2012/11/26

本日の革細工:眼鏡ケース

革いじりしてるのに研究もちゃんと進めているのを見ると、


どうやって時間を作ってるんですか?と言われることがあります。

一日はみんな同じ時間ですし睡眠時間もちゃんと取っているので、規則正しく生活をする、ということがいちばんの土台になっていますよ、というのが、実に当たり前に聞こえるとしても、やはり正しい答えです。

日本の会社で働いている人の行動パターンを見ると(こういうものの統計を採るのが好きな研究者もいるのです)、行っても行かなくてもいい付き合いや隙間時間にゲームやソーシャル・ネットワークで時間を潰してしまったりすることが積もり積もって、相当な時間となってしまっていることが多いようですが、自覚していないところで、実際にはもっと無駄になっているのではないでしょうか。

行動というものはいったん習慣付いてしまうと、そこを疑うということをしなくなってしまいがちなので(だからパターンと言う)、勤務時間は一般的な範囲で収まっているはずなのになぜか時間がない、ということにもなりかねません。

平日の一日15分と休日の2時間ずつでも取り組めば、3ヶ月であたらしい語学やあたらしい趣味の基礎は作ってゆけることを思えば、今の自分がどういった環境との浸透過程において創られてきており、そしてまた現在も創られつつあるのか?という、相互浸透という観点から生活を見なおすという姿勢は、常々忘れずに持っておきたいところです。

今年も終わりまであと1ヶ月ほどですが、みなさんは今年の初めに立てた(はずの)目標までたどり着けるだけのペースを維持できているでしょうか。
わたしはいつも最後までわからないので、いまはちょうどスリリングな時期です。わからないことは、やってみるしかありません。

◆◆◆

さて、今回は表題のとおりの眼鏡ケースです。

前から頼まれていたのですが、簡単なようでいて意外と難しく、数ヶ月型紙を作ってはつぶし、していました。

わたしがはじめ考えていた条件は、こんなところだったでしょうか。
・鞄の中で眼鏡が潰されないだけの強度があること

そりゃそうだ、と思われるかもしれませんが、世にある革製眼鏡ケースといえば、革をくるりと包んだだけのようなものあり、満員電車で押されるどころか、書類に押されただけでも眼鏡本体がダメージを受けそうなふうに見えます。ここを、どうにかせねばなりませんでした。

◆◆◆

そういうわけで、真上からの圧力を分散するためには直方体よりも三角錐のほうが、つまりマチは四角よりも三角のほうが良いだろうということになり、こんなスケッチをしたわけです。

図1

このスケッチどおりのものを作ろうとすると、こんな開閉になりそうです。

図2:パターンA

しかしこれを見て、あれっ?と思いました。
ボタンを手前に持ってくると、眼鏡を手探りで出し入れしなきゃいけなくなる…。

かといって眼鏡の出し入れを手前に持ってこようとすると、オーナーが正しく操作しなければいけないはずのボタン部が奥側に配置されてしまうのです。

ここどうすればいいのかな?

と思って、同じような仕組みの眼鏡ケースを調べてみると、
「フタの部分には眼鏡を置いておくこともできます。
眼鏡を机との干渉から防ぐデスクマットとして。」
みたいな文句が踊っています。

…どうやら、アテにしたのが間違いだったようです。

◆◆◆

いいでしょうか。そもそも、眼鏡ケースという道具とはどういうものか、といえば、眼鏡をバッグの中などで他の道具との干渉から防ぐために用いるものなのであって、その上に眼鏡を置いて適宜使うようなものではありません。

もしこの形を、文房具ケースに採用すれば、たしかに開いたフタの裏にいくつかの筆記用具を転がしておいてそれなりに便利に使えるのでしょうが、その発想を、身に付けるための道具である眼鏡にそのままの形で横滑りさせてよいはずがありません。

文房具は書くことの進行度合に応じて適宜使い分けるものですが、眼鏡というのは、つけているかつけていないかのどちらかで使えればよい、ということが、道具の使い方としての決定的な違いです。

ほかが参考にできそうにないときは、自分で考えるしかありません。

そういうわけで、
手前に開閉するための操作部(たとえばボタンやホック)があり、しかも開いた時には眼鏡本体がオーナーにしっかりと見えるところに出てくるためにはどうすればよいか?

それが、今回のはじめの問題となったのです。

◆◆◆

結果からいえば、これは否定の否定、ということになりました。

閉じた時に三角柱で強度を確保しなければならないからといって、何もマチまで馬鹿正直に三角形にする必要はなかったのです。

マチは折りたたんでしまえばよい、ということに気づくまで、1ヶ月ほどを使いました。
そうしてできたのがこれです。

図3:パターンB

組み上がれば図1と同じようになるはずですが、それを実現するための構造が図2:パターンAとは違っている、ということです。

マチが台形になっていますが、これなら、ボタンも開口部もオーナー側に持ってくることができ、その開口部もかなり大きく取ることができます。

ここまでが、「認識」における問題、です。

◆◆◆

認識の問題が解けると、次はどんな問題が待っていましたか?

そうです、「技術」、の問題です。

この時点でアタマに描かれている理想像を、いかに現実化するのか、といえば、これは実践との格闘以外にはありえません。

以下は、これまでに作ってきた型紙の一部です。


死屍累々でした。
これはいちばんさいごの段階で検討していたものなので、実際には3桁近いマチの型紙がおじゃんになってゆきました。

こうして、思い描いたものが現実に移し替えられてゆく過程になると、それに付随するものが浮かび上がってきます。

それは、認識の段階では思いもしなかったような、たとえば「革が意外と曲がらない」だとか、「なぜかうまく染め付けられない」などといった細かな問題ですが、その他にも、その裏返しとしての、意外な収穫、というものもあるのです。

今回でも、それがありました。
実際に出来たものを見ながら確認してゆきましょうか。

◆◆◆

今回出来たものがこれです。


家の中を探して、家族の眼鏡を探してきました。


では実際に眼鏡を入れてみましょう。


開口部が大きめに開きますね。ベタ貼りなので、裏地がありません。


眼鏡のようなデリケートな道具を包むケースを考える時にはいつも難しい問題として、閉じる時にボタンをぐっと押し込むと本体に圧力がかかってしまう、ということが挙げられます。


今回は、マチが折り曲がるかたちになっているので、そこに人差し指を入れられるために、ボタンを裏側から支えることができ、本体に直接干渉せず蓋を閉じられるようになりました。


またフタを閉じた時には、マチが折りたたまれた状態になるとともに眼鏡の両サイドを軽く押さえ、本体を内部で揺さぶられないようにしてくれます。

この2つが、マチを台形にしたことによる意外な副産物、でした。

意外とは言っても、それはあくまでも初期の段階であって、そこに現れている法則性が明確に自覚されるようになると、次にはそれを目的意識として念頭に置き、それを意識的に適用できるようになってゆきます。

大きく見た時にも人類の認識は、このように外界との関わりあいによって発展させられてきたものなのですから、座学だけでアタマが良くなる、という発想は、実は初歩で大きく踏み外しているのです。

◆◆◆

さいごです。

今回の眼鏡ケースのオーナーには、以前にペンケースを作ったことがありますから、それと横幅を揃えました。

写真はわたしの手持ちのペンケースですが、大きさは同じなので、オーナーのものと置き換えても同じようになるはずです。


ただ先ほども述べた通り、中身の道具がどういうものなのかを考えてみれば、表面上は同じようなかたちであっても、用途にふさわしい構造を持っているべきなのです。


その構造の違い、という認識における把握がどのような表現となって表れたかといえば、それはマチの違いとなって顕れることになっています。


眼鏡ケースのマチは折りたたみ式の台形であることに対して、ペンケースのマチは少したわみはするものの素直な四角形です。
見た目は似ていても、中身に容れるものを入れ替えれば、同じような機能を発揮することはできなくなりますし、道具の使い方の違いに規定されるためそれが当然です。

あるひとつの道具に関わるものを本質的に考えてゆく場合には、「その道具はどういうものなのか?」とじっくりと、しっかりと問いかけて、その道具との浸透をより深く突き詰めてゆかなければなりません。

ケースの場合に話を限っても、道具の見た目が同じだからとか、ケースの見た目が同じだからとかいう理由で、他の用途として使われている道具のあり方を単純に横滑りさせてしまうと、場合によっては道具のあり方を損ねるような、実に使いにくいケースができてしまいます。

ものづくりにおいても、論理の力が必要だと繰り返し述べるゆえんが、ここもありますね。

2012/11/24

本日の革細工:アイデアノートカバー

世の中は連休中のようですが、


文芸や認識論に関わっている人間にとって、外は外で研究対象がゴロゴロしていますから、街に出ると、おや、あの人は何か心得があるのでは?とか、この人はこんな注意力で事故に遭わないんだろうか…とか、あんな歩き方をしていたらさぞかし靴が痛むだろうな、とか、あらゆることが気になってしまいます。

こうやって身についてしまった問題意識は職業病のようなもので、なかなか見なかったとこにはできないもので、特に人混みなんかは、一度入ると翌日まで引っ張ってしまうような疲れ方をしてしまうため自然と足が遠のきます。

結局、世の休日は屋内でやれること、世の平日は外へと、基本的には逆張りが合っているのです。
休日が不定期な人は、たしかに友人と予定を合わせるのは難しくなりますが、一人でなにかを探求したりするときには、むしろ楽にのびのびと好きなことができる場合は多いのではないでしょうか。

というわけでわたしは今日は、貯まっているお仕事の合間に息抜きとして革細工です。
さっさと紹介しないと次が控えているので、革記事が続くかもしれませんが、書きかけの記事を忘れたわけではないのでどうぞ悪しからず。

◆◆◆

この前の記事で作ったG3 iPadケースで柿渋染めの道具を仕舞いこんでしまったのですが、また出してきてしまいました。

というのも、今回のお題がアイデアノート、いわゆるネタ帳のカバー、だったからです。
紙みたいに薄い0.8mmの革を買ってあるので、こりゃぴったりだと思って、さっそく取り掛かります。

この写真で上に万年筆を載っけてあるのは…
…作りたてなので、革のテンションで開いてしまうからです。
使っているうちに馴染んできます。

今回のお題をいただいたときに真っ先に考えたのは、形としてはこれ以上ないくらいシンプルなものにしたい、ということでした。

世の中にはノートの分厚さを2倍にも3倍にもしてしまうようなゴツイ手帳や、閉じるのにボタンやらベルトやらがついているレザーカバーがありますが、いざノートをとりたいとなったときに、ベルトやボタンが下敷きになったり厚みのせいで手のひらを置くところに困ったりするのでは、「むしろ無いほうがマシ」ということにもなりかねません。

表の革を柿渋染めにしました。
横線にしたのは、背表紙の曲線がより綺麗に見えるからです。
道具としてのノートのカバーとはどういうものなのかを考えるときには、本体をよりよく守ってくれるという機能はたしかに必要ですが、中身を書き込むときにも、使い手の邪魔をしてよいわけがありません。

とくに今回の依頼者の方は創作活動に取り組まれている人ですから、なおさら、思い立った時には道具が妙な邪魔をせずに、直ちにアタマの中のものを書き留めておきたいはずです。

そういうことを考え合わせると、今回のものは、表現者にとって命とも言える自分のアイデアの宝庫であるノートを守りつつ、まるで空気のように当たり前のようにそこにあり、通常の用途を果たしたいときにはどんな意味でも決して邪魔をしない、というものでなければなりませんでした。


◆◆◆

わたしも、研究内容を書き留めておくメインのA4ノートのほかに、A5のサブノートを持っていて、それには南米で買ってきたカバーを被せてあります。

ここには旅行でもらったチケットや美術館のチラシを挟んだり、デッサンやメモ、旅先で出会った人たちの住所など、あらゆるものがごちゃごちゃとつめ込まれています。

旅先で雨に降られて滲んだ文字や傷ついて味の出てきた革の表情を見てると、なんだかほっとする味わいがあって、南米らしい大雑把なつくりも含めて、とても気に入って使い続けているものです。

ただひとつ、上で述べた「使い手を邪魔しない」という原則から見ると、ひとつ問題があります。というのは、筆記の邪魔をしてしまうからなのです。

一般的なブックカバーやノートカバーを開いてみると、だいたいがこんな形をしていますね。

一般的なブックカバー。
たしかに、一口に「文庫本サイズ」と言っても、厚みには色々なものがありますから、それだけ融通の利く仕組みをもっていなければなりません。

それが、上のブックカバーの右側にある工夫で、この折り返しによってカバー部を様々に折り曲げて、色々な厚みの本に対応できるようにしているわけです。

ノートカバーも、これと同じような仕組みのものが多いのですが、こういう仕組みは、筆記の時には実に不便です。

なぜかといえば、カバーに収納されている時には、通常下敷きの役割を果たす表紙部分がカバーに隠されているために、折り返し部が直接、紙の下に来てしまいます。
これはいわば、散らかった机の上に紙をおいて筆記しているようなものですから、筆記具のペン先がカバーに取られる形で字が歪んだりしてしまうわけです。

わたしは今回、ここを真っ先になんとかしよう、と思いました。
そうしてできたのがこれです。


折り返し部分が、紙のほぼ全体を覆うようになっています。
こうしておくと、筆記中に紙の段差でペン先を取られることがありません。

市販のカバーではなぜこういう仕組みにしないのか?と考えてみると、ノートを入れるのが面倒になるのでクレームが心配、単純に革がもったいない、あたりでしょうか。

今回の場合、指定されたアイデアノートが、無印良品の開きやすいノート A5・横罫・96枚でしたから、頻繁に出し入れするための利便性は重視する必要がなく、前者を考慮するよりも、筆記時の引っ掛かりをなくすほうがはるかに重要だと考えました。

ついでに、革もたっぷりありますからね。

◆◆◆

わたしの使っているノートと比べてみると、折り返しの幅が違うことがわかってもらえると思います。

左から、今回のノートカバー、閻魔帳。

めちゃくちゃどうでもいい余談ですが、わたしのサブノートは、南米製のカバーが雰囲気ありすぎるうえに中身がちらっと見えると文字や絵やらでぎっしり、さらにあらゆるものがごっちゃに挟まっているわで、学生からは、呪いのノートやら閻魔帳やらと恐れられています。

実際に中身を読まれると、別の意味で恐れられてしまうと思います。


◆◆◆

コバも削って磨いてありますので、触るとひんやりしています。

わたしは革細工の、このコバの質感が大好きですが、市販のものはここを磨く手間を省くために、革と同じ色の塗料を塗ってあるものが多くて残念です。


また今回は、様々な厚みに対応する工夫は必要なかったため、ノートにかっちりとぴったりなカバーを作ることができました。

横から眺めてみても、左右対称の綺麗なかたちになっています。
専用品の良さは、こういうところに出てきますね。


わたしは散々革細工しておきながら、自分で使うものについてはあまり自分で作ったりはしません。作るとしても、試作としてだけです。

というのも、認識としても技術としてもまだまだ先があるし事実そうなので、その時点で、いくらこれで完璧だ、と思っても、後から見るとやっぱりまだ考える余地があったことがわかってくるものだからです。
そうすると結局、その時点での完成形であるとみなす認識のあり方を、実際に物理的に固定化する=表現する、ということにはあまり興味がなくなってしまうからです。

それでも、依頼があればその人の用途と、その人の予算と、その人の使いたい期限という制約の中で最高のものを創り、作る、ということがはっきりするので、その意味でわたしとしても、目的がはっきりとして取り組みやすくなります。

自分の表現実践を手伝ってもらってしかも喜んでもらえる、というのは、ありがたいことです。

今回のものも、できうる範囲ではなかなか、と思っているのですが、どうでしょうか。
ひとりの表現者である依頼者さんに実際に使ってみてもらって、批判を仰ぎたいと思います。

2012/11/19

本日の革細工:G3 iPadケース

“おもちゃ箱ひっくり返したような”


人間ですね、と言われたことがあります。
なんのこっちゃ、と思っていましたが最近はなんとなく納得できるようになってきました。いまわたしの作業場は、実際にそんな感じになっていますから。

部屋を見渡すと、未整理の本や資料の山はいつものことですが、そこに色を作って置いたままのパレット、木くずだらけの彫刻刀、届きたての半裁革、テーピング、刃引きした刀、自転車の荷台(キャリア)あたりが加わっていて、ついでになにやら怪しげな臭いが部屋中を覆っています。

これは年末までにはひと通りの役目を終えてだいたい片付くはず…ぜひとも片付いてほしい…道具たちなのですが、今回どうにか片付けられそうなのはさいごの銀杏臭です。

柿渋染めですね。

◆◆◆

自転車用のフロントバッグ、G3を作ったのは去年の今頃だったはずですが、そのときにここでも書いた通り、今に至るも技術的にはともかく、世界観、デザインとしてあれを超えるものはできていません。

今年は革という素材は本筋の実践の対象ではないので、その事実が自分の気持を逸らせたりはしないのですが、写真を見返すたびに、「今考えてみてもどこも直すとこがないなあ…」というのが率直な感想です。

自転車用のバッグに話を限れば、実験台としてのG1からオーナーとの共同制作のG2〜G4まで作ってきて、図らずもありがたいことに、それぞれがオーナー以外の人たちからもずいぶんな支持をいただいてきました。

バッグの名前をGnにしてきたのは、単に、そのものの名前をつけるのは作り手の仕事ではないから、という理由を持っていたからですが、オーナーと二人三脚で取り組んできたこの名前は、わたしにとってはもはや、コードネームというよりもひとつの世界観、というような位置づけのほうが近いような思い入れがあるものになってきました。

G3にも"ZEN"というモチーフを表すことばをくっつけていましたが、今見返してみると、G3は禅というよりも、G3はG3としか言えないような気がしてきます。

今回は、ひと月前あたりにG3のオーナーからiPad用のケースを考えてほしい、というご用命を受けたのですが、iPad用のインナーケースといえばiPadトラベルケースを前に作ったときに、ふと思い立ってG3風のものも型紙を起こしていたので、待ってましたとばかりに取り掛かったものです。

◆◆◆

ところが実際の製作に入ろうとすると、ここで意外な盲点があることに気づいたのです。

オーナーは当然ながら、今回のiPadケースも、インナーケースとしてG3に入れることを想定しておられるはずなのですが、そこが問題でした。

ちなみに、今回のイメージはこんなふうなのでした。ノートの隅っこのとんでもなくいい加減な絵ですみませんけども。(左が完成予想図、右が展開図)


さてこのまま素直にケースを作ると、横幅が260mm前後のケースが出来上がります。

ところが、その受け皿になるG3といえば、外寸がすでに260mmなのでした。


そこからさらに、縫い代のためにとった5mmずつと、用いた革の素材としての厚み3mmずつが左右から引かれるために、革の柔軟性を考えても、中に入れられるのはせいぜい244〜246mm前後です。

この時点で、作った型紙はあえなくボツ、ということになりました。

◆◆◆

ここで気づいた問題を整理してみると、

・G3の内寸が244mm。
・iPad本体が241mm。

ということは、iPadケースに許されている横幅は、
iPadから伸ばすこと2mmずつ(!)
ということになるわけですね。

さてどうするかな…というのが、今回アタマを悩ませた問題でした。

一般的に言って、一見すると不可能なように見える問題に直面した時には、自分が暗黙の前提としているものが、本当に絶対的なものであるのかを疑ってみなければなりません。

たしかにこのままではどうしたってG3に収納できるiPadケースを作ることは不可能ですが、そこには「今まで作ってきた革工作のやり方に則れば」、という前提があります。

側面の処理にお話を限れば、今回障害になっているのは、これまでのやり方の結果発生していた次のことがらです。

・縫い代が横にくる
・革が分厚い(今回は3mm革は使えない)


ですから今回はこれまでと考え方を変えて、この条件を満たせばよいのです。

・縫い代を横以外にする
・薄い革を使う(2mm以下)

そうすると、かたちはこんなふうがいいでしょうか。
というか、革の性質と器具の制限から言ってたぶんこれしかないような気がします。
(木型を精確に作れば型押し、という方法もないではありません)

◆◆◆

縫い代を液晶面に持ってくるといっても、縫うときに針がちゃんと通るのか?糸が引けるだけのスペースを確保できるのか?など、色々な心配が頭をよぎりますが、理屈の上では通用するのなら、実際にやってみるしかありません。

この段階でもわりとリスクが高いので、どうせ失敗するなら盛大にやってやろうという気持ちになり、つい最近やれるようになってきた、薄い革を貼りあわせて両方を銀面にするというベタ貼りを採用しようと思い立ちました。

0.8mmの革を貼りあわせれば、2mm以下の革になり、しかも剛性が確保しやすくなるという計算です。
こちらも、理屈の上ではいけそうです。

そうすると、設計図はこんなふうになりそうです。
(貼りあわせた2枚の革がところどころ独立して別のパーツと接着されているため実にわかりづらいですが、出来たものを見ていただければなんとなく合点がいくかもしれません)


「こんなふう」とか「なりそう」とか、なんとも煮え切らない表現ばかりが続くのは、こんなやり方で作ったことがないので、型紙すら描けないから、です。

じゃあどうするのか?と言えば、大まかに革を切り出したあと、余分な部分を適宜切り取ってゆく、という進め方です。この場合、型紙は最終的にできたものを結論的に写しとったものになりますね。

◆◆◆

というわけで、できました。以下は写真です。

◆正面◆


正面から見ると、G3の背面を踏襲したかたちになっています。
自転車バッグほど丈夫さは必要ありませんから縫い代のとり方は違いますが、並べたところを見てみたいですね。

上部の、ちょっとふっくらしているところにマグネットが入っています。

iPadは画面右の上から75mmあたりのところにマグネットが内蔵されていて、そこに磁石を近づけるとスリープと解除ができるので、取り出す時に自然にスリープを解除できるようにしようかとも考えましたが、振動でスリープ/解除を繰り返してしまうとバッテリーを無駄に消費してしまうので見送りました。

◆側面1◆

液晶面側に縫い目がありますが…


◆側面2◆

…背面側にはなんにもありません。
時間はかかりますが、なんとか縫えました。


G3は、外側から見ると角張って見えるのですが、蓋を開いたところに柔らかな曲線の傾斜がありました。
今回のiPadケースでは、そのコントラストが液晶側と背面側に来るようになっています。

◆背面◆

液晶側を伏せると、ゆるやかな曲線だけが見えるので、知らない人が一見するとなんだろこれ?というたたずまいになります。



◆本体の収納1◆

iPadとぴったり。


…今回は、そうせざるを得なかったわけですけども。

◆本体の収納2◆

SmartCoverを付けていても入ります。


今回の製法だと、液晶面をユーザー側に持ってきやすくできますし、なんで今まで思いつかなかったんだろう?とさえ思います。
ただ縫うのにとっても時間がかかるので、量産型を作るならもっとラクな形にしたいところですが…叱られちゃうでしょうか。

◆柿渋染め◆

刷毛で何回も重ね塗りして柿渋染めをし、外側の革を仕上げてゆきます。


使っているとだんだん色が濃くなってきて、色艶が出てきます。
刷毛で重ね塗りしたことによるストライプが、背面側の曲線を強調する役目を果たしています。

◆ベタ貼り◆

外側はブラウン、内側はキャメルにすることで、動物の背中側とお腹側のような色のコントラストを出すことができ、角ばったかたちにも生物的な優しさを取り入れることができます。


逆にすることももちろんできますが、デザインとしてはこちらのほうが自然ではないでしょうか。

わたしたちが持っている美意識というものは、一見すると各人千差万別に見えたとしても、その根底には自然界からの浸透が色濃く流れています。
だから、世に「自然なデザイン」と「不自然なデザイン」が生まれることになるわけです。

作り手からすれば、自然からいかに深く学ぶか、という観点がものづくりにあたってはどうしても欠かせないことにもなりますね。

このことは実は、自然主義の立場で創作活動をしているから自然から学び、機械主義だから自然からは学ばなくて良い、ということ「ではない」ことを意味しているのです。
デザインをするという実践にも、論理の力は必要不可欠です。

◆自転車バッグへの収納1◆

横幅が同じく260mmのG2をたまたま預っていましたので、これで試してみることにしましょう。


入らなければオーナーには渡せませんが、果たして。

◆自転車バッグへの収納2◆

入りました!


ほっと一息。

いつものようにコバの部分をつけてしまうと、いくらコバを磨いていてもバッグの内側のざらざらがコバを削ってしまうので、あらゆる点から考えても、今回はこの製法がベストだったということになりそうです。

ただ前回のiPadトラベルケースと違って、今回のものは縫うのにけっこうな手間がかかるので、コストを考える場合には採用しづらい製法であるのは確かだと思います。

しかし同時に、ミシンでは絶対にできない縫い方でもあるので、手縫いであることの強みは出せるでしょうね。

革細工が楽しいのは、技術的に新しいことができるようになると、それに伴って直接的に表現の幅拡げられる、というところでもあります。

今回のケースも、素材、技術、発想、あらゆる観点から言って今のタイミングでなければ絶対に作れなかったので、こういう巡り合わせがあるというのは、なんとも不思議だなあと思わされます。

2012/11/16

【メモ】学史をいかに把握するか:近代文学史の場合

ご無沙汰しておりすみません。

先月公開した記事について直接の問い合わせが多く、それに答えようとすると弁証法も認識論も基礎から説き起こさねばなりませんでした。

対象化された観念についての問題はやはり非常に難しいのですが、その難しさというのは、表面上をなぞって読んだだけでは「どこが難しいのかわからない」というたぐいの難しさ、ですので、まずは質問された当人のわからなさをわかってもらうというところから始めねばならないのです。

ただでさえ年末を控えて二人分以上は仕事をしているので、忙しいと言い訳をする暇もないというところですが、わたしの眼はいつものとおり黒々としておりますのでそのことについてはご心配無用です。

それから、仕事や日常のどうしても解かねばならない問題について考える際、書面でのやりとりで不足に思われる場合は、やはり直接に来られて面と向かって問われるとよいと思います。
わたしはいつも、研究の内容をおおっぴらに公開してしまうので、結果として発表したもののご案内はできますしここも例外ではないのですが、いくら読者に納得してもらうための表現を考えたものとはいえこれとて結論でしかないために、やはり直接に叱られてきた弟子たちのほうが、遥かに、これはいくら強調してもしきれないほど遥かに、実力がものになってきています。

文面で残しておくと後々見返す時に便利ですが、これだけだと一知半解の恐れがありかえって煩瑣なために、本質的にはお互いに時間がもったいないのではないかなと思われることが多いですので。

◆◆◆

今日はちょっとメモを残しておきます。

わたしのところで学史研究をやって、自らの目指す道を本質的なものへと転化させたいという人は、こんなふうにするのか、という感覚がつかめるかもしれませんので参考にしてください。

これはほんの入口の、いわば「書類の整理」のようなものですが、それでも大事な第一歩です。

順番としてはこのようです。
・良い通史を選ぶ。
・括弧をつけたり線を引いたりしながら通読し全体像を掴む。(図1〜3)
・アタマの中で流れを整理しながらノートを取る。(図4)

これは近代の文学史についての整理の一部ですが、わたしが新しい学問分野に取り組むときにはまずこういった学史の整理を作ります。
ちゃんとした通史を一冊選び再読しながらノートを作っておけばそれが土台となり、他の通史を読んだ時にもそこに書き加えてゆけばよいだけになります。
また、個別研究についても、その学問のどこに位置づけられるものなのかがはっきりします。(裏を返せば、通史の選び方はとても大事です)

わたしは人間の認識の発展過程を追うのが大好きなので、まず学史から入って、そこからその学問が対象としているものの歴史を透かして観るようにします。
たとえば、「経済学史」の流れを捉えた上で、次にそれを手がかりにしながら「経済史」を捉える、ということです。

分野によってはどちらかを追いにくいという場合もあります。
たとえば看護学については看護史(看護の歴史)は追いやすいでしょう。
それに対して物理学の場合は、物理学史は200年ほどの歴史を一般的にたぐることで成し遂げられますが、物理史となると、森羅万象のうちの物理現象とはいったいどういうものかを解かねばならないために、非常に大変です。

前者、看護の実践が人間の目的意識に基づくものであるのに対し、後者は対象として捉える以前から存在し続けるものであるがゆえの難しさ、というわけです。

しかしいずれにせよ、人類の文化遺産としての学問の歴史も、それが対象として捉えられてきたものの歴史も、その道を実際に歩み本質化してゆく際には軽視してよいものであるはずがありません。

現在の大学では、ここをあまりに軽視している、というよりも論じられる実力のある人間を育てて来なかったツケが大いに回ってきていますので、みなさんはここを独力で乗り越えなければ、自分の専攻する分野でまともな業績を残すことなど叶わぬという時代性を持っているのだな、ということを、逃げることのできない、自分の生涯に直接の関係のあるものとして、自分自身の双肩にかかる大きな責任として、真正面から確認しておいてほしいと思います。

◆◆◆

【図1】


【図2】


【図3】


【図4】ノート。今朝方半時ほどで走り書きしたものですので簡素ですが。