◆ノブくんの評論
二月のある日、野中のさびしい道を、十二、三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四、五の男の人とが、同じ方へ歩いていました。やがて二人は自然と会話をはじめます。その会話をしている中で、少年は男のポケットに注目し、自分の手を入れたいと言ってきました。男は快く了承し、少年は彼のポケットに手を入れます。すると少年はそこで、男のポケットに何か入っていることに気がつきます。彼のポケットに入っていたのはうた時計でした。少年はそのうた時計に興味を抱き、やがてそれは彼がよく遊びにいく薬屋のおじさんのものと同じだということに気がつきます。さて、しかし男が持っていたうた時計は、果たして本当に薬屋のもっていたものと偶然同じだったのでしょうか。
この作品では、〈二人で話しているときは相手の気持ちが分からなかったものの、他人を介することで、それが分かったある男〉が描かれています。
まず、上記の男の正体とは、なんと少年の行きつけの薬屋の主人の息子だったのです。彼は改心して真面目に働くつもりでしたが、一晩で仕事を辞め、挙句の果てには父親の時計を二つ盗んで出てきてしまったのです。この時、恐らく男の心には罪悪感というものはなかったでしょうし、薬屋の主人の気持ちも全く知らなかったことでしょう。ですが、少年を介して薬屋の主人の話を聞くことによって、自分がどう思われているか、またどれだけ心配しているかを知り、時計を返すことを決心したのです。
そして、男が少年を介して薬屋の主人の気持ちを知ったように、薬屋の主人も、少年が持ってきた自分の時計を見てその音楽を聴くと、「老人は目になみだをうかべた。」と男の気持ちを知ることができたのです。
このように、直接二つの物、人物では上手くいかないことがあっても、その間に何かを挟むことに物事が円滑に進んみ、或いは相手の気持ちが理解できることがあります。例えば、私の数少ない経験から申しますと、ある友人と喧嘩をしたことがありますが、私は相手の話のペースに呑まれ、言いたいことの半分も言えなかったことがあります。そこで私は、二人の間に手紙という文章を挟み、相手に送りました。後日相手から返事があり、私と同じように自分にも悪い部分があったと非を認めてくれました。
当人同士ではうまくいかない時でも、何かを挟むことによって、かえってうまくいく場合があるのです。
◆わたしのコメント
主人公である少年「廉(れん)」は、あるとき中年の男と出会います。彼のポケットに手を入れさせてもらうと、そこにはオルゴールが。ねじに手を触れたために鳴り出したその音色は、少年が近くの薬屋で聴いたことのあるものでした。男と別れたとき、ちょうど通りかかった薬屋の「老人」に、彼から預かったオルゴールを渡したとき、少年は男が老人の息子の「周作」であったことに気付かされるのです。
◆◆◆
論者は、この物語の論理性を<否定の否定>としてとらえているようで、それはそれで問題ありません。ただ、論者の挙げている一般性については、前回と同じように具体的すぎますから、誤りです。(ただ、今回取り上げた評論はやや前のものですので、現段階では正しく訂正できるかもしれませんね)
ではどうすれば正しい一般性になるかということを考えてゆきましょう。今回のコメントでは、一歩進めて、<否定の否定>というおおまかな構造をつかんだところから、さらに作品を掘り下げて理解してゆくにはどうすればよいか、という問題意識を持つところにまで言及します。もういちど言いますが、これまでのアドバイスの段階から、「一歩進めます」。こう宣言することが、どういうことかわかっていただけるとうれしいのですが。
そもそも<否定の否定>というのは、あるものが他のものと直接交通関係を結ぶよりも、第三者を媒介にすることで、かえって効率が良くなるという運動法則を示しているのでした。たとえば、日本から海をまたいでアメリカにまでラジオ電波を飛ばすときに、地球の丸みが邪魔をして電波が直進できないときのことを考えてみましょう。『弁証法はどういう科学か』の読者にはおなじみの例です。さてそのときに、海底トンネルを掘る方法や、非常に高い電波塔を建てるという案がありますが、どちらも効果に見合わないほどの莫大なコストがかかってしまいます。ではどうしたかというと、使っていない人工衛星に、「いったん電波を経由させることで」、効率よくアメリカと電波をやりとりすることができたのでした。この場合であれば、人工衛星が媒介としての役割を果たしたわけですが、この作品でその役割をしたのは、少年「廉」です。
ほかにもキーワードとして、「オルゴール」などが出てきますが、それよりも「廉」の存在のほうが、媒介としては重要な役割を果たしています。なぜなら、この作品で主だった話の筋は、悪行を改めるという名目で老人のもとに帰ってきたにもかかわらずやはり悪い手癖を発揮してしまう放蕩息子の「周作」が、少年の人を疑わないという「清廉潔白」な人柄を鏡として、自らの振る舞いを反省する、というものだからです。「オルゴール」は、「周作」が持っていたそれを「廉」が、いつも薬屋で見たことのあるものとして関連付けて気づき、それを渡された「廉」を経由して次に「老人」の目に留まる、というバトンの働きをしていますが、これはいわば、物語の流れを円滑にするための舞台装置なのですから。
そういうわけで、物語をうまく進めるための「オルゴール」よりも、「廉」の人柄のほうが、物語の中でも、媒介としての役割としても、相対的に重要なものだと言えるでしょう。
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さてそうして、<否定の否定>の媒介の役割を主に果たしているのが「廉」であることに焦点を絞れる段にまで来ると、彼が、「周作」と「老人」の間をどのようにつないだか、どのように取り持ったか、をさぐってゆけばいいことになります。論者は、少年「廉」の存在によって彼らが、彼らどうしの直接の関係では得られなかったはずのものを得たことになったことに、大まかには気づいていますね。そうすると、そのことを突き詰めて追ってゆくことで、より正しい作品の理解につなげてゆくことができるはずです。
主人公である少年「廉」は、彼のどのような人柄によって、「周作」とかかわり、また「老人」とかかわったことで、結果として彼らをどのような形で取り持つことになったのでしょうか。
それが明確に整理して理解できれば、正しい一般性に近づいてゆくはずです。それらは、以下のようなことをすべてふまえていなければなりません。
「周作」は「廉」をとおしてどのようなことを学びましたか。「老人」は、「廉」をとおして「周作」の、どのようなメッセージを受け取りましたか。それら双方、「廉」の名前にまつわるあるキーワードは、どのようにかかわってきますか。
ともあれ、こういった児童文学ふうの作品を抽象化して一般性として抜き出すときに、論理一辺倒では作品のうまみが失われるというときには、表現をうまく工夫する必要があります。この物語では一読してわかるとおり、登場人物の心情を饒舌に語らないところに、かえって読者の二次創作の余地が生まれ、それが余韻を残すというところに名作たる所以があります。こういう物語を一言で論じるときには、たとえていうならば、映画のキャッチコピーのようなもののほうが読者の理解を助けることもあるでしょう。わたしなら、「●●(人柄や役割)の●●(主体)の物語」などとするでしょうか。かなりの勉強になるはずなので、物語のうまみを失わないようにと念頭において、柔軟に考えてみてください。
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論者は、弁証法の3つの法則を意識して、きわめて大雑把な論理的な把握をすることはできるようになってきましたが、その大つかみな把握から、さらに突っ込んで物語を理解する実力はありません。弁証法は、物事の関連性を鮮やかに意識することで、扱うべき問題の範囲を正しいところにまで絞り込むためには必須の論理性ですが、その先の特殊性については、弁証法を手がかりにしながらもさらに深く掘り下げてゆかねばならないことは覚えておいてください。そうでなければ、弁証法を人の心情の理解にまで無理やり押し付けて理解するという踏み落としをしかねません。次の段階では、そのことを中心的な問題意識として持っておく必要があるでしょう。(後日、補足をします)
【誤】
・その間に何かを挟むことに物事が円滑に進んみ、
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