2012/05/24

文学考察: 木精ー森鴎外 (1)

新しい読者が見に来てくれているので、


基礎的なこともおさらいしながら進めましょう。
兜の緒を締める、という意味合いもありますが、論者が折りよく(?)見落としをしてくれたようです。


◆文学作品◆
森鴎外 木精

◆ノブくんの評論◆
文学考察: 木精ー森鴎外
フランツという少年はいつも同じ谷間に行って、「ハロルオ」と叫んで木精が返ってくることを楽しんでいました。ですが、彼は自身の成長と共にそうした習慣を失っていってしまいます。
そしてフランツが父の手伝いができるような年頃になった時、彼は久しく例の谷間に行って木精を試してみます。ところが、木精はいつまでたっても返ってきません。そこで彼は「木精は死んだのだ」と考え、一度は村の方へ引き返しました。しかし、どうしても木精の事が気になるフランツは、もう一度谷間へと行ってみます。すると彼の見たことのない子供たちが、かつての彼と同じように木精を楽しんでいるではありませんか。そしてそうした子供たちの姿を見たフランツは、木精が死んでいなかった事に対して喜びを感じつつも、自分では叫ぶ事はしない事を心に決めていきます。
 
この作品では、〈自分の木精が聞こえなくなった事により、自身の成長を感じている、ある青年〉が描かれています。 
そもそもフランツが木精に対して楽しさを感じていたのは、声が反射する事そのものではなく、声が返ってくるというごく当たり前の事が当たり前にできているということでした。ところが、彼は久し振りに木霊を楽しもうとしたところ、その当たり前だと思っていた事ができなくなっていました。そして、一体何故木精が聞こえなくなったのか不思議に思っている彼の前に、木精を楽しんでいる子供たちが登場します。やがて彼は子供たちを観察する中で、目の前の子供たちとかつてそこで木精を楽しんでいた自分とを重ねていきます。そして、現在の自分に戻った彼は、かつて子供たちのように木精を楽しんでいた頃の少年時代の自分と、父の手伝いをして大人としての準備をしている現在の自分の立場を比較していきます。そうして次第にフランツは、大人として成長している自分が目の前の子供たちのように木精を楽しむべきではないと考え、叫ばない決意を固めていったのです。

◆わたしのコメント◆

この物語のあらすじについては、論者がまとめてくれているとおりです。

少年「フランツ」が、山に向かって「ハルロオ」と叫ぶときには必ず木精(こだま)が返ってきていたところが、彼が青年期に差し掛かる頃には聞こえなくなったことに気づく、形式的にはそんな筋書きです。

論者はこの物語の焦点を、木精をきっかけに自身の成長を実感するひとりの青年にあると判断し、その契機となった、木精が聞こえなくなるという出来事を取り上げて論じています。
そこでは、青年期に差し掛かったフランツが、彼とは対照的に、まだ木精を呼べる少年たちに自らを二重化するかたちで(感情移入するかたちで)、彼らに木精を譲り、少年時代にひとつの幕を引こうとする精神が描かれているというのです。

この指摘に誤りはないのですが、この部分だけの言及で、作品のタイトルともなっている「木精」について、十分な理解がなされているということになるでしょうか。
言い換えれば、上の評論を読んだ時に、論者本人や他の読者のみなさんは、「この作品における木精とはどういうものか?」がはっきりとわかったでしょうか。

この前も指摘しておいたとおり、論者はここのところ、ひとつの作品の一般性を、登場人物の主体にあると判断する傾向が強くなっているようですが、その作品理解の仕方が惰性的になっていないかという意味を込めて、改めて作品を読みなおしてみましょう。
(もちろん、そのやり方が取り組んだ作品にふさわしいとしっかり判断したうえでのことなら、それでかまいません。惰性的に、あらかじめ用意した価値観を作品に押し付けて解釈するという落とし穴に嵌っていないかどうか、を問うていますから)

◆◆◆

結論から言えば、論者は木精をとりまくフランツと少年のことは論じていますが、肝心の、フランツにとっての木精の位置づけ、また作品全体にとって木精がどのような意味をもっているのか、ということについては十分な言及をしていないようです。

そのようなことを踏まえて、次のことを考えてみてください。

木精とは、フランツの考えていたような、山に住む木の精だったのでしょうか。
それともフランツの側だけに依存する類のものだったのでしょうか。
それとも、そのどちらでもないのでしょうか?

ここまで書いた時に、『弁証法はどういう科学か』のなかの、「池に石を投げるとハスの花が揺れる」(p93-)というたとえを思い浮かべることができたり、これは<対立物の相互浸透>の問題だろうか、と気づくことができれば、この作品の本質にも近づくことができるでしょう。

2つの事柄が関わりあって何らかの現象を生んでいる時に、そのどちらかの原因「だけ」を調べてみればよいのでしたか?
池に投げ入れた石がハスの花を揺らすとき、「石を投げ入れる」という原因が「ハスの花を揺らした」という結果への一方向の向きだけを考えなさいと教えるのが弁証法だったでしょうか。

そうではありませんでしたね。

弁証法は、石を投げ入れる側の条件が整っているからこそ波紋が起きるのであり、その波紋を媒介としてハスの花が揺れるのだ、と考えるべきであることを教えるのです。

池が凍っていれば波紋は起きないのですから、波紋という現象は、石と池との関係性において成り立っている現象だと理解するのが正しいのです。

◆◆◆

対立物の相互浸透は、弁証法のなかでも像を作るのが難しい法則性なのですが、ここを、「赤の他人だった妻と夫が似てくるということだろう、それのどこが重要なのだ?」などと軽視して脇に片付けてしまうと、論理性を高めることにはまるで失敗してしまいます。

この法則を踏まえておけば、社会科学でのいじめ問題をいじめる側の責任だけに片付けてしまったり、科学での光が直進するという現象を光の性質だけに帰するという失敗に陥らずにすむのです。

今回の場合も、「木精が聞こえなくなった」という現象を、フランツのように木精側の事情に「だけ」押し付けるかたちで理解しようとすると、「木精が返ってこなくなったのは木精が死んだからだ」という極端な結論を導きかねません。(フランツ本人を非難しているわけではありませんよ、念のため。わたしたちがそれをなぞらえるだけでよいのか、ということです)

物語の登場人物はともかく、わたしたちが、フランツと木精の関係性に気づかないことには、この作品全体が持っている構造を引き出すことはできなのです。

そうことわったうえで結論から言えば、論者はフランツの少年期と青年期を、ただ横並びにべったりと並べて解説しただけであり、作品が持っている構造を取り出せていない、ということになります。
まとめていえば、論者の理解は形而上学的な段階(論理性が素朴な段階)に留まっており、弁証法的な段階にまで達することはできていない、ということなのです。

論者が、物語の登場人物の持っている認識のあり方に着目していること、今回の場合で言えば、主人公フランツが少年たちの姿を見て、自分自身の少年時代の姿を思い返しているという像の二重性について言及したかったことはわかります。

しかし、作品の一般性を主体(ひとつの身体をもった個人)の性質として引き出す傾向が強すぎるあまりに、作品の持っている構造を読み解く妨げになっているのではないかとも思うのです。
一般性として引き出さねばならないのは、あくまでも作品「全体」の本質ですからね。

◆◆◆

ここまでを読んで、「しまった、弁証法読みの弁証法知らずになってしまっていた…」と、悔しい思いをしているであろう論者には、改めて考えなおしてもらうとして、次の記事では、ではどうすればよかったのかを考えてゆきましょう。

図らずながら今回の展開は、最近新しく読者になってくれている方から弁証法についての説明を依頼されていたので、ちょうど良かったかもしれません。
ただ論者においては、そんな基本的なことを再確認する必要はなかったはずのところなので、しっかりと自分で考えてから以下の答えを読んでほしいと願っています。

ヒントとしては、以前に豊島与志雄『風ばか』の記事(Buckets*Garage: 文学考察: 風ばかー豊島与志雄)で、物語の展開を登場人物の認識の発展に従って図として書き記しておきましたね。

もしあのときのような認識論的な展開を、今回の作品でも行った場合に、物語が進むにつれて「フランツの木精についての理解が、どのような段階へと発展していっているのか」という目的意識をもって、物語を追ってみて欲しいと思います。


新しい読者のために弁証法の説明も盛り込んだので長くなりました。記事を分けましょうか。


(2につづく)

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