◆ノブくんの評論◆
「あなた」のところに嫁いで5年目、「私」はあるすれ違いから彼のもとを離れる決心をします。
元々「私」の愛した「あなた」というのは、「貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せ られて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過して行く」正直で清潔感のある人物でした。ですが、「あなた」は自身の画家としての出世を機に大きく変わってしまいました。果たしてどう変わってしまったのでしょうか。その変化を「私」はどう感じていたのでしょうか。
この作品では、〈ある社会的な成功と正しさとの違和感〉について描かれています。
画家と社会的な成功をおさめた「あなた」は一言で言えば、俗物という言葉がその儘当てはまる人物になってしまいました。あれ程展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていた彼が、自身のアパートの狭さを恥じ、他人の体裁を気にするようになっていったのです。そして表では他人に媚びているにも拘わらず、裏ではその人に対して愚痴を言うようになっていきました。「私」は「あなた」のそこに嫌悪を感じているのです。
ですが、彼が俗っぽくなっていくにつれて、社会的な成功も築いていきます。「私」はそこに、自身の人生観に疑問を感じられない様子。私達は生まれてから今日まで、多くの経験、体験を積んで自分の人生観、倫理観、道徳観を築いていきました。私達はこの体験や経験に基づいて行動しているのです。「私」はそういった生き方にこそ、人としての正しさがあるのではないかと考えています。それに対して「あなた」は今まで自分の築いた人生観を全て投げ捨て、俗物となり成功しているのです。しかし、彼のそんな生き方に不潔さを感じている彼女にとって、それを受け入れられるはずもなく、「この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」とむしろ自分だけは正しく生きようと決心を強く固めるのでした。
◆わたしのコメント◆
論者は、「私」が人としての正しい生き方の基準としているものを、それまでの経験で育まれた価値観、だとしています。ところがこの考え方でいくと、俗世間にまみれて生きている人間もが、当初からぶれない生き方をしているという意味で、正しい生き方をしていることになってしまいます。これは、「私」が最も嫌っていたことではなかったでしょうか。
そうすると、「私」が「あなた」と別れることを決心した理由、また同時に、「私」の考える、人間としての正しさとは、いったいどこにあるのでしょうか。それを考えていきましょう。
まずはじめにことわっておかねばならないことがあります。論者の論じ方では、あたかも「社会的な成功」と、「正しい価値観」が、二者択一の、相反するものとして扱われています。この対立図式に則ってこの作品を理解しようとすると、どうしても、「社会的な成功」の側にいる「あなた」に対して、「正しい価値観」を持った「私」が批判をする、という形式になってしまいます。さてほんとうに、「社会的な成功」と、「正しい価値観」は、あれかこれかという、相容れることのないものなのでしょうか。
「私」はどう考えているのでしょう。彼女が、「あなた」の社会的な成功について言っていることに耳を傾けてみましょう。
「あなた」の絵がようやく売れるようになってきた頃を述懐して、「私」はこう述べています。「あなたの、不思議なほどに哀しい画が、日一日と多くの人に愛されているのを知って、私は神様に毎夜お礼を言いました。泣くほど嬉しく思いました」。彼女は、社会的な成功そのものはけっこうなことだ、と考えていることがわかりますね。
このことと、彼女の全体を通して変わることのない主張、「正しい価値観」を保持することへのこだわり、ということをあわせて考えると、彼女は、それらは決して矛盾するものではなく、双方を併せ持つことも十分にできるものだという扱い方をしていることが分かります。
そして、両者の関係、「正しい価値観」をもって行動することが、「社会的な成功」にどうつながるのかについては、こうも言っています。
「いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います。」
彼女がどういうことを言っているか、その論理を取り出して理解できるでしょうか。彼女はここで、正しい価値観を持って考えたり行動したりできさえすれば、社会的な成功などというものは、なくてもよい、とさえ言っています。その理由はと言えば、世の中の人間が、俗世間にまみれて正しい価値観を失っていることが多いのなら、正しいことをすればするほど評価が付いてこないだろうから、結果が伴わない方が、かえって楽しいくらいだ、ということなのです。
これらを要すると、彼女は、「社会的な成功」も、「正しい価値観」も、両方があってもよい、と考えており、その上で、「正しい価値観」があれば、「社会的な成功」はなくともよい、と考えていることになります。ただこれには、ある条件がつきます。この条件こそが、この作品を理解するにあたって最も重要です。
それは、社会的な成功が導かれる場合には、それが「正しく考えて、正しく行動した」結果でなければならない、というものです。あくまでも、彼女は、自分の考え方や行動などの過程のほうが、それがもたらす結果などよりも、ずっと大事であって、結果ばかりを追い求めて、考え方や行動がないがしろになるのならば、結果などまるでないほうがよい、と言っているのです。ですから彼女にとっては、社会的な成功を目的にして、周囲に迎合するように自分の考え方や行動をねじ曲げてしまうことだけは、許せないことなのです。
そうだからこそ、「あなた」が、自分が所属していたときには馬鹿にしていた人間と新しい団体を立ち上げたり、友人とある人のことを馬鹿にしたと思えば、次にはその人と友人のことを馬鹿にする、といった彼の姿勢を、彼女はこう軽蔑します。「あなたには、まるで御定見が、ございません。」、と。それは、彼の姿勢が、社会的な成功を目的にするがあまりに、その方法がおざなりにされ、それと直接に、彼の価値を、彼自身が傷つけているように映るからです。
そんな価値観を持って生きている彼女にとっては、自分自身が正しいと感じるものを持っていることを自覚しながらも、それを周囲の人間の中に見つけることができません。今や、唯一の心の拠り所であった「あなた」でさえも、もはや彼女の正しさを証明するものではなくなってしまいました。それでも、どうしても、やはり自分の中の、消え入りそうなほど小さくて幽かな、正しさに対する矜持というものを、彼女は「きりぎりす」の声になぞらえて、これからも忘れずに生きていこう、と心に誓っているわけです。
ここまで整理すると、彼女は、なにもそれまで育んできた価値観を大事にしろだとか、後生大事に抱えて生きるべきだ、などと言っているのではないことがわかるでしょう。論者が、自身が評論した最後の段落に、なにか納得できないものを感じているとすれば、作品にあらわれる概念を整理することを通して、登場人物の考えていることを正確に読み取りそこなっていることに原因があります。
この作品で描かれていることは、観念的な表現になりますが、「正しさ」を自分ひとりでもそれそのもので持っておくことのできた「私」に対して、「正しさ」を何かとの比較でしか持つことのできなかった「あなた」の関係である、ということもできます。
評論について全体的に言えば、論じ方の流れそのものは、とても読みやすく、理解しやすいものに仕上がっていると思います。こういったやや複雑な表現が用いられている作品については、概念を整理し理解することの方法論を、自分で積み上げていってもらえれば、内容も自然とレベルが上がってゆくはずです。弛まぬ修練をお願いしておきます。
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余談ではありますが、彼女の悩みというものは、文中の表現を見る限り、作者である太宰の矜持の裏返しだ、と言ってしまってもあながち間違いではないようです。(太宰は1930年代に、日本浪曼派に加わっています)
内容に立ち入って言うなら、世間の評価に目を向けてしまいがちな自分の隠された心情を「あなた」に、それを諌めようとする自制心を「私」という立場で論じ、自分はどう生きるべきか、という決意表明をしているようにも見えます。
一般的に言って、これは俗世間にまみれながらも、純粋でまっとうに生きようとする人間の姿を、極めて的確に表現している作品だと言えるのではないでしょうか。
現在的な評価を得ようと奔走し、世間の注目を浴びることばかりに気をもんでいる他人のことを見ていると、自分もああなったほうが正しい生き方なのかもしれない、自分のような生き方をしている人間が自分の他にはいないのなら、もしかすると私は狂っているのかもしれない。そういった疑念が頭をよぎり、実際にもそう後ろ指をさされている中で、それでもどうしても、やはりこの生き方だけは譲れない、こうとしか生きられない、内から沸き起こるその声を誤魔化して生きてゆくのなら、死を選んだほうがどれほどましだろうか、と強く思い直す。
自らの正しさを、他人との照合によってではなく、自らだけによって問い直す、そういう過程を日々の中に持ちながら、自分だけは結果ではなく、しっかりとした過程性をもって、より本質的に生きていこう。そういった姿勢を貫こうとする、不器用ながら清潔な人間のあり方がここに現れています。
正しい価値観を持ち続けること、普通のことなのに
返信削除苦労するのはどうしてなのでしょうかね。
あながちみんな考えてて、口に出さないだけなのかな?
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