※GWに行った自転車ツアーの反省メモですので、自転車ツアーやその認識論に特別な関心のない一般の読者の方は無視していただいてけっこうです。
今回のツアーを殿(しんがり)から見ていると、あまりに危ない走り方をしていることがあったので、走行時の規則について簡単に確認しておきましょう。
まず自転車ツアーの本分は、目的地に着くこと以上にその過程を楽しむことにあります。
過程については大きく分けて、走ることと降りて行動することのふたつありますが、ここで確認したいのは「走る」という側面についてです。
わたしたちが自転車で、自動車も混在する公道を走るときのことを思い浮かべてください。
道路を走るときに、わたしたちはどこを走ってもよいということにはなりませんね。
当然ながら、そこにある看板や速度制限、白線を手がかりに走行を進めます。
しかし注意しなければならないのは、それらはあくまで一般的な手引きという意味しかないのであって、その枠を越えなければ常に安全でいられるかといえば、そうではないということです。
白線などの手引きは、進路の選択の手がかりになりますが、それが一般的なものであるがゆえに、その時々の道路状況(特殊性)にはふさわしくない場合もあるからです。
たとえば、横断歩道の上をいくら正しく歩いていたとしても、右折してきた車にぶつかられては意味がありません。
またたとえば、白線の中を正しく走行しようとしたとしても、排水路の金網にタイヤをとられてしまう場合や並行段差が多い場合には、白線の外側を走る必要があることも少くありません。
旅という過程を楽しむという自転車ツアーの原則として、第一に「安全」の確保があるということは、白線などの手引きに従っていればよいというわけではないことを意味しています。
これらを整理して言えば、「白線などの手引きはわたしたちの安全を保証してくれない」ということです。
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今回のツアーでいえば、左側に合流路のある直線で、それまでの直線上をそのままに走る、という走法は、非常な危険を感じさせるに十分なものであったと指摘しておきます。
「×」で示した左側の図の走法では、合流路から来る車両の存在が無視されています。
一人で走行する場合なら、合流帯の存在を確認した上で、左側後方を目視し、合流しようとする車両が無いことを見て取ればそのまま直進したとしても安全を確保できることもあります。
しかし、連隊でツアーするからには、先頭車は後続車の安全をも確保したかたちで進路を選択しなければなりません。
今回の場合では、一般的な車両の動線(グレーの帯)が明らかである以上、それとなるべく重ならないように動線をデザインしてゆく必要があるというわけです。
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自転車ツアーをしようとするときには、この「動線」を見る、という力が不可欠です。
ここで言う「動線」とは、白線などの手引き(一般的な「「導」線」)と具体的な道路状況(特殊的な「動線」)を手がかりに、アタマのなかに観念的に作り出されるものです。
この「動線」は、それを選んで走行すればまずは安全に走れるであろうという進路を指していますが、これを導くのは、「安全に走る」という自転車ツアーがもっている原則です。
このBlogで常々書いているように、原理や原則があってこそ、正しい実践が導かれる(対立物の相互浸透)のでしたね。
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では、どのようにすれば「動線」を導けるようになるのか、と問いかける前に注意したいことは、動線はあくまでも、当人の実力に従って「観念的に」作り出されるものですから、白線の内側を走るようにすればなんとかなる、というものでは決してない、ということです。
動線がどこかに眼に見える実体としてあるのだと勘違いしている人は、もし交通事故にあったときには交通規則の遵守を根拠に相手の不注意をなじって慰謝料を請求すればよいと考えているかもしれませんが、事故を起こせば旅は続けられません。
それに、命を落としてしまえば正当性を主張することもできなくなります。
安全を保証するのは、眼に見える白線や道路交通法などではなくて、わたしたちのアタマのなかにある動線と、それを作り出す認識における実力です。
自分の身を守る規則を、他所にだけ委ねてしまってはいけません。
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動線を引き出し正しく扱うためには、それ相応の目的意識と、それらが技として身につくための訓練が必要です。
動線の導出と、それに合わせた実践にはいくつかの過程があります。
・動線を認識する
まずは、動線を認識するための素材として、他の車両がどのように走っているのか、という像を持つことです。
上で挙げた右の図では、グレーの帯で表示されていましたね。
しかしこのグレーの帯は、あくまでも一般的なものですから、これは白線などの手引きから機械的に導き出せるものでしかありません。
ですからこのことに加えて、その時々の道路状況を加味して考えた上で、それらを合わせた動線を引き出してゆくべきです。
たとえば、前方をフラフラしている車両があれば、「あれは飲酒運転だろうか?それとも、居眠り運転だろうか?」などと考えてみて、もし目の前の動線のほとんどが危険地帯として塞がれていると認識されるのであれば、続く連隊に停車の指示を出さねばならないことは当然です。
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・動線を走る
また次に、動線を認識した上でそれに従って走る、ということは、ひとつの表現であると考えねばなりません。
それが表現であるからには、自ら、自分たちの走行というものが、他者にとってはある意味をもって受け止められる、ということでもあるのです。
たとえば、あなたがジグザグに運行しているのならば、他の車両からは「危なっかしい運転だな。もっと距離をとりたいところだが…」と見なされます。
しかしあなただけを見た時にはそうであっても、眼の前の信号が赤に変わりそうだったり、自分の後ろに多数の車両が控えている場合には、その車両の操手は危険を犯してあなたを追い越す場合もありえます。
この場合には、あなた自身が危険に晒されているということでもあるのです。
またたとえば、あなたの走行自体がひとつの表現であるということは、後続車にとっても同じことが言えます。
あなたはあなたの認識によって進路を選択していますが、後続車にとっては、それ自体が安全を保証してもらえているものと感じてしまうために、先頭車の後ろをただただついて行くことが多くなります。
この場合たとえば、先頭車がぎりぎり通過できた信号であっても、後続車は無理な横断になる場合があるでしょう。
そうでなくても、キャリアに荷物をつけた自転車が前方を走っている場合には、前方に何があるのかが目指できなくなっていることがほとんどです。
この場合たとえば、先頭車がいきなり進路転換したことに反応しきれず、後続車がポールなどの障害物に接触してしまうという場合もあるでしょう。
ですから、前方に障害物がある場合には、後続車の立場に立って、その認識のあり方を我が身に捉え返した上で、その旨口頭やハンドサインで直接的に伝えたり、前もって十分に速度を落とすなどの振る舞い方(表現)でもって、後続車に危険を伝えることが必要になってくるわけです。
これらのことを鑑みるに、先頭車は、連隊を組んでいる後続車と、それらの間の車間距離を含めた長さを「観念的な自分」像として持った上で、それを危険に晒さない動線を選択してゆかねばならないことになるのです。
簡単に「観念的な自分」像、といえば、なるほどそういうものかと思われるかも知れませんが、自らの自転車の全長に加うるにそれに続く車間距離と後続車の全長を足せば、それがいかに予測の困難な幅を道路上に占めているかがわかってもらえるでしょうか。
ましてやそれが、3台、4台と続く場合にはどうなるかがわかるでしょうか。
先頭車には、まともに想像してみれば恐ろしくなるほどの責任がのしかかっているのです。
そのために、多人数でのツアーでは分隊という組織単位がどうしても必要になるのです。
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今回の、動線の認識と、その実践的な適用の技術というものには、まずもって認識論が必要であることを確認してください。
車両を操作しているのは、他でもない人間ですから、その操手がどのように考えてどうふるまうのか?を、その人の立場に立って常々考えてみることのできる問題意識を、まずは養ってください。
そのために、ツアーの経験が抱負な人間とペアを組んで、後続車として走る場合には、経験者が目の前を走っているのを見ながら、「ここで止まったのはなぜだろう?」「ここでスピードを落としたのはなぜだろう?」「曲がり角の手前で待っていてくれたのはなぜだろう?」などと、常々考えながら走ってください。
そのことをとおして、ある程度の「なるほど、そういうことだったのか」を積み重ねて、走り方がわかってきたときには、道路状況の良いところで先頭車として実際に走ってみてください。
そのときに、後続車として走っている経験者から、「さっき左折しようとする車と接触しそうになっていたよ」「自分が信号を通れればいいわけではないよ」「停まる前にはスピードを落としていなければいけないよ」などとアドバイスをもらうようにしてください。
その修練過程のどれもが、他者の表現から、「その人がなにを考えてそうしたのか」という認識のあり方をさぐる過程をもっていることがわかるでしょう。
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自転車ツアーの確からしさを保証するのは、「怪我なく帰ってきた」ということにあるのではありません。
その過程におけるそれぞれの判断が、正しい認識に基づくものであったか、またそれらをしっかりと正しく組み合わせて実践できていたか、ということにあるのです。
それは、わたしたちはわたしたちの身の危険を、「運」などというもので切り抜けるのではなくして、「確かな認識とその論理的な組み立て方」で避けてゆくことで、旅を少しでも安全で楽しいものにしてゆかねばならないからです。
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