2013/06/28

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (3):それぞれの<世界観>・<論理性>から、日常の問題はどう見えるか

(2のつづき)


今回の一連の記事では、「観念論に滑り落ちずに唯物論的な世界観を維持すること」と、「形而上学的な考え方に落ち込まずに弁証法的な論理性を維持すること」に主眼を置いて、どういう心がけが学問的な段階を維持するために必要なのかを説明してきたのでした。

そして前回までで、世界の見方が、<世界観>と<論理性>の立場と考え方においてそれぞれ大きく二分されてきていることを書きましたが、今回は、日常的な問題を考える時に、これらの立場と考え方においてはどのような解き方になるか、を確かめてみるお約束でしたね。


◆それぞれの<世界観>・<論理性>では、日常の問題はどう見えるか


以下の説明は少々強引なのでまる覚えされてしまうと困ったことになりますが、それぞれの立場・考え方についてのイメージがどうしても湧かない人に、「なるほどこんなものか」という印象を持ってもらえることを願ってのものです。

すでに理解が進んでいる方は、この例えが「ほんとに強引だね」と感じられるでしょうが、その場合にでも言わんとしていることは汲み取ってくださるはずです。

さて今回たとえとして取り上げるのは、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか」
という、わたしたちがふつうに生活を送っていてもよく取り上げられている問題です。

これをどうのように解くかは、前回までの記事で述べてきた立場と考え方のどれを採用するか、によって異なってくるはずです。それぞれ順を追って、どうなるのかを考えてみましょう。


◆1. 世界観による立場の違い

まず<世界観>による区分から。

◆1-a. 観念論の立場から見る問題

<観念論>の立場であれば、この世界はあるときなんらかのきっかけによって生み出されたものとみなします。そうであるからには、世界を生み出した主体を認めねばならないことになるために、それが物質ではないとするなら精神である、とするのです。ですから精神を、物質よりも先行する存在であるとみなす立場がこの観念論です。

詩などで「あなたが見ている世界はあなたがいてこそ(=あなたという精神があってこそ)」といった思想が展開されることがありますが、あれもひとつの観念論的な考え方と言えるでしょう。そこでは、あなた、つまり世界を見る精神がいなくなれば世界も消えてなくなる、というようなものとして世界を見ていることになります。

この場合、極端に言えば、あなたの気持ち次第では、世界は希望に満たされ歩くたびに幸運が舞い降りる楽園にもなりますし、また別の気持ち次第では、あなたの一挙一動は不幸に見舞われており苦しみにあふれた地獄のような世界にもなりえます。

このように精神に、物質よりも優位な地位が与えられているときには、ものごとを決めるのはそれを見たり感じたりしている精神如何、ということになります。そこでは現実は精神の映しだしたところの写し絵のような位置づけとなり、好きや嫌いというものは、好きだから好きであり嫌いだから嫌いなのであって、そこには物質的な条件は介在せず、好きや嫌いも「ただ精神によって決められているもの」としてとらえられることになるでしょう。

また精神が優位であることから、物質である身体は従属的な関係に置かれます。この場合、好きや嫌いも生まれつきだとみなされたり、もっと進んでは生まれる前からの魂のあり方が好きや嫌いを規定しているのだ、ともなってゆきます。

実践的に言って、もし気持ちが病んだ人物がいる場合に、「気持ちが上向きになるまで待つ」、という対処法をとる場合には、精神のあり方は精神によって整えるべきだと見ていることになりますから、これは観念論の立場でものごとを見ていることになります。


◆1-b. 唯物論の立場から見る問題

これとは逆に<唯物論>の立場であれば、あなたや、ひいては人間の精神が生まれる以前から世界は存在してきたのであり、わたしたち人間がそれぞれアタマの中に持っている精神というものは、頭脳という器官のはたらきであるとします。つまり唯物論では、物質を、精神よりも先行する存在としてみなすわけです。

ですからそれを担っている個体が死ねば当然に、そのはたらきも止まることになり、精神もその時点で消滅することになりますが、あなたの心身が消滅した後にも、世界は存在し続けます。

この立場にとっては、精神でさえも物質的なところから考え始めます(「精神を物質であるとして」考える、のではありません。これはタダモノ論です)ので、あるひとりの人間がおぎゃあと産声を上げて生まれたときから、お母さんの胸に抱かれてお乳をもらって産婦人科を出て、家族のなかや友人関係を結びながらいかにしてその精神を生成させ発達させてゆくのかを探究してゆくことになります。

ですからこの、物質を精神よりも優位に置く立場から先ほどの問題に答えるとするならば、「物質的な条件、たとえばあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって好き嫌いという感性のあり方が決まっている」という答え方になるでしょう。ただだからといって、好きや嫌いも遺伝子によって決定されている、と言っているわけではありません。

もし実践的に、気持ちが病んだ人物がいる場合、「身体を(少しずつ)動かすことで気持ちを整えてゆく」という方向性を示すとするならば、精神的な問題が起こる原因を物理的な土台に帰しているわけですから、これは唯物論の立場に立っていることになります。


◆2. 論理性による考え方の違い

では次に、同じ問題を<論理>の問題として捉えてみましょう。

◆2-a. 形而上学的な考え方から見る問題

まず<形而上学的>な論理によって考えるときには、「あれかこれか」と、あれとこれを乗り越えられない区分としてみなすのですから、答えは簡単です。

たとえばある人の好きな食べ物が卵焼きであるという場合を考えるときには、「生まれつきそれが好きだったのであり、死ぬまでずっと好きなものである」というふうにみなされます。この考え方によれば、食わず嫌いは固定化されたものであり治すことができません。

なぜならこの立場から言えば、あるひとつの性質は別のものに変化したり互いに移行しあうということを認めないからです。

他のたとえとして、あなたがもし、ある異性が自分についてどう感じているかを確かめてみたくなり、「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとして、「嫌いじゃないなら好きってことね!」と、「あれじゃないならこれだ」式に判断するのであれば、あなたは形而上学的に考えているということになります。


◆2-b. 弁証法的な考え方から見る問題

さてこれとは逆に、<弁証法的>な論理によって考えるとするならば、個々人の好きや嫌いというものは、互いに移行しあう、という運動法則を認めます。

大好きだったイチゴも食べ過ぎて吐き気をもよおせば嫌いになることもありますし、あれだけ好きだった煙草も、いったん禁煙が成功してから人の煙を吸うと「こんなに嫌なものだったのか」と、以前とは一転して嫌いになっている自分に気づくことがあるでしょう。

ですから、好きや嫌いは「習慣や体調、気の持ち方を整えたり崩したりすることによって変わってゆく」ということになります。

もし「私のこと嫌いなの?」と聞いた時、「嫌いじゃないよ」という答えが返ってきたとするならば、「完全に嫌いではないのだとしてもどのくらい好きだと思ってくれているのかな?」と、好きと嫌いのあいだには一定の範囲があることを前提として考えます。また、一個人の中でもある部分は好きだが他の部分は嫌いだとされることも認めますし、ほかにも一つの性質について、誰とでも仲良くなれるという長所を別の側面から見れば八方美人という短所にもなることも認めます。あれかこれかではなく、「あれもこれも」と見るわけです。

好きなものが嫌いになったり、嫌いなものが好きになったりを認め、その過程性を追おうとするのが、この弁証法という考え方です。もっと言えば、好きや嫌いも、ひとりの人間が生まれ育てられる過程で決まってきたものであり、今後も変わってゆくものである、というふうに考えます。

現実の物事をうまく運びたいと考えるのであれば、その運動の仕組み(=過程的な構造)がどのようになっているかを確かめて、その認識になぞらえた実践を現実的に取り組んでゆかねばなりません。たとえばあなたの子供の食わず嫌いを直したいというときには、嫌いなものを好きになるように働きかけてゆかねばなりませんから、この場合も当然に、対象が変化することを前提として、弁証法的に考えることを求められているというわけです。


◆<弁証法的唯物論>から見る問題

さてそうすると、ここまで整理した2つの<世界観>と2つの<論理性>は、対立しながらもそのうちのそれぞれは互いに移行しあう関係にあるために、わたしはその転落を防ぐようにこそ厳しく指導する必要があることがわかってもらえてきたことと思います。

では、<世界観>と<論理性>同士であれば両立しえないのか、ということになると、これは当然にそうしえる、のですし、実際的にはそうでなければ存在し得ないからこそ、以上の例えが強引なものになっているのでした。

これらは、おおまかに、<形而上学的観念論>、<弁証法的観念論>、<形而上学的唯物論>、<弁証法的唯物論>に分けられます。
(2×2の表にまとめてもかまいません。先述したように、読者のみなさんが独力で我がものとしてもらうために、わたしのほうではあえてまとめません)

(ではたとえばこの一番はじめのものを、<観念論的形而上学>というふうにひっくり返すとどうなるのか?と聞きたい方も出てくるかと思います。答えとしては、これでもおかしくありませんし、ほかの3つもひっくり返すことができます。ただ先ほど述べた言い方が世界観を中心に据えたものであるのに対し、これらの4つは論理性を中心に据えて世界観を加味した言い方であるというだけです。たとえば<形而上学的観念論>は、形而上学の論理性を用いた観念論の立場を示したものですし、<観念論的形而上学>は、観念論の立場に立った形而上学的な論理、ということです。)

ここで4つのカテゴリがおおまかに浮かび上がりましたね。

わたしがはじめに以下の展開は強引なものにならざるをえない、と断ったのは、ひとつの<世界観>を決めたとしても、それをどのように考えてゆくのかという<論理性>が定まらないことには、精確に言えば現実の問題にも答えようがない、という理由があったからです。一口に唯物論の立場に立つといっても、そこには形而上学的な段階もあり弁証法的な段階もあり、これらの幅はとても大きな広がりを持っていますから、たとえば物理学的な物の見方を押し付けて人間の精神のあり方を論じようとするならば、わたしたちが抱く恋や恐怖といった感情も、電気信号や遺伝子のせいにされかねません(これを揶揄して、タダモノ論と呼びます)。

しかしともかく、当人が意図していようが意図していまいが、ある人がひとつの意見や考えを文章や口頭で表現するときには、これらのどこに位置づけられるかが決まってきます。「人は死んでも魂は残る」とすれば観念論ですし、「魂などありはしない、死ねば塵となるのみ」とすれば唯物論です。いったん告白したのに振られた相手でも諦めず、何度も何度も立ち向かって関心を引こうとするのなら、経験的につかみとってきたとはいえ、いちおう弁証法的にものごとを考えているということになります。

ですから、わたしはそれがどのようなものであるか、どのような段階のものであるかを判断します。その上で良い評価するときは、唯物論から滑り落ちずによく歩み切っているなあということか、弁証法をしっかり意識しながら発揮できているなあということが当人の表現から見て取れる時、というわけです。

何をやってもちっとも評価されないという場合は、ただ単にそれらを満たせていないからであって、ご当人と気質が合うか合わんやといったつまらないことでは絶対にありません。そもそも弁証法的に考えられるのであれば、気質は合わせてゆけるもの、ですから。

さてまとめの最後になりましたが、わたしたちの研究の立場・考え方は<弁証法的唯物論>です。世界は、物質を土台とした過程の複合体として把握されます。

もしこの立場と考え方でさきほどの問題を考えるとするなら、好きや嫌いは「あなたがおぎゃあと生まれた瞬間から生成をはじめる精神がそこを土台として、その後どう育てられてきたかという周囲の物質的な条件によって折り重なりあうように発達してきており、これは人間として育てられてきたあなたの身体のあり方やそれを作っている大本の食事や生活のあり方によって決められてきているが、その法則性を目的的に適用してゆくのならば自ら変えてゆくこともできるもの」として扱われます。

さきほどの、世界観としての<唯物論>と論理性としての<弁証法>を加味して、それぞれがバラバラであったときとはどのように問題の解き方が変わっているのかがわかってもらえるでしょうか。何を必死になって指導してきているのか、だんだんわかってもらえてきたでしょうか。それがわかってもらえれば、ここまでの記事は修了です。

次回ではようやく本題に移り、『道は開ける』の一般性についての議論を見てゆくことにしましょう。


(4へつづく)

2013/06/27

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (2):<論理性>はどのように二分されるか


(1のつづき)


今朝の記事では、学問の段階から森羅万象のあらゆる出来事をながめるとき、その<世界観>はどのように二分されるか、についてお話してきたのでした。

二分されたそのそれぞれは、どういったものでしたか?わからなければ、読み直してきてください。

簡単にでもわかったのなら、次に進みましょう。


◆<論理性>はどのように二分されるか

先ほどの<世界観>の問題と同じように、学問の歴史は、古代ギリシャ哲学、近代ドイツ哲学(あいだに中世スコラ哲学を入れてもよいですが、この二つに比べると数段重要性が落ちます)をはじめとした大きなジグザグの過程の中で、次第次第に<論理>的な段階を高めてきました。

論理というのは?と訊ねたい方は、簡単には目の前の事物や事象を貫く性質を引き出し、筋を通して説明できるようにするためのものであり、日常的な実感としてわたしたちが何かを「なるほど」と納得できるときには、この論理というものが含まれているからだ、とみなしてよいでしょう。

ただ一口に論理といっても、一見すると筋が通っているように見えて、実際にはそうでないものや、もっと悪くは相手に反論しにくい抜け道をついただけで現実には適用できないヘリクツであったりもします。また、実践家がよく口にする、「論理など何の役にも立たない。経験こそすべて」というのも、自分自身の経験から引き出してきた事物・事象の一般的な性質であると言えますから、これも程度はともかくひとつの論理ということになります。

さてこの、「こういう場合にはだいだいこうなる」、つまり現実から法則性を引き出したところの論理というものには、ここで挙げたように大きく程度の差というものがありますから、学問的な段階で研究をしたり実践をしたりしたいのであれば、いくら高めようとも高くしすぎることはない、ということになりますね。



このうち、歴史的に最高度の段階と見なされているのは、このBlogでも暗に陽に出てくる(「暗に」がどこにあるのか、を見ようとしてくださいね!)、<弁証法>、という論理のあり方です。

この考え方では、世界を常に変化し続けるものとしてとらえ、その過程を追おうとします。春は夏へと変わり夏は秋へと辿ることで一年がめぐり、麦は種から生まれ成長し、やがては死に至りますが、そのことによって新しい種を育むという、それらの過程を通して眺めて、そこにはどのような法則性が働いているのかを考えようとします。

蛇足ながらイメージを深めるために一般的な傾向を俯瞰すると、この論理の必要性を強く感じるのは、人間の感情や社会といった分野の複雑な問題を解かなければならない時が多いようです。

逆に数学や物理学といった分野では、現代においては公式化されきっている法則性も多いために、「人間は必ず死ぬ。アリストテレスは人間である。ゆえにアリストテレスは必ず死ぬ」的な形式論理がすべて、とみなされることが多く、いきおい弁証法などという曖昧なものは科学とは呼べない、とあしらわれることもあるようです。

ただこういった分野で扱われる対象にも、やはり大きな視野から見れば弁証法的な法則性は根底に流れていますから、体系性を確保しながら高度な研究を進める場合にはどうしても必要になってきます。

物理学という分野から引き出された論理(法則性の把握)を、たとえば恋愛を成就させるために用いるとどうなるか?と考えれば、結果が見事にその不足を証明してくれるでしょう。いわゆる理系出身者が、実験器具を扱うように人間をマネジメントしようとして失敗することが経験則としてよく取り上げられるのも同じ理由です。こういったことを見て取って、これらを揶揄するかたちで、<形而上学>な論理、と呼ぶのです。

ですから、ここで言う<形而上学>とは、弁証法的な論理を持つ側から、いわば侮蔑的な意味あいをこめて「論理が平面的で低い」ということを言おうとすることばであるため、実際にそう言われた当人たちが自らのことを形而上学者である、と言ったりすることはまずありません。また、形而上学というものを、単に思弁哲学を意味する場合もありますので、使用したり読み取る時は文脈に注意せねばならない言葉です。

ただそれでも、一般的に言って、世界を常に変化し続ける過程的なものとして追うのでなしに、<形而上学>的に考えるということは、世界を変化のない、静止したものとして考える、というところに特徴があります。

どもあれわたしたちとしては、アリストテレスが云々という三段論法のようなものを精神の問題や社会の問題に押し付けたうえで、「論理通りに進まないのはお前たちの理性が足りないせいだ!」などというわけにはゆかない立場にありますから、やはり、<弁証法>的な段階を維持しさらに高めてゆくことを要請されているわけであり、この場合にも先ほどと同様に、<形而上学>的な論理に滑り落ちない心がけが毎瞬・毎秒、必要とされているのです。



さて、ここまでを読まれた読者のみなさんは、たまに記事を書いたと思ったらこれまた難しいことを言いよって…と思われたでしょうか。この記事だけですべての事情をあまさず伝えるというのは不可能ですが、これがおさらいになっているくらいには追いついてきておいてもらいたいと願っています。

しかしそれでも難しいとは思いますので、お詫びがてら次回では、ここまでのお話を、日常的な問題を取り上げて、それぞれの立場から考えるときにはどうなるかを考え、それぞれの立場・考え方についてのイメージをより鮮明にしてゆきましょう。

そこで例えとして取り上げるお題は、
「個々人の持つ好きや嫌いは生まれつきかどうか?」
というものです。

それぞれの概念がわかりかけている人は、<観念論>、<唯物論>、<形而上学>、<弁証法>のそれぞれの立場に立って考えるとどのような答え方になるか、と腕試しに考えてみてください。


(2につづく)

『道は開ける』の一般性はどのように引き出されたか (1):<世界観>はどのように二分されるか


読者並びに学生のみなさん、


お待たせしてしまいました。

ここのところ個別の問い合わせが多いこともあって、不明な箇所をひとつひとつ並んで歩くように理解してゆく、ということをやっています。

こう書いてしまうと恐縮されるかもしれませんが、みなさんが現実にある精神や社会の問題に実際にぶつかって、それをなんとか解こうとすることを手伝うということは、わたしにとってこれ以上ない勉強になりますから、無用なお気遣いとお心得ください。個人的な事情についてはもちろん他言しませんので、ご安心ください。

ただ、ある種の問い合わせにはお伝えしておいたとおり、内容のない罵詈雑言のたぐいに返事をするのは3度までと決めてあり、その姿勢が改めてもらえない場合、それ以上は無視するよりほかありません。
そういったものに心揺るがされるようなヤワな鍛え方はしていませんので実質的にも無用ですし、なによりご当人のためにもなりませんから。

自分で表現したものを、いったん目の前においてみたうえで、「これを受け取る人はどう感じるかな?」と考えるという認識の持ち方は、身につかないうちは困難であることもわかります。しかしこれなくして、ひとりの人間は社会性をまともなかたちでは持ち得ないのです。

社会性など要らぬという開き直りが脳裏に浮かんだときには、では人間とはどういうもので、どう生まれどう育つのか、どう生まれさせられどう育てられるのか、という問題を頭の片隅に持っておき、自分の過去を振り返ったり折にふれて思い出して考えてみられることです。

これは表現するときの思いや考えをいったん棚上げした上で、他人の立場になって自分の表現を改めて見る、ということであり、これがすなわち<客観視>という、認識のあり方です。学者や理論的実践家に芸術家、ひろく文化人として生きるのであれば、その実践に直接影響を与えるとともに、それに相応しい人格たろうとするならばなおのこと、いのいちに必要とされて良いはずのものです。時間はかかっても、思うところが出てきたときには自分の言葉でその旨伝えてもらいたいものです。



さて以下は、先日行われた勉強会での議論の内容を、ひとつの流れとして読めるように整理してゆくものです。ここでの内容も、<客観視>と関わることですので参考にしてください。

まず、毎度のこと前置きが長くなりますがそれでも、数回分の記事を使ってお断りしておきたいのは、「研究会」ではなくて「勉強会」とある理由について、です。

あくまでも学問的な段階を目指して研究をしようと志すのなら、その前段階として論理を見る目を養っておかねばならないのですが、その「論理を見る目」というものは、何度も何度も目の前の現実や本の中の出来事(=対象)から引き出す訓練をしておかないと、どうしても高まってゆかないのです。

そしてまたここで重要なのは、この何度も何度もの繰り返しというのは、あくまでも「正しい道筋で」繰り返さねばなりません。
それを終えられたと判断したときには、遠慮なく「勉強」ではなく対等な立場で様々な分野の「研究」を持ち寄る場、と言うことができるということです。

この前の一連の記事のうち、とくに「人を動かす」一般論はどう引き出すか (2)において厳しくお伝えしておいたことは、整理して言えば実のところ、観念論への転落を防ぐことと、形而上学への転落を防ぐこと、だったのでした。

これがわからない読者の方は、「何をそんなに目くじらを立てることがあるのか?」といぶかしく思われたことでしょうから、まずは少し説明することにしましょう。

さて、今回の議論で中心となってくれたのは、このBlogでは文学評論で登場してもらうノブくんと、先ほど述べた記事、少し前に『人を動かす』の一般性の導出の際に、果敢にも課題に挑戦してくれたOくんです。

いま改めて、その記事の際に強調しておいたことは何だったでしょうか、と聞けば、「一般性というものは、一般的すぎてもいけないし、具体的すぎてもいけない、ということですよね」という返事があると思います。ごく簡単に常識的な範囲でまとめればそれでもよいのですが、学問的な段階から言えば、この答えではいけないのです。こここそが、今回取り組んでもらいたかった大きな問題なのでした。

以下、少し長くなりますが、下線や傍点などの強調ならびにベン図などもあえて用いませんので、必要ならば各自工夫して基礎的な概念について理解していってください。

ではその、論理というものを学問を目指す段階へと引き上げる際に浮上してくる問題は何か?と言えば、ひとつに<世界観>の問題と、もうひとつに<論理性>の問題、ということになるのです。


◆<世界観>はどのように二分されるか

はて<世界観>とは?と言えば、文字通り「世界をどのような立場で眺めるか」ということですが、これを正しくわかるには哲学史を振り返らねばなりません。これには2つの世界観があり、あくまでも歴史的・過程的に見ようとすれば、一方から他方が生まれ独り立ちするようになると、それは生みの親である一方と対立する関係となり、やがて互いにせめぎ合い、影響を与え合い渦巻く中でお互いの世界観を明確にしてきたという流れがあります。

ここを説明するととても大きく横道に逸れてしまうので、上の伏字に何が入るかが分からなかった人は、まずはもう一度三浦つとむ先生の著作を読みなおすことでおさらいしてもらうとして結論だけ言うことにすると、学問の世界には歴史的に、それを大きく二分してきた二つの世界観があった、ということを思い出してもらいたいということです。それは、<観念論>と<唯物論>の立場なのでしたね。

わたしたちはどうなのかと言えば、あくまでも現実を揺るがぬ対象として眼前に据え、そこから論理を引き出し理論化した上で体系立てて理論化し、最終的には現実の問題をこそ高度に解くための指針としようという立場にありますから、これはとりもなおさず、<唯物論>という世界観に立って自らの専門分野を探究しようとしているわけです。



しかし実際に、学問とは何かを学問の歴史から学んだうえで、学問的な段階を踏み外すことなく研究しようと志するのであれば、アレッ、これはもしや、とおぼろげながらでも気づけるはずのことがあります。

それというのは、この二つの世界観は、「ワタシは精神が大事だと思うからこっち」、「ボクは精神はモノではないと思うからあっち」、といった感性のレベルで選択してしまえるようなものでは絶対にあり得ない、という非常に厳しい事実です。

さらにもしここで、唯物論の立場に立って自分の道を探究していこうということになると、現実をありのままに見ると言ったところで、あまたある事実のうちどこから・どのように論理を引き出せばよいかが皆目見当もつかない、というさらに厳しい現実が待ち受けているのがわかるでしょう。

このBlogの記事の中で、文学を実践・専攻するノブくんという人物がわたしから、「現実を論理的に見て、そこから構造を引き出すということは、あらかじめ用意した物事の見方を現実に押し付けた上で好き勝手に解釈するということではありません!」と、何度も何度もこれでもか、というほど厳しく指導されてきたことを見てこられた方もおられるでしょう。

あの指導の繰り返しがどうしても必要であったのは、まさに学問レベルの実践にはこういった落とし穴に嵌りつつある自らを客観視し得る能力をつけなければならなかったからであって、一言で言えば、唯物論の道を歩いているつもりが、なんらかのきっかけで少しでも足を踏み外すといとも簡単に観念論になってしまう、という恐ろしさがあったからなのです。

机の上だけで勉強ばかりしている人は、この恐ろしさを現実の構造に即して脳裏にありありと浮かべることがとても難しいと思います。

そういう方は、雪山を進む一歩一歩の足元の先に、どのようなクレバスが待ち受けているかを、ありったけの五感を総動員した集中力・注意力でもって歩み「続ける」ことの厳しさ、とでも例えればイメージしやすいでしょうか。(これとは逆に、身体を動かす実践を趣味にしろ仕事にしろ取り組みつつ座学もこなすという人は、理論が現実離れしたときになんとなくでもあれっ、これは何か変だぞ、と気づけることが多く、地に足の着いた論理を作りやすいというのも、身体と精神の浸透のあり方を考え始めるときにはとても大事な気付きです。より進んで、思春期を座学・受験勉強一辺倒の生活で過ごすことの危うさも考えてみてほしいものです)

こういう問題があるというのに、ほとんどの方は、学者としての死に直結する落とし穴がそこらかしこに空いている、とは考えてもみなかったのではないでしょうか。そうでなければ、ゾンビやミイラが学問の世界を闊歩している理由が説明できませんので…。



今回の記事は、基礎的な事項も書いてあるので、検索の利便を考えていつもより節を多めに区切ることにしましょう。

次回の記事は、今日の18:00には公開される予定です。


(2につづく)

2013/06/04

「人を動かす」一般論はどう引き出すか (5)

(4のつづき)


前回までで、D.カーネギー『人を動かす』という、内容としては誰にでも読める平易な本を取り上げて、その一般性を簡潔な体系性をもったかたちで引き出す、ということに、学生のみなさんとともに取り組んできました。

意外なほどに手こずった方が多かったようで、きっかけとなる記事を含めれば計6回にわたる記事になりましたが、それも今回でいちおうおしまいです。

おしまいになったということは、一定の答えが出た、ということですね。



さて、その答えをご紹介する前にしっかりとことわっておきたいのですが、わたしたちがここまで取り組んできた課題、「人を動かす」ことの一般性とはどういうものか、という問題は、その答えだけを見れば、「なんだこんなことか」というものでしかありません。

それだけに、問題を解いてくることを求められたり、自ら進んで問題を解いて叱られたりした人たち(これは立派です)とは違って、答えの像を漠然としたところまでしか突き詰めて考えずに、しかも答えを見た途端「ああやっぱりな、そんなことだろうと思った」ですませてしまう人がとても多くなるのでは、と恐れをふくんで予想しています。

実のところ、ものごとを客観視できない人というのは、こういった経験を続けてきてしまったことの結果であるのであって、これはすなわち、自らの固定した考え方を色メガネ的に念頭に置いた上で、それを通して見える対象・事象を、自らの意見を裏付けるものとして「のみ」解釈し続けた結果、世のあらゆる事柄や考え方を自らの正しさを証明する素材としてコジツケているにもかかわらずそれを自覚できないという、歪んだ認識を創りあげてしまっているということです。

たとえば弁証法のほんの入口を紹介したあと数ヶ月たらずで、「すごいすごい、これがあればなんでも切れる!」とばかりに、家族や友人たちを論破(?)したとする成果を報告してくる人がいるものですが、表に出すか出さないかはさておき、はっきり言えば、これは勘違いもいいところであり、こういう人にとっては、弁証法との出合いはかえって不幸しかもたらさないものです。

みずからの正しさを信じて疑わない人にとっては、ものごとの見方に弁証法を採用するのも、相対主義を採用するのも、経験主義を採用するのも、はたまた構造主義や記号論やプラグマティズムを採用するのも、ともかく、「どうでもいい!」、ことでしかないのです。だって、どれを採用しても、結局「自分は正しい」ことがあらかじめ運命づけられていることになっているのですから…。

これは、弁証法がわが身の認識として技(わざ)となる研鑽過程は、数カ月やそこらでは到底不可能といった事実のほかに、こういう人に、「では弁証法を使ってどんな問題が解けましたか?」と聞いても、「とにかく凄い」、「ずっと自分もこういう考えをしてきた」だとかなんだとかいうそれこそインプレッションならぬインスピレーションレベルの、曖昧模糊とした返答しか返ってこないことで明白です。もし弁証法を採用するにしろしないにしろ、ある考えが正しいかどうかという判断において絶対的に必要なのは、たとえ身近なことであっても、それを使ってなんらかの問題を解いてみる、という姿勢です。



オリジナリティ溢れる思想を考えつきたいだけであるのならともかく、あくまでも現実に則して、つまり唯物論の立場に立って事物の探求を進めてゆくのであれば、そこで求められるのは、ア・プリオリに(=先天的に、前もって)設定した観念を現実へと押し付けて解釈するという姿勢ではなく、必ず、現実のあらゆる事物・事象に共通する性質を一般化してつかみ、その根底に潜んでいる構造をこそ導き出す姿勢であらねばなりません。

こういうと必ず、まったくの客観などというものは存在しない、よって解釈と構造の理解とやらには何らの違いもない、といった日和見的相対主義者が茶々を入れてくるものですが、解釈と構造の理解がまったくに異質のものであることは、そのそれぞれの考え方に基づいた理論を現実へと適用した時に、他でもなくその実践的・現実的な可否によって、否応なく眼前に示されることになります。

こう言うことを通して何を伝えたいかといえば、ものごとを見る目を「本心から」磨き上げてゆきたい、というのであれば、まずは、ひとつの問題にたいしてしっかりと独力で答えを導き出した上で人の出す解答と照らしあわせてみて、どちらがより事物を鮮やかに照らし出しうるのか、を「客観的に」比べてみなければならない、ということです。

そうして、そこでAとBの意見や考え方を戦わせてみた上で、どう検討してもBのほうが現実の構造を正しく捉えているのだと判断できる場合には、それが自分のものであろうとも、たとえ他者のものであろうともそれが誰のものであるかに関わりなく採用し、自らの不足を認める、ということが必要です。わたしと直接議論していれば、権力的にでなく論理的に「認めさせられる」ことになりますが、そうでない人も、自らの自省心でそれを補ってゆかねば正しい前進にはなりません。

自分のオリジナルの考えを構築して、机の上で世の問題を切りまくっているだけならともかく、その考えでもって成心なく、世の人々の心身を治したい、本質的に向上させたい、という目的意識を持って問題に取り組むとしたらどうなるか?という観点を、自らの人格にかけて少しでも持って欲しいと思います。

もしたとえばあなたが、「念を込めれば腰痛でも心臓病でもなんでも治る」という考えを持って医者になるのだとしたらどんなことが起こるか、と。いい加減なことをしては法律で罰せられるからいけない、というだけではなく、それよりも、自らの踏み外しや至らなさを客観視できなければ絶対に成長など望めるはずもない、という一事が問題なのです。

心臓の病と違って、誤った考え方に染まったとしても人間は直ちに命を奪われるといった目に見える失敗を引き起こさないかもしれませんが、人の人生に影響を与えるということは、外傷がないからといって軽視されてよいものでは決してない、そんな甘ったれた姿勢のもとの考えなどは、歴史という歯車によって近い将来粉々に粉砕されるのだ、ということをぜひにふまえておいてほしいと願ってやみません。

学問は、いい格好をするためのツールなどではありません。現実の問題を正しく照らし正しく導いてゆくために、過去の人類が総体として、たとえようもない努力と犠牲を払って磨き上げてきた最高の方法論です。ですからそれに関わりそれを使おうとする人間は、それに見合った自省心と、それに相応しい志・夢をまずは持ってください。

さて、以下の答えは、その覚悟に見合うものになっているでしょうか。


◆ノブくんのレポート
人を動かすーD•カーネギー 
 あなたが上司や部活のリーダーなど、人を先導する立場に立った時、或いは自分とは違う立場の人間と意見を交わしている時、部下がなかなか自分の言葉を受け入れてくれず困ってしまった、話し合いが感情的な口論へと発展していってしまったという経験はないでしょうか。かく言う私自身も、昔大学のサークルで副部長をつとめていた時に、部長と部活の運営について話していたにも拘らずどういうわけか激しい口論になってしまったこともありますし、現在でも似たような悩みを抱えていました。
 と言いますのも、私は現在介護士として暮らしの生計をたてているのですが、ある利用者さんが私を含めた職員の誘導を促す言葉(私たちの世界ではこれを「声かけ」と呼んでいます)をなかなか聞き入れてくれない時があり、その方に右へ左へ左へ右へと振り回されていたのです。半ば途中でその方に振り回されることも仕方がないのでは、と考えてしまうこともありました。
 しかし私は問題を客観的に観察し、「声かけ」に工夫を凝らすことで少しずつ問題を解消していきました。その方自身も(私はその場にいる限りではありますが、)今ではより穏やかな毎日を過ごしているように思います。
 ところで私が上記の問題に対して解決していった過程には、今思えばこの『人を動かす』の一般性が大きく横たわっていたのです。そこで今回は、若輩者の数少ない経験を踏まえながら本書を論じていきたいと思います。
 
 はじめに結論から言いますと、本書では〈人に意欲的に動いてもらうよう、相手の欲求を満たす〉と言う事が論じられています。 
 この一般性というものは、フローレンス・ナイチンゲールの『看護覚え書き』の一般性にならい、抽出しました。この著書は彼女の看護経験から看護士が何を扱っているのか(対象論)、それをどのような状態にもっていくのか(目的論)、またどのようにそうするのか(方法論)、という看護のあり方を一般化し、それに基づいて衛生看護を中心とした方法論が論じられています。そしてその一般性を下記に記しておきました。
〈生命力の消耗を最小にするよう、生活過程をととのえる〉
 次に私はこれらを対象論、目的論、方法論に分け、この形式を本書に適応させていったのです。
 
対象論→生命力
目的論→消耗を最小にする
方法論→生活過程をととのえる
 
対象論→人
目的論→意欲的に動いてもらう
方法論→相手の欲求を満たす
 
 ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。本文に「およそ人を扱う場合に、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。」(p.28参照)とあるように、理性的な人々は対象としておらず、感情的な人々、ごく一般的な人々を対象として書かれているのです。
 そして私が携わっている利用者も、否、特に心身の崩壊が目に見えはじめている彼、彼女らは、通常の人々とは違い、理性による抑制がきかず、より感情的で落ち着いて考える事ができない人々と言わざるを得ません。
 
 次に、こうした人々に私たちはどのようになって貰いたいのか、つまり目的論について考えていきましょう。安直にタイトルのみを見れば、「動かす」ということに終止してしまうます。しかし本書には他にも、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」といった同じ概念の項目がある事は見過ごせません。そしてこれらの項目は各その中にある章を見て察するに(笑顔を忘れない、心からほめる、議論をさけるなど)、方法論の束になっているようなのです。またそれらは人に強制していない、結果的に他人が自分たちの思惑通りに動いた、誰かの意思によって動いているのではなくその人の意志で決定し動いている、という点で共通しています。こうした点から、本書で述べられている目的というものは、相手に「意欲的に動いてもらう」ことにある、という事が理解できます。
 ところが現実はなかなかそうはなりませんね。何故なら私たちの要望の中に、相手が不快に感じたり相手の立場や環境がそれを拒否させてしまったりするからなのです。本文の中にも、ショップ店員という立場から返品お断りを客に厳守させようとする女性や、こちらの強制的なもの言いに言う事を聞かない子供などが登場します。
 私の場合もやはり同じでした。職員という立場から、私たちはその方につい強いもの言いで強制したり、こちらの都合ばかりを相手に述べてしまっていました。ですから結果的にその方はほんらい私たちがその方に望んでいる姿を拒否するばかりか、一番望んではいない行動(他の利用者を非難する、暴言を吐くなど)をとっていくのでした。
 ではこれらの人々をどのように目的どおりの人に近づいてもらうのか、その方法について考えなければなりません。それは本文に明確な形で記されてありました。
「人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。」
 今思えば、私はこれを読む以前に、問題の利用者さんに自然とそれを行っていたのです!まずその方が何を望んでいるのか、冷静に日頃の台詞を考えノートに書き出しました。次に相手の不快な感情を起こさせる言葉は極力さけるように努めていったのです。例えば、「どうしてそういう事をするんですか?」や「私たちのいう事をきかないからそうなるんです!」といった台詞がそれに該当します。
そして相手に自分がその方を気にかけている事を言葉や仕草で表現していきました。これは本文で言えば、1-2「重要感を持たせる」にあたります。その方は読書と映画の話、家族の話が大好きでしたので、私は興味ありげに何度も同じ話を投げかけました。途中自分が話に飽きないように、質問の内容を変えたり、話す感覚をあける工夫をしたこともあります。これは、2-1「誠実な関心を寄せる」の項目にもありました。このように私はあらゆる方法を尽くして相手の欲求を満たし、現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
 人を動かす為には、ただ自身の望みを強要するのではなく、逆に相手が自分に何を望んでいるのかを知り実行する事こそが重要だったのです。

◆わたしのコメント

読者のみなさんは、ノブくんの出してくれた一般性と比べて、よりよいものを引き出せたでしょうか。

わたしはこのレポートは、控えめに言ってもなかなかに良く書けていると考えているのですが、一般論が正しく引き出せていることに加え、そのうちに含まれる3つの各論である対象論・目的論・方法論について正面から向きあい、「自らの実践に照らしながら」例示することで読者にとっても説得的に書ききっている、ということにあります。

なお、彼は「5月中」という締め切りをしっかりと守ってくれました。これも評価すべき点です。

さて内容を簡単におさらいしておくと、確かに論者の一般化した通り、この本の対象としている「人」についての人間観というものは、理性によって説得されれば自ら動いてくれるという人物でなしに、ごく一般の、論理ではなく感情で動く生き物としての人間です。

さらにその人たちにどうしてもらいたいからこの本を書いたのかという目的から言えば、「人がすすんで動き」、「人が好いてくれて」、「人が言うことを聞いてくれて」、また「人がより良く変わってくれる」ことを主眼においてのものでした。
これらを一般化したときには、なるほど「意欲的に動いてもらうよう」という目的論で間違いではなさそうです。

さいごに、ではそういう目的を持って実際に人に動いてもらうにはどうすればよいか、という方法論については、本書の各所に、「重要感」、「誠実な関心」、「笑顔」、「名前」、「喜んで答えるような質問」、「心からの賞讃」とあるとおり、これらを一般化することによって「相手の欲求を満たすものを与える」としてよいことになります。

しかも、本書の根底に潜んでいる一般性は、自らの実践で思い当たるところがある、ということですから、この時点で、一定の正答となっているであろうことは既に示されているといってもよいでしょう。



残る問題は、細かな字句の問題となりますが、わたしが出した「人を動かす」一般性は、以下のようなものでしたので、論者のものと比べてみてください。

「人に自発的に動いてもらうよう
相手の欲しているものを与える」

対象としているものと、それが持っている性質については論者と一致していますが、その目的については、「人が本当に動くというのは、他者からの強制ではなく自らすすんで動くことである」という本書の論調から、わたしはそこを「自発的に」と表現したものでした。

論者の用いた「意欲的に」でも間違いではありませんが、その場合には、即物的なアメに釣られて動いた場合も含まれてしまいますから、あくまでも本心から、というニュアンスを込めてより焦点を絞るならば、「自発的に」とするのがより適切だと言えないでしょうか。

また、方法論についてはほとんど同じように見えますが、論者の用いた「欲求を満たす」という表現は、これ全体が熟語としての性格が強いために、「欲求を」と「満たす」が切り離しにくい関係にあり、「(人の)欲求」という目的を論じる時に一定の制限がかかってしまうことから、より単純に、「欲しているものを」「与える」と分離しやすいかたちにするのがより適切であると言えるのではないでしょうか。

次回は2週間ほどをかけて、同じ著者の『道は開ける』の一般性を出してもらいますから、参考にしてください。

わたしの作ったマインドマップに、自筆でメモを書き加えたものも公開しておきます。


なお、論者は看護の実践を理論化したのはナイチンゲールである、という言い方をしていますが、実際には、ナイチンゲールが磨きあげた看護実践を、薄井坦子が科学的に理論化した、というのが正しいいきさつですから、その看護学の発展の過程性をとらえそれを土台としながら、自らの実践をより高めていってもらいたいと思います。

そのためにも、ぜひともここで、<一般化>を論理的な技として創りあげてゆきましょう。


【正誤】
・暮らしの生計をたてている
→「暮らしを立てる」と「生計を立てる」は重複しているようですから、どちらかでよいでしょう。

・ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。
→冒頭の「頂きたいの」にある「の」は、形式名詞であり、「もの」の短縮したかたちであると考えられるので、文章の最後も体言で、「指している訳ではないという「こと」です。」と締めねばなりません。

・「動かす」ということに終止してしまうます。

・現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
→現在ではお互いが不快「の」ない関係を「築いていけています」。


(了)