的な人間像ではない。

証拠に、営業マンとして先陣をきって働き、
取引先や消費者の動向は手に取るように分かる方でも、
自分の娘の心情というものはなかなかに理解しがたいであろう。

もし彼が、少女むけの商品を扱っていたとしても、事情はそう変りない。
購買動機というものは、人間の極めて特殊な行動でしかないからである。
その経験を押し広げて、人間像全体を考えてしまうことは、
できるはずもないし、してはいけない。

組織人としてトップでバリバリと働いておられて、何かの拍子に倒れ、
病院に何日か療養したあとの人間が、生まれ変わったようにさっぱりすることがある。
あれは、組織人としての観点以外の人間像が存在することに気づかされた、というのが原因の一つなのだ。

また、生産の場である職場に対して、
「家庭」が再生産の場であるという理由も、ここにある。

◆◆◆

ここまで書いておけば、感受性、というものについての誤解や、
それを理解する上での困難さというものが、少しは伝わったと思う。


このエントリーのタイトルは、実ははじめ、
「感受性とはどういうものか」としていた。

ところが書いていくうちに、そのものを直接とらえて論じたとしても、
それだけではあまり意味がないのではないかと思うようになった。

というのは、「感受性というのはこれこれこういうものである」
ということを、論理的になるほどと理解されると、実態の像が
読み取られないままになってしまうかもしれない、と感じたのである。

言わば、形式はわかっても内容が伝わらなければ、
わかった気にだけなってしまう危険があると思ったのだ。
なにしろ、いちばん他人を傷つけるのが、
相手の気持ちをわかったと思い込んでいるばあいの失敗なのだから。


そういうわけで、やや冗長になってしまうが、
表象段階の説明を入れながら、何回かに分けて論じてゆくことにしたい。
(表象というのは、現象をやや一般化したものを指す)

冒頭で出た、「考えがぐるぐるまわるのはなぜか」についても、
その形式について論じてゆこう。

3 件のコメント:

  1. 幼少期、一人が多かったので私にも感受性があるのかな?

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  2. >しかしともあれ、感受性を持ってしまった人間にとっては、
    持ってしまったからには、それを抱えて生きてゆくほかない…


    こんな風に~感じないで…考えないで…生きられたら、どんなに楽だろう!?
    そんな風に考えいた、あの頃が懐かしく想い出されました。
    結局、「私」は『私』として生きてゆくしかない!と腹を決め突き進むことした!だろう?あの時…。


     わたしの心に響いてくる言葉に内容の数々をありがとうございます。
     いつの日にか?!出逢えることを…心待ちに~♪♪♪

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  3. ここで、約一年前の「私」に出会えた。

    >なにしろ、いちばん他人を傷つけるのが、
     相手の気持ちをわかったと思い込んでい
     るばあいの失敗なのだから。

    今の私には一年前の私の気持ちが、
    本当に~分かっているのだろうか?

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