2013/05/28

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (3)


前回の記事では、


ひとりの学生さんからもらった解答を検討してゆきました。

あの文面を読んで、なかには「そこまで言わなくとも…概念を操作するという観点はそれなりに意味のあることだとあなたも認めるのだから、そこから論理のレベルを高めるという方向性で力を延ばしていってもよいのではなかろうか」という意見も出そうです。

しかしどうしても、これではいけないのです。

技術の習得過程を考えるとき、単にキーボードを打つくらいであれば、正しいタッチタイピングを学ばず、両手の人差し指2本でキーを見ながら打ち込んだとしても、さほどの差はでません。

しかし、現実にある問題を正しく解くための論理を習得するという、極めて高度な技となると、土台こそが最も肝腎となるのであり、細かな踏み外しをいくつかしていても結論が合っていれば問題ないとばかりに、がむしゃらに我流の努力を続けるだけに汲々としてしまっては、完成する技術もそれなりのものにならざるをえない、ということになるのです。

完成した犬かきで、大洋を泳ぎ切ることができるか?犬かきを土台としてその延長線上に平泳ぎやバタフライを位置づけて良いか?と考えてみてください。

同じ頃に研究を始めた、将来有望と見なされていた同僚が、現在ではあまりにも悲しいレベルの実力しか持ち得ていないという現実を横目に見て、「嗚呼、てっぺんまで辿り着かない道もあるのだな…」、と我が身と重ねるように実感する寂しさと恐ろしさを、若い学生のみなさんは当然にまだ自分の眼では見ておられないわけですが、ここだけは、なんとしても理解しておいてもらわねばなりません。

◆◆◆

たとえば、学問の段階には到達しなくてもよい、思想的な段階にさえ達していればよいというのであれば、地球が太陽の周りを回っているのか、それとは逆に地球が中心であるとみなすべきなのかは、「見方の問題」(!)ということになりかねません。

もっと例を出せば、自分の乗る電車が走っているように見えるのは、実は、電車が線路の上を走っているのではなく、自分の乗る電車を中心にして大地が滑っているのだ、と言ってもかまわないということになりますし、火をつけたスチールウールがある気体の中でよりよく燃えるということも、「火の精が元気になったから」だと考察してもよいことになります。

子どもたちがこういう発想をするときには、なにも頭ごなしに「ナンセンス!」と決め付けなくてもよいのですが、もしみなさんが、科学的に、つまり唯物論的に専門分野の研究を進める際には、こういった考え方が間違っているということを指摘するだけでなく、「なぜ間違っているのか、正しい考え方とはどういうものなのか」を鮮やかに説明できなければなりません。

これを何が保証するか?というのが、学問の土台となる基礎力、というものであるのです。いくら知識をつけても考え方がおかしければ、ありもしない答えにたどり着いてしまうのですから、ここでもっとも重視すべきなのは、自らが把持する世界観と、対象を照らし発見事実を組み立てる論理、ということにならざるをえないのです。わたしはそれを身につけてもらうためにこそ、これだけ必死になっているのです。

以前に、「人間にも生物と同じく集団意識というものがあるので、それを考察の対象とすべきだ」というある教授のアドバイスを受けた学生が困り果てていることを見て、その考え方の基礎がどう誤っているのかを指摘した記事を書いたことがありました。
何を隠そうあの指導教官というのは、その道では超一流とされている人物です。ですから、どこそこの権威の発言だから踏み外しなどないということはない、と考えてみるべきなのであり、基礎的な踏み外しは応用面でカバーすればよい、という発想は持ってはいけない、というのです。

自らの歩みのうちに、観念論的な踏み外しがないかということを毎瞬毎瞬注意しておく注意力と、自らの眼の前にある対象のうちに、いまだ把握しきれぬ弁証法的な構造が潜んでいはしないかと確認を重ねる集中力というものを、一般常識レベルのままで放っておいてはまともな研究はできません。

少々体つきがよく喧嘩では負けたことがないからといって、その持ち前のケンカ殺法を武道の現場に持ち込んで接木しようとしては、やればやるほど駄目になるのですから、まずはどんなに苦しくとも、自らの持ち前の自然成長的な天才性をいったん棚上げする、ということにいちばんの努力を払わねばなりません。

どんな分野についても、文化レベルの高度な段階における探究にあっては、持ち前の条件の良さが常識レベルの衆目から評価されていればいるほど、最終的にはかえって自らの足を引っ張ることになるものです。

◆◆◆

さて前置きはこれくらいにして、今回はより議論の進んだ段階の解答を検討してゆきたいと思いますが、前回引用させてもらったOくんは、実際に面と向かって議論しながら一定の答えにたどり着いていますので、別の人の解答を見てみたいと思います。

以下は、ノブくんとの議論を討論形式に書き起こしたものです。

◆◆◆

ノブくん:僕が思うに、「人を動かす」一般性とは、
「人を動かす為には、相手に関心を持った上で話を聞く」、ということです。



わたし:おさらいしておくと、看護の一般論とは「生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる」であったね。それを参考にしながら、今回の本の内容をそう整理したということは、この本は、対象である「人」を「動かす」ためには「相手に関心を持った上で話を聞く」という方法を採用すべきだ、ということを述べている、と理解したわけだね。

では、この本の全体像をマインドマップとして整理したものをいっしょに見ながら、2つ反論をするので反駁してみてほしい。


まず、ひとつめ。論理のレベルの高いところから聞こう。
(※ここでの「論理」は「抽象度」という狭義の意味。)

タイトルにはたしかに「人を動かす」とあるので、ひとまずは一般性としてこれを使ってもよいと思う。ところが、実際に本文を読んでみると、「人を動かす」のほかに、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」とあるようだが、これらを「人を動かす」という一語に要してしまってもよいだろうか?



ノブくん:(確認し考えて)…たしかに、そうですね…



わたし:その、「たしかにそうだな」という感想(=感性的認識)を、理性的に振り返ってみよう。
一般性をそのようにすると、君は暗黙の前提として、以下のように整理したことになる。図式化しすぎて形式論理のようになってしまっているきらいはあるが、まずは単純に考えてみてほしい。


この場合、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」という概念が同じレベルのものとして揃っており、その上位概念として「人を動かす」が位置づけられているね。これでよいだろうか?



ノブくん:…いえ、どうも違うような…。今確認してなんとなく思ったことですが、この4つは論理のレベルが異なるのではなく、同様のレベルの事柄を指しているようにも見えます。



わたし:ではそれをまた単純に図式化してみると、こうなるだろうか。




ノブくん:ええ、そうです。



わたし:これらの4つの概念が同じレベルにあるのならば、どれか一つを代表として一般性とするのではなく、これら4つの概念を総合して上位概念のかたちで一般化しなければいけなくなってくるね。

そこに何が入るのかはまだわからないが、このようなかたちにしておこう。




ノブくん:はい、わかりました。ここで質問なのですが、この「???」に入ることばは、この本の部題や章題、また文中から抜き出すべきなのでしょうか。



わたし:文中にあるのならばそれでよいけれども、ふさわしいものがない場合は自分で考えて一般化すべきだろうね。



ノブくん:わかりました。



わたし:よいでしょう。では2つ目の問題に移りましょう。
君が考えた一般性を見ると、その方法論は「相手に関心を持った上で話を聞く」ということになっている。
しかし問題は、相手に関心を持てば人は動くものだろうか?、ということだ。

もちろんこの判断は、わたしたちの一般常識ではなく、あくまでも本書に照らして見てゆかねばならないが、そう考えるとなおさら、相手のことをよく知るだけでは自分の思い通りに行動してもらえる保証がないとみなすべきではないだろうか。


(4につづく)

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