◆ノブくんの評論
この作品では〈日本がいかに文化的な国か〉ということが描かれています
著者はヨーロッパ人が書いた「キリスト伝」を読んだのですが、あまり感服できなかった様子。何故ならそこに書かれていたのは「聖書を一度、情熱を以て 精読した人なら、誰でも知っている筈のものを、ことごとしく取扱っているだけ」に過ぎないものだったのです。それよりもむしろ著者は、それを素早く理解している日本人に感心しています。日本人は自分たちがキリスト教をある程度理解していることにより、それを著者と同じく大したことがないと判断を下しています。これはキリスト教の問題だけではなく、外国の思想そのものに対してもそう考えています。この人々の様子を見て著者は「日本は、いまに世界文化の中心になるかも知れぬ」と、予言しているのです
◆わたしのコメント
この作品は、作者である太宰が、身近な体験談を記したものです。内容はといえば、ヨーロッパ人が書いたキリスト教についての本を読んだが、聖書を深く読んだとはとても思えないものだった、というものです。ここだけを読めば、論者の言うとおり、〈日本がいかに文化的な国か〉を一般性として認めてもおかしくはありません。
しかし彼は続けて、こう言ってもいます。しかし翻ってみれば、私たちも馴染みのあるはずの仏教についてはうまく説明できないのだ、と。だからこそ結論に、「あまり身近かにいると、かえって真価がわからぬものである。気を附けなければならぬ。」と、わざわざ自ら一般性を付け加えているのです。最後の「日本有数という形容は、そのまま世界有数という実相なのだから、自重しなければならぬ。」という一文が、ある種の自戒と皮肉を込めていることすら読み取れないという体たらくでは、一体何を評論したのか、との批判を免れることはできません。重く受け止めてください。
付け加えておけば、「あまり身近かにいると、かえって真価がわからない」という逆説を、論理性として読み取ることが出来れば、世の中にある逆説は、一般的にそのほとんどが読み解けるものです。(これは弁証法の法則に照らしていえば、どの法則に当てはまりますか?以前に議論の中から導き出した、「あえて」の論理です。)
ヒントとして、次の現象を挙げておきます。
・アメリカ人は、なぜキリスト教が必要なのか。(日本人が国教を必要としない理由と対比させて考えてください)
・歩くという当たり前の運動を意識すればするほど歩きにくくなるのはなぜか。(武道の基本技が完璧にできていればいるほど、なぜ人には説明できないのか、と読み替えても結構です)
どちらも、論理性としては、この作品での結論と同等のものです。次に会ったときに答えてもらいますので、しっかりと考えておいてください。
自国と他国の文化から、相互に理解を深めるのであれば、
返信削除対立物の相互浸透のような気が。。。
真価に対する認識を、異国文化を引き合いに出し、
回り道をして再確認しているようにも感じます。
否定の否定も捨てられぬ。。。
どっち付かず
認識の範疇にあっても、説明や表現できない事実、矛盾。
返信削除ジレンマを乗り越え向き合ってみたいです。
>ヒントとして、次の現象を挙げておきます。
返信削除>・アメリカ人は、なぜキリスト教が必要なのか。
>(日本人が国教を必要としない理由と対比させて考えてください)
↑~
異民族の集合体で纏まりのない国・非一体的だから「国教」が必要。
日本は同一民族?の集合体で纏まりのある国だから「国教」が不要。
非一体的国家と一体的国教の統一。
>・歩くという当たり前の運動を意識すればするほど歩きにくくなるのはなぜか。
>(武道の基本技が完璧にできていればいるほど、
>なぜ人には説明できないのか、と読み替えても結構です)
↑~
無意識で出来ている歩きを意識するから歩きにくくなる。
無意識と意識の統一。
以上から、対立物の統一でしょうか…?!