ある時、太郎の父はお天気が続いて田んぼの水が乾上がっているため、稲が枯れないかどうか心配で毎日毎日空ばかりを見ていました。そんな父の姿を心配した太郎は、彼の為にテルテル坊主をつくることにしました。さて、太郎のテルテル坊主は無事雨を降らすことができるのでしょうか。
この作品では、〈テルテル坊主をあくまで物質として扱う大人と、心が宿っている生き物のように扱う子供の価値観の違い〉が描かれています。
結果的に、太郎がテルテルをつくったその晩、稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。ですが、残念ながら彼のてるてる坊主はその雨のために何処かへ流されてしまいました。
さて、ここで注目すべきは、その後の太郎と父とのテルテル坊主の扱いの違いにあります。まず太郎の方は「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」、「お酒をかけてやると約束していたのに」と、雨を降らせてくれたのはテルテル坊主であると信じており、そのテルテル坊主にご褒美を与えようとしています。彼は子供ながらのみずみずしい感性から、テルテル坊主を心をもった生き物のように扱っているのです。
一方父の方は、「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」という台詞からも理解できるように、彼の場合、テルテル坊主へのご褒美のお酒はあくまでついでのようなものであり、本心は太郎に対して何かしてあげたいと考えています。彼にとってはテルテル坊主はあくまで物質でしかありません。しかし、ただの物質というわけではなく、そのには太郎の気持ちが宿っていることを理解しています。だからこそ彼は、予めテルテル坊主にお酒を与える約束を太郎にしていたのです。
◆わたしのコメント
読者の意見を代表して言いましょう。
「この評論は、いったい何の話をしているのだろう?」
この記事を日々における論理性の修練の糧にしようと思っている読者の方は、そう思っているのではないでしょうか。
なにしろ、文章を読み進めるために必要な情報が与えられないまま、論者はどんどん先に進んでしまうのですから。
そうして、評論だけではそのものを理解する手がかりにならないことがわかると、大部分の読者はそこで降りてしまいます。
それでも、どうしても理解したい、という意志がある方は、評論があてにならないことにもめげず、青空文庫に公開されているもとの作品にあたってみて、その作品を読んだ上で評論と照らし合わせて、「ああなるほど、論者はこういうことを言いたかったのか」と理解しなおしてくれるかもしれません。
そうすると、論者の言いたかったことも、読者に伝わることがあるかもしれません。
さてこういう場合に論者の主張がまっとうであるとすると、その評論は十分な意味を持っていたことになるのでしょうか。
答えは、否です。
このとき評論が理解されたのは、論者の表現の不足を、読者が彼女や彼自身の努力でもって補いつつ、読み進めてくれたからなのであって、論者の表現が十分なものであったことを意味しているわけではありません。
◆◆◆
そういうことを判断するために、わたしは作品を先に読まずに、評論に目を通すことにしています。
論者の表現力が、十分なものであるかどうかを見るためです。
今回の場合は、一般的に言って、表現力が足りません。
それはなぜかといえば、論者が読者のことをまるで意識していないからです。
表現するときの過程は、多かれ少なかれ、それを聴く者、見る者、読む者が、それをとおしてどのような感情や認識を持つのか、ということを想定されて為されるものです。
芸術家が、誰にも公開しないことを前提として習作したり、あらゆる人が自分のためだけに日記を書き記すのは、それが鑑賞者を想定していなから「ではなく」て、自分自身を鑑賞者として創作しているからです。
鑑賞者を想定しない表現というものは、ありえません。
硯に置いてあった筆が転んで、半紙に墨がついたものと、一流の書道家がかいたものが、見た目にはまったく似通ったものであったとしても、表現であると呼べるのは、後者のものだけです。
もし前者を誰かが認めて発表することにした場合は、そう認めた者の行動の過程の中に、表現というものの根拠があるのですから、結果だけを見て過程を取り違えてはなりません。
極意論的に要せば、表現というものは、作り手とそれを見る者のあいだの関係性にこそ本質がある、ということです。
だからこそ創作活動という呼び名は、その作り手による直接的な営みにとどまることなく、その鑑賞者の鑑賞という行為をもひとつの創作のありかたであるととらえて、「二次創作」という言い方をすることになるのです。
◆◆◆
「表現」というものがどういうものか、といった一般論や、そのことを把握した上での自分自身の役柄についての責任を持つということに、非常に大きな重要性があるというのは、創作の際の目的意識が、創作物の質を全面的に規定しているからです。
ですから、誰のために、どのような表現を用いれば、自分自身の認識がいちばんうまく伝わるのか、という問題意識こそが、作品を一流ならしめる、というわけです。
さて以上のようなことをふまえてみて、論者は、自分自身の表現の不足に気づいたでしょうか。
これは表現力が不足しているというよりも、読者のために表現を工夫しようという姿勢そのものが欠けている、と理解すべきです。
部分的にその不足を挙げるとすれば、たとえばこの部分。
一般の読者ならばそもそも、「テルテル坊主が雨を降らせるというけれど、テルテル坊主はその名のとおり、次の日が天気になるようにつくるものではなかったかな?」という疑問がわくことでしょう。
そういった、基本的なところの説明が何も無いままに文を追っていかなければならないのですから、これは読み進めるのが苦痛といってもいいほどの悪文、ということになります。
これはあまりにも、読者への配慮が欠けているのではないでしょうか。
繰り返し言いますが、読者の努力にもたれかかってはいけません。
評論というものはあくまでも、作品を読んだことのない読者にとってもすんなり読める文章でなければなりませんし、加えて、評論をとおして作品を読みたい、と思わせることのできるものでなければなりません。
わたしが悪文を噛み砕いて理解したうえでコメントをするというのは、立場上の制約があるからそうしているにすぎないのであって、そんな制約に甘えず、その制約がなくても読みたくなるような文章を書くというのが、物書きとしての最低条件です。
自分自身の活動についてまるで責任を感じていないという日々を過ごして、いつか「評論とはどういうものか」や、「文学とはどういうものか」といった本質論を問えると思っているのなら、天に唾するが如き行いと見做さねばなりません。
行動というのは、その結果ではなくて、それに込められた目的意識こそが、将来的に大きな成果となるかどうかの分水嶺になるのだということを、もういちど確認しておいてほしいものです。
ですから、行き先もわからないのに「とにかくがむしゃらに頑張る」のではどうしようもないのであって、「正しい行き先を定めてそれから目を逸らすこと無く頑張る」、という姿勢こそが問われることになるわけです。
この評論が、評論がはたすべき役割を、しっかりと担っているものであるかどうか、初心に返っていちど考えてみてください。
◆◆◆
以上のようなことを踏まえてくれると信用して、わたしなりに評論を補いながら読んだ上で、内容についてひとこと言っておくことにしましょう。
論者がとらえようとしたのは、大人という立場にあってテルテル坊主を単なるおまじないであると認識している「父」と、それを全力をもった願かけの象徴として認識する「太郎」の姿ではないでしょうか。
物語が進むと、「父」は、「太郎」がテルテル坊主が雨水に流されてしまったことを悲しむ姿をみて、テルテル坊主にたいする認識を変えてゆきますね。
そこには、「父」が「太郎」の行動をさかのぼってその認識を理解しようとすることをとおして、「太郎」の考え方を、もう一人の自分として自分のアタマのなかに持つことができたという、他人の自分化の過程がふくまれています。
ここには人間の認識についての交通関係があるのですから、その過程における構造をいったん整理した上で、次に読者にそれをうまく伝えるにはどうすればよいか、という問題意識で表現を整えてゆけばよいことになるでしょう。
いきなり表現を整えるのが難しいのであれば、登場人物の感情を想像して、この人はこう思ったからこう行動したのだ、というふうに、思いを込めた括弧書きの形で書いてみてはどうでしょうか。
【誤】
・雨降り坊主
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