2010/10/25

現代とは―坂口安吾

なんだか、Bloggerのシステムっていうのは変によく出来ていて、
.txtファイルをコピペすると独自の解釈をする(行の書き出しの一マスを削除したり、行間をやたらととったりする)が、
.rtf(リッチテキスト)ファイルからコピペすると、フォントの指定までそのままコピーしてくれる模様。

わたしはいつも、すっぴんの装飾なしテキストでばりばり文字を書くので不都合なわけだが、これも慣れか。
ちょくちょく表示が変わると思いますが、どうぞご容赦を。


◆ノブくんの評論

http://blogs.yahoo.co.jp/earthsea_quartet/26308463.html


 この作品では、〈世代間における芸術の価値基準の違い〉が描かれています。
 まず、著者は「昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られない」と過去に捕らわれ、現在の変化を認めようとしない人々を批判しています。そう、彼らの価値基準はその当時、「流行した」、つまり「生活に根付いていた」ものにあるのです。
 ですが、時代というものは変化しています。その変化はかつての流行を伝統という言葉に変え、過去にしていくのです。しかし、この変化を認めず、自分たちのかつての流行に全ての価値基準を置き、現在のものを批評している姿勢を著者は非難しているのです。


◆わたしのコメント
 論者は、この作品についてこう理解しています。

 「伝統」という過ぎ去ったものに捕われて現在の「流行」を認めない人たちがいる。しかし、時代というものは変化するものなのだ。そう考えると、「伝統」というものもかつては「流行」であったものなのだから、現在の流行を批判している人物も、結局は自分たちがなじんできた過去を、「伝統」の美名のもと信奉するという単なる懐古主義でしかないのである。この作品の中で、人々のそういった姿勢を批判しているのだ。

 論者の作品理解の構造をみると、以下のようになります。
(あくまでも、論者の理解の論理性であって作品の論理性ではありません)

 「伝統」というものは、その時間軸が異なるだけで、「流行」とさほど変わりがないものであって、「伝統」は言い換えれば「過去の流行」なのである。そういう観点から見れば、「伝統」も実のところ「流行」という一語に解消されるのだから、「伝統」に重きを置く人間というものはすなわち、自分の批判している「流行」の立場に立っているに過ぎず、流行への批判は的を射たものとはいえないのである。

 筆者は「伝統」を「流行」に解消している、ほんとうにそうでしょうか。それほど平面的に理解してよいものでしょうか。


 結論からいえば、否、です。それを見てゆきましょう。
 筆者は冒頭に、「伝統は全て否定しなければならぬというものではない」としています。では、彼は肯定されるべきものと、否定されるべきものはどこに線引きがなされていると考えているのでしょうか。それは、「実質あるものは否定の要なく」というように、伝統であろうが流行であろうが、「実質的であるかどうか」で判断されるべきだ、と言っているのです。

 そうすると「実質的である」とはどういうことなのかというと、「現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところ」なのだと彼は言うのです。そういった、過去においては日常生活に密着した文化であったものが、現代においては時代の変化に取り残されたがために、現代人にとっては典雅なものに映るにすぎない、というのです。

 彼の主張によれば、このようです。こと芸術というものが過度に持ち上げられがちだが、伝統というものは、歴史的な観点によって評価されるのだ。それに対して、永遠に在る人間一般とは違い、今しかいない個人が生きるだけの現代においては、「生活というものが現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性」によって、文化は評価されるのだ、と言っているわけです。

 ここまで整理してみると明らかなように、筆者は「伝統」も「流行」も結局は同じなのだ、と言っているわけではありません。歴史的な「伝統」も、現代的な「流行」も、それが評価される尺度が違うのだ、と言っているのです。それは、「伝統」は「歴史的な観点」によって、「流行」は「生活」やそれが寄って立つ「現実だけのイノチ」に照らして評価されている、とするのです。そうであるならば、「流行」を、「歴史的な観点」から判断して、「現代の貧困」などと言う論法は間違っているし、逆に「伝統」を、「生活」から判断して、「伝統の否定」と一口に済ましてしまうのも誤りである、と考えているのです。

 これらを一言で要すると、筆者は、「伝統」も「流行」も、それぞれ別の基準によって評価されているのだから、それぞれはお互いの分別を守らねばならない、と主張していることになりますね。ですから何度も言うように、筆者はある対立軸の区別を曖昧にしただけの相対主義的な主張を繰り広げているわけではなく、むしろその対立軸を明確にし、それぞれに別の原理が働いているのだ、と線引きをしたのです。論者が筆者の主張を取り違えた原因としては、評論における表現の拙さ、必要十分な説明の不足に加えて、もっとも大きな原因はといえば、認識の問題、それも論理力の不足にあると言えるでしょう。


 論理力と言っても、いわゆる形式論理学や、ましてやロジカルシンキングなるものをいくら熱心に勉強しても、身につくものではありません。あの論理性といえば、ソクラテスが使っていた「善とは何かといえば、悪ではないものである。では悪とは何かと問わるるに、善ではないものである」というレベルでしかないからであり、どれだけよくてもアリストテレスの三段論法の、誤解されて矮小化された形でしかないものだからです。そんな脇道に逸れて人類2000年の蓄積を無駄にしないためにも、指定した教科書の論理性を、日常生活と自らの専門分野に当てはめて、実感として理解する形で探求するように願っておきます。その形態は、「勉強」というよりも「実践」というものになってしかるべきです。さらに念を押して言うなら、「知識」ではなく「論理」的習得であるという基本線を、常々心がけておかねばなりません。


・この作品の論理性とは
 余談になりますが、この作品そのものの論理性に批判を加えるとすると、生活に接した「流行」が、いかに「伝統」になってゆくのか、という過程の理解がまったく欠けているということです。「まったく」と言ったのは、そこに陥穽があることに気づいてすらいない、という意味です。筆者は歴史的な観察法が現代には通用しない理由を、現代というものは生活という視点に照らして評価されているからなのだとしていますが、そうやって価値基準が永遠に分断されたままでは、「流行」が「伝統」になってゆくということ自体がありえなくなります。

 歴史上に数多ある人間の創造物をみると、ある一定の数があったものがふるいにかけられ、残ったものが名作や古典と呼ばれる扱いを受けるようになってゆきます。それは必ずしも、当時的に評価されていたものの中から選ばれるだけではなく、その当時にはまったく認められないながらも、現代において再評価されるものもありますね。そういったことを指して、「歴史というふるいにかける」と表現することもありますが、歴史そのものが意識を持って選別に当たっているわけではありませんから、そのものを評価しているのは、やはりその時代時代の人間なわけです。
 そうすると、当時としては評価されたが後の世では忘れ去られたことや、その逆のことが起こりうるのはなぜかという疑問が自然に起こってくるはずです。答えから言えば、私たち人間というものが自覚しようとしまいと、私たちは「歴史性」という判断をによって、物事が正しいか、美しいか、美味しいかなどということを見ているのです。一言でいえば、広義での「論理性」です。
 たとえば画家であるゴッホは、当時的には食うに困るほど生活は困窮していたのですが、今や個展となると、たいへんな賑わいとなることを思い出してください。彼のような人物のことを評して、「時代が追いついた」などと言いますが、それは私たちの認識の力や幅というものが、彼の作品を理解できるところにまで到達した、ということなのです。

 大きな論理性として芸術の世界でゴッホの絵が理解されるようになった理由に触れましたが、小さな論理性としては、あなたにも、衝動買いした音楽CDを、初回はなんだかよくわからないと思いながらも、わからないながらに捨てるのも惜しいと何回も繰り返し聴いてみると、あるときふと、「おや、これは良い音楽だ、買ってよかった。しかしあのときはなぜこの良さをわからなかったのだろう…?」と思った経験があるのではないでしょうか。
 そうして、人間の認識は、彼や彼女が触れた対象との相互浸透が量質転化してゆく中で育まれてゆくものです。その発展の過程は、大きな歴史としても個人の認識のそれにも含まれていますから、それを一語に要して「歴史性」と言うのです。

 私たちが大きな意味で、「論理性の正しさ」というものは、その「歴史性」の階段の上り方が、一歩ずつ着実なものであるかどうか、ということを言っているわけです。もしいくら歴史的にみて真っ当なことをしていたとしても、階段を数段飛ばしで登ってしまえば、その表現は周囲からは正しいものとして認識されにくいですから、それなりの年月を経たあとに評価される、ということになるでしょう。
 ここまで理解できれば、歴史という風雪に耐えるだけの作品をものしている人物が、必ず実践してきたことがなにか、という問いもしっかりとした答えが出せるようになっているはずです。ここでは「歴史から学ぶ」、「巨人の肩に立つ」、としておくといいでしょうか。


 さて、ここまでお話すると、ようやくこの作品の筆者の論理性の欠如が、どのような箇所に顕れているか、ということに触れられる段になりました。それは、次の箇所が決定的です。「人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。」

 というのは、「人間が永遠に在る」という考え方をしていては、「歴史性」というものは、決して実感としてわかってゆかないからです。「人間」というものは、当然ながら地球創世の過去から存在していたものではなく、生物が魚類らしきものとして形を整え、両生類、哺乳類として進化し、猿、ヒトとして発展しながらもなお淘汰され、生き残った種族が文化を築けるまでに精神性を磨いてきたものです。そこまで言えば、ヒトが人間にまで辿り着くまでにも相当な変遷があったのであり、ましてや精神性を持たない猿から人間への進化といえば、物質から精神がどのようにして生まれるか、という大問題を解かねばならないことになります。そうすると、現在の精神性を持つ人間が、ある瞬間にポンと生まれてきたわけではないことくらいわかりそうなものです。結論からいえば、人間は永遠の昔から在るわけではない、ということです。
 もし人間が永遠の過去から同じく存在し、その精神性も変わりがないとするなら、いったいそのどこに歴史というものがありえたか、と問うてみればよかったのです。

 もし彼にしっかりした論理性があれば、まずは「伝統」と「流行」とを区別したあとで、それらの現象形態が移行しあう過程に目がいかざるをえなかったはずであり、その構造の解明にまで至らずにしても、それらの概念を区別と連関として統一して考えられたはずなのです。彼・坂口安吾は、自ら「常識の人」(小林秀雄との対談などで)というように、天皇制批判の『堕落論』など、世情にとらわれない冷静な観察眼と、その鋭利な論じ方に定評があった作家ですが、その論じ方が鋭利に見えるということが、どのような別の側面を持ったものなのだろうか、と理解しようとする姿勢を身につけてください。それをどのように乗り越えようとするかは各人の自由ですが、そこにこそ、後進の成すべき仕事があるのです。


 以上、論者が評論をまとめそこねた原因としての違和感は、この論理性の欠如にあったのでは、という思いがわずかながらあったため、追記しておきました。もし明らかな理性による認識ではないとしても、これらのことを違和感として持てたのなら、その感性的認識には相応の評価をしてしかるべきです。


3 件のコメント:

  1. 知らない拡張子に困惑w

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  2. 批判、批評を他人にまかせ追随する現代は楽なのかな?
    善し悪しを判断する目よりも、本質をあばきだす嗅覚を
    身につけたいです。

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  3. > 論者の作品理解の構造をみると、以下のようになります。
    >(あくまでも、論者の理解の論理性であって作品の論理性ではありません)

    ↑~
    自分の理解の論理性と作者の表現の論理性…
    主体の論理性と客体の論理性…
    主観的論理性と客観的論理性…



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