千尋の谷コメントですね。
◆文学作品◆
菊池寛 船医の立場
◆ノブくんの評論◆
文学考察: 船医の立場(修正版)
日本がまだ鎖国政策をとっている時代、日本人である吉田寅次郎と金子重輔(じゅうすけ)は異国からきた黒船に乗り込む事を計画していました。彼らはそうして船に乗り込み、外国へ渡りその文化を知ることで異人を追い払おうと考えたのです。やがて、彼らは様々な苦難を乗り越えて、黒船に乗り込むことに成功します。
一方彼らが乗り込んだ黒船、ポウワタン船では、彼らを巡って会議が開かれることとなります。副艦長のゲビスは二人の日本人の熱意に動かされて、彼らを受け入れるべきだと主張します。ですが、提督であるペリーと艦長は、彼らを受け入れる事は日本政府を刺激する事になり、開国を求める自分たちの立場を危うくする危険性があると主張するのでした。しかし、それでもゲビスは二人に、この日本人たちは自分たちに追い返されてしまえば処刑される事を覚悟でこの場にいる事を告げます。この彼の主張に二人は何も言えなくなってしまい、提督は苦しまみれに他の者に意見を求めはじめます。すると、船医であったワトソンは、二人の日本人のうち一人が疥癬(しつ)という皮膚病にかかっている事を思い出します。そしてこれはアメリカでは珍しい病気であり、船内での感染は脅威にもなり得るというのです。結局一同は彼の言葉を信じ、二人の日本人を追い返す事にしました。
ところが、彼らは実際に罰せられている彼らの姿を目の当たりにした途端、その時の判断をもう一度検討しはじめます。そして、その決定的な言葉を述べたワトソンは、心の苦痛を抑えるために、文庫の方へ向かっていくのでした。
この作品では、〈感情に振り回される事なく、最後まで自分の立場に責任をもとうとした、ある船医〉が描かれています。
まず、物語の中で、会議に参加したアメリカ人達はある共通した心の悩みを持っていました。それは、自身の感情を優先させて二人の日本人を受け入れるべきか、或いは立場を優先させて彼らを拒絶すべきかということです。この問題に際して、副艦長のゲビスはしきりに己の感情に従い、彼らを受け入れるべきだと考えています。それに対して、提督や船長の意見は、確かに自分たちも日本人達の気持ちは痛いほど感じてはいるが、まずは現実的に自分の立場を考えて行動すべきであると述べています。やがて議論の末、ワトソンの「船医として」の一言が決め手となり、彼らは全員が一応はそれぞれの立場を優先させることとなります。
しかし、その日本人二人が実際に罰せられる一端を見て、彼らは再び上記の問題を考えはじめます。それでは、この時の彼らのそれぞれの反省に注目してみましょう。まず、提督のペリーはこうした現実を知り、「君の(副艦長ゲビスの)感情がいちばん正しかったのだ。君はこれからすぐ上陸してくれたまえ。そして、この不幸な青年たちの生命を救うために、私が持っているすべての権力を用うることを、君にお委せする」と述べています。つまり彼はそれまでの自分の考えを否定し、副艦長の考えを全て採用しようとしています。ここから、彼は感情か立場かと問題に対してどちらか一方を採用し、どちらか一方を切り捨てるべきであるという考え方をしていた事が理解できます。それでは、この問題に対して決定的な言葉を放った人物、船医のワトソンはどうだったでしょうか。彼はこの事実を知ると、誰よりも自らの言葉に責任を感じ、果たしてその時の自分の判断は正しかったのか、もしかしたら日本人が持っていた病気は大した事はなかったのではないか、と自ら審査をはじめます。そうしてその揺れ動きを感情で解決しようとはせず、あくまで「医師として」自分の判断に責任を持つため一人書庫へと向かいます。つまり彼はこの問題に対して、立場は優先すべきものであるが、自身の感情はその立場に支障をきたさなければそれを遂行しても良いと考えています。ワトソンは提督のように、あれかこれかで考えていたのではなく、あくまで自分の立場にかえった上で自分の感情というものを考えており、そう考えているからこそ、他の人物たちよりも一層その問題に対して深く悩んでいるのです。
◆わたしのコメント◆
論者は前回の評論にたいするコメントを受けて、一般性と評論部を書き換えています。
論者によれば、この作品では、〈感情に振り回される事なく、最後まで自分の立場に責任をもとうとした、ある船医〉が描かれているというのですが、本当にそうでしょうか。
結論から言って、論者はこの物語のさいごに描かれている表現から、船医であるワトソンの感情のあり方を、まるで読み取ることができていないようです。タイトルにもなっているとおり、船医ワトソンの心情理解は、この作品を理解するにあたって欠かすことはできません。
物語のもっとも最後の箇所を、もういちど引用しておきましょう。
「ワトソンは、心の苦痛に堪えないで、自分の船室へ帰って来た。が、そこにもじっとしていることができなかった。彼は、自分の船医として主張した一言が、果して正当であったかどうかを考えずにはおられなかった。彼の心には Scabies が、この高貴にして可憐な青年の志望を犠牲にしなければならないほど恐ろしい伝染病であるかどうかが、疑われてきた。彼は、皮膚病学の泰斗がそれについてどういう言説をなしているかを知って、自分の激しく動揺する良心を落ち着けたいと思った。彼は悄然として、船の文庫(ライブラリー)の方へ歩いて行った。」これはアメリカ人たちが、二人の日本人青年が死を前にしてもなお保ち続けている矜持を見たあとの描写です。
ここでワトソンの振る舞い方だけを見れば、「じっとしていられずに船の文庫の方へ歩いて行った」ということなのですが、彼は、論者の言うような、「船医としての役割を全うする」ためだけに、日本人青年がかかっていた皮膚病についての知識を求めたのでしょうか。
◆◆◆
どうも論者の表現を見ていると、論者の脳裏には、「あれかこれか」、「形而上学的」などといったことばがよぎっており、あらかじめ設定したそれらのフレーズを作品に押し付けて解釈したくてたまらないのではないか、と思えてなりません。
わたしは常々、人間の複雑な感情をほんとうに理解するためにこそ、論理という原則の力を借りねばならないのだ(本質あっての現象理解(対立物の相互浸透))、と言ってきました。
ところが、現実に即して構造を理解するということと、あらかじめ用意したやり方で現実を解釈する、というのはまるで違うことなのであって、論者のやろうとしているのは、明らかに後者です。
実に皮肉なことなので、明言するのも憚られるところですが、「あれかこれか」と考えているのは、物語の登場人物ではなくて、それを解釈している者の方です。ワトソンの心情理解については、むしろ前回の評論のほうがずっと的を射ていたと言ってよいでしょう。
船医ワトソンは、「感情に振り回される事なく、最後まで自分の立場に責任をもとうとした」のでは決してなく、むしろ、「誰よりも動揺する気持ちが強かったからこそ、せめて立場上にでも確かな手がかりを得ることで少しでも気持ちを落ち着けようとした」のです。
(「感情に振り回される事のないように、(体面上は)最後まで自分の立場に責任をもとうとした」という表現ならまだしも、というところですが、論証部を見ると、やはり作品理解を大きく誤っていることがわかります。)
ここには、彼の責任感が、自分の自由意志だけでは抑えきれないほどに強かったために激しい動揺としてあらわれたものの、だからといって直接に日本人青年の皮膚病を脅威とみなしたのは他ならぬ自分であったために他の逃げ道も用意できずに、感情がどうにもならない、という感情面での行き詰まりが前提としてあります。
その上で、「せめて役割としては」正しいことをやったのだと納得しようとして、皮膚病学の泰斗を尋ねることにした、という経緯があるのです。
測らずといえども、自らの進言が理由で極刑に処されることになった日本人青年が、監獄の中から自分の姿を認めて嬉しそうに笑い、手紙をしたためてくれた、ということが、船医ワトソンにとってどれほどの心理的な重圧になっているかを、彼の心情を我が身に捉え返すようにして(=観念的に二重化するかたちで)読み取ってもらえているでしょうか。
率直に言って、いったいなぜそのような誤りになるのか、理解に苦しみます。
物語の登場人物であるからといって、その立場になって実際に物語を体験してみることをしないような姿勢では、現実世界の人間心理を満足に読み取ることなど到底不可能であり、ましてや創作活動などできるはずもない、と厳しく受け止めねばなりません。
◆◆◆
物語さいごのワトソンについての描写を、論者のように読んでしまっては、人間感情に溢れた物語も、砂を噛むような無味乾燥なものになってしまいますから、もういちど表現を少し変えて説明しておきます。
ワトソンが皮膚病について知識的に再検討を加えようとしたのは、つまり船医としての役割に忠実であろうとしたのは、なにも「感情に振り回される事(が)な」かったから、では絶対にありません!
感情に振り回されそうになったけれども、感情だけではどうにもならないほどの激しい動揺があったために、せめて役割としては誤りでなかったことを確認しておこう、とあくまでも消極的な理由で、文庫のほうに向かっていっただけなのです。
わたしたちは生身の人間としての経験のうえでも、優しさ故に叱らねばならなかったり、愛の深さゆえにそれを秘しておかねばならない、ということがあるでしょう。
いまの論者の考え方では、叱られたということは嫌われているのだな、何も言われないのなら気がないのだな、と、表面上をなぞったふうにしか理解出来ないのではないでしょうか。
これを学問では、本質論的に対して現象論的、弁証法的に対して形而上学的、というのです。
人間の感情をほんとうの意味で理解するには、その人の表現だけを見るのではなくて、その人の表現を通してその認識がどういうものなのであるか、ということを、我が身に捉え返すようにして読み取ろうとしなければならないのです。
◆◆◆
前回の評論へのコメント記事で見てきたように、この物語は、二人の日本人青年の扱いをめぐって、自らの感情と社会的な役割のあいだで板挟みになるアメリカ人たちの心情を描いています。
これを端的に要せば、「感情と役割との矛盾」ということになる、とも言っておきました。
もちろんこのままでは作品の一般性としてはあまりに範囲が広すぎますが、これを物語に照らして書き換えるだけで、しっかりした一般性になるのです。これも前回言っておいた通りのことを繰り返したにすぎませんが…。
論者とは直接面談をしたのちに、こちらでも一般性についての答えを述べることにします。
当人は一般性を絞り込むのが能力的に難しいのであれば、面談までに、船医ワトソンの心情を理解しようと努力してください。
【明らかな誤り(ほかにも誤字あり)】
・苦しまみれに→苦し紛れに
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