鋭い考察ですので、
いま書いている革細工の記事から先取りするかたちになりますが、読者のみなさんと足並みを揃えて考えてみたいと思います。
前回、わずか2,3枚の写真でざっと流した(しかも余談ばっかり)にもかかわらず、以下これだけの考察をされているというのは、まさに作り手がひとつの認識から表現へと至る創作の過程を、自らのことのようにその認識の中に繰り返そうとし、また事実観念的に繰り返せているからに他ならず、「ものを見る」とは好きや嫌いやといった感性を振り回すことでは決してなく、実にこういうことを言うのだ、と、良い実例を示してくださいました。お礼を申し上げます。
とくにこの方の着眼点は、バッグのかたちになったひとつの表現が、単に見栄えがどうであるかという問題以上に、「ものを入れて運ぶ」という機能を、わたしたちの生まれ持った身体のよりよい延長をなさしめるもの、つまり正しい意味での「道具」として果たさねばならぬ、という問題意識に貫かれていることをふまえておきたいものです。
この価値観をより単純に言えば、「ちょっと使いにくいけど格好いいからこれでいいでしょ?」というものづくりはダメ!、ということです。
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翻って世の中を見ると、そういう、デザインに凝りすぎてかえって本来の機能性が削がれているという道具をよく見かけますね。
着るのに30分はかかるけど我慢してね、細く見えるから…とか、
たまにペンが落ちるけど我慢してね、網目がポイントのバッグだから…とか、
発熱するけど我慢してね、クアッドコアでパワフルなスマホだから…などなどです。
こういった道具が生まれてしまう理由はともかく、それが世にあって淘汰されない原因を簡単にいえば、現代という世の中では命を脅かされるようなことがなく、また効率性を極度に追求する必要もないから、と言うことができます。
わたしたちの身の回りにはありとあらゆる道具がありますが、その生成を辿ってみれば、これはある目的を果たすための機能が、もっとも良く発揮される形態が考えられてきたことがわかります。
たとえば10km離れた自宅まで水を運ぶにはどんな道具がよいのか?という目的意識があるのならば、身の回りの環境を見渡して、動物の胃袋や、木の幹をくりぬいたものなどの中から、最も効率のよいものを選ぶことになるでしょう。
この段階の社会では、装飾が入っていて綺麗だとか、カラフルでやる気になる、などといったことも、「水を運ぶ」という機能性がまずもって十全に満たされた上ではじめてようやく検討にのぼるといったようなことでしかありません。(そもそも、道具によって人間の認識が磨かれてきた浸透の過程を考えれば、原始社会を生きた人類は、実は「装飾」「カラフル」という概念すら持つことができていなかった、と言わねばなりませんが)
そういうわけで、現代でも極限の状況下、厳しい自然で生き抜くための道具、戦争のなかで使われる道具などのうちには、そういった、機能性のみを突き詰めてゆくことになるわけです。カモフラージュパターンを見れば、色や模様でさえも、ある目的を果たすために創られ、選ばれていることがわかりますね。
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もっとも町中で生活する人間にとっては、持ち運ぶものを完全に防水したり耐衝撃仕様にしたりして、重くてかさばるものを使っては、かえって「ものを入れて運ぶ」という当初の目的から離れてしまいますから、別に、機能一辺倒のものが良い道具なのだと言っているわけではありません。
ここで言いたいのは、こういうことを考えるときにもやはり弁証法的に、ものを運ぶ際に中身をしっかりと守ってくれるのはありがたいが、ガチガチに守ろうとしすぎてバッグを運ぶのか中身を運ぶのかわからなくなるようなものでは困る、といったふうに、「ある原則に照らして」道具の良し悪しを判断する、という姿勢が必要になってくるのだ、ということです。
ところが、この作り手の原則というものは、あらかじめ明記してあることばかりではなく、また、使い手が違ったふうに使うこともあり、さらには、読み終えた新聞紙が暖を取るために使われたりというふうに、使われ方によって変化してゆくものですから、アタマの堅い人間は、ひとつの道具をひとつの機能と無理矢理直接的に対応させようとして屁理屈を強弁するか、はたまたそれが不可能と見るや原理主義を棄てて、道具の目的は人によって千差万別だから論じること自体がおかしいといった極端な相対主義に転がり込んでゆくはめになるのです。
極端は真逆の極端に通じるという茶番はここでもありありと見られるのですが、ではわたしたちはどう考えてゆくべきなのか?、みなさんはもうご存知のはずです。
素朴な常識では、いくら安全だからといって、町中を歩くのに防弾チョッキを着て歩くようなことはしないものです。それはほかでもなく、身体の安全を守るという目的について考えるときにも、転んで痛くないか、寒さから身を守れるかといったことから、銃撃されても死なずにすむか、といったことまで、「安全」というものについて一定の範囲があるのだ、ということを意味しているわけです。
もう十年ほども前のことになりますが、Apple社が初代のiPodをリリースして、わたしがその機能性に惚れ込んで買い求めた時、それを見たオタクの友人は、「そんなものが必要か?音楽なんか、ノートPCにイヤフォンを指して聞けばいいじゃないか。いくらでも入れられるぞ」と言っていました。
じゃあノートPCはどこに入れるのと聞くと、背中のリュックサックに決まってるだろ、とのこと。
みなさんは、これが良いアイデアだと思いますか?
道具というものには必ず、その前提として、ある目的を達成する、という目的意識が働いています。ですからそれを考えるときにもやはり弁証法的に、ひとことで言って、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、と、目的に照らして考えてゆかねばならない、ということです。
では、お便りを見てみましょう。
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>初見での感想…「G1」の顔が透けて見えるのは私の単なる錯覚からでしょうか。
なるほど、気づきませんでした。
では、というところで比べてみましょう。
図1)自転車バッグG1の型紙 (どうでもいい話ですがG1は最近改修され、フロントだけでなくリアにも付けられるようにしたので、 自転車「フロント」バッグ、ではなくなりました。) |
図2)キャンバスバッグのフェイス部の型紙 |
G1のフェイス部は、わたしの大好きな生き物、梟のくちばしの部分をイメージしており、実は精確に角度を計算しながら作ったものではないので、できたもののどの部分を測るかによって角度は変わってきてしまいますが、たしかに共通するシルエットであるということはできますね。
しかしこれも偶然の一致、というのではなく、おおまかにはそれなりの理由があってのことです。
これを見てください。
左がG1、右がG1R。 |
写真のG1は、おもに自転車のフロント(前面)につけるもの、G1Rはリア(背面)につけるもの、です。
この二つのバッグのフェイス部を見比べてみて、そのデザインのうち、どこが最も違うのかわかるでしょうか。ヒントは、デザイン上のアクセントとなっているコンチョの相対的な位置です。
答えを出すのはもう少しあとにしましょうか。
このことを考えながら、以下のご質問・ご指摘を追ってゆくことにしましょう。
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>肩掛けベルトのカシメ部が少し斜めなのは、不自然な応力が生地と革の双方に懸からないことを意図したものと推察できます。デザイン的にはカシメ二つの延長上にコンチョが配されているので、これは「G1」の嘴に当たる部分を意識されたのではないでしょうか?コンチョの位置はコレより下だと間延びした間抜けな表情になる気がします。
ご推察のとおりです。
2本のベルトを固定しているカシメ(真鍮色のボタン状のもの)をすべて通る直線上に、コンチョが配置されています。
コンチョの位置をこれよりも下にすると、デザイン上の統一性がくずれて、全体として、いくつかの意匠が混在するというチグハグな印象になったでしょう。
ではもし仮に、カシメがこの角度でなかったとしたらどうなっていたでしょうか。
たとえばカシメ4つが、横一直線上に並んでいたら?
一直線上に並べると、バッグ上部に渡してある革の部分と干渉することが気になる方もおられると思いますが、それを問わないことにしても、わたしはやはり、コンチョはやや下げたところに配置したのでは、と思います。
これも、さきほど出した問題と共通する理由によって、です。
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個人的に一番着目したのは、持ち手部分を頂点とした時に形成される角度(約60度弱か?)です。ロッククライミングを齧った者ならばいざ知らず、まさか始めから「荷重分散の角度の影響」(※)まで考慮していたとは思えませんし、よって、実際に手に持った感触やら考慮した上で機能美を追求した結果、自然と導き出されたのだと勝手に良いように解釈しているところです。
下記サイトではロッククライミングでの確保理論が解りやすく図解されていましたので、参考まで。
※)ttp://www.alteria.co.jp/sport/technique/Rock-Climbing-Equalized-Anchor/
なるほど、たしかに言われてみると考えておくべきだったかもしれません。
ですがこれも、基本的な合力の計算以上には考えの外でした!
というのも、今回は残りものの帆布と革で作ったもので、素材はギリギリのぶんしかなく、キャンバスが本当に入ってくれるのかどうか、といったところでしたので、その厳しい縛りのなかで考えられる数パターンを自分の体にあてがって測ってみて、いちばん具合の良いものを選んだに過ぎなかったからです。
わたしのものづくりは、どんな事柄にでも何らかの理由がないとおさまらない、という気質もあってそのとおりに進めますが、一方で、理屈一辺倒になってしまっては素材というとても大きな特殊性を十分に考慮することができませんので、やはり実際に使ってみて実験せねば、という考えがいつもあります。
しかし次に頼まれて同じようなものをつくるときには、考慮すべき事柄ですね。
良いことを教えていただきました。お礼を申し上げます。
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>また、肩掛けベルトが描く放物線の、見えない延長線上にバッグのコーナーが現れているように見えなくもありません。このライン取りが全体としてのデザインの根幹を成しているのではないでしょうか?
たしかに、このことについては検討しました。
ただ、実際に出来たものについては、ベルトが描く放物線の延長線よりも、やや外側にバッグのコーナーがきていると思います。
タテ型のトートバッグなどなら、この点ぴったりと収まるのですが、なにぶん平たく大きいキャンバスを運ぶためのバッグですから、2本のベルトのあいだの幅については、それこそ機能性を意識して位置づけることがなければ、使いにくいものに仕上がってしまうのです。
2本のベルトが近いところにきすぎていると、つまりベルトのあいだの幅が近すぎると、肩にかけたときに、肩を頂点としてキャンバスの前後が左右にふらついてしまいます。
逆に、2本のベルトが遠くにありすぎると、ベルトが長くなりすぎて取り回しが悪くなったり、バッグの上部両端に力がかかりすぎて、バッグの型崩れを招く原因となってしまいます。
手持ち、肩掛けの2パターンを、ベルトを交換する、または両方実装できるようにする案もありましたが、わたしの場合は、手持ちのバッグで常に片手が塞がれることが身体運用上どうしても受け付けらないために、はじめから肩掛けすることを前提としたバッグとなり、そこにさきほどの素材上の制限が加わったことで、このような機能・デザインとして落ち着いたという経緯がありました。
素材が豊富に手元にあったときには、ご指摘にあったようなデザインも検討したかもしれませんね。
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>あと、実際に手にして見なければ確認も出来ないのですが、取っ手方向からのテンションの掛かり方を想像するに、おそらくは空荷の状態で取っ手を掴んで持ち上げても、留め位置の配置上から真ん中が不細工に口を広げたりもしないし(←手持ちのトートバッグで確認済み)、柔軟な帆布生地であっても端整な形を保てるのではないか?とも考えました。素人考えですが、留め方によっては変な皺が入りそうな気もします。
空荷の状態で取っ手をつかむと、バッグが型くずれするということは、素材によっては、十分にありえると思います。
今回のバッグでは、中身のキャンバスを抜いた状態ではこんなふうになります。
写真を見ると、角度上の問題があり、バッグ背面が椅子に支えられているようにも見えますが、これは実は触れていませんので、全体がこなれてくるとたわみやすくなりますが、現時点ではそれほど妙な形にはなっていないことがわかります。
これについては、バッグの上部に革で縁取りを縫い付けることで、帆布のほつれ止めとともに、バッグ全体の型崩れを図ったことがうまく効いてくれたものと思います。
また、バッグに使った帆布も、実はバッグ用のものではなく、相撲のまわしや船舶に使われる3号帆布という、厚みが1.4mm弱あるものですので、革を併用せずに一般的なバッグを作った場合にでも、「十分に立つ」(素材を分けてくださった方談)、ものなのでした。
通常、バッグ用に使われるのは6号(1.1mmほど)以下の帆布ですから、まともな神経では手縫いなどしないのではないでしょうか。
このことは、最後のご質問にも関わってきます。
◆◆◆
>カシメ位置の裏側がどのような補強のされ方をしているのか興味があります。コンチョとカシメの位置関係は横幅を四等分した位置かとも思いましたが、どうも違う。凝視すればするほど初見で感じた「G1」の顔が被って見えるのですが、これは私の単なる錯覚からそうなるなのかもしれませんし、贔屓目や先入観が無理矢理に解釈をこじ付けようとしているのかもしれませんね。
ここが、道具本来のあり方、道具の本質をしっかりと見ようとする、質問者さんの観点を、読者のみなさんと共有して学んでゆきたいところです。
ここではどのようなことが述べられているかということを説明しますと、たとえば革という素材は、それなりの強度がありますから、それを使ってこういった大型のバッグを作るとなったときには、バッグ本体部に直接、ベルトを金具で打ち付けてしまってもよいのです。
しかし本体部に、帆布という素材を選ぶときには、それと同じ手法で十分な強度が確保できるのか?ということ、この、素材を相互浸透の関係で対比することによって浮かび上がってくる疑問が、質問者さんの言わんとしていること、というわけです。
素材が違えば当然にその実装方法も変わってくるべきなのですが、世にある道具は…、と、もう繰り返さなくてもよいでしょう。
◆◆◆
さて、これについては裏側を見てもらえると一目瞭然です。
オヤッ、直接縫い付けてしまっているとは!?革と帆布は別の実装にしなければと言ったばかりではないか??と思った読者の方は、焦らないで聞いてもらいたいと思います。
たしかに、ここを、「革と同じような実装方法で」取り付けてしまっては、つまり、本体部にポンチを使って穴を開けて、ベルトと金具で固定するような方法を採ってしまっては、そこから帆布がほつれ、ほつれて、意気揚々とキャンバスを持ち運んでいる最中に、本体がベルトから外れて落下、ということになっていたでしょう。
ではどうしたのか?と言えば、これは帆布の本体部に金具を取り付ける時に、ポンチで穴を空けるのではなく、「帆布を縫ってある糸の隙間に金具をくぐらせて」、取り付けてあるのです。
これは今回の帆布が、さきほども述べたように特厚の3号であり当然に相当に太い糸で縫われていることによって採用できた方法なのでした。当て革をしてポンチ穴をあけるよりも、このほうが、帆布の縫い目を伝って四方に重さを分散できますから、より丈夫になると考えました。
わたしも、道具を機能的な必然性から考え始めますので、道具を運搬中に、内容物が落下したりはみ出たりするような道具を見ると、顔をしかめたくなります。
自分でものづくりをしているときも、やはりそういった、道具本来の目的を損ねているようなものだけは作るまいと常々思っていますが、ではどうやってそれを達成するのか?をひとことで言えば、道具の信頼性を、単に表現ではなく、その「構造」に置く、ということになります。
この「構造」は、学問レベルの<構造>ほど弁証法的で高度なものではありませんので、あまりビックリしてもらわなくてもよいかと思います。次回以降の革細工の記事でも取り上げますので、具体例を簡単に示しておきましょう。
◆◆◆
たとえば以下のバッグ前面を見てみてください。
あなたがこのバッグを使うときには、当然ながら上部の取っ手を持ち上げて運ぶことになりますが、革でできたその部分はともかく本体部の帆布の部分については、やや心許ない印象を持たれる方も多いと思います。
「重いものを入れた時に、帆布の部分が重量を支えきれずにちぎれたり型崩れしていってしまうのでは?」という感想を持たれる方もいるのではないでしょうか。
もしそこまで明確に不安感を言明できなくとも、「なんとなく」といった感性的なレベルで不安を覚える方もおられるはずです。
では、どうすれば帆布の素材上の弱さを補って、この不安感を払拭できるのでしょうか。
それは、このバッグの背面を見てもらえるとわかります。
さきほどの前面の写真と考えあわせて、わかってもらえるでしょうか。
前面と同じように、タテに2本のベルトが底面部から延びており、しかもそれが、しっかりと帆布の部分に縫い付けられていることがわかりますね。
ですからこのバッグは、内容物を支える構造として、まずは内容物の重さが直接、革を貼った底面部にかかり、持ち運ぶときにはその重さが、前面と背面の2本ずつのベルトを通して吊り下げられることから、いわば、「本体の帆布部がなくとも」、それなりの強度を保ちながら内容物を支えられる構造となっているわけです。
たとえばひとつのバッグを見た時、「心許ない」という感想を抱くというのは、位置づけとしては、「使われている帆布が実は相当に丈夫なものである」ということを知る前の単に感性的なものですが、わたしとしては、よくできた道具は、ぱっと見でも信頼に足るもの、安心感を与えるものでなければならないと思っています。それにはやはり、ここで述べる構造の観点が重要になってきます。
◆◆◆
わたしは学生の頃、スーパーで品出しのアルバイトをしていた時、そこでの直近の上司が、蓋のない木箱を逆さに向けて上下に2つ積み上げていたのを見て、「とても危なそうだ」と思いましたが、果たしてその上にカゴで盛られた茄子は、そのあとすぐ、売り物にはならなくなっていたものです。
これは、目的を果たすための構造が、満足に満たされていない実例であると言えるでしょう。
この構造は、意識して見ることのできる者でなければ、どうしたって気づくことはできないのです。わたしのこの上司は、カゴの茄子が落下した原因を、不注意な客が小突いたせいだと言っていましたが、残念ながらそうではありません。わたしが積んだときには、決して崩れたりしませんでしたからね。
◆◆◆
さて、ここまでご質問にお答えしながら述べてきましたが、記事の半ばに出しておいた問題にも忘れずに答えておかねばなりません。
わたしは、こう述べました。
この二つのバッグのフェイス部を見比べてみて、そのデザインのうち、どこが最も違うのかわかるでしょうか。ヒントは、デザイン上のアクセントとなっているコンチョの相対的な位置です。その写真は、こういったものでしたね。
左側のG1が、フロント用。右側の G1Rが、リア用です。
フロントとリアで、まったく同じ意匠で良いのか?というと、実はそうではない、というのがほとんど答えなのですが、双方のコンチョの位置を見ると、左側のものは、コンチョが、その左右の盾型のエンブレムよりも下に来ており、全体としては下向きの三角形になっています。
それにたいして右側のものは、コンチョが、その左右の円形の金具よりも上に来ており、全体としては上向きの三角形を形作っています。
というのも、誤解を恐れずに言えば、人間の意識として、二辺が下向きに交わる直線はものごとのはじまりを、上向きに交わる直線はものごとの終わりを示すものとして意識にのぼるもの、だからです。
これだけを述べると、唯物論者も語るに落ちたものだ、美意識の根拠をよくあるセオリーに委ねるとは!と思われても仕方ありませんが、美意識の生成・発展については、部分部分の事実を断片的に述べても本当の学問のレベルではなんの説得力もなく、そもそも誰も論じきったことがないことだけに、どうにでも捉えられてしまうものですから、これはいずれもっとフォーマルなかたちで世に出したいと考えています。
そうは言ってもそれだけでは…なんとなくでもわかりたい、という方は、四本足で歩く哺乳類を、真正面から見た時と、真後ろから見た時でどのような印象の違いがあるかな?と、実際に写真を見ながら考えてみてください。
それも、身体・認識を含めた人類の発展という過程性を念頭に置きながら見るとどうなるか…というところが追えるのであれば、この問題だけでなく、美学上で未解決とされている問題が色々ときれいに片付くはず、と思うのですが。
さて、お便りが嬉しく、ずいぶん長々と書いてしまいました。
お便りはいつも楽しみにしていますので、お気づきの点あれば随時。
自己紹介のいちばん下にわたし宛てのメールアドレスがありますので。
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