ここのところロダンの引用ばかりしているので、
いつもの記事に比べたら読み応えがないな、と思われているかもしれませんね。
ですがちょっと待ってください。
わたしが彼の言葉にここまで肩入れするのは、彼がつかまえている事柄が本質的であるばかりでなく、経験上でつかみとってきたものとはいえしっかりした論理性が含まれているからです。
たとえば、「分解と綜合とが互いに芸術家の心の中で上り下りする」(p.189)、「作家自身のために作らなかったことがかえって個性をもたらした」(p.201)、「表現は受け取り手の立場によっても規定される」(p.202)などを見てみましょう。
第一のものは、作家の認識における止揚をとらえており、わたしたちが経験上持っている像を綜合すると直接に、それを俯瞰する像を手に入れ、駅から自分の家までの地図をまるで鳥になったかのように書き表すことができることと同一のことを指摘しています。
また第二のものは否定の否定、第三のものは表現というものの本質、つまり表現過程の重層構造をよく表していることがわかってもらえているでしょうか。
これらはロダンが自らの創作経験のなかで掴みとってきたことであり、弁証法を技術的に適用したわけではないのですが、それでもなお、自らの道に向かい続けるひとりの人間が自然成長的に到達したものとしては見事なものだと言ってよいと思います。
これはひとえに、彼がアタマの中で概念をいじくりまわしたのではなく、あくまでも「現実に真摯に向き合った」からこそ引き出し得た論理性だと理解すべきものです。(概念操作だけをしていても絶対に論理性が高まるはずがない、というのは、ほとんどの研究者がまるで理解していないひとつの極意です。気になる人は会ったとき聞いてください。)
◆◆◆
ですから、創造的な仕事のために彼のことばから学びたいという人は、世間一般に名言の扱いを受けているような類の、単に響きが良いだけのことばや、それとは逆の大衆への痛罵のようなものと同じ受けとめ方をしないでほしいと思います。
一言に要したその言葉の裏に、どれだけの経験的な裏付けがあり、どれだけの論理性が働いているかを読み取ってほしいのです。
わたしがそれぞれの引用文につけた題も手がかりになると思いますので、参考にしてください。
幸いなことに、わたしたちには弁証法という武器がありますから、どこに弁証法が働いているかな、という目的意識を持ちながら読んでみればよいのです。
エンゲルス・三浦つとむ流の三法則に照らしただけでも、その立体構造は十分に掴み取れると思います。
ロダンも言っていますね。
肝腎なのは何を見るかではなく、どう見るか、なのだと。
◆フレデリク ロートン筆録◆
p.176 古代芸術の学び方:自然が第一で、古代芸術はその次である
「彫刻家は自然について仕事する事です。それから一つの物をよく研究してしまった時、美術館に行く事です。そして古代芸術が、たった今自分が生きたモデルの前で求めていたものをいかに訳出しているかを見る事です――これなら本当です。けれどもし、自分の眼を自然に向って閉じてまっすぐに古代芸術に行けば、この影像を自分の製作の中に移す事が出来ません。まね事なら知らぬ事ですが。だからその人の作るものは古代的でもなく近代的でもないものになる。――ただ単に悪いものになる。」
p.181 美は決着点であって出発点でない
「古代芸術を――これは不思議な生命(ライフ)のいい肖像だが――これを美であると言うのは、不十分な言葉、上すべりのした賛辞を使う事になるのです。なぜといえば美は決着点であって出発点でないからです。」
p.187 芸術の極意
「芸術とは自然が人間に映ったものです。肝腎な事は鏡をみがく事です。」
p.189 芸術家にとっての止揚
「分解と綜合とが互いに芸術家の心の中で上り下りするという事は本当です。だがその分解とはばらばらに壊してしまう事ではありません。彼は――芸術家は考えるものです。全体について考えます。部分についても考えます。そして部分の研究は彼にとって全体を更によく摑むための道なのです。」
p.189 多勢からの攻撃について
「讒謗と意地の悪い虚構の説とを我慢するのは全く容易な事ではありません。私もそういう目に逢いました。そして少しはそういう事を知っています。けれども人は堪え忍ぶ事を学べるものです。一人の人間は多勢よりも強い。もし時を待てば。」
p.189 日本芸術
「日本芸術はそのどこまでも辛抱強い観察と、極小のものにある美の探求とでわれわれの芸術より秀れています。」
p.190 本当の芸術家精神
「私は博覧会の頃仕事している日本の芸術家たちを見ていた事があります。折々、客が彼らを急がせて本当に出来切らないものを持ってゆこうとして、その代価の金を出しては仕事している者を誘惑するのです。けれども彼らは断りました。金は失っても、彼等が見て、出来切らないものを自分の手から離す事は許しませんでした。これが本当の芸術家精神です。」
p.192 芸術家とは見る人である
「芸術家とは見る人の事です。眼の開いた人の事です。その心に、物の内面の本質が、いずれにしても、存在事実として考えられる人の事です。」
p.193 真実を求める者
「彼(引用者註:真実をのみ求める者)は自然界における造物主の仕事の使命と同じ使命を芸術界において自分の仕事に持たせようと求める。私の製作が経た経験を通らない人たちによって私の製作はよく判断される。生徒が数学を学ぶように、一歩一歩、私は自分の芸術を学んだ。たくさんの小さな問題を解いた後にやっと重要な問題を解いたのです。私を攻撃する前に彼らも同じ道を通り越して来るべきです。そうすれば彼らの意見は違って来るだろうと思う。違った眼で物を見るようになろう。」
p.200 間違いはどこにあるか
「自然は常に完全です。決して間違いではない。間違いはわれわれの立脚点、視点の方にある。」
p.201 ゴティック彫工における否定の否定
「彼らは建築のために彫刻した。彼ら自身のためにではなかった。軒の上では彫像をある風に作り、窓や、入口や、弓門にはまた別な風に作った。どんなちょっとしたものでも全体に適合するように正確に計られたのです。これがため彼らの彫刻は一層美しく個性的である性格を得ました。」
p.202 表現は受け取り手の立場によっても規定される
「芸術家は、それ故、彼の作が眺めらるべき距離に応じてその細部を選択し適合せしめねばなりません。また一方彼の製作が彼自身で選んだ遠近をもって眺められる事を要求する事が出来ると思います。その上、芸術家はこの遠近を彼の取扱おうとする主題に適応させる事を学ばねばならない。(略)もし彼の芸術のこの一部門を十分に把握したら、彼はまずほとんど完全でしょう。」
p.203 自然が我が身に捉え返される瞬間
「私はよくある一つの企図をもって始めてまるで違った企図をもって終る事があります。粘土をつけている時、私の記憶の中に睡っていたものが、にわかに私に立ち上ってまるで私自身が創造した幻像ででもあるように想像される事があります。私はこれがそうでない事を知っています。これは私がかつて自然の中で認めたに相違ないもので、しかもこれに相当した映像を私の心の中にかつて喚起した事のない形の組合せが浮かんで来たのです。それからなお進んで行って製作がもっと完備して来ると、私の心の中に一種の反対過程が起って、今度は自分の作ったものが自分の自然観の上に働き返して来ます。私はある相似と新らしい類似とを発見して歓喜に満たされます。そして造物主の仕事を讃嘆し、かつ彼もまたこれらいっさいの驚くべきものを生み出しまたこれらのものをかかる相互関係に展開せしめた事に喜悦を持たれるだろうと思わずにはいられなくなります。」
p.210 主題の魅力は自然からのみ来る
「私は人がある想念を持っていてそれが仕事を偉大にするのだという説に反対します。仕事の力はその人の想念の力よりも大きい。私自身の見るところではわれわれの想念はつねに貧弱です。」
(フレデリク ロートン筆録 了)
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