2010/11/10

メモ:青空文庫落丁

私事ながら、大学を出てからずっと、教育に携わることをやっている。
もともとの専門は教育学ではないのだけれど、
助手としてや個人的な関係の学生とのやりとりがそれである。


そもそも、「学者」として学問に携わることを自認するからには、
単にイモリのシッポの再生具合を調べたり、
消費者の行動を統計データにしたりといった、
個別研究をするだけの「研究者」に留まっていることはできない。

学者としての営みには、当然ながら後進を育てる、
という教育の側面も含まれてくるからだ。

とくに、仮にも「学問」をする、という不退転の決意があれば、
どんな複雑に見える現象をも、もっとも下のレベルである原則におりたうえで、
そこから一歩ずつ階段を積み上げて理論を構築してゆかねばならない。
そこに結果としてそびえるのが、理論の体系、つまり学問である。

そうすると、それは初学からの発展段階を追うことになる。

その土台としては、人類の発展段階、個人の認識の発展段階の二層の構造の上に、
自分の専門分野での歴史性を踏まえた発展段階を、学生の認識の上に、
あたかも「歴史をその一身の上にくりかえす」よう指導できる能力が必要だ。


しかし、これらの教育は、現在望むべくもないようだ。
とくに感性的な認識で本質を把握できているという自惚れが強い人間は、
鈍才肌の人間を毛嫌いしがちだし、教育と銘打ちながらも結局、
自分好みの早熟的天才を選り好みすることで満足してしまいがちなのである。

頭の硬くなった大人が相手ならまだしも、20歳にも満たぬ若者の資質など、それもふくめて一から教育できてこその学者ではないか。
そうでなくともそれができぬ自分の実力の無さを心底恥じてこそ、人間として真っ当ではないか。
これは、学者だけではなく、一介の指導者なら、当然過ぎるほどの一事である。

ところが、そういった資質特性論は、学生にとってはもちろん教育ではないし、
教授ご当人にとっても、その土台を危ぶむ事態となる。

というのは、右も左もわからない学生を指導することが直接に、
自分自身の研究を原則から一歩ずつ階段を登り直すように捉え直す、
という営みでもあるからだ。
そうなると、指導する学生が、いわゆる鈍才であるほど、自身の研究が原則から捉え直されて、より本質的で強固なものとなることは当然ではないか。


というわけで、一流の指導者を目指すなら、
天才はさておいて、鈍才を育てる方がいいですよ。
みんながそうしてくれれば、わたしもずいぶん楽ができます。


◆◆◆

余談はさておき、青空文庫を毎日読んでいると、結構落丁があることに気づく。
わかった範囲内でメモ書きをしておこう。

落丁をいちいち目の敵にする理由といえば、また余談になっちゃうけれど、
わたしは学生を指導するにあたって、どうすれば原則に立ち返って、
どんな人にでも広く理解できる書き方になるのかと、工夫を怠らぬつもりであることと関係がある。

そういう姿勢で物事に当たると、自分の書いた文章を読み返してみたとき、
内容は間違っていなくても文章の流れが分かりにくい場合や、
まして誤字脱字があったときなどには、非常な反省の念にかられるものだ。

まったく申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
わたしがこの心構えで、いったいなにを教えようというのか。

これは人間としての姿勢だ。

子供を見たときに親としてろくなことをしてやれない場合には、
「他の親のもとに生まれてくれば、もっと幸せだったろうに」
との思いがあるのは、親としてもこれ以上ない不幸である。

現代における学生も、教師がまるで選べないという意味で、
事情はこれとほぼ変わりないのだが、
わたしの場合には個人的なつながりであることが多いために、
なおのこといい加減なことはできないという思いが強い。

俗世間にまみれた生き方をする大人に嫌気がさした若者にとって、
心の拠り所があるとすれば、それは流れに逆らうたったひとりの大人である。

自分が最後の砦だ、そう思えなければ、とても指導などできたものではない。



◆青空文庫落丁◆

ドーヴィル物語
・女はしかし、何か非常にこだわっで→こだわって

愚かな一日
・行わるれば行われるほど→行わられれば

八人みさきの話
・世嗣ぎは当然三男津野忠親に来るペきものであった→来るべき
・豪胆な薪三郎は腰の刀を抜いて→新三郎

モルグ街の殺人事件
・この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、
→しばしば

狂女
・ひとりで着物も著られない
→着られない

頸飾り
・如何の位辛うどざいましたか
→ございましたか

賢者の贈り物
・小銭は一回の買い物につき一枚か二枚づつ浮かせたものです。
 →ずつ

2 件のコメント:

  1. 真っ当であることは、くろうしますね

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  2. 学者としての後継者の育成、
    研究者との違いを意識することがありませんでした。
    失礼いたしました。

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