もののついでに述べておきますと、文中で使った「健常者」という言葉について、感情的な感触から言えばわたしは好きではありません。できれば使いたくなかったのですが、湾曲表現はかえって読者の理解を妨げると思ったのでそのままにしてあります。軽率な表現と感じる方がおられましたら謝ります。
そう言うのも、わたしの数少ない経験の中でも、健常者ではないと見做されている方の中にも、健常者とされる人間以上に前向きで、器質的欠陥をなんらのハンデとされない方もおられることを見てきているからです。左手の小指がなければ刀は振れませんから、身体的に損なわれていても気持ち次第でなんとかなる、などといったふうに精神での身体面の克服を過度に拡大することは誤りにつながることも確かですが、認識的実在としての人間の力は、計り知れぬものがあります。
ところが、人間が認識的実在であるということは、悪い面にも働きます。わたしがここで警戒しておきたいのは、上で述べたこととは逆に、器質的には問題がなくとも認識には明らかな欠陥がある場合もある、ということです。残念ながら現代でも、「器質的に欠陥がなければ健常者なのだ」という現象論的タダモノ論がまかりとおっているという事実があります。学生を数多く見ているわたしにとっては、彼らにとってより致命的なのは、器質などよりもむしろ、目には見えない認識のあり方のほうがより深い問題となって顕れていることが目に付きます。
たとえば、現象としては「優しい性格」とされる人のことを考えてみてください。それが相手の感情を的確に汲みとって、相手の発する言葉をいい加減に受け止めて減じたり自分勝手に拡大解釈したりせずに、そのままに受け止めようという意図をもって、実際に行動にうつせる性質を指しているのならば、これは文句なしの優しさというものです。この場合は、ものごとの受け止め方が深い、つまり認識の力がしっかりとある上で、理性的な判断が行われているわけです。
しかしこれとは違って、認識の受け止め方がぼんやりしているために、目の前でどんな非行が行われていようとも、目の前の人物にいかなる欠点があろうとも、「まあいいんじゃないかなあ、人それぞれだし」などといった受け止め方や行動をする場合があります。
日常生活のなかでは、両者ともに「優しい性格」とみなされることが多いでしょう。しかし後者の場合には、自分が危機的状況になったり孤独を強く感じたりすると、とたんに振る舞い方の指針を失い、異常な行動をとることがほとんどです。こういったものごとの受け止め方の弱さが災いして大きな事件につながった場合、周囲は「いつも優しいあの人がどうして…」などと言ったりもするのですが、これなどまさに、心は眼に見えないからと軽視、または無視した結果なのです。
アメリカ発祥の極端な行動心理学は、「人の内面は測れないから計測可能な外面だけを見るべきだ」などといって、学問の世界で堂々とこの誤りをやってのけるというアクロバットを披露しています。墜落するのは勝手ですが、わたしたち人間の上に落ちてこないようにしてほしいものです。悪口はともかく、こういった流れは日本の心理学界にも無批判に入ってきており、認識の在り方についての理解は、学者のなかでもまるで進んではいないことがあります。このような場合には、研究すればするほど人間観が歪んだとしても不思議ではありません。
◆◆◆
話をもとに戻しますと、「優しさ」ひとつを大きく見ても、これだけの違いがあるのだということです。現象としては同じような行動をとっているようには見えますが、その過程における認識の構造はまるで異なっています。ましてや、ある人の中に見た目には厳しいものの裏には優しさが潜んでいることが見抜けなければ、まるで正反対の評価にもつながってしまうでしょう。いまの教育の立場にある方は、どうもこういった認識のあり方に眼を向けるという訓練を、まるでなさっていないのではないかなと思われる節があります。文学の世界の人たちも、こういった矛盾をもっと扱って欲しいと思うのですが…。もし文学を通して読者を真に人間たらしめようとするのならば、退廃的な恋愛ばかり描いている場合ではありません。
少なくとも、後進を指導する立場にある人間であれば、ここを「感受性を伸ばす教育が必要だ」などという段階でとどまることなく、「感受性がどういうものなのか」、「どうすれば伸ばすことができるのか」と理性的に考えを進めていってもらいたいと思います。学者であれば、前者は過程的構造の解明と理論化、後者は理論の現実への適用、技術論、教育論にあたりますね。現実の人間は、感受性の欠如を指摘されても、それをどう伸ばしてゆけばいいかが皆目わからないから、困っているのです。「感受性をつけろ」などといった意見が、訓戒としてだけならばともかく後進の本質的な発展に結びつくかと問うてみることができないのは、知識一辺倒の受験アタマを現実に無理やり押し付けようとしているからです。言葉というものは、あらゆる特殊な事情を捨象して抽象したものなのですから、そのままではその内実に含まれている像の厚みまで伝わるわけがないのは当然です。それを受け止める側の認識の解明がなされていないから、なんらの実践的な意味のない指導になってしまうのです。
またよくある「子どもは愛されるべきだ」などという意見は、単なる教育についての思想なのであって、教育「論」ではあっても断じて教育「学」ではありません。以上のような、象牙の塔からの天の声や、感性的な教育論ではいけないのです。もし机の上で熱心に本を読んで、ある仮説を持ったとしたら、それを実践面でも使ってください。複雑な現実を読み解く指針としてみてください。どうしても、それがなんらの指針にもなりえないという事実を突きつけられて、愕然とするはずなのです。アイデアレベルの教育論では、子どもはまっとうに育たないことが、もはやあまたの実例を通してわかっているのですから、わたしたちは「学問」をしてゆこうではありませんか。
わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。
(了)
◆よりくわしい学習のために◆
人間の認識のあり方について、より進んだ学習をしたい場合には、以下の文献をあげておきます。ただどちらも、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で述べている弁証法という論理を多分に含んだ理論を展開しており、一部にはそれを大きく超える論理も含まれていますから、三浦つとむの上記本を中心として、わからない部分を『新しいものの見方考え方』などで補いながら、認識・論理についての基本的な理解と合わせて読み進めてほしいと思います。また前述したように、学習を進めるとともに、実践で使ってみることを忘れないでください。
【指定参考文献】
・薄井坦子『科学的看護論 第3版』
・海保静子『育児の認識学』
>…現象としては「優しい性格」とされる人のことを考えてみてください
返信削除↑ を考えてみました ↓
>「まあいいんじゃないかなあ、人それぞれだし」などといった受け止め方や行動をする
↑ では無く
↓ になりたいし~
>…それが相手の感情を的確に汲みとって、相手の発する言葉をいい加減に受け止めて減じたり自分勝手に拡大解釈したりせずに、そのままに受け止めようという意図をもって、実際に行動にうつせる
↑ でありたい!ですね
( でも…思い込みの激しさが~いつも邪魔していますが…)。
まだマダMADA~ですね。毎回~学ばせて頂いています。