果たして、三度目の正直になるのでしょうか。
思いっきり余談ですが、「仏の顔も三度まで」ということばがありますね。
辞書を引くと、「いかに温和で慈悲深い人でも、無法をたびたび加えられればついには怒り出す」(大辞林)と書いてあります。
わたしが温和で慈悲深いかどうかは実際に叱られている人たちの判断に任せますが、わたしの場合は、ひとつのテーマに従って満足のゆかないレポートや作品、表現が何回提出されたとしても、そこに自分の道を蔑ろにするような態度が見えたり、自分の力を過小評価して全力を出していないそぶりが少しでもあれば、必ず再提出してもらいます。
三度だめでも四度だめでも、だめなものはだめです。
「これくらい頑張ったのだからそろそろいいか」とは、口が裂けても言いません。
そのかわり、感情に任せるかたちでは「これだけやってるのにまだできないのか!」とも言いません。
何回目でも突き返します、同じ顔でね。
そもそもできないから指導するされるの関係にあるですから、現時点では求めることをできなくても、まったく構わないのです。
こういうときに苛々して叱りつけるのは、指導者失格です。
ですからできなくても良いのですが、「できるのにやらない」、「やろうとしない」姿勢のほうだけは、絶対に見過ごすことはできません。
こういうときに我が身可愛さに後進を叱りつけられないのは、指導者失格です。
叱るということが、論理的な認識に基づく純然たる技術なのだということを理解しない人間は、「叱ると部下がだめになる」のような本を書いて臆面も無く発表したりしていますが、そんな口車にのって実践したことのある人ならば、それがどういう結果を招いたのかを苦い苦い経験として受け止めているでしょう。
叱り、叱られするのは役割上の問題です。
好かれ、嫌われするのは感情の上での問題です。
いつも部下を叱っている上司が人格として尊敬されているということが、敵対的な矛盾であるようにしか映らないというのでは、真っ当な大人としての責務を果たすことができるのかと要らぬ心配もしてしまいます。
わたしは、志を捨てない人のためなら、海の底でも地の果てでも付き合います。
言い換えれば、100回でも200回でも全力で取り組んでもらえるまで「もう一度!」と言う、ということです。
わたしの顔が、仏なのか閻魔様のそれなのかを決めるのは、叱られている本人の姿勢こそにかかっているというわけです。
さて、今回はどうなっているでしょうね。
◆文学作品◆
菊池寛 船医の立場
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 船医の立場(修正版2)
日本がまだ鎖国政策をとっている時代、武士である吉田寅次郎と金子重輔は、どうにかしてアメリカ船に乗り込もうと苦心していました。彼らの目的は、そうしてアメリカに渡る事でその技術を学び、日本からアメリカ人を追い払うことにあるのです。そして数々の苦難の末、彼らは漸くアメリカ船、ポウワタン船へ入船するこに成功します。
一方、そのポウワタン船では、この日本人二人をめぐって激しい議論が展開されていました。というのも、彼らのアメリカに対する熱意に感心した副艦長、ゲビスは是非とも彼らをアメリカに招くべきだと主張する一方、提督であるペリーをはじめとするその他の人々はこの意見に反対していたのです。しかしそれでもゲビスは諦めず、彼らはここで自分たちが断れば、日本の厳しい法律によって死ぬことになる事を覚悟して乗り込んでいるのだが、それでも何か感じるところはないのかとペリーらに問いかけます。そしてこの彼の熱弁は、次第に周りの人々の心を動かしはじめます。ですが、船医であるワトソンの次の一言がその流れを変えました。彼は日本人の一人が皮膚病を患っている事を思い出し、その病気が未知数のものである以上、医師として乗船は許可できないと言いました。これには流石のゲビスも言葉を失い、アメリカ人達は日本人達を下船させることにしました。
ですが、実際にその日本人達の処刑の一端を見たアメリカ人達は、改めて彼らに関して検討し、提督であるペリーはその時の自分の判断を反省して、彼らを全力をもって助けると意気込み出します。一方、船医であるワトソンだけは悄然として、船の文庫へと歩いて行きました。
この作品では、〈感情を優先できないことに苦しさを感じながらも、結局は立場によってそれを抑えなければならなかった、ある船医〉が描かれています。
では、この作品のテーマにもなっている船医ワトソンの心情をより深く理解する為に、もう一度二人の日本人に関するアメリカ人達の議論を振り返ってみましょう。まず、副艦長のゲビスは二人の日本人達の熱誠に心打たれ、アメリカへと連れて帰るべきだと主張していました。言わば彼は自身の感情にそのまま従ったことになります。そして、このゲビスが感じていた日本人に対する思いというものは、他の人々も大なり小なり持っていました。しかし、ペリー提督をはじめとするゲビス以外の人々は、日本人達を受け入れる事は日本政府を刺激する事でもあり、日本に開国を求める自分たちの立場としては、それは避けるべきだと述べています。つまりこのアメリカ人達の議論では、彼らの感情を優先する心と立場を優先する心とがせめぎあっているのです。そして、このせめぎあいに終止符を打ったのが、船医ワトソンの一言でした。この彼の放った「彼の青年の一人は不幸にも Scabies impetiginosum に冒されている。それは、わが国において希有な皮膚病である。ことに艦内の衛生にとっては一つの脅威である。」という一言によって、アメリカ人達は日本人達を拒絶する事を決定しました。
ところが、二人の日本人が実際に処刑されている姿を見た途端、彼らは再び自分たちの判断を検討します。その際、提督ペリーは「そうだ。君の感情がいちばん正しかったのだ。」と、立場よりも感情を優先させるべきだった事を認め彼らを日本の法律から救うことを心に決めます。
しかし、医師であるワトソンは提督のようには振る舞えず、心の痛みにも堪える事ができませんでした。彼は医師という立場上、日本人二人に対して重要な決定を下すための決め手を言い放ったにも拘らず、その立場故に彼らの為に出来る事を見い出せずにいたのです。ですが、その一方で日本人達への申し訳なさだけが募っていき、「彼の心には Scabies が、この高貴にして可憐な青年の志望を犠牲にしなければならないほど恐ろしい伝染病であるかどうかが、疑われてきた」と、次第にその時の自分の判断にすら自信が持てなくなっていきます。そこで彼は、せめて医師としての立場に責任を持つために、船の文庫へ向かい自分のその時の判断が正しかったのかどうかを調べる事にしたのです。
◆わたしのコメント◆
はらはらしながら評価を待っている論者と、毎度のことながらありがたく見守ってくれている読者の顔が浮かびますので、評価がどう転ぶかはともかくはやく結論を出して楽にしてあげたいという気持ちもありますが、急がば回れで、これまでにどのような指摘がなされてきたのかを少し踏まえておきましょう。
1回目の評論の一般性〈正論を認められない為に、別の大義名分を用意して自分の主張を正当化する事がある〉にたいして、わたしは、これがどういう主体について言っているのかがわからない、と言っておきました。
この一般性が指摘しているのが、船医ワトソンについてなのか、一般的な人間のあり方についてなのかが不明瞭だったからです。
またより大きな問題として、ワトソンがさいごに見せた一時の動揺への対応について指摘しても、物語「全体」の一般性をとらえたことにはならない、という欠点があったのです。
◆◆◆
そういうわけで、この作品に登場する3人のアメリカ人は「感情と役割との矛盾」に悩まされている、という大まかな事実から絞り込むかたちで、作品の一般性を突き詰めていけばよい、というアドバイスをしたのです。
ところが論者が2回目に提出してきた一般性〈感情に振り回される事なく、最後まで自分の立場に責任をもとうとした、ある船医〉は、あまりにもわたしのアドバイスからも大きくずれているどころか、作品が意図しているところをまったく逆に読み誤っていることが明らかでした。
◆◆◆
ここから作品理解から逸れますが、なぜこの大きな誤りが起きたのかは考えておかねばなりません。
この誤り方を大きな問題として受け止めて、わたしは論者と直接会って、誤りの原因を突き止めようとしました。
受けたアドバイスを有意義に生かせずに、下手な鉄砲なんとやら、で行きあたりばったり、運試しのレポートを乱発するようなやり方は、たまたま評価されることがあったとしても何の意味もありません。
答えでなく、考えるプロセスが正しくなるのでなければ、いつまで経っても独り立ちなどできないからです。
「ここまでは正しい」ということを、仮説として持ったうえで作品を読みなおすことができないのは、大雑把に言えば、ものごとを認識する力が非常に弱いからです。
誤解を恐れずに物理的なイメージに置き換えて言えば、子供に哺乳瓶を「しっかり持って運んでね」と言ったときに、悪気はなくても握力が足りないためにどうしても道半ばで落としてしまう、というようなことと同様です。
そのようなことを踏まえて、概念をしっかり持つ、ということを、概念を把持する、という言い方をしますが、論者の場合は、自分ではしっかり持っているつもりが、持っているものの像のみならず、「持つ」ということ自体の実力が非常に弱いために、徹頭徹尾、それを持っていることができないのです。
目的地に着くまでに途中で落としてしまっても、自分の手の中にあると勘違いしてしまっているのです。
これが物理的に結果が明らかになる事柄なのであれば、子供でも、「落とした、しまった」と確認できますから、自分の力で「次は落とさないようにしっかり持っていよう」という目的意識をもって行動することができます。
ところがこれが認識の上では、目に見える齟齬を起こさないことから、自分がしっかりと概念を持っていれなかったということが、明確なかたちで自覚しにくいのです。
目的像を明確に意識したままの状態を、しっかりと安定して継続しうる力を持っている人を、わたしたちは「集中力のある人」だと言い、その力を、「集中力」と呼んでいるのです。
◆◆◆
人間の集中力というものは、幼少の頃に、自分の取り組んでいる対象との向き合い方が、保護者など第三者によって阻害され続けないという過程をもって、それぞれが自然成長的に育んでゆくのだと、いちおうは考えてもらって結構です。
ここで阻害されるということは、なにも悪意をもっておもちゃを取り上げられたなどということに限らず、「危ないから離された」、「親がひとつのものでなくいろいろな物を見せようとして離した」、という好意の裏返しであることもあるのです。
しかしどのような経緯があったにしろ、このような力がそれなりの年齢になっても備わっていないのならば、ここを自然成長ではなくして自らの目的意識性を持って、認識における技として創出してゆかねばなりません。
当然ながら相当の努力が必要ですが、これがなければまともな仕事などできるはずもありませんから、是が非でも身につけてもらわねばなりません。
たとえば自宅で勉強していてすぐに喉が渇き、冷蔵庫に立ったことをきっかけにして手洗いに行き、気づいたらテレビを見ていたというのでは、まったく話しになりません。
主体にこのような問題がある場合には、集中できる環境、ではなくて、「集中するよりほかやることがない」という環境に行き、行動することによって良質転化的に観念的な実力をつける努力をすべきです。
本一冊とペンだけを持って、図書館やカフェに行けば、脇道に逸れずに済むでしょう。
本一冊を読み終えなければ帰ってはいけない、3時間以内にやらねばならない、などというルールを決めれば、主体的に取り組むほかなくなるでしょう。
いい大人がこういう工夫についてあれやこれやと言われるのは、まともな神経をしていれば相当に恥ずかしいはずですから、そんな指図は要らぬ心配だということを、身をもって実証してもらいたいと思います。
◆◆◆
さて、作品理解の方に戻りましょう。
2回目に提出された一般性が、あまりにも大きく誤っていた、というところまでお話ししましたね。
この作品を正しく理解するにあたってわたしたちの向き合わねばならない問題は、この作品が大雑把に言えば「感情と役割との矛盾」について書かれているが、それをこの作品の一般性としてさらに絞り込んでゆくとどのようなものになるのか、ということです。
(※学習の進んだ方へ:「一般性」は「特殊性」との相互浸透において学ばねばならない
余談ですが、文学作品が一般に「感情と役割との矛盾」を描いていることが多い、ということを一言で言えば、文学作品の一般性は「感情と役割との矛盾」にある、となります。ところがこの一般性を振りかざしたところでこの物語をしっかりと理解したことにはなりません。文学作品の一般性は、この作品を本質を引き出すときには一般的「すぎる」のですから、この作品の本質的な理解にはここからさらなる絞り込み(特殊化)をする必要があり、そうして特殊性として提出しなければなりません。あるものを一般性と言いながら、見方を変えればそれがひとつの特殊性でもあることは矛盾ですが、これは当然ながら、あれかこれかでなければならないものではなくて、共存すべき矛盾、非敵対的矛盾です。
たとえば「ヒト」という概念は、生物種という観点から見れば特殊性ですが、個別の一人ひとりの人間という観点からすれば一般性です。観点が異なるだけで、双方が真理です。こういった場合には、一般性と特殊性は、相互浸透するものとして学んでゆかねばなりません。
このことの論理的な帰結として、「一般性」という概念が、固定化された内容を持っているという理解では、わたしが言わんとすべきことはまるきりわからなくなってしまうでしょう。一般性をはじめとした高度な概念は、「犬」や「猿」などという目に見える個物を抽象したものではないだけに、誰かに教わった直後からいきなり使えるというものでは決してなく、個別の対象から一般性や法則を抽出する経験を通して、観念的な像として獲得しなければならないものです。またそうであるから、概念そのものを組み合わせたりそれだけをいじってみても、何も出てくるものではないのです。)
前回の評論について厳しく評価したのちに、わたしは論者と直接会って、これまでの指導の内容についてあらゆる表現を使ってできるだけ同じ像を共有できるようにと話をしてきました。
そうして互いの論点を共有し明確にしたのち、論者が引き出してきた答えはこういうものです。
この物語は、〈感情を優先できないことに苦しさを感じながらも、結局は立場によってそれを抑えなければならなかった、ある船医〉を描いているのだ、と。
なるほどこれならば、船医ワトソンが、他2名のアメリカ人に負けずとも劣らぬ、日本人青年にたいする同情心を持ちながらも、結局は船医という立場上の限界に阻まれてしまった、ということがわかります。
「感情と役割との矛盾」を、さらにこの物語に沿うかたちで絞り込んだ、ということがわかりますね。
ここまでできていれば、合格でしょう。
◆◆◆
さて、とはいったものの、合格とは言いながらまだ言いたいことがありそうですね、と、話にはまだ続きがあるという含みを読み取ってくださっている読者の方もありそうです。
実はそのとおりで、ここまで書けていれば合格ではありますが、満点ではありません。
「感情」も「役割」も、「それらの間の矛盾」も、すべて作品の特殊性になぞらえるかたちで満たしているのに何が足りないのか?と問われれば、それは作品の持っている論理構造の把握ですよ、と答えることになります。
論者の表現をもう一度見てください。
〈感情を優先できないことに苦しさを感じながらも、結局は立場によってそれを抑えなければならなかった、ある船医〉
これを読むと、「人間らしい同情心と、船医という立場を双方とも自覚する船医ワトソンは、結局のところ立場を優先せざるを得なかった」、ということしか書かれていませんね。
これが指しているのは、実は物語の最後に、ワトソンが、「皮膚病学の泰斗をたずねて自分の激しく動揺する良心を落ち着けたいと思い、悄然としながら船の文庫の方へ歩いて行った」という箇所、この「一時点に限った」心理を表現したにすぎないのです。
ですから、この一般性はたしかに誤りではないのですが、作品全体を通しての船医ワトソンの感情の揺れ動き、つまり「作品全体の」構造を表現したものとは言えないのです。
一言で言えば、まだまだものごとを静止した状態でしかとらえられていないという意味で形而上学的であり、ものごとを運動形態においてとらえるところの弁証法的ではない、ということです。
◆◆◆
わたしが一回目の評論へのコメントで書いてあったことを思い出してください。
ワトソンは、日本人青年の処遇を招いたところの、自分がした助言の責任を誰よりも厳しく感じ取っているのですが、そういった自分自身の感情の揺れ動きでさえも、感情そのもので落ち着けることができないために、あくまでも「医師として」の自分の役割がまっとうであったのかを確認することでそれに替えようとするところが、職業人としての不器用さ、その裏側の絶妙な人間臭さを表しているとは思わないでしょうか。この作品全体を見渡した時に重要なのは、ワトソンが、役割を重視したから皮膚病学の泰斗をたずねることにしたのではなくて、あくまでも「良心に激しく動揺した」からこそ、結局のところ自分自身の役割にすがらねばならなかった、ということなのです。
これを運動法則として書き抜くならば、「あまりに〜すぎて…となった」、「〜すぎてかえって…」の論理構造、つまり<対立物への転化>ということになるのです。
三浦つとむが「度外れに真理を主張しすぎれば誤謬に転化する」と言っていたことや、ことわざが「東方の極端は西方なり」と言っていることを正しく思い出せているでしょうか。
この物語では物語全体を通して、ワトソン医師が、感情の強さあまりに役割に頼らざるを得なくなった、という感情の、「経時的な」揺れ動きに焦点があたっており、そこが読者にとっては職業人としての不器用さ、皮肉というものに繋がっているのです。
そういう全体としての運動法則を、一般性の表現に取り入れると、このようになるでしょう。
この作品は、<同情の念を感じすぎたあまりに、かえって自らの役割にすがらねばならなかった船医の皮肉>を描いているのだ、と。
弁証法を使える人から見れば、「かえって」と「皮肉」の論理構造は同じだから、どちらかだけで良いのでは、と思えるはずです。
わたしがあえてそうしているのはダメ押し、というわけですね。
作品の理解、つまりそこに含まれる感情の揺れ動きの理解には、どうしても弁証法が必要なのだと常々言っていることが、ようやく、だんだんと、わかってきましたか。
わたしが最も重視しているのは、ひとつの表現の中に含まれている論理構造です。
そしてそれは、静止した一時的な、あれからこれへのべったりした論理としてではなく、全体としての運動を立体的に捉えて把握した弁証法的なものでなければならないのです。
どういう基準で評価しているか、なるほどとわかってもらえましたか。
修練をさぼっていたり、やりかたがまずいとなぜだかばれる理由も、わかってきましたか。
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