2010/10/20

おさん―太宰治


おさん―太宰治
http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26249951.html

◆ノブくんの評論
 「私」と夫は東京の空襲を免れる為、「私」の実家である青森に疎開していました。ですが、一家の家は空襲によって衣類や家を焼かれ、夫の仕事もなかなか上手くいかず、彼らは落ちぶれた生活をしていました。そんな中、「私」は夫に自分とは別の女の影を見ている様子。「私」と別の女との間に揺れ動く夫に対し、彼女は何を思うのでしょうか。
 この作品では、〈革命とはどうあるべきか〉について描かれています。
 結局のところ、この夫は自分の妻への思いをとうとう捨てきれず、別の女と心中を図ってしまいます。その時、「私」は自身の夫をこう非難しています。「気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました。」つまり彼女は、夫がどちらも選べなったことを非難しているのです。夫は全ての未練を断ち切り、どちらかを選ぶべきだったのです。


◆わたしのコメント
 題名になっている「おさん」は、近松門左衛門 作『心中天網島』に登場する妻の名前です。作中との共通点は、愛人への愛と、妻への義理との間で煩悶する夫の悲哀を描いたものだというところです。
 さて、この物語に登場するのは、夫との間に三人の子供のある「私」です。物語は、妻である「私」の独り言の形をとって展開されてゆきます。


 論者は、<革命とはどうあるべきか>を描いた作品だと述べていますが、そうでしょうか。作中の「夫」は、たしかに遺書の中で革命とはかくあるべき、と述べていますが、姿勢としてそうであっただけで、本心としては実はどちらでもよかったのではないでしょうか。「妻」にいたっては、「革命」の内実などというものは、結論からいえばどうでもよかったのです。そこには二重構造が隠れていますから、少し詳しく見てゆくことにしましょう。以下のコメントは、二重構造とは何と何なのか、と注意しながら読み進めてください。


 戦争で家を焼かれてのち落ちぶれ、適当な言い訳をみつくろって外へと出て行く「夫」の姿を見て、「妻」は、彼の影に女の姿を見て取ります。ここにこの物語の最大のポイントがあります。というのは、「妻」は、「夫」が言外に匂わせる煩悶と、そこに至る彼の弱さというものを知悉しているのです。しかし彼はといえば、「妻」のそんな気づきなど露も知りません。結局彼はそのことを、愛人と心中するそのときまで、知りもしなかったのです。


 そんな彼だからこそ、心中するそのときにまで、「妻」にこう手紙を書いているのです。
『自分がこの女の人と死ぬのは、恋のためではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、人に革命やら破壊やらをそそのかして置きながら、いつも自分はするりとそこから逃げて汗などを拭いている。実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。ジャーナリストの醜聞。それはかつて例の無かった事ではあるまいか。自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる事に役立ったら、うれしい。』


 いうなれば彼は、自分の死を、ジャーナリストへの革命を迫る、といった形で美化しているわけですが、「妻」は、そんなことは後付けの言い訳にすぎず、彼の本当の苦しさは、妻と子がありながら、愛人のことを愛してしまったというところからこそ来ていることを知り抜いています。
 「妻」にとっては「愛人」だの「外泊」だの「妊娠」ということなどは、「たったそれくらいの事」でしかないのだから、それをあっさり自分で認めて、「妻」である私にも公言してくれさえすれば、私も明るい顔でそれを応援できるのに、そしてまた、彼にとっても「革命」だのなんだのと言い訳を無理に思いつく必要もなかったし、ましてや自殺する必要などまったくなかったのだと言いたいのです。


 そのように、この物語は、「革命」ということばを、まったく違った<意味>と<用法>で把握していた二人の夫婦を描いています。「夫」は、社会を糾弾するかの体をなして、実は自分の弱さを美化するための道具としてそれを使いましたが、「妻」は、「気の持ち方を、軽くくるりと変える」ことだと言うのです。これが、<意味>の違いです。
 「夫」は、言い訳をするために「革命」ということばを思いつき、それにとらわれるあまりに死を選ばざるを得ませんでした。いうなれば、彼は「革命」ということばを使うつもりが、最終的には使われてしまったわけです。こちらは、<用法>の違いということになります。


 この作品は、本心の外に目的らしきものをでっち上げたとしても、結局はそれに向かう手段さえもが歪んでしまうことから、手段が目的へと転化せざるを得ないということを表現していると言えます。そんな「夫」に対して「妻」は、あくまでも「気の持ち方」のほうが、「意義だの何だの」や「見栄」よりも大切だという価値観を強く持っているがゆえに、「革命」などということばは単なる手段であることを自覚し、そんなものには振り回されずに強く生きていることができるのです。彼女はこう言っています。「革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。」と。


 さて、ここまで読み進めて、この物語の<一般性>というものを、どういった形で表現すればよかわかったでしょうか。それがしっかりと表現できるならば、あなたの論理性も、ある一定の段階まで上がってきたということができます。

3 件のコメント:

  1. 妻の考える、「夫と妻の革命の使い方の違い」。
    もう死んでしまったけれど、
    夫のつぶやきとして書かれたら、また違う「革命」の用法が見えてくるのかな。

    美化した自分のためでなく、信念のために「命」を張っている人もいるので
    少し、男の人の肩を持ってみました。

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  2. 最近、友達から
    「25歳までの生き方で人生観の大半が確立される。」
    と聞かされました。
    来年、25歳になるので私にとっての革命の年なのかも。

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  3. >あくまでも「気の持ち方」のほうが、「意義だの何だの」や「見栄」よりも大切

    「意義」や「見栄」を背負い込んだ上での「気の持ち方」なのかな…!?

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