2011/04/27

このBlogはなにを伝えたいのか(2)


(1のつづき)



ここまで断った上で、以前のエントリ「趣味はどう選ぶべきか」について、
これまた恥を忍んでご説明しておきたいと思います。

この記事を引き合いに出すというのは、
こういった考え方の形式を扱った文章だと、
具体的な内容があまり書かれていないことから、
細部の言葉尻だけを捕まえた読み方になってしまいがちであり、
そしてまた読者の論理性のありかたによって、
読み方が様々に変わってしまいがちであることがわかったからです。

◆◆◆

この記事では、わたしは「趣味は多くないほうがよい」と結論として書いておきました。
その理由は、外聞を気にして、あらゆることを中途半端につまみぐいをすると、
どれもこれもがモノにならずに終わりがちだから、ということなのでした。

ここまでは、文章をそのままに読まれても十分に伝わっていることだと思います。


ところが、これ以上の内容を読み取ってもらおうとすると、
どうしてもある程度論理の光を当てながら読んでもらう必要があります。
わたしはたしかに、「趣味は多くないほうがよい」と結論づけてはいるのですが、
そこだけを鵜呑みにしてしまうと、
「なるほど今の趣味は多すぎるのだな、もっと減らさねば」
といったような、表面的な理解に繋がってしまいます。

ここで、なにも趣味の数は少ないほどよいと言っているのではないことは、
「自分が大学時代にはいろいろと手を出してみたこと」や、
「表面的にはいまでも多趣味の人間に見えること」といった記述を見ればわかるとおりです。

ここについて、「あれかこれか」といった考え方をしてしまうと、
「こいつは前では趣味の数を減らせといったのに次には多趣味でもあると言っている、
あちこちで矛盾しているではないか」という印象しか持てないことになってしまいます。

ですからこの記事の場合であれば、
「趣味は多くないほうがよい、というのは、『どういう条件のときに当てはまるのか』」、
と問いかけながら読んで欲しいところなのです。

◆◆◆

わたしは結論をはじめに書いておいたあとで、
その結論にたどり着いた理由を説明する形で論じていました。

そこで、趣向をはじめとした自分というもののありかたをさぐるために、という意味を含めて、
学生時代にはいろいろと関心のあることに手を出してみた、と言ったのです。
そしてそのことをとおして、自分が目指しているのはこれなのだな、
という感触が得られるようになってからは、その問題意識に照らして趣味を選ぶようになっていった、
と書いておきました。

その経験をとおして掴み取れたのは、しっかり考えて趣味を選んでいれば、
たとえそれが、絵画や剣道や旅行や映画鑑賞などといった、
表面上ではなんらのかかわりのないジャンルの事柄だったとしても、
いつかはひとつの筋が通っていたことに気付かされるのだ、ということでした。

わたしはヤケクソとも言えるほどにあちらこちら手を出しては見たものの、そのことを通じて、どういう趣味を選ぶかよりも、どういう姿勢で趣味に向き当たるのかのほうが大事なのだとわかりましたから、読者のみなさんには、まずは「あちこちに浮気せずに、ひとつのことをきっちりやり遂げてみてほしい」と伝えたのです。
そのあと、そのことをきっちりやって「ひとつの道」が見えるようになってきたのであれば、新しいジャンルのことにもそこで得た普遍的な考え方を使えるのだし、違ったジャンルを極めようとしているひとたちとも、その普遍性をもって意見の交換ができるようになってくるのだ、と、脇道に逸れないための方法論を伝えたかったのです。

では、「ひとつの道」が見えるようになるためにはどうすればいいのか、という問の答えとして、「強い問題意識を持って物事に向き合う」ということを指摘しておきました。対象に向かって積極的に働きかけようとすると、「ここまではできるが、ここから先はまるでできない。やりかたすらわからない」という問題意識を持たざるを得ません。そうすると、「あれはどうなっているのだろうか。どういう仕組みになっているのだろうか。」と、あらゆる手がかりを探そう、という強い問題意識をもって、日常生活をすごすことになりますね。アルキメデスの「ヘウレーカ」、ニュートンのリンゴの逸話などを調べてみてください。(以前にわたしのBlogでも触れましたので、右の検索窓で探せると思います)
自分が実践における問題にぶつかったあと、どうしたら解けるのか、という問題意識を持っていさえすれば、ふつうの人ならばとくに注目せずに通りすぎてしまうような手がかりでも、「なるほど!」と思えるのです。

そういうふうに、ものごとの見る目を高くしておくということは、当たり前の日常生活を、論理の光を当てながら過ごす、ということですから、こういうふうに生活を送ってみて、ものごとの見る目が高くなっていれば、あらゆるジャンルのことについての見識眼がついてきます。

◆◆◆

ここでわたしは、「問題意識」や、「ものごとの見る目」、「見識眼」などといったことが大切だ、と言ってきた理由はこのようなものです。

かつてわたしたち人類は、動物であるサルからヒトへと進化してきました。しかしこの事実は、言ってみれば偶然の産物、といってしまってもよいのです。サルはなにも、社会性や精神を「持とうと思って」ヒトになっていったわけではないからです。サルは社会性を持つようになったことをきっかけとして、ヒトへの道を歩み始めるわけですが、ここまでは、「自然成長的に」作られてきたものです。ところがそれが人間と呼ばれるあり方になってゆくと、次には意識的に分業体制を整えた、「意識的な社会」をつくり始めてゆきます。括弧書きをしたように、ここでの社会というものは、動物やサルが本能のレベルで自然成長的に育んだものではなくて、あくまでも「意識的なあり方で」作られたものです。
そうすると、精神というものも、知らないうちに生成してきたものを自然成長のままに放っておくのではなくて、わたしたち人間が精神を持っているということを、「意識的に捉え返して」いってこそ、ほんとうに人間らしいありかたになってゆくのだ、という大まかな方法論を導くことができます。その方法論の土台は、以前にも述べたように、弁証法を日常生活の中で日々使ってゆくことで、それを自らの認識と相互に浸透するのと直接に弁証法性を鍛える形で、人類が培ってきた最高の論理の形態を獲得するとともに発展させる、ということ以外ではありません。

わたしはこのBlogをはじめてから、このことはくどいくらいに述べてきました。ただわたしも太宰に同調するようなところがあり、あまりくどくどとここはこういう意味があるのだ、などといった直接的な表現は好きではないために、圧縮した形で書いただけでした。ですからここでのほんとうの主張は、論理の光を当てて読んでいただかなければまるで浮上しては来なかったはずです。直近の表現を見てみてください。

 わたしたちは大人としての意識を持って、これから環境を作ってゆかねばならない立場にありますね。子どもと大人の違いというのは、子どもが環境に甘んじておればいいのにたいして、大人は、自らが環境を作ってゆき、そしてまた、自らが環境を作っていることを意識的に捉え返していることが最低条件なのです。Buckets*Garage: 盲目の人間が目を移植されたあと、その日から目が見えるようになるだろうか?(5)

ここでは、大人の最低条件が、「自ら環境を作ること」と、それに加えて「『自ら環境をつくっている』ことを意識的に捉え返すこと」だと述べておきました。これは、ハタチになったから大人として振舞わねばならないというのでは足りない、という意味です。自分が大人としてふるまって、そのふるまいを通して創り上げてゆく環境というものが、「いったいどのようなものなのか」と常に意識しながらとりくみ、その責任をとれるようになってゆくべきである、ということです。「人間としての精神」のあり方も、これと同じことが言えるわけです。


わたしの表現は、すべてこういった論理的な「形式」に力点を置いて書いていますので、具体的な知識にとらわれるのではなくて、文章全体をおおつかみに捉えて、そこでは「どのような流れ」、さらに進んで「どのような流れ方」でものごとが論じられているのか、と読み進めていっていただけると、文筆家冥利につきる、というものです。
これはなにも、わたしが常々論理を認められないことについての溜飲が下がる、といった馬鹿馬鹿しいものではなくて、論理性を自然成長のままにまかせておくことのもったいなさを伝えたいがためにやっていることです。ですから、「ああ論理ね、私も常々それは大事だと思っているよ」という態度では、どうしても、本当に伝えたいところが伝わっていないことになるのです。

◆◆◆

わたしはあの趣味についての小論を書き終えたあとに、こういった質問があるのではないかと思っていました。

たとえば、「趣味の中に、『博打』などを含めてもよいのでしょうか?あれは内容や動機はともかくその形式としては、立派な労働とも言えるものだと思うのですが」や、
「まっとうな趣味を持っている人と、いわゆるオタクとはどう違うのでしょうか?社会性があるかどうかよりも、もっと本質的な違いがあるのではないかと思うのですが」といったものです。

しかし、読者の反応からすると、あの小論は、そういったレベルの質問が出されるほどにはうまく受け止めていただけていないのだな、と思ったわけです。

◆◆◆

実のところ、結論などというものは、それが導かれた過程ほどには重要ではないのです。
わたしは今回、論理的帰結として、「趣味はあまり多くないほうがよい」と表明しておきましたが、これは、そのほうが「ひとつの道」にたどり着くためには効率が良いことをふまえてこう書いたわけです。ここでは、「積極的な意味を認められない場合には」という条件が付いていることがあってはじめて成り立つ結論です。
ですから、これは「趣味はとにかく多いほうがよい」としてもよかったのです。その場合には、入り口としてはたくさんのジャンルに思いを巡らせてみて、そのなかから「自分に響くものを選ぶという過程では」と条件をつけることになります。すると、本論の展開としては、自分に響いたものから共通するものを取り出して、そこから趣味を再検討し、絞り込んでいってほしい、という書き方になります。
もちろん、こういったいくつかの表現を検討したあとで、もっとも言いたいことを伝えるためにはどれがふさわしいか、と考えた上で、あのような表現にしたのですが、このどちらの書き方も、結局のところ、「ものごとの考え方」、難しく言えば「物事に潜む過程的構造」を強調していることにはなんらの変わりもありません。


ここを表面上に受け止めて、「多趣味賛成派」と、「多趣味否定派」などといった、ワイドショーレベルのくだらない派閥争いには、どうか短絡させてしまわないでください。感情的にはともかく、理性的な人間という生き物として、ああいった小競り合いに心底嫌気がさしているからこその、弁証法の強調なのですから。弁証法は「あれもこれも」を主張しますが、だからこそ、それがどういった条件ではどちらになるのかを判断するためのものごとの見方、「原理・原則」を要求することになるのです。

これは逆に言えば、原則を一致させるということは、表面だっての主張は、その時々の情勢をみながら柔軟に変えてゆくことがありうるのだ、ということでもあります。ですから、それが原則を持ったものなのか、時代の流れに振り回されているにすぎないのかを判断できるようにも、やはりものごとの見る目を常に高く持っておかねばならないことになりますね。

◆◆◆

わたしたちは、幼少からの義務教育を通して、知識だけをつめ込まれて育ってきました。なおのこと、そこでの思想というものは、「やる気を出せばなんでもやれる」式の、精神論、もっと悪くは気合論が、形而上学的にまかりとおっています。そうやって社会に出たと思えば、ライバルの言質をとってやりこめるといったような駆け引きが日常茶飯事でしょう。ですから、そんなところで自然成長してしまった論理というものは、世の中の立体的な構造を踏まえたものごとの正しい判断のためには、どうしても役に立たないどころか、表面的・平面的で極端を導く力しかもってはいないのです。極端な暴言・妄言を振りかざす人間が消えてなくならないのは、まともに生きているはずの人間にも責任があるのであって、彼女・彼らが、前者の無意識的・意識的な踏み外しを、論理的に指摘できないからです。

これはこんな文章ばかりのBlogを見に来てくれるような奇特な読者のみなさんだからこそ言うのですが、きちんとした論理を持ってください。そのために、ここを使ってください。わたしは「ものごとの眼を高くする」方法を探求できるやりかたを見つけて以来、これこそ仕事や道を問わず、万人の礎になるものだ、と思って、知識的な習得と共に、日々論理面の向上を心がけてきました。それこそ、論理的に見える事実が一つも見つからない日には、恥ずかしくて眠れないほどです。事実、各方面で歴史の風雪に耐える作品に共通しているのは、知識的に優れているよりも、論理性が高い、という特徴です。弁証法と名付けられたその論理性は、「弁証法を使いこなす」段階までいかなくとも、「弁証法に使われる」段階でさえも、十分に効果が実感できるものです。なにとぞ、日常生活での修練を怠らずについてきていただけるようにお願いします。

そこでの基礎的な理解は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』ですが、『新しいものの見方考え方』など、日常生活での弁証法の効用を描いた同氏の著作も理解の手助けになります。もっとも、自ら学ぶ姿勢のある方ならば、すでに実践されていることでしょうから蛇足でしょうか。こういった方法論を、実際にやるまえからあまり細かく指摘するのはよくありませんしね。ほかに言えることがあるとすれば、弁証法というキーワードを含んでいる他の書物にはあたらなくてけっこうです。
ともかく、基礎的な理解がすみましたら、ただちに実践で使ってみてください。「否定の否定」は大きな流れの中でしか顔を見せないために難しいですが、ほかの2つの法則、とくに「対立物の相互浸透」などは、慣れてくればとてもたくさん見つかります。
「弁証法の現実への適用はこれであっていますか?」をはじめ、ご質問は随時。お待ちしています。

◆◆◆

読みやすいことばで書いた解説はここまでです。
以下は余談として、あの記事が持っていた大まかな構造と、「あなたのやってきたことは、すべてつながる瞬間があります」との予言じみた発言の理由について。

(余談をお読みになる場合はつづく)

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