2010/12/03

いまさらですが当ブログについて

ここに書き散らしたことへ、ご意見をいただくことがある。


このブログはコメントが全然つかない平和な場所なので、
端から見ていると誰が読んでいるのか、
といった感想があってもおかしくなさそうだけど、実は意外と読者がいるのかもしれない。

姿勢を正していちおうことわっておきますと、
ここはわたしと、わたしの弟子たちが学問的なテーマで物事を論じるときの場、
ということになっています。

どっからコンタクトとるんだ、というひとは、
buckets_blogあっとまーくmac.com
にメールをいただければ幸いです。たまに見ます。

もちろん、コメント欄に直接ご連絡いただいてもかまいません。

◆◆◆

以下はどうでもいい雑記なので、忙しい人は無視してください。

◆◆◆

上のことわりを書いていてあらためて思ったことがある。

わたしはなにしろコネというものに興味がなく、
mixiやfacebookとかのSNSは全然手を出さないので、誘われたときには、
「ここは更新しないと思うので直接メールください」
といったふざけた文句を書き残して、ぷいっと消えちゃうのだ。

現実世界でも、仕事が終わったらランニングやら添削があるので、呑みにも行かない。
実のところ、学生に「なにか書いてください」と言われなければ、ここも書かないだろう。


そういえば、以前に、ある人に、友達は何人かと聞かれたことがあって、
わたしはそんなことは考えたこともなかったものだから、
「携帯電話に登録しているのは500人くらいです」
と答えたのだった。

そうすると、
「そんなウソをつかないといけないなんて寂しいなあ、
本当の友達をつくっておかないと、困ったときに誰も助けてくれんぞ」
と返された。(誇張ではない)


その人は、どうやらわたしが友人の少ないことを気にするあまり、
無理に多く見積もっていると思ったようだ。
誤解には慣れているつもりだったが、これには面食らった。

そうか、世の人は友人の数を競うものだったか…
そういえば、「友達100人出来るかな」って歌もあったっけ。

◆◆◆

わたしの友達観というものは、世の中とはずいぶんズレているようで、
遊びに誘ったりという意味では、基本的にはわたしから声をかけることはないのである。

大学時代は、学校が終わってから2つアルバイトをし、
週末が空いたらキャンセル待ちして海外へ、という生活をしていた。
月曜の朝のフライトで、そのままの足で授業に行くのだ。
卒業してからも、やることは変わったけれど、
時間の密度からいえば似たようなものである。

まあ要するに、どうしようもないマイペースで、協調性がないのである。
これだけ言うとおもっきり誤解されるが、
友達なんかなくてもやっていけるのである。


それでもいくらかは友人関係を保てているというのは、
ひとえに気の良い友人のおかげというものである。
わたしの努力というものはほとんどない。
わたしがこういう人間だからこその、得難い友人なのだ。
そうであるから、この人たちだけは、いなければ絶対にこまると分かるのである。

◆◆◆

翻って見るに、世の人たちは、友達というものをどういうふうに考えているのだろうか。
上で出した人の話でいえば、
「困ったときに助けてくれる」かどうか、
という要素がけっこう大きいのだろうか。

わたしも友人には助けられていると思う。
しかしだからといって、助けてもらえるかどうかを吟味して人を選んだことはない。

ついでにいえば、わたしはどちらかと言えば、
500人の内訳の95%以上が後進たちなので、「形の上では」助けている方が多いだろう。
現にいまも、毎日違った人たちの論文と研究に、自己PRを添削しているもの。

おまけに、その人たちといえば、
担当するはずの教師からそっぽを向かれたり、社会不適合者だと爪弾きにされたり、
動機の人間からも使えないと罵られたりしている人間が多い。
わたしが見たところも、どーしようもない奴だなあ、と思うし、実際にそう言っている。

しかしそんなことは、どうでもいいのである。

わたしがなにか不味いことになったときに、誰も助けてくれなくても別に構わない。
実のところ、これだけの数をさばいていれば、
いざ卒業や就職が決まれば連絡一つよこさない人間がほとんど、ということになる。
しかしそれでも一向にかまわないではないか。

むしろそんなことを考えていたら、人付き合いなど始められんと思うのだ。

◆◆◆

わたしから取るものがあったら、遠慮無くいくらでも取っていくといい。
それが物質的なモノとなると、出るところに出さなければならんが、
形のないものなんか、いくらでもくれてやるというものである。

わたしのところに出入りしているある人なんかは、
肩を触れ合ったというレベルの出会いを経てからずっと、
親元に帰ってくるたびに新しい話題を持って会いに来てくれる。

だから、わたしはそれに応えられるだけのものを持っていようと、
常々思えているのだ。


上で言った「どーしようもない」人たちも、
本人の志と努力次第では、1年ほどでモノになることがわかっているのである。
そのための方法を、共にずっと探して、コツコツ磨いてきたし、
いまも高めあっているところなのである。
そういう意味で、わたしが一番の勉強になっているのだ、掛け値なしに。

社会から見捨てられた燃えカスを、
ピカピカの原石にまで磨いてやれた日のうれしさといったら!
これほどの喜びというものは、味わったことのない人には決してわからない。

ここに我あり。これぞ人間冥利に尽きる。


だから、
パクれるものがあるなら勝手にパクれ、礼は要らん。


そんなふうに生きていたほうが、ピリピリしなくて楽ではないですか。
その上でなにか返ってきたら、それこそ僥倖というものである。

◆◆◆

どうでもいいついでだけど、
この前ひさしぶりに一斉送信と思しきメールをくれた人がいて、
そのなかにこんな文言があって笑ってしまった。

「××学校出身の××です。現職××です。
携帯電話を替えたので、ぜひとも更新をお願いします。
コネは大事です。」

お前はコネだ。
こんなことを言われて、なるほどそれは有り難い、と思える人っているのだろうか。


どうも、コネはカネになるということだそうですが、
少なくともわたしの場合は、一銭にもならんと思うのです。

3 件のコメント:

  1. 正誤の指摘をいただきました。
    文中の「動機」は「同期」ですね。すみません。

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  2. 勝手ながら、勝海舟と清水次郎長の会話を思い出しました。

    勝海舟:「お前のために命を捨てる子分は何人おるかえ?」

    清水次郎長:「一人もおりません。」
          「ですが、わっちはあやつらのために命を投げ出せます。」

    愚問ですね。
    私事で失礼いたしました。

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  3. 改めて読み返したら、
    とても楽しく感じました。
    なんか、幸せな気分です。

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